月曜日は元気がありません。日曜日に力を出しきってしまうからでしょう。仕事して疲れるのは当たり前。余力が残っているとしたら、サボっている証拠でしょう(というこの考え方を、私はたしか養老孟司氏の『バカの壁』シリーズから学んだと記憶しています。この記憶自体が間違っているかもしれません。しかし、養老氏の本を読み直して確かめてみる気力がない。グダグダです)。体も心ももちろん脳も休みなく働かせ続けることは死を意味するでしょう。昨日は定期小会・執事会もありました。牧師は教会会議の議長です。疲れます。現在日曜日の朝の礼拝では新約聖書の使徒言行録の連続講解説教を行っています。昨日の個所は17章の16節から34節まで。ギリシアの首都アテネの「アレオパゴスの真ん中で」使徒パウロが説教する場面です。この説教は「結果としては失敗に終わった説教」と評されるものです。以前の私はパウロの説教に「失敗」などあるものかと反発していましたが、このたび読み直してみて「なるほどこれは失敗の説教である」と分かりました。パウロも失敗する!他人の失敗を見て喜ぶのは下品です。しかし慰めを感じる要素は確かにあります。もう一つ、使徒言行録のとくにパウロの伝道旅行を描いた記事を読みながら慰められている点はその伝道の方法です。「安息日ごとに」会堂で聖書について論じる。これが基本的なやり方です。パウロもある意味で「安息日の人」であり、「安息日の仕事」に取り組んでいたと言える。牧師が「日曜日の人」であり、「日曜日の仕事」に取り組んでいる。同じだなあと思うわけです。もっともパウロは、よく知られているとおり、生活費に行き詰ったからでしょう、「テント製作」のアルバイトもしました。食事をしないで生きれる生物は存在しません!(「生きれる」と、ら抜き言葉を使ってみたくなりました。コブクロの歌詞の影響です)。しかしそれは彼の本業ではありえません。伝道者の本業は「伝道」です!あのパウロ先生も安息日の翌日は(我々と同じように)ぶっ倒れていたのかなあとか想像してみると、慰められるものがあります。今日の私は、ほんと、ダメダメです(ぐったり)。
2008年2月4日月曜日
2008年2月3日日曜日
「アレオパゴスの真ん中で」
http://sermon.reformed.jp/pdf/sermon2008-02-03.pdf (印刷用PDF)
使徒言行録17・16~34(連続講解第44回)
日本キリスト改革派松戸小金原教会 牧師 関口 康
「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、その中には、『このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか』と言う者もいれば、『彼は外国の神々の宣伝をする者らしい』と言う者もいた。パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。『アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、「知られざる神に」と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。』」
今日の個所で使徒パウロが立っている場所は、ギリシアの首都アテネです。なぜパウロはアテネにいるのでしょうか。その経緯が先週の個所に記されています。パウロとシラスとテモテの三人が、テサロニケとベレアの町でイエス・キリストの福音を宣べ伝えたとき、多くの人々がキリスト教信仰を受け入れ、洗礼を受けました。ところが、それにねたみを抱いたユダヤ人たちがパウロたちを町から追放するために、人を使って暴動を起こさせたのです。パウロたちの身に危害が及ぶことを恐れた人々が、伝道者たちを安全な場所へと逃れさせました。その際シラスとテモテはベレアに残りましたが、パウロは一人アテネに移動することになったのです。
