2007年11月4日日曜日

「苦しみの意味と力」

使徒言行録14・21~28





「二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリア州に下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そしてしばらくの間、弟子たちと共に過ごした。」



パウロとバルナバの第一次海外派遣は、ここで終了いたします。彼らは海外に出かけて、いったい何をしたのでしょうか。そのことが今日の個所に明らかにされています。



21節の「この町で」は、直前の20節に出てくる「デルベ」のことです。デルベの町で、パウロとバルナバは「多くの人を弟子にした」と書かれています。気になるのはこの場合の「弟子」とは誰の弟子なのかということです。



この問いの答えは明快なものでなければなりません。「キリストの弟子」です!「パウロの弟子」でも「バルナバの弟子」でもありません。この点を読み間違えてはなりません。



「弟子にする」という表現が用いられているのは、使徒言行録にはこの個所だけですし、また、使徒言行録と同じ著者であるルカによる福音書には出てきません。しかし、マタイによる福音書には出てきます。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)。



これはイエス・キリストの宣教命令です。すべての民を「わたしの弟子」、つまりイエス・キリストの弟子にすることが教会の伝道の目的なのです。



パウロとバルナバの働きも、彼ら自身の弟子を増やすことではありませんでした。このわたしの言うことを聞く人間が何人増えたというようなことに、おそらく彼らは何の関心もありませんでした。彼らはそのようなことを嫌がっていたと思います。キリスト教信仰にとってそのような感覚は、最も遠いものであり、うんざりすることだからです。



しかしまた、そのことは、ある面から言えば、人間の社会においては避けがたい運命、抵抗しがたい誘惑であると言わねばならないことかもしれません。政治家が自分の支持者を集めるように、宗教家が自分の弟子を増やそうとする。それは、事の成り行きとしては避けがたいことかもしれないのです。



パウロたちもその事情をよく分かっていました。だからこそ彼らは意識的ないし意図的に、伝道とは自分の弟子を増やすことではないということを具体的な行動と実践において明らかにしました。



この点で注目していただきたいのは22節の「信仰に踏みとどまるように励ました」という言葉と、23節の「彼らをその信ずる主に任せた」という言葉です。



今日の個所でパウロたちがしていることは、それまで歩んできた道を引き返すことです。ピシディア州のアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベと歩いてきた。その同じ道を今度はデルベ、リストラ、イコニオン、アンティオキアと引き返す。その目的は彼ら自身が伝道した町のなかで、イエス・キリストへの信仰を受け入れ、洗礼を受け、教会のメンバーになった人々に再び出会い、信仰に踏みとどまるように励ますことでした。



ご理解いただきたいのは、パウロたちが勧めたのは「信仰に踏みとどまること」、つまり、彼らが宣べ伝えたイエス・キリストへの「信仰」に踏みとどまることであって、われわれから受けた恩義に踏みとどまりなさい、感謝しなさいというようなことではなかったことです。恩義に踏みとどまれというような話は、仁侠道の一種であり、キリスト教信仰から最も遠いものなのです。



そしてパウロたちは、そのことを明らかにするためにこそ、23節に書かれているとおり、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命したのです。そして、「彼ら」つまり「長老たち」を「その信ずる主に任せた」のです。



どういうことか。要するに、パウロたちは、ひとつの町、ひとつの教会に長くとどまり続けることを意識的に避けた、ということです。彼ら自身の弟子をつくらないためです。キリスト者が文字どおり「キリスト者」であり続けること。パウロ主義者やバルナバ主義者をつくらないこと。そのために、彼ら自身は潔く身を引くのです。



しかしまた、彼らの伝道によって、町ごとに信仰者の群れが生み出され、そこに教会が形成されていった。その教会を大切にする責任が、パウロたちにもあった。そのために、教会を守る責任者として長老たちを任命し、その長老たちを「その信ずる主」、すなわち、救い主イエス・キリスト御自身「に」任せたのです。



ですから、別の言い方をすれば、パウロたち自身の仕事の目標は、たしかに旅先の地に信者の群れを生み出すことではありましたけれども、より具体的に言えば、その地に複数の長老を任命することであり、われわれの言葉で言えば「小会を組織すること」であって、それ以上のことは彼らの仕事ではなかったということです。あとのことはすべて長老たちが行うのです。
 
26節にも、23節にあったのと同じような表現が出てきます。「そこ〔アンティオキア〕は、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である」。



「二人」、すなわちパウロとバルナバの二人は、アンティオキアにおいて、神の恵み「に」ゆだねられました。神の恵み「が」彼らにゆだねられたわけではありません。それは、23節において長老たちがその信ずる主なるイエス・キリスト「に」任せられたのであって、パウロたちが長老たちにイエス・キリスト「を」任せたのではないのと同様です。



ここで考えなければならないことは、神の御子なる救い主イエス・キリストは、生きておられる方であるということです。また、恵み深い父なる神は、生きておられる方であるということです。「イエス・キリスト」も「神の恵み」も、パウロたち伝道者たちがだれか他の人々に「はい、どうぞ」と手渡して預けることができるような、物のような存在ではないということです。



むしろ事情は正反対です。御言葉の教師たちが、長老たちが、そしてすべてのキリスト者たちが、父なる神と御子イエス・キリスト「に」任せられ、ゆだねられるのです。このことも間違えてはなりません。



さて、ここで話をもう一度前のほうに戻します。パウロたちが旅先の町々で福音を宣べ伝えた結果ないし成果としてうみだされたキリスト者たちとその教会に対してパウロたちが語った言葉は「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」というものでした。この意味は何なのだろうか、ということを考えてみたいと思います。



私にとって気になることは、ひとつです。この点は皆さんにぜひお尋ねしたいことでもあります。「多くの苦しみを経なくてはならない」という言葉は、22節によりますと、弟子たちを「力づける」言葉であったと言われています。



問題は、皆さんならば、このような言葉で「力づけ」られるでしょうかということです。「苦しみがあります」とか「苦しまなければなりません」という言葉を聞くと、たちまち元気がなくなるとか逃げ出したくなるという方はおられませんか。この点がちょっと気になる、いや、かなり気になる点です。



しかも、明らかなことは、パウロたちが語っている、わたしたちが経なくてはならない「苦しみ」の内容は、どう考えてもやはり、教会をたてあげ、守り抜くことに伴う苦しみであるということです。はっきり言えば、パウロたちが語っていることの趣旨は、教会は楽しいばかりのところではなく、苦しいところでもある、ということです。



しかし、教会の何がそんなに苦しいのでしょうか。それは、わたしたち自身が、すでに十分に味わってきたことです。



毎週の礼拝に通うこと。このこと自体が楽しいばかりのことではなかったし、今もそうであるし、これからもそうであろうということを、わたしたちはよく知っています。



教会生活は、それを始めるときには喜びと感謝と興味がいっぱいあるものです。しかし問題は、それを続けることができるかどうかです。喜びも感謝も興味もそのうち失われていくのです。長く続けることができそうもないという理由で最初から入ることを躊躇している人々も大勢いることを、私は知っています。



また、とくに小さな子供たちにとっては、日曜日の朝に早起きをするということだけでも一苦労です。教会には近くに住んでいる人々だけではなく、遠くに住んでいる人々もいます。一人で通っている人々だけではなく家族揃って通っている人々もいます。「揃って」というところに、これまた大きな苦労が生じます。



ともかく、わたしたちひとりひとりがこの礼拝のために毎週払っている苦労は、決して過小評価されるべきではないのです。



また、教会を維持することのために、わたしたちは、多くのささげものをささげてきたし、ささげているし、ささげ続けるであろうということも、決して楽なことではないし、涙が出てくるような苦労があります。



そしてまた、教会は人間が集まるところであり、そこには人間の問題が必ずあるのです。いろいろなトラブルもある。嫌になって逃げ出したくなるような場面は、教会生活のなかには、何度でも訪れるのです。



加えて外からの妨害や迫害もあります。わたしたち教会の者たちにとっては命に代えても惜しくないほど大切なことが、教会の外側にいる人々にとっては、どうでもよいことであり、無意味なことに見える。そのように面と向かって言われる。そのような人々の声に、わたしたち自身が負けてしまうことがあるのです。



わたしたち自身に原因や責任がある場合もあります。毎週日曜日、教会から帰ってくるたびに愚痴を言う。疲れ果て、くたびれ果てて、蒼い顔して、寝込んでしまう。「そんなにつらいんだったら、教会なんかやめたらいい」と家族の人々が本気で心配してくれる場合があります。人が苦しんでいる姿は、つまずきにもなるのです。



