2009年2月8日日曜日
来なさい、そうすれば分かる
ヨハネによる福音書1・35~42
「その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、『見よ、神の小羊だ』と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、『何を求めているのか』と言われた。彼らが、『ラビ――「先生」という意味――どこに泊まっておられるのですか』と言うと、イエスは、『来なさい、そうすれば分かる』と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、『わたしたちはメシア――「油注がれた者」という意味――に出会った』と言った。そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、『あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――「岩」という意味――と呼ぶことにする』と言われた。」
今日の個所から始まる場面は、わたしたちの救い主イエス・キリストが御自身の弟子をお集めになった場面です。私は今、「イエス・キリストが弟子をお集めになった」と申しました。しかし、今日の個所に書かれていることをよく読みますと、「イエスさまがお集めになった」というよりも「バプテスマのヨハネが、自分の弟子であった人々をイエスさまに委ねた」という言い方のほうが適切であることが分かります。
イエスさまを見たヨハネは、二人の弟子たちの前で「見よ、神の小羊だ」と言いました。それを聞いた人々はその日から、ヨハネではなくイエスさまのほうに従う者になりました。このとき起こったことは、ヨハネのもとからイエスさまのもとへの弟子たちの移動です。ヨハネはいわば引退を決意したのです。わたしの果たすべき役割は終わった。これからはイエス・キリストの時代が始まるのだと、そのようにヨハネははっきりと自覚したのです。
大きな役割を果たしてきた人が引退する。それはある意味で時間の流れが作り出すことです。時間はすべての人に平等に与えられています。しかも、時間は、誰もそれに逆らうことができない大きな力を持っています。時間の前ですべての人の働きは相対化されます。一つの仕事に永遠にとどまることができる人はいません。いつか引退する日が来るのです。
そのことを知っている人は、自分の弟子が他の人の弟子になることを寂しがったり悔しがったりしません。自分の弟子たちを私物化しません。そもそも弟子たちを自分の所有物だとか、自分の子分のようなものだとは思っていません。喜んで他の人に委ねるのです。
ヨハネの弟子たちのほうも、後ろを振り返ることはありませんでした。まさにその日をもって、ヨハネに別れを告げ、イエスさまの弟子になりました。まさに「イエスに従う者」になったのです。
イエスさまは、そのことをお知りになったとき、二人の新しい弟子に「何を求めているのか」とお尋ねになりました。イエスさまの質問は、What do you want? です。つまり、この御質問の趣旨は「あなたがたは何をしたいのか」です。ですからもう少し噛み砕いて訳せば、「あなたがたは、わたしに何をしてほしいと願っているのか」ともなるでしょう。しかしまた同時に、「あなたがたは、わたしと共に、何をしたいと願っているのか」というニュアンスも含まれている。そのように言ってよいと思います。
イエスさまと彼らのやりとりは、いわばごくふつうの何気ない会話のようでもあります。しかし、少し丁寧に分析してみますと、イエスさまの御質問は非常に重要な意義を持っているような気もしてきます。このようなとらえ方は、決して大げさなものとも思えません。実際に言えることは、このイエスさまの問いは、二千年前の弟子にだけ投げかけられたものではなく、今のわたしたちにも投げかけられているのだ、ということです。
わたしたちはイエス・キリストに何を願い、何を期待しているのでしょうか。あるいはまた、わたしたちはイエス・キリストと共に何をしたいと願っているのでしょうか。「何も期待していないし、何もしたくない」というのでは、やはりちょっと困ります。あるいは「イエス・キリストに何かをしてほしいとは願っているが、わたしは何もしたくない」というのでも困ります。イエス・キリストはわたしたちに救いの恵みを与えてくださいます。しかし、恵みを与えられた者は、イエス・キリストと共に働き、多くの人々とその恵みを分かち合う者にならなくてはならないのです。
ヨハネの弟子であった二人は、イエスさまの問いかけの意図が分かったのでしょうか。分かったようでもあり、分からなかったようでもあります。彼らの答えは「先生はどこに泊まっておられるのでしょうか」というものでした。特別伝道集会の講師として来てくださった先生に「泊まっておられるホテルはどこでしょうか」と尋ねているようなものです。いくらか拍子抜けの気持ちをお持ちになったかもしれません。その先生が教会のみんなに聞きたいことは、そんなことではないはずです。「このわたしにどんな話をしてほしいのか」でしょう。「今、この教会が抱えている問題は何であり、その問題をあなたがたはどのように解決したいと願っているのか」でしょう。
しかし、イエスさまは、彼らの問いかけに腹をお立てになることはありませんでした。きちんとお答えになりました。「来なさい、そうすれば分かる」。そしてその日、彼らは、イエスさまの泊まっておられる場所に、一緒に泊まらせていただくことになりました。
「来なさい、そうすれば分かる」。このお答えそのものの中に、ものすごく特別な意味が含まれていると考えることはできないかもしれません。あまりにも多くのことを読み取りすぎないほうがよいかもしれません。しかし、いろいろと考えさせられることはあります。ともかくはっきりしていることは、二人の弟子たちは、この日はまだ、イエスさまの弟子になったばかりであったということです。つまり、彼らにとっては、イエスさまのことをまだ何も知らなかった日です。まだ何も知らない、何も分かっていない彼らをイエスさまは「来なさい、そうすれば分かる」と言ってお招きになり、御自身がお泊りになっていた場所に彼らをお泊めになったのです。