そしてパウロは、それからしばらくの間、一人で伝道することになりました。「寂しい」という感情をもったかどうかは分かりません。パウロも人間です。一人でいると何となく不安を感じたり、心もとないものを感じたりしたかもしれません。そういうことを少しは考えてみる必要があるかもしれません。ただ、そのようなことは何も記されていません。
むしろはっきりと記されていることは、パウロがアテネに到着して最初に抱いた感情は「憤慨」であったということです。「憤慨」とはもちろん、激しいまでの怒りの感情です。私が以前から申し上げている「パウロ先生はすぐ怒る」という話がここでも当てはまるかもしれません。しかし、なぜパウロは「憤慨」したのでしょうか。理由が記されています。
明らかに分かること、それは、ユダヤ人でありキリスト者であるパウロの目から見るとギリシアの首都アテネは、完全に異教徒の町であったということです。その町にはあふれ返るほど多くの偶像が立ち並んでいました。それを見てパウロは「憤慨した」、すなわち、激しいまでの怒りの感情を抱いたのです。
その状況はちょうど、先週もお話ししましたとおり、150年前の日本に来たアメリカ人のプロテスタント宣教師が体験したであろうものと非常によく似ていたに違いありません。パウロの目の前には、一人として、少なくとも表立ってキリスト教信仰を告白する人々がいませんでした。この個所を見るかぎり、当時のアテネにユダヤ教の会堂は存在していたようですから、聖書の「せ」の字くらいは知られていたでしょう。しかし、キリスト教の「キ」の字は知られていませんでした。その意味での、まさに全くゼロからの、あるいはマイナスからの伝道活動を開始せざるをえなかった、しかもたった一人で(!)その困難な仕事を始めなければならなかった。そのときのパウロの心中がどのようなものであったかについては、察して余りあるものがあります。
しかし、パウロの優れているところは、そのような絶望的と言いうる状況に立たされても、まさに文字どおり「折〔または「時」〕が良くても悪くても」(テモテの手紙二4・2)、イエス・キリストの福音を宣べ伝える仕事を堂々と始めることができた点にあると言ってよいでしょう。それは、次のように書かれているとおりです。
「論じ合っていた」という表現は「議論していた」という意味ではなく「説教していた」あるいは「御言葉を宣べ伝えていた」という意味であると、解説されています。
また、パウロの前に現れる「エピクロス派」や「ストア派」の哲学者については、次のように説明できます。エピクロス派は快楽主義者です。かたやストア派はエピクロス派とは正反対の禁欲主義者です。前者は地上の人生を楽しむべきであると考える人々であり、後者は地上の人生を楽しむべきではないと考える人々です。しかし、共通点もあります。この人々が持っているのは、いずれにせよ「地上の人生を軽んじる思想」であったということです。もちろんそれはキリスト教的な立場からの批判的評価です。
エピクロス派は、死後の世界も現世を超えた次元もそういうものは一切認めない人々でした。彼らにとって地上の人生は刹那的なものであり、せいぜい遊んで暮らすしかないものであり、どうでもよいものでした。性的な乱れもあったと言われています。他方のストア派は、地上の人生を苦しむべきものとしてとらえていました。しかし、その教えは、現実の出来事を直視しつつ一つ一つの問題に真剣に取り組む姿勢を説くものではなく、どちらかといえば嫌々ながら人生をやり過ごす姿勢を説くものでした。
私の見方では、エピクロス派にせよストア派にせよ今日の個所で紹介されているアテネの哲学者たちの思想は、わたしたち日本人の(ただしキリスト者以外の)一般的な感性にちょうどぴったりフィットするようなものではなかっただろうかと、思えてなりません。どのみち一回かぎりの人生である。適当に楽しんで暮らそうか。それとも、少しは苦しい修行の道でも歩んでみようか。しかし、どのみち人は死ぬ。死ねば、皆一緒。
そのようななんとも言えない頽廃的ムードないし虚無主義に支配されたギリシア的思想の厚い壁を前にして、パウロは「イエスと復活について福音を告げ知らせていた」と記されています。しかしまた、そのパウロの説教は、哲学者たちにとってはうんざりするような、あるいは何を言っているのかさっぱり理解できないような話として受けとられ、心理的に拒絶されていたらしいことが、この個所から伝わってきます。