しかし、勇気を持とうではありませんか。教会には何の苦しみもありませんと語ることはうそになりますし、聖書の証言に反していますので、そのように語ることは私にはできません。



それでもなお申し上げたいことは、教会の存在は決して無意味ではないし、無駄でもないということです。たとえ苦しみがあっても、教会には命をかけて守り抜く価値があり、意味があるということです。この町に教会があることは、わたしたち教会の者たちにとってだけではなく、町の人々にとっても意味があり、価値があるのです。



みんなで一緒に苦しみましょう!私も苦しみます。教会は「地上における神のみわざ」なのです。教会はイエス・キリストの体なのです。天地創造のみわざは、教会なしに行われました。しかし、救いに関して言えば、神さまは教会なしには何もなさらないのです。



わたしたちが苦しんで、涙も流して、一生懸命に支えて、つくりあげていく地上の教会をとおして、神御自身が救いのみわざを行われるのです。



その意味で、わたしたちの苦しみが、神の力なのです。



(2007年11月4日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年11月3日土曜日

「小金原憲法九条の会」結成三周年への祝辞

「キリスト教の立場から」―「小金原憲法九条の会」第二回例会での発言(2005年5月19日)



本日は小金原憲法九条の会が三周年をお迎えになりましたことをお慶び申し上げます。また、そのお祝いの会の会場として松戸小金原教会をお選びいただき、感謝いたします。またゲストとして松戸小金原教会の教会役員(長老と称します)でありハープ奏者である佐々木冬彦さんをお選びいただきましたことも、本当にうれしく思います。



佐々木さんの紹介をするようにと命ぜられました。しかし、佐々木さんはとても照れ屋の方なので、ここで私がいろいろ言うと、きっと困ってしまわれると思います。とにかく素晴らしい方です。佐々木さんのハープの音色をとにかく聴いてください、と申し上げておきます。私と佐々木さんは1965年(昭和40年)生まれの同い年です。この教会の牧師と長老という関係であると共に親しい友人でもあります。心から推薦させていただきます。



また講師である映画監督、池谷薫さんには、本日初めてお目にかかります。素晴らしい講演をしていただけることと期待しております。よろしくお願いいたします。



松戸小金原教会のこの建物は、ちょうど2000年に新しく建て直しました。そのとき以来、この建物を地域の方々、とくに小金原地区の方々のためにお役に立つように用いることができないかと祈り願ってきました。今日のような会、とりわけ平和のために開かれる会に用いていただけるなら、それこそわたしたちが願ってきたことです。本当にありがたいと思っています。



平和というテーマはキリスト教においても重要なテーマです。わたしは今、「キリスト教においても」と、少し遠慮がちに申しました。本当は「キリスト教においてこそ」と語りたいのです。宗教が平和を祈り求めないはずがないではありませんか!平和のために祈らないような宗教とは、いったい何なのだろうかと思います。



わたし自身は、小金原憲法九条の会のメンバーに加えていただいている者です。しかし、今日の会は教会が主催ではありません。今日、わたしたちは、宗教・思想・信条をこえて集まっています。佐々木さんが奏でる美しいハープの音色を聴きながら平和とはどのような音色であるかを想像してみていただきたいと思います。また、池谷さんの力強い御講演を伺いながら、わたしたちが求める平和とは何であるのかを改めて学び、考える会であると思います。そのような会が行われることを、教会の者たちは心から感謝しているのです。



教会の者たちが信じているイエス・キリストは、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(新約聖書・マタイによる福音書5・9)とお語りになりました。これは、平和を実現するために武器をとって戦え、という意味ではありません。イエス・キリストは一度も武器をおとりになりませんでした。それどころか、どのような迫害の中にあっても、非暴力・無抵抗を貫かれました。そのことは多くの人々に知られています。教会もまた、イエス・キリストがこのような方であるからこそ、尊敬し、信仰の対象とし、この方の教えを学び、この方に従って生きていきたいと願うのです。



今日は宗教・思想・信条をこえて集まっている会です。しかし、わたしは、教会だからこそできることもある、と思っています。



それは、まさに今日、戦争に反対しない教会があり、そのようなキリスト教があるではないか、と多くの人々から思われているということを、わたしたちは知っているからです。「ヨーロッパを見てごらんなさい、アメリカを見てごらんなさい、みんな戦争しているではないですか。あの人々の背後にキリスト教があるではないですか!キリスト教こそ戦争の宗教ではないのですか」と。



教会にもできること、いや教会だからこそできることがある。それは、日本国憲法九条の改憲に反対している教会もあるのだということ、そして世界の平和を実現していくために祈りかつ働くキリスト教もあるのだということをわれわれの存在をもって証明することです!



そのような機会をわたしたち教会に与えてくださったそのことを、小金原憲法九条の会の方々に、感謝しております。



お集まりの皆様には、どうか、ごゆっくりお過ごしくださいますようお願いいたします。



(2007年11月3日、小金原憲法九条の会結成三周年記念会、於松戸小金原教会)



2007年10月28日日曜日

「人間崇拝との対決」

使徒言行録14・1~20



今日の個所にもパウロとバルナバの海外宣教の様子が記されています。先週わたしたちは石丸新先生をお迎えして特別伝道集会を行いました。伝道とは何でしょうか。この問いを考えながら、今日の個所をご一緒に読んでいきたいと思います。



「イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。」



「イコニオンでも同じように」の「同じように」の意味は、ほかの町で行ったのと同じように、ということではありません。ほかのユダヤ人たちと同じように、という意味です。ユダヤ人たちは安息日ごとに会堂に集まっていたのです。パウロたちは、「ユダヤ人たちと同じように」、安息日ごとに会堂に足を運んだのです。



そして、パウロたちは、ユダヤ人の会堂に入って「話をした」とあります。これは文字どおりの意味で理解すべきです。申し上げたいことは、ここで「話をした」には「御言葉を宣べ伝えた」というほどの強い意味はない、ということです。



彼らは、まさに文字どおり「話をした」だけかもしれないと考えてみる必要があります。「おしゃべりをした」というほどの意味かもしれません。とにかく強い意味はありません。おそらく本当に、ただ「話をした」だけなのです。



わたしが今ここで何を言おうとしているのかは、おそらくすぐにお気づきいただけることです。二千年前のパウロたちが、イコニオンという町で伝道をしました。その方法は、毎週の安息日に、ユダヤ人たちの集まる会堂にとにかく足を運び、もちろんそこでユダヤ人たちと顔を合わせ、そこでとにかく「話をする」ということであった、ということです。



伝道においてはこういうことが大切なのです。営業の訓練のようなものです。地道に足を運ぶ。顔をつなぐ。話をする。これが信頼を獲得するための方法です。すなわち、相手がこのわたしの言葉に耳を傾けてくれるようになるための信頼関係を構築していくための、おそらく唯一の方法なのです。



この点では伝道も同じです。伝道とは神の御言葉をこのわたしの言葉で伝えることです。もしこのわたしの言葉に耳を傾けてくれる人がいないとしたら、伝道は絶対に成り立ちません。そして、このわたしの言葉に耳を傾けてくれる人が起こされることと、このわたしが周りの人々から信頼されるようになることとは無関係ではありません。信頼できない人の言葉を誰が聞くでしょうか。「わたしのことは信頼してくださらなくても結構ですから、わたしの語る言葉を信じてください」という言い方が通用するでしょうか。信頼できる人が語る言葉だから聞くのです。伝道の前提には人間同士の信頼関係がある、ということを考える必要があるのです。



ただし、そこで大事なことは、そのようにする目的は何なのかを、はっきりと認識し、把握しておくことだと思います。教会の目的は伝道です。ただ仲良くなればよいということではありません。



また、伝道に関してわたしたちが知っておくべき、もう一つの点があります。それは、伝道においては、どれだけ時間をかけても、地道に足を運んで話をすることによって信頼関係を築き、神の御言葉の真実を語り、救いの喜びを伝えたいと願っても、全く逆の方向に事柄が展開していくことがありうるということです。



「ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた。」



パウロたちの前で起こったことは、御言葉を受け入れて信仰に入った人々と、そうではない人々とに分けられた、ということです。しかも、そのことがただ個人的な問題であるとか、心の中の問題であるというような次元に収まるものではなかったことが分かります。