もしそうだとしたら、その夜、イエスさまと彼らの間でなされたことは、はっきりしています。おそらく彼らは、夜を徹してイエスさまのお話を聞き、互いに語り合ったのです。そして、「泊まる」ということには一緒に食事をすること、一緒に休むことが必ず含まれています。つまり、彼らは文字どおり「寝食を共にした」のです。イエスさまの弟子になるとは、イエスさまと寝食を共にする仲間になることを意味しているのです。
教会もまた、まさにそのようなところです。わたしたちは、ふだんから寝食を共にしているわけではないかもしれません。しかしたとえばわたしたちの教会が一年に一度行ってきた一泊修養会のような機会があります。また、東関東中会ではまだ行われていませんが、東部中会時代には、毎年夏に二泊三日の信徒修養会がありましたし、青年会や学生会が、やはり二泊三日、あるいは三泊四日で行う修養会などもありました。
そのような集会に参加しなくても、毎週日曜日の礼拝に出席しなくても、自分ひとりで聖書やいろんな本を読みさえすれば、「分かる」ようになるでしょうか。わたしたちが体験的に知っていることは、そうではないということです。そこに行かなければ、実際に参加しなければ、決して理解できないものがあるということを、わたしたちは知っています。
外国旅行がそうでしょう。ガイドブックを見るだけでは、本を読むだけでは、その国の様子は、ほとんど分かりません。大切なことは、とにかく行ってみること、参加することです。「そうすれば分かる」。イエスさまのお言葉は、意味深長です。
これはどんなことにでも当てはまります。学校に行くこと、仕事に就くこと、結婚すること、子育てをすることなども、そうでしょう。わたしたちの人生は、実際に体験してみなければ分からないことだらけです。外側から客観的に眺めているだけでは、そこにある苦労も、そして喜びも、ほとんど分かりません。
「いや、そうではない」と、わたしたちは反発を感じるかもしれません。イエスさまは「来なさい」と言われる。しかし、それではサービスが足りないではないか。イエスさまのほうがわたしのところに来るべきである。今の時代はどんなことにでも宅配サービスがあるではないか。そのような考えがあることも尊重しなければならないでしょう。
この点についてはイエスさまもよく分かっておられました。病気の人に「来なさい」とは決しておっしゃいませんでした。イエスさまのほうから出向いて行かれました。また、今日の個所には言及されていませんが、ヨハネによる福音書のこれまでの個所には、次のように書かれていました。「言は肉となってわたしたちの間に宿られた」(1・14)。
これがイエスさまの基本姿勢です。「他人を自分のもとに呼びつける存在」というような、どこかしら邪悪なイメージをイエスさまに抱くことは完全に間違っています。矢印の方向が反対です。イエスさまがわたしたちのところに来てくださったのであって、わたしたちがイエスさまに呼びつけられるのではないのです。この点は誤解すべきではありません。
しかし、です!宅配サービスはたいへん便利なものではありますが、問題もあります。そこで起こる問題は、あらゆる事柄がほとんど個人化ないし個人主義化されてしまうことです。おいしいものをみんなで味わうのではなく独り占めするという事態が起こるのです。
しかし、信仰とは多くの人々と共に分かち合うものです。イエスさまがわたしひとりの家に来てくださるということをわたしたちが喜びはじめるとき、その人の信仰から「教会の交わり」の持つ意義が抜け落ちてしまいがちです。この点に関しては、今日の個所でイエスさまが「来なさい」と呼びかけておられる相手は、一人ではなく、二人であったという事実が重要な意味を持ちます。
イエスさまのもとには、複数の弟子たち、そして大勢の弟子たちが集められるのです。イエスさまがおられるところには「交わり」があります。イエスさまが「交わり」をつくりだしてくださるのです。イエスさまのもとに行くとは、イエスさまただおひとりのところに行くことだけではなく、イエスさまのもとに集まっている弟子たちのところに行くことをも意味しているのです。
その点から言えば、教会はなんら「縦社会」ではありません。言葉の最も正しい意味での「横社会」です。わたしたちは絶対的権力を持つ専制君主のような存在に呼びつけられ、物も言わずに集まっているわけではありません。わたしたちは、イエスさまと共に生きる楽しみを共有しつつ、この交わりそのものから多くの恵みをいただいているのです。
とても幸いなことに、この教会のなかの誰一人として「わたしは呼びつけられている」と感じておられる方はおられません。わたしたちは何ら受動的ではありません。主体的・積極的に集まっています。乱暴な言い方かもしれませんが、わたしたちはここに“来たいから来ている”のです。“やりたいことをやっている”のです。皆さんが今、そのような顔をしておられます。皆さんの顔は、恐怖に怯える顔ではなく、喜び楽しんでいる顔です。
「ふだん、家ではわたしひとりである」と感じておられる方にとっては、交わりこそが救いであるとお分かりになるときもあるでしょう。それは、どんなに打ち消そうとしても打ち消すことができない際限なき孤独感からの救いです。わたしたちも、教会でお互いに励まし合っているときには感じないことであっても、ひとりの家に帰ると「誰もわたしを必要としていないのではないか」という不安にとらわれてしまうことが、きっとあるはずです。その失望感、空虚感、人生の無意味感は、本当に苦しいものです。
その中から救い出されるために、わたしたちにできることがあることを知る必要があります。それは、「来なさい」というイエスさまの呼びかけに応じることです。
「そうすれば分かる」。何が「分かる」のでしょうか。救いの恵みを分かち合いながら共に喜んで生きている教会の仲間に加えられることの喜びが分かるのです!
(2009年2月8日、松戸小金原教会主日礼拝)