2009年1月18日日曜日

恵みの神が世に来られた


ヨハネによる福音書1・14~18

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである。』わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

今日はヨハネによる福音書の学びの三回目です。まだ始まったばかりです。とても難解な序文がまだ続いています。

しかし、今日の個所には驚くべきことがあります。それは、ここに来て初めて「イエス・キリスト」という名前がやっと出てくるということです。

これまでの文章の中に、この名前は一度も出てきませんでした。イエス・キリストのことについて、ただ「言(ことば)」とだけ呼ばれていました。イエス・キリストの御生涯を描くことが目的で書かれている福音書という分野(ジャンル)に属する文書の中で、です。これは、どう考えても正常なことではありません。しかし、ここに来てやっと名前が出てきて、ほっとする。ああ、これまでの話はイエスさまの話だったのですねと分かる。このことについてはやはり、ヨハネ自身の側に何らかの意図があると見てよいでしょう。

それでは、そのヨハネの意図とは何でしょうか。考えられることを申し上げておきます。14節に「言は肉となった」と記されています。これは誤訳であるとまでは言えませんが、かなり大きな誤解を生みかねない訳です。「なった」(become)は、なるほど、原文を直訳したものです。しかし、原文で用いられている言葉(エゲネトー)の意味は、この文脈に限って言うなら、「成り変わった」とか「変化した」というようなことではありえません。むしろ「生まれた」(was born)です。

そして「肉」は、お肉屋さんに売られているのと同じあの「肉」ですが、その意味は、この文脈においては明らかに「人間」です。そして「言」はイエス・キリストです。そのためヨハネの意図に従って訳しなおすとしたら、「イエス・キリストは人間としてお生まれになった」ということです。

そのことを、しかしヨハネは、直訳すればたしかに「言葉は肉となった」と訳すことが不可能ではない、独特の不可思議な文章で表現していることも事実です。ですからここでわたしたちが考え込んでしまうのは、なぜヨハネはこのような表現を用いているのだろうかという点です。もう少し分かりやすく親しみやすい言葉で書いていてくれたらよかったのに、と思わずにはいられません。

はっきり言いますと、ヨハネの意図は今日ではよく分かりません。有力な注解書でさえ「『肉となる』という言葉の意味を確定することは困難である」と書いています(C. K. Barrett, 165など)。しかし、私は、少なくともこれから申し上げる一つの点についてだけはぜひとも注意深くありたいと願っています。それは、他のどこを間違っているとしても、ここだけは決して間違ってならないと思う点です。

それは、ヨハネあるいは聖書が、人間を「肉」と呼ぶとき、「人間は肉に過ぎないものである」とか「人間とは汚らわしいものである」というようなことを言いたいのではないという点です。

「霊的なものは清いが、肉体的なものは汚らわしい。」このような、あるいはこれに似た考え方や言い方は、わたしたち日本人にとっては馴染み深いものがあり、わりとすんなり受け入れることができる、いわばごくありふれたものです。「肉体」と聞けば「汚れた」という形容詞をすぐに思い起こす、といった具合です。

しかし、このような見方は、ヨハネの時代の教会を脅かし、その後のキリスト教会をも脅かし続けた、グノーシス主義の思想です。つまりこれは端的に言って、キリスト教会にとっては異端の思想なのです。教会の歴史の中でこのような考え方や言い方が見出されるとしたら、それらのものはすべて、教会の外から紛れ込んできたものなのです。

そしてわたしたちが信頼してよいことは、ヨハネ自身が異端思想のなかへと巻き込まれ、巻き取られてしまっていたわけではないということです。実際たとえば、この福音書の中には「肉」という言葉をことさらに下に見るような表現や、汚らわしいものを連想させるような表現は見当たりません(もしそれがこの福音書のなかのどこかにあるようでしたら、ぜひ教えてください)。今日の個所でもただ「肉となった」と書かれているだけであって、「汚らわしい肉へと落ちぶれた」というようなことが書かれているわけではありません。そのような考え方は、ヨハネの中には、そもそもないのです。

そのためヨハネが書いていることは、「イエス・キリストは人間としてお生まれになった」ということ、本当にただそれだけなのです。あるいは、もう少しだけ言葉を補うとしたら、「わたしたちと同じ人間としてお生まれになった」と言うことは構わないでしょう。

しかしそれでも、一つだけお断りしておかねばならないことはあります。それは、この文章の中には上下関係を示す内容が全く含まれていないと言い切ることまではできませんということです。天の神のおられるところが「上」だとしたら、わたしたち人間が生きている、ここは、たしかに「下」です。その意味から言えば、そしてその意味だけに限って言えば、イエス・キリストは、上のほうから下のほうへと「降りて」あるいは「下って」来られた方であると語ることは間違っていません。