町が分裂しました。そして文字どおりの「暴動」が起こりました。物理的な暴力をもって、パウロたちを町から排除しようとする、あるいは殺そうとする人々が現れたのです。社会問題、政治問題へと発展したのです。



伝道がただ単に「友達を増やすこと」にとどまるものではないし、それだけであってはならないと言われる点の理由が、ここにもあるように思います。もし伝道が「友達づくり」にとどまるものであるならば、迫害など起こりようがないのです。



なぜ迫害が起こるのでしょうか。神の御言葉は、真理そのものだからです。真理というものは、それを愛する人々にとっては救いとなります。しかし、この世の中には、真理を憎む人々もいるのです。真理を突きつけられると、偽りに満ちた自分自身のあからさまな姿が、暴露されるからです。そこで素直に悔い改めることができればよいのですが、悔い改めるどころか、逆恨みする。真理を嘲笑し、攻撃し、排除しようとするのです。



パウロたちは、石を投げつけようとする人々に気づいたときには、「難を逃れた」とありますとおり、要するに逃げました。それでよいのです。野蛮な人々の暴力によって怪我をさせられる必要はありません。暴力に対して暴力によって立ち向かうことが勇敢さを示す道ではありません。御言葉の宣教において、福音の伝道において、その言論活動において、真理を真理として語ることができる。反対者に屈しない。それが真の勇敢の道なのです。



さて、次の段落には、イコニオンで起こった暴動から逃れて辿り着いたリストラという町での出来事が記されています。このリストラの町で起こったことは、イコニオンで体験したこととは、かなり違うものでした。



「リストラに足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は踊り上がって歩きだした。群集はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、『神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった』と言った。そして、バルナバを『ゼウス』と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを『ヘルメス』と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群集と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。」



パウロたちは、何をされたのでしょうか。最も短く言えば、神さま扱いされたのです。言うならば、祀り上げられたのであり、神棚の上にあげられそうになったのであり、神社が建てられそうになったのです。



パウロたちがしたことは、生まれたときから一度も歩いたことがなかった、足が不自由な人を立たせたことでした。絶対にありえないと思われてきたことが、ありえた。不可能を可能にする人が現われた。それが、パウロたちが神扱いされた理由であると思われます。こういう話は、わたしたち日本人にとっては少しも珍しいことではありません。日本には、そこいらじゅうに「カミサマ」がたくさんいるではありませんか。



そして、日本の中では、周りの人々に神扱いされている人は、私の知る限り、そのことを喜んでいるし、満足しているように見えます。謙遜のために笑いながら否定することはあっても、むきになって否定するようなことはないのではないかと思います。「あなたは神である」と言われて、悪い気はしないのではないでしょうか。



これが、先ほど私が申し上げた、イコニオンでの出来事とリストラでの出来事との違いであると感じられる点です。彼らがイコニオンで味わったのは、信仰に入る人々を得ることができたという喜びと同時に、厳しい迫害でした。しかし、リストラで味わったのは、神扱いです。ある意味で迫害の正反対です。うやうやしく扱われること、最大限の尊敬を受けることです。ほめたたえられること、絶賛されることです。尊敬され、ほめられて、腹を立てる人がいるでしょうか。通常はニッコリ笑う場面ではないでしょうか。



ところが、です。パウロたちはこの点では、わたしたち日本人の多くがとる態度とは、おそらく全く違います。彼らは本当に腹を立て、むきになり、必死になって、「わたしたちは神ではない。わたしは神ではない」ということを、声を大にして主張したのです。



「使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群集の中に飛び込んで行き、叫んで言った。『皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。』こう言って、二人は、群集が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。」



パウロたちは、なぜ、神さま扱いされることを嫌がったのでしょうか。理由は明白です。わたしたちの信仰、キリスト教信仰がそれを許さないのです。



人間は神ではない。人間は神によって造られた被造物である。創造者と被造物の間には、永遠の隔たりがある。被造物はいかなる意味でも神ではない。もしこの点がゆるがせにされるならば、キリスト教信仰の終わりを意味する。教会のいのちの終わりを意味するのです。



教会は、神は神であること、そして人間は人間であることを重んじます。人間が神になること、人間を神にすることは許されていないのです。人間が人間として生きること、「人間らしく生きること」のうちに真実があり、誠実さがあります。神を名乗る人間はすべてでたらめな存在なのです。



今日は宗教改革記念礼拝として行っています。敬意をこめて、宗教改革者カルヴァンの言葉を引用しておきたいと思います。



カルヴァンは今日の個所の注解のなかで興味深いことを書いています。それは、説教には二つの段階がある、ということです。



第一の段階は「無根のでっち上げられた無数の神々を取り除くこと」であり、第二の段階は「天と地の創造主であるこの神はどんなかたであるかを教えること」です(カルヴァン『新約聖書註解 使徒行伝下』、益田健次訳、432ページ参照)。



わたしは、これを「説教の二つの課題」と呼んでおきます。二つともどうしても避けて通れないことです。神ではないものを「神ではない」と語ること。すなわち、人間は人間であり、物は物であると語ること。正直に語り、あるがままの存在を指し示すこと。うそを言わないこと、言わせないこと。これが説教の第一の課題なのです。



そして、まことの神とはどんな方であるかを教えることが説教の第二の課題なのです。



(2007年10月28日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年10月20日土曜日

公会主義を説く改革派宣教師S. R. ブラウン

2002年2月20日(2007年10月20日加筆修正)


昨日〔2002年2月19日〕、私は、ほぼ丸一日かけて、日本史上最初にプロテスタント・キリスト教を宣べ伝えたことで知られる米国オランダ改革派教会宣教師、S. R. ブラウン[1810~1880年]の書簡集を読んでいました。全378ページもある、第一級の歴史資料です。


日本におけるブラウンの働きについては、短い文章で書くことは不可能なほど大きなものがありました。とくに彼が力を注いだのは、聖書を日本語に翻訳すること、日本のプロテスタント神学校の先駆けとなったブラウン塾の創立、そして日本史上最初のプロテスタント教団となった「日本基督公会」の創立などに集約されます。


書簡の内容の多くは献金依頼のために割かれています。あるときは「母教会〔米国オランダ改革派教会〕が『ケチ』だと非難されたり、母教会の名が『なまけもの』だとか『利己心』と同義語に使われるのは堪えられません」(同上書、187ページ) という殺し文句まで用いながら。現実世界に生きている者として当然の要求であり、宣教師の責任に属する事柄です。


このブラウンは日本伝道に大きな夢を持っていました。1862年11月8日の書簡には、次のように記されています。


「わたしは、しばしば、独りごとに、いや仲間にも言っているのですが、この日本国がキリスト教国となったら、どんなにすばらしいだろう、と。この国民に福音の喜ばしい感化を与えることができるよう、神は力をあらわしてくださるでしょう。もしそうなれば、日本を地上の楽園とすることも不可能ではありません。この美しい谷や野原、山腹、農家、村落、町村、都市、全国どこにでもきかれる『南無阿弥陀仏』という祈祷が『なんじ、高きにいます神よ』または『天にましますわれらの父よ、み名をあがめさせたまえ』という祈りに変わる時代は現に来つつあるのです。」 (同上書、115~116ページ)


ブラウン宣教師がこの夢を見たときから、はや140年。はたして、日本は「地上の楽園」になったでしょうか。彼はナイーブな楽天家でありすぎたのでしょうか。


また、1872年9月28日の書簡には、「日本基督公会」という教団名称の意味に関して次のように記されています。


「神よ願わくは、日本におけるキリスト教の発達に関心を持つ者として、同一なる公会の精神と統一した目的とに結合されて、キリスト教国における教会の美をはばむ分派をば、できるかぎり、この国から排除せられんことを。そして、もし、ただ組合教会とか、長老教会とか、リフォームド教会とかの相違が、異教徒に見えないよう、かくされてしまって、教会のこれらの分派が、少しもあらわれずに…すべてのものが、ひとりの共通の『主』と『かしら』につらなって、一つの教壇に立ちうるようになったならば、わたしたちの後から日本に来るものは、どんなに幸いでありましょう。」(同上書、286ページ)


「公会主義」と称せられるこのブラウンの夢は、しばしば、現在の日本における最大のプロテスタント合同教団である「日本基督教団」の存在を肯定的に評価する人々によって引用されるものでしょう。


