2009年2月1日日曜日

世の罪を取り除く神の小羊


ヨハネによる福音書1・29~34

「その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。「わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」とわたしが言ったのは、この方のことである。わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。』そしてヨハネは証しした。『わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、「“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。』」

今日の個所にも、イエス・キリストに洗礼を授けた人、バプテスマのヨハネによる証しが続いています。先週の個所でヨハネはこう言っていました。「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(27節)。これはヨハネの謙遜であると共に、彼の信仰でもあると私は申しました。しかし、先週申し上げたことはあまり繰り返さないでおきます。

同じことが今日の個所にも表現されています。しかし、この個所に書かれている内容は非常に難解です。どのように理解すればよいか分からない言葉が、たくさん出てきます。そういう場合の一つの逃げ道は、難しいところを後回しにすることです。少しでもぴんと来るところ、理解可能な言葉を探して、そこから読みはじめるとよいでしょう。ヨハネが語っている結論部分には、理解できるものがありそうです。それは34節です。「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」。

これで分かることは、ヨハネの証しの要点はイエス・キリストは神の御子であるということだということです。そして、神の御子なるイエス・キリストは端的に「神」であるということです。これは先ほどの点の繰り返しです。ヨハネにとって、イエス・キリストは単なる尊敬の対象ではありませんでした。信仰の対象であり、礼拝の対象でした。

この点はわたしたちも同じです。教会はイエス・キリストを礼拝してきました。イエス・キリストに向かって祈ってきました。この点を外して教会は成り立ちません。わたしたちの礼拝はキリスト礼拝であり、わたしたちの信仰はキリスト信仰です。それはキリストを抜きにした単なる神信仰ではないと言ってもよいでしょう。

キリストを抜きにした単なる神信仰とは、何のことでしょうか。いろんな例を挙げることができます。たとえば、旧約聖書の時代から今日まで存在し続けているユダヤ教の信仰はまさにそういうものです。あるいはイスラム教。あるいは日本の神道などもそうであると言えるでしょう。あるいはこれは信仰と呼んでよいものかどうかは微妙ですが、古代のギリシア神話に出てくる神々への祀りなども、キリストを抜きにしているという点で同じであると言えるでしょう。

私が申し上げたいことは、わたしたちの教会の信仰はそういうものではないということです。わたしたちの信仰は、どこで切ってもキリストが出てくる、キリストを抜きにしては全く成り立たない信仰です。

この信仰はバプテスマのヨハネから始まった、と語ることはできません。わたしたちが持っているこの聖書には、ヨハネによる福音書だけではなく他の三つの福音書があります。それらの中に記されていることによりますと、バプテスマのヨハネよりも前に、イエス・キリストを産む役割を果たしたマリアと夫ヨセフが、あるいはベツレヘムの羊飼いたちが、あるいは東の国から来た占星術の学者たちが、イエス・キリストを神の御子と信じ、御子を礼拝しました。真のキリスト教信仰はベツレヘムから始まったのです。

しかし、ベツレヘムのイエスさまは、まだお生まれになったばかりの赤ちゃんでした。将来この方がどのような働きをなさるのかなど誰にも分かりませんでした。バプテスマのヨハネが登場するのは、もっと後のことです。少なくともイエスさまは成人しておられました。そしてヨハネはその目でイエスさまを見たのです。そうです、ヨハネはイエスさまのお姿を「見て信じた」のです。

ヨハネによる福音書には、ずっとあとのほうに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(20・29)というイエス・キリストの言葉が記されています。この言葉をイエスさまは弟子のトマスに対して語っています。この言葉の意味については、その個所を学ぶときに説明しますので今は割愛します。今ここで重要な点は、バプテスマのヨハネは「見ないのに信じた」人ではなく、「見て信じた人」であるということです。

しかし私はこのことを何か悪い意味で、あるいは批判的な意図から申し上げているわけではありません。「見ないのに信じる信仰」が「幸いである」と言われているのですから、論理的には「見て信じる信仰」は「幸いではない」ということになってしまうかもしれませんが、だからと言って「見て信じる信仰」は「信仰ではない」とか「真の信仰ではない」と言われているではないのです。

自分の目で見たこと、自分の耳で聞いたこと、自分の手で触って確認したことを、自分自身で信じること、またそれをそのまま人に伝えることも、正しい意味での「信仰」です。それはまた、正しい意味での「伝道」であり、「証し」でもあるのです。

それでは、ヨハネはイエスさまの何を見たから信じたのでしょうか。そのことが32節に記されています。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」。これはとても不思議な言葉です。聖書の中で「霊」は見えないものであることになっています。見えないはずの霊がヨハネには「見えた」と言っているように読めますが、この読み方は正しいでしょうか。

もちろんそのようにしか読めない面があることを認めなければならないかもしれません。しかしもう一つの読み方があるように思われます。それは、ヨハネが見たのは、とにかくイエスさま御自身のお姿であったということです。霊そのものがヨハネの目には見えたというよりも、霊に満たされたイエスさまのお姿を見て、イエスさまに霊が豊かに注がれたことをヨハネが信じたと理解することができないでしょうか。