皆さんはどうでしょうか。この教会で私は繰り返し「キリスト教信仰において、復活とはこの地上にもう一度戻ってくることです。わたしたちの地上の人生は死によって終わるものではありません。復活によって地上の人生が回復されるのです。だからわたしたちは地上の人生を軽んじてはなりません。復活前の人生と復活後の人生は連続的なものです」と語ってきました。このように語っているときの私の念頭に常にあるのが、今日の個所のパウロの状況です。すなわち、アテネの哲学者たちが教えていた「地上の人生を軽んじる思想」と対決しているパウロの状況です。
私がなぜ、声を大にして「復活」を強調してきたか、また同時に声を大にして「地上の人生の価値」を強調してきたか、その理由は今日の個所に詳細に描き込まれているパウロとギリシアの哲学者たちとの対決状況が、今日においてもなお厳然と存する日本の思想的社会的状況と同じであると考えてきたからに他なりません。
すべての人はどうせ死ぬ。死んだら皆同じ。人生などどうでもよい。このように、私を含めた日本人の多くは、心の奥底で感じています。そのような思想教育を受けてしまっています。しかし、そのように考えることは間違いであると、パウロならば語るでしょう。わたしたちは復活するのだ。この地上に再び戻ってくるのだ。だからこの地上の人生には価値があるのだと。このパウロのメッセージを、わたしたちもまた、まさに声を大にして今日の日本社会の中で語り続けなければなりません。
パウロは「アレオパゴス」に連れていかれました。アレオパゴスは、ユダヤ人にとっての「最高法院」(サンヘドリン)に相当する、ギリシアの最高議会が招集された場所です。今の日本でいえば国会議事堂のある東京都千代田区永田町一丁目のような場所です。そこでパウロに要求されたことは「あなたが説いているこの新しい教えがどんなものか、知らせてもらえないか。奇妙なことをわたしたちに聞かせているが、それがどんな意味なのか知りたいのだ」(19~20節)ということでした。当時のギリシア人からすれば、使徒パウロの存在は、遠い外国から来た新興宗教のスポークスマンのように見えたのでしょう。一応興味はあるので、とりあえずテレビ番組に出演して、その新しい教えをこの国のみんなに紹介してくださらないかと言われているようなものです。
するとパウロは、その要求に二つ返事で応じます。そしてたった一人で「アレオパゴスの真ん中で」、いわばまさに全ギリシア人の前で、実際にはほとんどが興味本位か冷やかし半分で集まっている人々の前で堂々と、キリスト教信仰、なかでも「復活」について語るのです。このあたりも、伝道者パウロの卓越した側面であると言えるでしょう。パウロの辞書には「怯む」とか「怖気づく」とか「引っ込む」という言葉がないかのようです!
パウロの説教の内容(21~31節)について詳しくお話しする時間はもう残っていません。ただし、一つ気になる点だけ、申し上げておきたいと思います。それは、冒頭部分です。
なぜこの点が気になるのでしょうか。最初に申し上げましたとおり、アテネに到着した直後のパウロは「憤慨していた」のです。つまり、激しく怒っていた。その怒りの感情は、アレオパゴスの真ん中で語っているときにもなんら収まっていなかったはずだと思われるのです。しかしそれにもかかわらず、パウロは「あなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます」と言う。これは明らかに、かなり辛辣な皮肉であり、嫌味です。なぜならパウロはそもそも、ギリシア人の偶像崇拝を「信仰」であるなどとは思っていなかったからです。つまりパウロは、心にも無いことを皮肉として言っているのです。