しかし、これについて我々はどのような評価を下すべきでしょうか。たとえば熊野義孝先生の文章に見られるような「反省」、すなわち、「ただ聖書にのみ即する神学であるならば、それは単一全般的な神学であることを観念的に誇りうるかも知れないが、すでに伝統といふ以上、そこには諸教会の伝統が並存しているのであるから、現実的にはもはや教派的ならざる神学は存在しがたいではないか、といふ反省が促される」(熊野義孝著『教義学』、第一巻、新教出版社、1954年、45~46ページ)という物言いは、ブラウンが警戒する「キリスト教国における教会の美をはばむ分派」を促進するものとみなされるべきなのでしょうか。


はたして、すべての教派の存在は、すなわち「分派」なのでしょうか。このようなことを言いながら、ブラウン自身は紛れもなく「米国オランダ“改革派”教会」の宣教師以外の何ものでもなかったのではないでしょうか。彼はやはり、あまりにもナイーブすぎたのでしょうか。やや手厳しく言えば、「公会主義を説く改革派宣教師」ブラウンは自分自身の中で存在と思想が内部分裂を起こしていた、と言えないでしょうか。


しかし、私はこのようなことを考えながら、ブラウンの次の文章を読んでいたとき、思わずハッとさせられるものを感ぜざるをえませんでした。


「今、この国土〔日本〕から、改宗者が集められている、宣教の初期において、イエス・キリストを愛するものは、すべて、この地の教会が一つで、分かれることなく、わたしたちの本国の教会とか、他の国の教会のように、分派によって、異教徒を迷わし、教会の力を弱めることなく、むしろ「日本基督公会」(the Church of Christ in Japan)という、そうした土台をおくことを要望するに相違ないと思います。」(同上書、282ページ)


この文章が書かれたのは「1872年9月4日」です。この時期、アメリカの教会や「他の国の教会」が分裂し、その結果として教会の力が弱まっていたことはなるほど確かです。


ブラウンの時代、アメリカ全土は南北戦争で悩まされ、その影響で教会もまた南・北に分裂していき、互いに争い合うなどの悲劇を味わっていました。彼の書簡集にも繰り返し、わたしの悲しみは南北戦争だと書いています。


また、オランダ系アメリカ人たちの精神的故郷であるオランダ本国の改革派教会(国教会系と称されるNHK教会が米国RCAの出自)も1834年に起こった「第一次大分裂」(アフスヘイディングと呼ばれる)の傷がいえぬまま、1886年にはアブラハム・カイパーをリーダーとするグループのNHKからの離脱が起こります(「第二次大分裂」「ドレアンシー」などと呼ばれる)。つまり、ブラウンが生まれた1810年のオランダ王国に存在した唯一の「改革派教会」は、ブラウンの死(1880年)の後まもなく、三つの「改革派教会」へと分裂してしまうのです。


ブラウンの思いの中にこれがあったのではないか。オランダの国土は日本の九州地方と同じくらいの面積しかないと言われます。その狭い国の中でなぜ「オランダ改革派教会」が分裂しなければならないのか。なぜ「改革派教会」は一つではありえないのか。書簡集によるとブラウンは、米国オランダ改革派教会の機関紙“Sower”(種まく者)などを日本ミッション宛に定期的に送ってもらっていました。そこから当然、オランダ改革派教会の分裂情報の詳細も逐一伝えられていたはずです。


今日の評者がブラウンたちの「公会主義」をいろいろと批判することについては、その自由が確保されて然るべき面があるでしょう。しかし、その際に我々が考慮すべきであろうことは、まさに当時、彼自身が「母教会」と呼んで愛していたアメリカやオランダの「改革派教会」が分裂の真っ最中であった、このことを彼は深く憂慮し、何とかしなければならないと心に誓い、神に祈っていたのではないかという点です。


オランダ改革派教会の牧師であり神学者であったアーノルト・A. ファン・ルーラー(1908年~1970年)は、1969年に「家庭内争議の終焉」  と題する講演を行い、その中でオランダ国内における「改革派ファミリー」が再一致すべきこと、そして、「西暦2000年までに」再合同すべきことを呼びかけました。具体的には彼の属する国教会系NHKと上記カイパーが創立したGKNとの再合同です。


ファン・ルーラーの夢の実現は残念ながら西暦2000年には間に合いませんでした。[しかし、まもなくゴールに到達しようとしています。もちろん、まだまだ多くの問題が山積されたままのようですが。](2004年にオランダプロテスタント教会が誕生しました)。


私の夢もまた、日本においても、せめて「改革派・長老派の伝統を継承する諸教会」は再一致すべきであり、可能ならば再合同すべきではないだろうかということにあります。


外資系の教派はともかく、国内で自立して行かなければならない国内の改革派・長老派諸教派は、このままだと共倒れの危険がありはしませんか。


一般企業ならば、とっくの昔に合併整理されているような危ない橋を我々は「信仰で乗り越えていく」という。もちろんそうに違いないのですけれども。


しかし、しかし、です。今や、我々教会人たちが信仰をもって生きていくための基盤としてのこの世の生活そのものが脅かされつつあるという紛れも無い事実を、我々はどのように考えるべきでしょうか。


この場合の「我々教会人たち」とは、牧師ひとりだけではなく、教会役員たち、信徒のみなさんも含みます。会堂建築ブームで教会が抱える借金は膨れ上がり、「自由献金」として始められたものは、やがて各個教会の負担金と化して行く。“増税感”は否めません。我々は観念の中だけで生きているのではないのです。


構造改革・意識改革の必要は、現在の教会の中にこそあるのです。それは教団・教派を越えた課題であると私は考えております。


2007年10月14日日曜日

「異邦人の光」

使徒言行録13・44~52



今日の個所において明らかにされているのは、パウロとバルナバの伝道には“光の面”と“陰の面”があった、または“喜びの側面”と“悲しみの側面”があったということである、と表現できるかもしれません。
どういうことでしょうか。御言葉を読みながらご説明したいと思います。



「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群集を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。」



伝道における“光の面”と“陰の面”、あるいは“喜びの側面”と“悲しみの側面”とは何なのか。それは、わたしたちがすでに、十分に味わい尽くしていることです。



それは何なのか。神の御言葉を宣べ伝えるわざは、たとえそれを教会と説教者とがどれほど力強く熱心に、あるいは念入りかつ用意周到に行ったとしても、そこで必ず、信じて受け入れる人々と同時に、信じることも受け入れることもしない人々が現われる、ということと関係があります。



それどころか、教会と説教者が神の御言葉を宣べ伝えるわざを行うことに力強く熱心であればあるほど、かえってますます力強く熱心に反対してくる人々が現われると言うべきかもしれません。



先週と先々週、ピシディア州のアンティオキアの会堂(シナゴーグ)で行われたパウロの説教を学びました。その説教を聴いた人々が「次の安息日にも同じことを話してくれるように」(42節)パウロに頼みに来ました。そして次の安息日は、「ほとんど町中の人々」がパウロの説教を聴くために集まってきたというのです。



これはすごいことだ、と思わされます。16世紀の宗教改革者カルヴァンは、使徒言行録13・44の解説として、面白いことではありますが、わたしたちにとっては身につまされる(他人事でない)ことを書いています。



「人々が大勢集まったということによって、次のことが立証される。すなわち、パウロとバルナバとは安息日から安息日までの間を、遊んで暮らしていたのではなく、ふたりが異邦人のために尽した労苦は決して無用ではなかったということだ。というのは、人々の心が非常に立派に導かれたために、皆がもっと十分にその全部を知りたいと願ったからだ」(『新約聖書註解 使徒言行録 上』、益田健次訳、新教出版社、1968年、409頁)。



カルヴァンが書いていることを別の言葉で言い換えると、どうなるか。要するに、主の日ごとに行われる教会の礼拝に集まる人々の人数によって、教会と説教者が(とくに説教者が!)、主の日から主の日までの間を「遊んで暮らしていたかどうか」が分かる、ということです!