しかし、はっきりさせておきたいことは、この上下関係は、神と人間との関係という点に関してだけ当てはまるものであるということです。霊的なものと肉体的なものとの関係ということに当てはめることはできません。なぜなら、この比較の中での「霊的なもの」の意味は、明らかに、人間存在の全体を構成する一つの要素としての「精神的な事柄」を指していると思われるからです。

しかし、その意味での「精神的な事柄」は、なんら神ではありません。精神もまた人間そのものです。現在流行中の脳の研究者たちの言い方に倣って言うとしたら、「精神というようなものは脳という臓器の中の化学反応のようなものに過ぎない」というようなことにもなるでしょう。私はそこまで言い切るつもりはありませんが、「精神」との比較で「肉体は程度が低い」だの「薄汚れている」だのと言い出すくらいなら、今の脳の研究者たちの言っていることのほうがはるかに聖書的であり、キリスト教的に正しいことを言っていると弁護しなければならなくなります。

少し話題がそれてしまっているかもしれません。私がなるべく明らかにしたいと願っているのは、ヨハネ自身の意図です。「言は肉となった。」イエス・キリストは、わたしたちと同じ人間としてお生まれになった。その意味は「汚れたものになった」ということではありません。わたしたちが「肉体」について語るときにはいつでも「汚れた」という枕詞をつけなければならないわけではありません。そのような言い方はキリスト教本来のものではないのです。

むしろヨハネの意図は「神の御子がわたしたちと同じ地平に立ってくださった」です。それを聞けばわたしたち人間が理解できるように噛み砕かれた「ことば」として、あるいは、わたしたちの心に届く「ことば」として、神の御子イエス・キリストがわたしたちの目線までおりて来てくださったのだということです。

そして、ここまでお話ししてきてやっと申し上げることができる点があります。それは、最初に触れました、先週学んだ個所にも、先々週学んだ個所にも、「イエス・キリスト」という名前が出てこず、ただ「言」とだけ呼ばれていたことの理由は何でしょうか、という問題の答えに当たることです。

これは、答えを言ってしまえば単純なことです。要するに、「イエス・キリスト」という名前は、この方の地上における名前であるということです。「イエス」という名前はこの方が地上にお生まれになったときに付けられたものです。生まれるよりもはるかに前から、すなわち永遠から、この方が父なる神から「イエス・キリスト」と呼ばれていたわけではないのです。

私は今、なぜこのような点にこだわっているのでしょうか。もちろん理由があります。そして根拠もあります。それは「イエス」という名前の意味です。イエスとは「救う」という意味です。そのように、マタイによる福音書にはっきりと記されています。「その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからです」(マタイ1・21)。

この点で申し上げたいことは、次のことです。イエスという名前の意味としての「救い」を必要としているのは地上に生きる人間だけであるということです。父なる神にとっては「救い」は必要ありません。救われなければならないのは人間なのであって、神ではありません。「神を救う」という言い方は、言葉の矛盾であり、何の意味もありません。地上に来られる前の段階で、永遠の次元におられるときから、神の御子が「イエス」と呼ばれる理由はなかったのです。

救い主が必要なのは、あくまでも、どこまでも、わたしたち人間です。しかも、加えて言うなら、救いが必要なのは罪を犯した人間だけであって、罪を犯していない人間に救いは必要ありません。救いとは「罪からの救い」だからです。

「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とヨハネが書いています。ここに出てくる「恵みと真理に満ちた栄光」という言葉には、抽象的な響きがたえずつきまとっています。具体的な内容は何なのかということまでは分かりません。

しかし、わたしたちは、イエス・キリストがこの地上にもたらしてくださった「恵み」とは何か、「真理」とは何かを知っています。それは結局「救いの恵み」であり、「救いの真理」です。神の御子は、罪を犯して神の栄光を汚したわたしたち人間を罪の中から救い出してくださるために「人間になって」、地上に来てくださったのです。

神の御子がどうして「人間」にならなくてはならなかったのかという事情については、ハイデルベルク信仰問答の第12問から第18問までに詳しく書かれていますので、どうぞご参照ください。

ハイデルベルク信仰問答が教えていることを短く要約すれば、わたしたち人間の犯した罪があまりにも重すぎるため、それを償うためには、動物の命はもちろんのこと、人間の命をささげても足りないということです。人間の命など軽いものだと言っているわけではありません。人間の命ほど重いものをすべて差し出しても償いきれないほど、わたしたちの罪は重いということです。わたしたちの罪が真に償われるためには、真の神でありつつ真の人間でもあるお方(仲保者)の命の価が必要であったということです。

わたしたちが覚えるべき大切なことは、それほどまでに人間の罪は重いのだということであり、それほどまでに神の恵みは大きいということです。人間の存在、その精神や肉体そのものが汚らわしいのではなく、人間の犯した「罪」が汚らわしいのです。

罪から救い出された人間は清いのです。わたしたちの存在そのものは、なんら汚れていないのです。私たちを清めるためにイエス・キリストは来てくださったのです。それこそが「恵み」であり「真理」なのです。

(2009年1月18日、松戸小金原教会主日礼拝)