気になること、それは、皮肉や嫌味で伝道は可能かという問題です。アテネでのパウロの説教について「結果としては失敗に終わったものである」と評する人々がいます。私は、その判断に賛成せざるをえません。以前の私はパウロの説教に「失敗」などあるものかとその判断に反発していましたが、このたび読み直してみて「なるほど、この説教は明らかに失敗している」と分かりました。
この説教が終わった後の人々の反応は、明らかに、非常に白けきったものです。さっさと帰る人がいる。あざ笑い、「その話はまた今度ね」と言い残していく人がいる。キリスト教信仰を受け入れた人は「何人か」である。否定しがたい事実としてこの説教には明らかにけんか腰の要素があります。人の感情を逆なでし、人の心を遠ざけるものがあります。あなたがたは「知られざる神」を拝んでいる。信心深いご立派な方々です。あなたがたが知らずに拝んでいるものをこのわたしが教えてあげますという論法は「上から目線」です。「空気が読めない人」と見られるかもしれません。最も嫌われやすい語り方です。
私がこのような批判的な言葉をあえて口にする理由は、わたしたち自身の戒めにしたいからです。また、パウロの伝道活動にも試行錯誤の要素があり、失敗の連続であったことを率直に認めたいからです。わたしたちの信仰告白の内容は、正しいものです。しかし、語り方や伝え方を間違えると、あらぬ誤解を生み、人々の心を信仰から遠ざける原因にもなりかねないからです。皮肉や嫌味やけんか腰で、伝道はできないからです。
しかし、です。わたしたちがパウロから学ぶべきことは、もちろんたくさんあります。今日の個所から学ぶべき最も重要なことは、彼の「勇気」です。それは、今の日本の教会にまだまだ欠けている要素であると思われてなりません。
(2008年2月3日、松戸小金原教会主日礼拝)
2008年2月2日土曜日
今週のまとめ
今週もPDF版にまとめておきます。(1)が先週分、(2)が今週分です。
「実践的教義学」の構想(ドラフト)
(1) 教義学と実践神学の統合の提案
http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics001.pdf
(2) 教義学と私の実存の関係
http://ysekiguchi.reformed.jp/pdf/PracticalDogmatics002.pdf
なお、(2)の中の「教義学と『痛い経験』」の項に紹介した大学三年の夏の「事故」の後日談が、実を言うと、1月16日(水)に記した内容です。生まれて初めて「夏期伝道実習」なるものを、徳島県の海辺の町の教会で体験しました。事故の直後でしたので「痛い、痛い」とうめきながらでしたが、その町に二ヶ月間滞在し(教会の一室で寝泊まりし)、説教原稿を書き上げ、礼拝や祈祷会、家庭集会、関係保育園などで説教の奉仕をさせていただきました。食事は二回くらいは自炊した記憶が薄っすらと残っていますが、あとは教会員のお宅にお呼ばれするか、そうでない場合はすべて海辺の喫茶店で食事をとりました。その海はサーフィンが盛んで、喫茶店にもサーファーが多く出入りしていました(私の滞在中に一人のサーファーがその海で雷に打たれて亡くなりました。喫茶店で働いていたアルバイトの人と親しい仲間でした)。実習が無事終了し、教会から「謝礼」をいただくことができました。実は、その「謝礼」で、その実習先の教会のすぐ近くにあった中古車店に飾って(放置して?)あった茶色のポンコツ車、ダイハツシャレード(八万円!)を買ったのです。つまり、「それ以来、自分の足で歩くことが極端に少なくなったので・・・体重が極端に増加した」という話には、かなり大げさですが要するに「前史」があったのだということです。私の体重増加が自家用車を購入してそれに乗りはじめたときから始まったという点は間違いなく事実なのですが、問題はなぜ私は自動車に乗りはじめたのかという点です。その答えは、「事故」後の肉体に残った症状に苦しむ余り(「破門」後の精神的ダメージの件は意図的に除外しておく)、いつも自分をかばおうとする少し臆病な人間になってしまったからであると一応説明できるわけです。歩いて行けそうなところでも「自分の足で歩くよりも自動車で」、また「満員電車に鮨詰めにされるくらいなら、ゆったりできる自動車で」というふうに、いつも「楽な方法」を選ぼうとする人間になってしまいました。その結果が2007年1月に到達した体重99kgです。このままでは駄目だと深く反省し、昨年ダイエットして現在は89kg(現在、この数値のまま、数ヶ月止まっています。ヤバいです)。その反省の中身は、見てくれのまずさへの反省だけではなく、常に自分の身を守ることを優先し、「楽な方法」を選ぼうとする、その臆病さそのものへの反省だったというわけです。