これは恐るべき言葉であり、聞くのもつらい言葉ですが、無視することはできません。説教の出来栄えとそれを聴きたいと願い、実際に足を運ぶ人々の人数は、決して無関係ではない、ということです。



しかし、です。これから申し上げることは、ぜひご理解いただきたいところです。それは教会の教師、説教者たちにとっては、説教の準備のための苦労ならば、いくらでもする覚悟があるということです。



少なくともわたしたち改革派教会の教師たちは、礼拝の説教にこの命をかけてきました。他の仕事や働きの面で「がんばれ」と言われても、たいていの教師が不器用で、情けないほど何にもできません。しかし、その分、礼拝の説教に全力を注いで来たのです。



カルヴァンが書いていることも、ぜひそのような意味でご理解いただきたいと願っています。説教の準備のために力を注がないこと。いいかげんで済ましてしまうこと。説教の準備以外の事柄に時間と力を奪われてしまうこと。このことを指して、カルヴァンは、「〔一週間を〕遊んで暮らしていた」と言っているのです。



そして、もう一つ申し上げておきたいことは、説教者たちにとって、説教の準備のための苦労と苦闘、また御言葉に反対する人々が現われること自体は、伝道における“悲しみの側面”ではなく、“喜びの側面”に属することなのだ、ということです。



“悲しみの側面”とは、何のことでしょうか。今申し上げていることは、それは、教会が宣べ伝える神の御言葉を信じないで、反対し、立ち向かってくる人々がいる、ということ自体ではない、ということです。



説教を聴いて反発を感じるとか、意見を述べることは、何の問題もないどころか、当然のことであり、歓迎すべきことです。説教は一方通行であってはなりません。説教も十分な意味で「対話」であり、「コミュニケーション」なのです。



それでは“悲しみの側面”とは何でしょうか。答えを言います。それは、伝道の現場には、必ずと言ってよいほど、パウロたちの前に集まって御言葉を熱心に学ぼうとしている大勢の人々の姿を見て、ひどくねたみ、口汚くののしる、まさしく今日の個所に出てくるユダヤ人たちのような人々が現われることです。



わたしたちの場合でいえば、わたしたちが日曜日ごとに教会に通うことを快く思わず、何とかして邪魔をし、妨害しようとする力の問題です。そのような力が強く働きはじめるとき、わたしたちが痛感することは、伝道における“悲しみの側面”なのです。



神の御言葉の真理を学び尽くすためには非常に長い時間がかかると思います。一回聴くだけで分かるという人はいません。われわれの持っている聖書は、外国語の辞書、あるいは日本の六法全書(市販のもの)は、同じくらいの重さ(重量)です。これをわたしたちは文字どおり一生かけて学んでいくのです。必要なことは“学ぶ”ことです。“知る”とか“感じる”ということ以上です。



聖書を“学ぶ”ためには、間違いなく、多くの時間がかかります。とにかく長く続けること、地上の人生が終わるまで続けること、それが教会生活にとって重要なことなのです。



そのことをぜひ自覚していただきたいのです。反発を感じることは、何の問題もありませんし、むしろ当然のことであり、歓迎されるべきことでさえあります。反発を感じるということは、その人が御言葉を聴いている証拠だからです。聴いていない言葉には、反発を感じることもありません。



教会生活をやめ、御言葉を聴くことをやめてしまうこと、あるいは、何らかの外的な力が働いて“やめさせられること”。



そのような人々の姿を見ることが、教会と説教者にとっていちばんつらいこと、悲しいことなのです。伝道の現場において、それを見なければならない場面がある。それこそが“悲しみの側面”なのです。



「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。』」



パウロは、ここでもやはり、少し腹を立てているように読めなくもありません。しかし、パウロたちが語っていることは、ユダヤ人たちに対する“厳粛かつ冷静な抗議”です。



ユダヤ人たちのどの部分に対する抗議なのでしょうか。それはもちろん、その場にいた異邦人たちが神の御言葉を熱心に学ぼうとしているのを妨害してきたことに対して、です。



彼らはなぜ邪魔するのでしょうか。なぜ「口汚くののしる」のでしょうか。異邦人たちの自由に任せたらよいではありませんか。



彼らは、なぜ干渉するのでしょうか。他人のしていることに、やかましく口を出すのでしょうか。「キリスト教だけは絶対にやめなさい」と言いはじめるのでしょうか。全く余計なお世話です。わたしたちの理解の範囲を超えるものがあります。



「『見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。」』異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。」



ここでパウロたちは、一つの重大な決心を口にしています。「わたしたちは異邦人の方に行く」。これは、神の御言葉を信じることも受け入れることもしない、あなたがたユダヤ人たちの方ではなく、という意味です。彼らは、実際にそうしました。



そして、御言葉を信じることも受け入れることもしない人々に対し、「足の塵を払い落として」出て行きました。腹いせで行っていることではありません。神の言葉の尊厳を守るために行っていることであると、理解すべきです。



ユダヤ人たちは、ある意味で喜んだと思います。目の上のたんこぶが自分たちの側から「別のところに行く」と言いはじめ、実際にそうしてくれたのですから。



しかし、です。重要なことは、このときパウロたちは、ユダヤ人たちの前から、尻尾を巻いて逃げたわけではないということです。伝道が思うように進まないから、ここで伝道するのはもうやめた、という話ではない、ということです。



この点でパウロは、きわめて戦術家であり、戦略家であったと言うべきです。ローマの信徒への手紙に、次のように書いてあるとおりです。



「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。・・・わたしは異邦人の使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(ローマ11・11~14)。



短くいえば、パウロが異邦人伝道を志した真の理由はユダヤ人の救いのためであった、ということです。パウロの願いは、異邦人が先に救われ、喜びの人生を送りはじめることによって、その姿を見るユダヤ人の心の中に「ねたみ」が起こることでした。「あの人々があんなに喜んで生きているには何らかの理由があるに違いない」。キリスト者の姿を見て、そのように思い、キリスト教会に通いはじめる人々が多く起こされることを願いました。それこそが、パウロの異邦人伝道の真の目的であり、動機だったのです。



なんと“壮大な”話でしょうか。これは、間違いなく“途方もない回り道”の話です。自分の家族のだれかが、信仰を受け入れてくれない。その人を何とかして信仰に導くために、隣近所の人々をまず先に導き、その人々自身が心から喜んで信仰生活を送っている姿を(信仰を受け入れない)自分の家族に見てもらい、信仰生活を始めるかどうかを考えてもらうのだ、と言っているようなものです。



伝道とはまさにそのようなものであると申し上げておきます。わたしたちが聖書を学ぶために一生の時間が必要であるように、教会の伝道にもとてつもない時間がかかるのです。



しかしそれは伝道における“陰の面”ではなく“光の面”です。伝道に時間をかけないこと、地道でないこと、すぐに目に見える成果を求めて挫折してしまうことが“陰の面”なのです。



(2007年10月14日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年10月7日日曜日

「復活の命の力」

使徒言行録13・26~43



今日の個所に記されているのは、パウロの説教です。パウロの説教のうち、聖書の中で読むことができる最古のものです。ただし、今日は途中から読みました。



これは、ピシディア州のアンティオキアという町の会堂(シナゴーグ)での安息日礼拝において行われた説教です。説教の前に「律法と預言者の書」、つまり(旧約)聖書が朗読されました。そして、会堂長の使いがパウロたちのところに来て、「兄弟たち、何か会衆のために、励ましのお言葉があれば、話してください」と彼らに伝え、その願いに応じる形でパウロが立ち上がり、この説教を語り始めたのです(13・14~15)。



ですから、ここで重要と思われるのは、このパウロの説教は「そのとき会堂に集まっていた会衆を励ますために語られた言葉」であるという点です。



そもそもすべての説教はそのようなものである、と言うべきかもしれません。説教は、目の前にいてくださる方々のために語られるものです。そしてまた、すべての説教は目の前にいてくださる人々を「励ます」ためのものです。説教が励ましの言葉になっていないとしたら、どこかに根本的な間違いがあるのだと、説教者たちは強く自戒すべきです。



さて、このパウロの説教は、皆さんにとってどのようなものでしょうか。先ほどすでに一度読みました。第一印象は、実はとても重要です。私自身は、このパウロの説教は必ずしも分かりやすい話ではないと感じました。かなり難しい説教である。一度聴いただけでは、さっぱり分からない。そのように感じました。皆さんは、いかがでしょうか。



42節に、このパウロの説教を実際に聴いた人々が、「次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」とあります。この人々はパウロの説教がとても素晴らしいと思ったので、このようにお願いしているのでしょうか。もちろんその面もあるだろうと思います。しかし、ちょっと引っかかるのは、なぜ「同じ話」なのかという点です。



44節に明らかにされていることは、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」ということです。これで分かることは、今週パウロの説教を聴いた人々が、来週には、たくさんの人を誘って一緒に聴きに来た、ということです。良い説教ができたときには、来週も同じ説教をする、というのは、悪くない方法かもしれません。