この点にこだわってみたいと思ったことには理由があります。イエスさまに注がれた“霊”とは聖霊です。聖書の中で「聖霊」は、イエスさまだけに注がれたものではありません。イエスさまを信じて生きた人々、そしてまた、わたしたち自身を含むイエスさまを信じて生きているすべての人々にも注がれました。この点ではイエスさまとわたしたちの間には共通点もあると言えるのです。イエスさまに注がれたと言われている“霊”とわたしたちに注がれる“霊”は、別の霊ではなく、同じ霊なのです。

しかし、ここで考えてみなければならないことは、わたしたちにも「聖霊」が注がれているというならば、そのことをわたしたちはどのようにして確認することができるのかという問題です。

「見た」だの「見えた」だのと、まるで液体か気体かでもあるような、まるで地上の物質であるかのようなものとして聖霊が存在し、そのようなものがわたしたちの中に流し込まれる様子を、はい、わたしは確かにこの目で観察し、確認しました、それがわたしたちに聖霊が注がれていると語ることができる動かぬ証拠であり、証しですと言わなければならないのでしょうか。そのような言い方や考え方は、わたしたちにはむしろ、全く不可能なものであると言わなければならないでしょう。

それとも、イエスさまに注がれた“霊”だけが目に見えるものであり、イエスさま以外のただの人間、普通の人間に注がれる“霊”は、目に見えないものであると言わなければならないのでしょうか。こんなふうに考え始めますと、だんだんおかしな話になってくるように思われてなりません。

そして、わたしたちに分かることは、わたしたち自身のことです。わたしたちは、信仰をもって生きている人々には聖霊が注がれている、と信じています。逆のことは、あまり言いたくありませんが、論理としては言わざるをえません。信じていない人には、聖霊は注がれていない。そうしますと、わたしたちにできることは、両者を見比べることです。信じている人と信じていない人の違いを見分けることです。

違いなどどこにもありませんと言わなければならないかもしれません。いえいえ、それどころか、信じている人より信じていない人のほうが優れているように見える。そういうことも実際にはあるかもしれませんが、それではいくらなんでも寂しいでしょう。「やはり違いがある」、そう言いたいでしょう。

ヨハネには、その違いを見分けることができたのです。“霊”が注がれ、満たされているイエスさまの姿を見て、「この方こそ神の御子である」ということを!

そういう目をもし手に入れることができるなら手に入れたいものだと私は願っています。しかし、もっと願うことは、私自身の姿が、他の人々の目から見て「あの人は信じている人である」と見えるようであって欲しいということです。「信じているあの人は、あのように、何か楽しそうであり、幸せそうでもある。あの人のように、楽しそうな、幸せそうな人生を送ることができるなら、わたしも信じてみたい」と思ってもらえるような人間に、もしなれるものならなってみたいと願うばかりです。

全くそうでないような人間は、牧師としてはおそらく失格なのです。「神を信じたらあんなふうな暗い人間になってしまうのか。ヤダヤダ」と思われるような人間であるならば。

イエス・キリストのお姿を見て信じたヨハネが語った言葉は、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)ということでした。なぜ「小羊」なのかという点に、残念ながら今日は、時間の関係でほとんど触れることができません。ここで「小羊」とは旧約聖書に出てくる過越祭の際に神にささげられる犠牲の小羊のことです。イエス・キリストは、十字架の上で御自身の命を犠牲にしてくださった、まさに過越の小羊である。そのことをヨハネは預言しているのです。この点を指摘するだけにとどめておきます。

このことをヨハネは、イエスさまに「聖霊」が注がれる様子を見たので信じるに至ったと語っているわけです。これを逆に言えば、または別の言い方をすれば、「聖霊」がある人のうちに注がれることと「罪」の問題とが深い関係にある、ということでもあるのです。

ヨハネの目がとらえた事実をわたしたちは次のように考えることはできないでしょうか。ヨハネは、聖霊に満たされたイエスさまを見て、この方こそ「世の罪を取り除く」役割を果たすために来てくださった神の御子であると信じるに至った。世の罪を取り除くために来られた方自身には罪がない。聖霊の注ぎと罪の支配の度合いは、反比例の関係にある。

わたしたちの場合には、イエスさまとは違って、「罪がない」とは言えません。しかし、信じることができるようになり、聖霊に満たされて生きることができるようになったときには、イエス・キリストの力によって罪の支配のもとから救い出されている。少しずつではあるかもしれないけれども、罪を取り除かれている。信じている人と信じていない人の違いは、罪の支配下にあるかどうかである。ヨハネ(この福音書の著者ヨハネ!)の言葉を借りれば「闇」の中にとどまり続けているかどうかです。

わたしたちはいつまでも「闇」の中にとどまり続けているわけではありません。すでに「光」のもとにあります。イエス・キリストを信じる人には聖霊が注がれています。それによってわたしたちは底抜けに明るい人(輝く笑顔の人!)へと造りかえられるのです。

もし違いがあるとすれば、このあたりにあると言いたい。言わせていただきたい。いや、そのように言えるようになりたい。私はそう願うのです。

(2009年2月1日、松戸小金原教会主日礼拝)