2008年2月1日金曜日
「社会と教会」に名称変更しました
「信仰の手引き」と名づけてきたブログのタイトルを、このたび「社会と教会」に変更しました。「教会と社会」ではなく「社会と教会」の順に書くのは、社会的関心を優先したいからです。「信仰の手引き」は一時的に付けた名前であり、その前は「信仰と実践」でした。しかし、どの名称も私の意図ならびに願いを反映しきれていないと感じていました。申し上げたいことは、「社会において果たすべき教会の役割」とか「社会に向かって発信する教会の声」というようなことです。ただし、それを教会の独り言や自己満足にしてしまうのではなく、教会以外の方々に御理解いただけるメッセージにするにはどうしたらよいかという関心を常に持ち続けてきました。そしてそれは、とりもなおさず、社会と教会との真の信頼関係を築いていきたいという強い思いからのものでした。ですから、このブログ「社会と教会」をお読みいただきたいと願っているのは、教会のメンバーの方々だけではなく、むしろ教会のメンバーでない方々、キリスト者でない方々なのです。戦争や暴動、飢餓や貧困、差別や孤独、などなど。社会に大きな問題や混乱が起こるとき、「教会さんは、どんなふうに考えるんだろ?」と思われたら、このブログを開いてみてほしい。そのように願っています。発信できる情報はまだまだ少なく限られたものですが、そのうちパワーアップしていきたいです。
社会と教会(旧「信仰の手引き」)
教会で受けるトラウマの責任は教会の「神学」にもある
トラウマの正体が何であるのかは、まだ分かりません。本当に分かりません。「私はどうやら専門のカウンセラーに一度きちんと話を聞いてもらうほうがよさそうだね」と、つい最近、妻と話したばかりです(まだ一度もそういう先生のところに通ったことがありません)。とはいえ私は、自分の中に巣食うこのトラウマの正体が「狭義の心理学」や「狭義の精神医学」で説明してもらえそうなものであるとは思っていません。このように私が書くのは自分の問題を過大評価する(要するに「自意識過剰」)ゆえではなく、また心理学や精神医学を軽視するゆえでもありません。ある程度の自覚として私に思い当たるものがあり、そこにどうやら原因があるということが、その意味で「分かっている」からです。私の心を傷つけてきた少なくともその一つであり、かつ決定的な要素は「説教」です。「そうである」という自覚が、すっきりとした明確さまではないとしても、それほどぼんやりとでもなく、私の中にあります。そして、その「説教」を裏打ちする「ある種の神学」ないし「ある種の教義学」が、私の心の深い部分にダメージを与えたままです。その傷は、いまだに癒えていない。そのことに時々気づかされる瞬間があります。たいてい涙がこぼれます。教義学と実践神学を統合すべきであること、とくに説教や牧会の問題を教義学的に考え抜かねばならないと考えている理由はこのあたりにあります。説教や牧会における数多くの「失敗」の事例の中には、単なるテクニックの拙さであるとか経験値の低さというようなことで片づけられるべきではない事象も明らかに存在するからです。説教の実践、また牧会の実践を支えている理論的根拠としての「説教学」や「牧会学」そのものが失敗しているケースが明らかにあります。そして、それらすべてを支える「神学」が根本的に失敗しているケースがあるのです。「実践的教義学」は、現代のキリスト教カウンセリングに敬意を表します。その上で、教義学の観点からの積極的レスポンスを意図しています。しかし、現代流行中の説教学の潮流に対して、「実践的教義学」は、最も近い関係にあると感じられるだけに、どうしても手厳しいものになります。「教義学と実践神学の統合の提案」の背後に、具体的な人の動きを期待したい気持ちは、もちろんあるのです。