しかし、です。この人々が、なぜ次の安息日にも「同じ話」を要求したのかという点で、もう一つ考えられることがあります。それは、やはり、この説教は一度聴いたくらいでは十分に分からなかった、ということではないだろうか、ということです。



ただし、です。もう一つ感じた印象は、いくらかパウロを弁護するものです。この説教を聴いていた人々は、(旧約)聖書についての知識を非常に豊富にもっている人々であったに違いないということです。このあたりはわたしたちとはいくらか違う点かもしれません。



実際、この説教の冒頭(16節)でも、26節でも、パウロはこの説教を聴いている人々を「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」(16節)、「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち」(26節)と呼んでいます。



これで分かることは、外国に住むユダヤ人たちは、安息日ごとに会堂に集まって(旧約)聖書を一生懸命に勉強していたに違いないということです。一を聞けば十を知るほどまでに。だからこそパウロは、(旧約)聖書の出エジプト記のモーセたちの四十年の荒れ野の旅からサムエル記のダビデ王の着任までのほとんど千年分くらいの話を、短い言葉で一気に語りきることができたのです。



そして、「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」(23節)とパウロは語ります。このように語ることによって、パウロは、キリスト教会のかしらなる救い主イエス・キリストと(旧約)聖書との歴史的なつながりを明確にしているのです。モーセも、ダビデも、すべてキリスト教会のかしらなる救い主イエス・キリストと歴史的には明らかにつながっているし、彼らこそがイエス・キリストの道備えをしてきたのである、と語っているのです。



つまり、パウロがこの説教の中で最初に強調しているのは、(旧約)聖書とキリスト教会の連続性の要素です。さらに言えば、(旧約)聖書とエルサレム神殿を中心に据えるユダヤ教団の存在とキリスト教会との連続性の要素も強調されていると考えてよいでしょう。



しかし、です。あるいは、だからこそ、です。歴史的に見れば明らかに連続していると語りうる二つの存在、すなわち、旧約聖書とキリスト教会、ないしエルサレム神殿の宗教とイエス・キリストの宗教、その両者の関係を理解できない、受け入れようとしないその人々は、あのエルサレムに住む人々であり、その指導者たちである、とパウロは明言しています。そして、その人々が、イエス・キリストを罪に定め、死刑にした、ということを明らかにしています。



「『兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。』」



ただし、です。重要と思うことを付け加えておきます。それは、これはパウロの説教である、ということです。どういうことか。パウロという人は、イエス・キリストが十字架にかけられたときにはまだ、(パウロ自身の言葉を借りて言えば)「エルサレムに住む人々やその指導者たち」の側に立っていた人である、ということです。この点が忘れられてはならないのです!



パウロは、そのような自分の過去などは全く忘れ去ってしまって、今ではもうすっかりイエス・キリストとキリスト教会の側に立ってしまった上で、エルサレムに住むあの連中が悪い、全くひどい連中だと、まるで他人事のように、知らん顔して、相手方を一方的に責め立てているのでしょうか。そんなふうにパウロの説教を聴いたり、あるいは読んだりしてよいでしょうか。それは違うと、私は思います。



パウロは、この説教を語りながら、胸の痛みを感じていたと思います。キリキリ痛んでいた。パウロは、そういう人です。パウロが自分の心の痛みを告白していることで有名なのはローマの信徒への手紙9・1以下です。その個所にパウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(ローマ9・2)と書いています。「肉による同胞」であり、「兄弟」であるユダヤ人たちのことで胸が痛いと言っています。パウロにとってユダヤ人たちのことは他人事ではなかったからです!



この「他人事でないと感じること」、胸がキリキリ痛むこと、このあたりがどうも、先週の説教の中で私が触れました、伝道者パウロの“怒りっぽさ”という点と大いに関係あると思われてなりません。



パウロの目から見るとイエス・キリストを受け入れようとしないユダヤ人たちの姿は、ついこのあいだまで自分自身もそうであった姿に見えたことでしょう。パウロからすると、自分自身がかつて、いや、ついこのあいだまでそのような者であっただけに、しかし今は、全く違う者へと造りかえられたと感じるほどに、わたしはイエス・キリストの側に立っている、と実感できる人間になっているゆえに、イエス・キリストを受け入れないユダヤ人たちの姿を見れば見るほど、イライラするような感覚にとらわれたのではないでしょうか。



私は今、パウロが怒ったりイライラしたりすることが良いことだと言っているわけではありません。申し上げたいことは、パウロの怒りや苛立ちには、明らかに理由があったということだけです。イエス・キリストを受け入れないユダヤ人たちの姿に、かつての自分自身の姿を見いだしていたに違いないのです。



伝道者パウロの怒りには、悪い側面ももちろんあります。しかしまたそれは、パウロを伝道へと押し出す力、パウロをして「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)と言わしめた力(爆発力!)の源にもなっていたのではないかと見ることができるかもしれません。



「『しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。(中略)ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。』」



この説教の後半部分、すなわち、話題の中心にあることは怒りでも裁きでもありません。今ここで御言葉を語っているパウロは、怒りに任せて相手を怒鳴りつけるようなパウロではありません。イエス・キリストにおける救いの事実を告げ知らせる福音の使者、慰めと励ましの説教者です。



そして、この説教の中心にあるのは、イエス・キリストは死者の中から復活された、ということです。



イエス・キリストの復活が、なぜ「励まし」なのでしょうか。死者がよみがえることが、なぜ喜びの知らせなのでしょうか。パウロが挙げている理由は大きく分けて二つあります。



第一は、主なる神は、救い主イエス・キリストを死者の中から復活させてくださること、すなわち、「朽ち果てるままにしておかれないこと」によって、ダビデの子孫たち、神の民イスラエルに属する人々に対する「約束」を守ってくださった、ということです。



言葉を変えて言えば、天地の造り主なる神は、御自身の民との間にお立てになる約束に対して、どこまでも忠実であり続けてくださる方である、ということです。



約束を守り抜いてくださる方は、信頼できる方です。約束を破る人は、信頼されません。この単純な真理において、「神さまは永遠に信頼しうるお方である」と示すことにおいて、パウロは、人々を励ます言葉を語っているのです。



第二は、神が復活させてくださった救い主、イエス・キリストによる罪の赦しの恵みは、永久に有効であるということです。「朽ち果てる存在」が提供する罪の赦しの恵みなるものがたとえあるとしても、それは、その存在が朽ち果てると同時に、効力を失うのです。



しかし、そうではない。イエス・キリストは、永遠に生きておられるのです。



その方の救いのみわざ、罪の赦しの恵みは、いつまでも朽ちることも変わることもない無限の力を持っているのです!



(2007年10月7日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年9月30日日曜日

「励ましの言葉」

使徒言行録13・13~25



「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、『兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください』と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。」



先週から使徒言行録の後半部分に入りました。後半部分の中心テーマは教会の海外伝道です。先週の個所からサウロは「パウロ」に変わりました。パウロは外国で通用しやすい名前なのです。これがいちばん単純な説明であると思います。



しかし、パウロとバルナバの宣教旅行は、名前を変えれば何とかなるというような単純なことでは済みません。単純なことでも簡単なことでもありませんでした。そのことがすぐに明らかにされています。



先週の個所には地中海のキプロス島伝道の様子が書かれていました。キプロスの歴史に少しだけ触れておきます。キプロスは紀元前76年にローマ帝国に併合されていましたが、非常に早い時期からキリスト教信仰を受け入れ、今日までキリスト教の伝統を受け継いでいる島です。そのキプロスのキリスト教史の最初期にバルナバとパウロの二人が関与していたことが明らかにされているのです。



しかし、その内実は非常にたいへんなものでした。とくにパウロは、一人の偽預言者との激突を余儀なくされました。詳しい内容は省略いたします。



それでもその結果は良かったというべきです。キプロス島駐在のローマ総督がキリスト教信仰を受け入れました。パウロとバルナバ、この二人の伝道が成功をおさめたのです。



ただし、です。前後関係から見ればキプロス伝道がきっかけになったとも思われるのですが、伝道者たちの間になんだかちょっと変な感じの動き、不穏な空気が始まった様子も見てとれるのです。今日の個所の最初に書かれていることが、それです。



何が分かるのでしょうか。少なくとも二つのことがはっきりと分かります。



第一に分かることは、ここに書いてあるとおり、「ヨハネ」がエルサレムに帰ってしまうという衝撃的な出来事が起こったということです。



このヨハネは「マルコ」とも呼ばれた人です。この人物、ヨハネ・マルコがパウロとバルナバの助手として彼らと一緒に海外伝道に出かけたわけですが(13・5)、何があったのでしょうか、結果的に二人の伝道者の前から助手が逃げ出して、エルサレムに帰ってしまったのです。



第二に分かることは、ここに書いてあることをじっと見なければ分からないことですが、先週の個所までは二人の伝道者の名前は「バルナバとサウロ」と紹介されていましたが、今日の個所からは「パウロとバルナバ」と紹介されているということです。



問題は、名前が紹介されている順序です。順序は決して無関係ではありません。キプロス島の事件が起こるまでは、この伝道チームの中ではバルナバのほうが主導権を握っていた。ところが、この事件が起こってからは、今度はパウロのほうが主導権を握るようになったのだと考えることができるのです。それほど名前が紹介される順序は重要なのです。



また、13節にははっきりと「パウロとその一行は」と記されています。その意味は、この宣教団体(ミッションボード)のリーダーはバルナバではなくパウロであるということです。



そして、私は今申し上げましたこの第二の点と、先ほど申しました第一の点、すなわち、ヨハネ・マルコが海外伝道の仕事を事実上途中で放り投げてエルサレムに逃げ帰ってしまったこととは無関係ではないように思われてなりません。



結びつけ方は強引かもしれません。しかし、こういうことは現実の伝道、現実の教会においては決して珍しいことではないということを考えざるをえません。



私の読み方は次のとおりです。彼らの助手ヨハネ・マルコは、バルナバ先生にはついて行きたいと願い、ついて来たが、パウロ先生にはついて行けないと考えたのです。



キプロス伝道の際に明らかになったことは、パウロ先生はすぐ怒るということです。初めて出会った相手であろうと、にらみつけて怒鳴りつける。あんな乱暴でけんか腰の先生にはついて行けません、と思ったのではないでしょうか。



理由は必ずしもこれではないかもしれません。しかし、ともかく、ヨハネ・マルコの側に何らかの理由があってパウロについて行けなくなったことは事実です。バルナバ先生とはうまく行く。しかしパウロ先生とはうまく行かない。そんな様子が何となく伝わってくるのです。



またバルナバのほうも、今のところはまだ大丈夫ですが、もうまもなく(15・36以下)パウロとは別行動をとることになります。その仲たがいの原因が、じつはヨハネ・マルコの離脱行為に対する評価の違いでした。



バルナバはヨハネ・マルコのことが好きなのです。変な意味ではありません。お互いに伝道者として大切に思っているのです。だから、バルナバはパウロと別れた後に再びヨハネ・マルコと共にキプロス島に行き、一緒に伝道を続けます。



バルナバという人は、教会の中でだれよりも先にパウロのことを信用したときと言い、海外伝道が途中で嫌になっちゃったヨハネ・マルコのことをもう一度伝道に連れ出すときと言い、温かいというか、手厚いというか、お人よしというか、ちょっとやさしすぎる人です。今、わたしたちの目の前にバルナバのような人がいるとしたら、おそらく周囲の好感度は高いのではないかと思わされます。



ところが他方、パウロのほうは伝道の途中で仕事を投げ出して帰ってしまうような人間など二度と信用しない。絶対に信用しない。そういう激しいというか、厳しいというか、恐ろしいというか、容赦のない性格を持った人。そういう面をパウロは持っていたのです。いずれにせよ、パウロとバルナバは非常に対照的な存在であったと考えることができそうなのです。



私は今、一つのやや小さな問題にしつこく拘っているわけですが、拘る理由があるからです。それは、伝道を妨げる要因は、必ずしも教会の外側にあるだけではないということです。実際にはもっと大きな要因が教会の内側にあるかもしれないということを疑ってみる必要があるということです。



一言でいえば、教会の内輪もめです。あるいは伝道者同士の主導権争い、小競り合いです。また伝道者の乱暴なやり方、強引なやり方です。けんか腰で人を怒鳴りつけたりするやり方、それは伝道なのかという問いがあるということです。そのような乱暴で強引でけんか腰なやり方にはついて行けないと言い出す人も出てくるという問題です。



全く単純明快な事実は、伝道は人間が行うことであるということです。あるいは、教会が、と言ってもよい。人間の集まりである教会が、伝道するのです。



申し上げたいことは、伝道者は生身の人間であるということです。教会の牧師も長老も執事も生身の人間なのです。だから、人の言葉に傷つくこともある。すっかり嫌になって途中で実家に帰ってしまう人もいる(私の話をしているのではありません。一般論です)。



教会の兄弟姉妹だからといって言いたい放題、好きなことを言ってはならないのです。お互いに労わる気持ちを持つべきです。



内側でもめている教会にだれが入ってきたいと思うでしょうか。そのような雰囲気は、外から入ってくる人にはすぐに分かるのです。肌触りで分かる。直感的に分かるのです。



しかしそれでは、パウロのやり方はすべて間違っていたのでしょうか。そんなことは決してありません。パウロの強さは仇になることもある。もめごとの種にもなりかねない。しかし、パウロの強さがあったからこそ突破できた壁もある。乗り越えられた谷間もあるのです。バルナバの優しさが仇になるときもあるでしょう。



こういうことをいろいろと考えてみることが今日の個所では重要です。



パウロとバルナバは、「アンティオキア」という町に到着しました。やや紛らわしいですが、彼らの海外伝道を背後から支援している「アンティオキア教会」のある町とは全く別のアンティオキアです。



そして興味深いことは、二人がこのアンティオキアで行ったことは、安息日に会堂に入って席に着いたことであり、会堂で「律法と預言者の書」、つまり(旧約)聖書が朗読されたことであり、会堂長がパウロのところまで来て何か話をしてくれとお願いしたことであり、その願いを受けてパウロが立ち上がり、その場で説教をはじめたことです。



気づく必要があることは、この一連の流れはまさにわたしたちが今ここで行っているのと(曜日は違いますが)ほとんど全く同じようなことであるということです。



伝道、伝道と一言で言いますが、パウロにとって伝道とは安息日に説教することだったということです。それは当時から今日に至るまで変わっていません。安息日の礼拝の中で行われてきたことの中心は、聖書朗読と説教なのです。そこに賛美歌が加わる。われわれが行っているこの礼拝の姿は昔から何も変わっていないのです。



安息日以外はパウロたちはどうしていたのか。もちろんいろいろとやることはたくさんあったと思いますが、大きなことは移動です。安息日ごとの礼拝に出席し、そこで説教を行うためにいろんな町の教会に行く。その一つの教会から他の教会への移動や諸連絡のために安息日以外の週日が用いられていた様子が伝わってくるのです。



一言でいえば、教会の礼拝こそが伝道であるということです。教会の礼拝こそが伝道の王道です。伝道の他の方法を否定するつもりはありません。しかし、礼拝が中心から抜け落ちてしまっているような伝道の方法は、パウロたちが採用しなかったやり方です。それはわたしたちのやり方ではありません。



そしてパウロは会堂長から「励ましの言葉を語ってほしい」という依頼を受けました。この点も非常に興味深いと私には感じられます。果たしてこれから始まるパウロの説教は、この依頼どおり本当に「励ましの言葉」になっているのか、どの部分が・どのように「励まし」になるのかということに興味を抱きますが、今日はこの説教の内容に入る時間はもう残っていません。来週お話しいたします。



しかし最後に、内容ではなく、このパウロの説教について注目しておきたい点を一つだけ述べておきます。それは、このパウロの説教は使徒言行録のなかで、また聖書全体のなかで、パウロ自身が行った説教としてその文章が文字になって残っている最初のものであり、つまり最古のものであるということです。若き伝道者パウロの最も旧い説教原稿の内容がここにあるということです。パウロの伝道活動の初期における初々しさのようなものを感じることができればと思います。



すべての説教者、すべての牧師にかけだしの頃がありました。一生懸命のあまり周囲の人々を傷つけたり、人間関係を壊してしまったりすることもある、かもしれません。



言い訳は見苦しい。しかし、若い頃には、動かない壁を動かすための、越えがたい谷間を越えるための、力任せの試行錯誤もある。そのことをご理解いただきたい面もあります。



(2007年9月30日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年9月23日日曜日

「魔術師との対決」

使徒言行録13・1~12



ごく大雑把な話ではありますが、今日の個所から、使徒言行録の後半部分に入ります。これまで学んできた使徒言行録の1章から12章までが、いわば前半部分です。前半部分の中心にあるのはエルサレム教会の誕生と歩みです。