私が「実践的教義学」を求める本当の(?)理由
「改革派教義学と私の実存との関係」について書いてきました。もちろん両者の間には「関係がある」と言いたいためです。私の日本基督教団からの「離脱」に関する秘話(?)まで字にしてしまいました。今回書いた部分は今まで(まとまった形では)妻以外の誰にも喋ったことがありませんので、その意味では生まれて初めて字にしたものです。ブログの魔法にかかっているのかもしれません。ちょっと頭を冷やす必要がありそうです。しかし、今週は家庭集会や中会教師会などで出かけることが多く、また各方面からのメールもなんだかやたら多く、意識が四方八方へと分散していきます。腰を据えて一つの事柄をじっくり考えて書くということができません。18才の少年と「教義学」との感動的な出会い。「教義学」を学ぶうちに「教派」の問題が見えてきたこと。「痛い目」にも遭ったこと。「改革派であること」、すなわち「教派であり続けること」を求めた結果、「教派的なるもの」に対して弾圧的姿勢を取り始めた日本基督教団を1997年3月末に離脱し、日本キリスト改革派教会に加入するに至ったこと。そして、その一連の軌跡は、私の意識においては、「改革派教義学」(dogmatica reformata)を追い求めることと同一の意味を持つこと(短く言えば、日本基督教団にとどまったままでは「改革派教義学」を維持することができないと思われたのです。「改革派教義学」のほうが日本基督教団の存在よりも重要であると、当時の私には感じられたのです)。このあたりまで書いて、すでにダウン気味です。自分の過去の経験を赤裸々に(笑)書き始めると、忘れることに決めた記憶がフラッシュバックしてきますし、私の心の奥底のパンドラの箱を開けざるをえなくなりますので、精神的に少しキツクなり始めているのかもしれません(はっきりした自覚症状に至っているわけではない)。私にとって「教会生活・信仰生活」は、恵み豊かな体験でもあり続けていますが、全く同時に、深く絶望的なトラウマ(!)の原因でもあり続けているからです。
2008年1月31日木曜日
教派の「教」は教義学の「教」(3/3)
話を元に戻します。私にとって、教派の「教」は教義学の「教」です。私は「改革派教義学」(dogmatica reformata)を結婚相手として選んだのです。出会った日にひとめぼれし、やがて「結婚したい」と願うようになりました。しかし、それを周囲が許してくれそうもないことを悟ったので、「駆け落ち」したのです。妻以外の誰にも相談せず、日本基督教団の教師を夫婦揃って退任し、日本キリスト改革派教会に教師として加入しました。唯一、日本基督教団時代の最後にわずか10ヶ月間牧師として働かせていただいた教会の方々に対してだけは、牧師家族を温かく受け入れ、手厚い配慮をしてくださっていましたので、多大な御迷惑をかけたことを今でも申し訳なく思っています。今さら何を言ってもお許しいただけないかもしれませんが、この負い目を生涯負い続けることによって償いたいと願っています。しかし私の「駆け落ち」はそうする以外にどうすることもできなかったものです。この点にはいささかの後悔もありません。私にとって「教義学」は真理探究のための一つの道です。それは「飯の種」以上のものであり(実際に「飯の種」になったことは一度もありません)、それなしには魂の平安を得ることができないものです。ただし、「真理探究のための一つの道」の「一つ」は排他的な「唯一」ではなく「多くの中の一つ」です。そういうものとしてまた同時に、教義学は「三位一体の神のみわざ」(opera Dei trinitatis)全体を見通すことを本旨とする、最も広大な考察領域を有する古くて新しい学問です。教義学者が立つアリーナは非常に広い。「コップの中の嵐」で終わらせてよいような、ちんけな学問ではありません。(おわり)
教派の「教」は教義学の「教」(2/3)
「これこれ、そこのお若いの。あんたは元気でよろしいね。だけど、あんまりむきになりなさんな。あんた一人にどんなことがおできになるのかね?大口を叩きたければ、ひとまずカール・バルト先生の九千頁を全部読みなさい。あの中にすべてが言い尽くされていると思うよ。あれ以上のことを、お前さんごときが言えるとでも思っているのかね?」と大先輩たちはアドバイスしてくださるかもしれません。バルトの『教会教義学』でしたら、ドイツ語版と日本語版の全巻を(約10年かけて古書店を探し回ることによって)約10年前までに買い揃え、かいつまんだところ、そして重要なポイントは、だいたい読みました。ただ、全体が余りにも長いので、読み進めているうちに前のほうに何が書いてあったかを忘れてしまったり、また内容的に繰り返しが多いので、退屈で退屈で仕方がない部分が苦痛で飽きてしまったりという事情があるゆえに、パーフェクトな意味で「全巻を通読しました」と言い切ることまではできません。あの本は、内容が高度で難解で大量なので「読むことができない」のではなく、内容が余りにも退屈なので「読む気がしない」。だって同じことの繰り返しなのですから。時代遅れのたとえですが、壊れたレコードのようです。同語反復も大概にしてほしい。同語反復もあそこまで極めると立派であるという見方もできるかもしれませんが、あの種の繰りごとに付き合うほど、我々もひまではありません。バルトの退屈な書物に時間をとられているくらいなら、ファン・ルーラーの書物をオランダ語で読むほうがはるかに楽しいし、刺激的だし、信仰生活と牧師の仕事に益します。「もう少し要旨を簡潔にまとめてほしい」。それがバルト先生に伝えたい私の感想です。この点で、バルトの『教義学要綱』(Dogmatik im Grundriß, 1947)は、短いから好きです。『カール・バルト著作集』(新教出版社)に収録されている版はずいぶん前に読みましたが、最近「新教セミナーブック」の版で読み直しています。井上良雄先生の訳は素晴らしい。「バルト主義者」になることは私にはもはや全く不可能ですが、口幅ったいついでに言わせていただくなら、バルト先生が非常に熱烈に抱いておられたと感じられる「教義学への探究心」に対しては、持ちうるかぎり最大限の敬意を持っております。(さらにつづく)
教派の「教」は教義学の「教」(1/3)
今日の午前中は松戸小金原教会の水曜礼拝でした。マルコによる福音書10・32~52を学び、全員で祈りました。出席者14名。さて。「私という人間はどうやらホーリネスというようなものではありえないようだ」。私がかつて確かに語ったこの発言は、私に限っては、ホーリネスの人々やその信仰への《批判》として語ったものではありません。発言した当時もそうでしたし、今はますますそうです。《違和感》という言葉も勢いが強すぎて全く当てはまりません。まして軽視ないし軽蔑などの意図は全くありません。どういうふうに表現したらよいか迷います。表現しにくいものを無理やり表現しようとすると墓穴を掘ると言うのか馬脚を現すと言うのか、要するにろくなことはなさそうで嫌なのですが、それでもこの場面では何か書き留めておきたい気持ちです。いちばん近いかもしれないのは・・・(やはり難しい)・・・強いて言えば・・・(う~ん)・・・「恋愛的な」(?)あるいは「結婚したいと思う」(?)感情を相手に抱きうるか否かという話に近い(違うかな)、そんな感じです。私には妻がいますが、「一人の女性に妻になっていただくこと」(「なっていただく」というこの響きを重んじたい)や「妻を愛すること」が妻以外のすべての女性を「批判」することを意味するか。そのような意味になるわけがありません。教派の問題、エキュメニズムの問題についても私は基本的に同じような感覚を(「感覚を」です)持っています。現在私は日本キリスト改革派教会の教師ですが、他のすべての教派を《批判》ないし《否定》した結果としてここにいるという事情ではありません。「そうではない」ということを、どこでもかしこでも声を大にして言いたいと願っています。私がかつてそこに属するメンバーであり、また教師としても仕えた日本基督教団は、こと最近「我々は教派ではない」という点を、中心的な人々がまさに声を大にして一生懸命語ってくださいますので、私の言葉にはなんら矛盾がないことを証明していただいている次第です。私自身は「教派であること」を選択しただけです。「教派であること」をローラーで強引に押しつぶそうとする危険な圧力を感じたので、「教派であり続けることができる場所」へとそっと移動しただけです。そしてそれは、とりもなおさず改革派教会の信仰告白の内容(特定の一信条文書ということとはいくらか違う意味です)を「愛する」ことを願った結果です。そして牧師である者として、すなわち教会教育の全般に責任を負う者として、「改革派教義学」(dogmatica reformata)の発展と普及にも寄与しうる者になりたいと願った結果です。とにかく付き合い始めてみて、先に行ってうまく行かないことが分かったら、その時点で別れればいい、離婚すればいい、やめればいいとは全く思いません。そのような「あなた任せ」の人生を、「教会の学としての教義学」(Dogmatik als Wissenschaft der Kirche)に関するかぎり、私は思い描くことすらできません。もし改革派教会の教義内容に間違いがあるならば(もちろん我々は間違いうる存在です)、その内容を徹底的に修正し、改善していく責任が、この私にもある。そのように考えています。(つづく)
2008年1月30日水曜日
どちらが人に優しいか
昨日は松本零士氏的な擬音を用いて言えば「ドテポキグシャ」な体験を書きました。あのときは、正直死ぬかと思いました。22年経った今でも、白いトラックの金属部分(巻き込み防止用バーです)が右脇腹に激突してきたあの瞬間の恐怖を、昨日のことのように覚えています。しかし、「破門」と「事故」との間に直接的な関連性があると、私自身が考えているわけではありません。不幸というものはしばしば、まるで追い討ちをかけられているのではないかと感じられるほどに連続的に起こるものである。それがどうやら我々の体験的現実であると、それくらいのことは一応考えています。しかし、私が考えることはそれ以上のことではないしそれ以下のことでもありません。それとも私は、この場面でこそ「それは神の摂理であった。すべては神の予定であった」というような言葉を発するべきでしょうか。改革派教義学(dogmatica reformata)を土台とする「実践的教義学」はそのような短絡的な結びつけ方をあまり快く思わないところがあります。そのような短絡的な言葉づかいを耳にするたびに、それは第三戒違犯、すなわち「主の名をみだりに唱える罪」ではないのかと思われて仕方がありません。「予定論」(praedestinatio Dei)や「摂理論」(providentia Dei)はなんら万能教義ではありません。それらはモーセの十戒、とりわけ「道徳律法」(lex moralis)によって規制される必要があります。カルヴァンもツヴィングリもブリンガーも、ハイデルベルク信仰問答の作者やウェストミンスター信仰規準の制定者たちも、第二次宗教改革の教義学者たちも、そして近現代の改革派教義学者たちも、「予定論」や「摂理論」は絶対的で不動の教義であるが、「道徳律法」は相対的で可動的な(不都合が生じた場合は撤回可能な)教説にすぎないなどというような(不道徳への逃げ口上を助けるような)悪しき二元論を教えたことはありません。前者も後者も同様に等しく重んじられるべき意義と価値を持っています。そして、「現実の人間との近さ」という観点をもって見るならば、後者(道徳律法)のほうが前者よりも「人間に近い距離にあること」は明らかです。心や体に傷を負った人の前で「破門は神の摂理である」とか「事故は主の予定である」などと(無遠慮に)語ることと、「主の名をみだりに唱える罪」を犯さないように不断の注意を払うこと。そのどちらが「人に優しいか」という問いを真剣に考えてみるべきではないのかと、「実践的教義学」は、私に強く問いかけてくるのです。