エルサレム教会の最初は、もっぱらユダヤ人たちで占められていました。しかし大きな方向転換があった。異邦人たちを積極的に教会に受け入れるべきだという機運が高まってきた。しかし、前半部分において、それはまだ機運にすぎないものでした。



それに対して、後半部分の中心にあるのは、教会自身による異邦人伝道です。具体的に言えば、異邦人伝道のために最も大きな役割を果たした使徒パウロの活動の様子を中心に描かれています。



間違ってはならないことがあります。それは、パウロの伝道は、個人的な性格のものではない、ということです。使徒言行録の後半部分、またパウロ書簡にも繰り返し書かれていることは、パウロの異邦人伝道の“教会的”な性格です。パウロは、教会によって派遣された海外宣教師なのです。このことを、わたしたちは、決して忘れてはなりません。



パウロの異邦人伝道は、彼の個人的な趣味のようなものではありません。観光旅行ではありません。外国が好きだったのだ、というような話にされては困ります。



「宣教旅行」という表現が誤解のもとかもしれません。たしかに「旅行」には違いありませんが、パウロのしたことは観光旅行ではありません。事柄の本質から言えば、「宣教旅行」ではなくてむしろ「海外派遣」であると表現すべきです。



喜びや楽しみの要素を否定するつもりはありません。しかし、パウロが楽しんだのは、観光でありません。伝道すること、この仕事を、心から喜び楽しんだのです。



「アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。』そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。」



アンティオキア教会を一つの新しい宣教の拠点として、海外伝道へと派遣されることになった最初のメンバーは、バルナバとサウロでした。そしてもう一人、マルコという名もあるヨハネ(ヨハネ・マルコ)が助手として同伴しました。



「バルナバとサウロ」という順に紹介されていることには、もちろん意味があります。少なくとも最初の時点で主導権をもっていたのはバルナバのほうだった、ということです。バルナバが主事、サウロは補佐という関係であった、ということです。



この関係の理由も明らかです。キリスト教会の激しい迫害者であったサウロをなかなか信頼しようとしなかったエルサレム教会のメンバーの中で、サウロのことをいちばん最初に信頼し、みんなを一生懸命説得することによって、サウロとエルサレム教会の間をとりもったのが、バルナバでした(使徒9・26~28)。



また、「バルナバはサウロを捜しにタルソスへ行き、見つけ出してアンティオキアに連れ帰った」(使徒11・25)とも書かれていました。バルナバがアンティオキア教会にサウロを連れ帰った目的は、一緒に伝道したかったからです。サウロのほうは、嫌々ながらというわけではなかったと思いますが、バルナバに引きずられ、いくらか強引に連れて行かれるような格好で、海外での伝道を始めたのです。



先ほど私が少し強調気味に言いました、パウロの伝道活動には“教会的性格”があるという点の根拠は、バルナバとサウロの出発に際して、アンティオキア教会の人々が「二人の上に手を置いて出発させた」(3節)です。



教会の中で誰かの(頭の)上に手を置く行為は、今日の教会が受け継いでいるとおり、任職・任命の行為です。神の力が受け渡されることを象徴的に示す行為です。この二人を海外宣教師に任命したのは、教会なのです。



「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向け船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた。島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者に出会った。この男は、地方総督セルギウス・パウルスという賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした。」



二人は、船に乗って島に渡るという、まさに文字どおりの「海外」へと出かけました。キプロス島に行きました。そこには「ユダヤ人の諸会堂」、つまり複数のシナゴーグがありました。ユダヤ人の居住区があったと考えてよいでしょう。



そして、今日の個所の中心にあるのは、彼らがキプロス伝道の中で最初に出会った厄介な人物との“対決”の話です。教会の海外伝道史上初の記念すべき妨害者(?)である、と言えるかもしれません。



6節以下に登場するユダヤ人の魔術師は「偽預言者」とも呼ばれています。この人には、バルイエスという名前とエリマという名前があったようです。これは同一人物です。



そして、重要なことは、このユダヤ人の偽預言者であり、魔術師である「バルイエス=エリマ」がバルナバとサウロの伝道活動を妨害しようとした最初の人物として紹介されている、ということです。



詳しい事情は、ここに書かれているとおりです。事の発端は、ローマ帝国からキプロス島へと派遣されていたと思われる地方総督セルギウス・パウルスが、バルナバとサウロに興味を示したのでしょう、自分のところに招いてくれたようです。そこで二人はこの総督にさっそく伝道しようとしたわけです。伝道することが、彼らの目的だったからです。



ところが、この総督は、以前から「バルイエス=エリマ」のほうと、付き合いがありました。「偽預言者」とあるのは、バルナバとサウロ、また教会の側がつけた名前であって、「バルイエス=エリマ」自身が「偽預言者」と名乗っていたわけではありません。彼自身は、「われこそが真の預言者なり」と語っていたことでしょう。



その言葉をセルギウス・パウルスは信用した。そして、おそらくこの総督は、宗教的な事柄に関しては、事あるごとにこの預言者に相談していたのではないでしょうか。つまり、「バルイエス=エリマ」はセルギウス・パウルスの宗教的アドバイザーであったと考えることができるでしょう。



政治と宗教の関係という大げさな問題を考えなければならないほどの場面ではないかもしれません。総督と預言者の関係が個人的なレベルにとどまるものだったのか(たとえば悩み相談など)、それとも、この預言者がセルギウス・パウルスを介してキプロス島の政治そのものに直接大きな影響を与えていたのかというようなことまでは、分かりません。



ここで分かることは、この預言者がセルギウス・パウルスとバルナバとサウロとが接触することを非常に嫌がったということです。考えられることは、うんと俗っぽい言い方を許していただくならば、「自分のお客さんを奪われる」というような感覚だったのではないか、ということです。



日本でも、教会の伝道の妨げになるのは、しばしば、他の宗教です。他の宗教がすべての原因である、と言ってもよいのではないかと思うくらいです。お葬式はどこでやるとか、お墓はどこにするというような話の中で、ふだんはほとんど関係を持つこともないお寺とかお宮の人が、われわれの前に姿を現わし、必死になって教会からわれわれを遠ざけようとする。それと似たようなことが、二千年前のキプロス島でも起こったのです。



ですから、「バルイエス=エリマ」は、「魔術師」とか「偽預言者」と呼ばれていて何か非常に特殊な人であるかのように見えますが、よく考えてみますと、わたしたちにとってこの人物は非常に近いところにいるような、どこかで見たことがあるような、われわれの目の前にいるような、そのような存在であると考えることができそうなのです。



そうです、「バルイエス=エリマ」は、われわれのすぐ近くにいるのです!



「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて、言った。『ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。』するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を探した。総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、信仰に入った。」



サウロ(ここからパウロ!)は、怒ったのだと思います。気が短い感じ、けんか腰で、眼光鋭く睨みつけながら、大声で怒鳴りつけている様子が伝わってきます。



このようなおっかないやり方はどうだろうか、少しまずいやり方ではないかと、かなり疑問に思わなくもありません。私も、10年くらい前はこんな感じの人間だったので、反省させられます。もうちょっとやわらかい態度をとるほうがいい・・・かもしれません。



事実、このときのサウロの言葉が相手の心と体に対して、ものすごく大きなショックとダメージを与えたことは間違いありません。その場で目が見えなくなってしまいました。やり方として、パウロの側にいくらか乱暴な面があったことは、否定できません。



とはいえ、その事件の結果として、セルギウス・パウルスがキリスト信仰を受け入れるという大きな出来事が起こりました。だから他人を大声で怒鳴りつけてもよいという話にはなりませんが、バルナバとパウロの伝道が良い結果を生み出したこと自体は評価されるべきです。



今日の個所から学びうることは、一人の人が新しく信仰生活・教会生活を始めること、続けていくことのためには、どうしても“対決”することを避けて通れない相手がいる、ということです。



わたしたちが新しい道に進んでいくためには、その相手から逃げることができません。



きちんと向き合わなければなりません。



そのことは昔から今日に至るまで変わっていない、というこの事実を知ることが、日々信仰の戦いの中にあるわたしたち一人一人にとっての慰めになるように思います。



(2007年9月23日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年9月16日日曜日

「悪の問題」

使徒言行録12・13~25



ユダヤの王ヘロデ・アグリッパの邪悪な謀略によって、使徒ペトロが逮捕されました。ところがペトロは、天使の助けを得て牢を脱出し、キリスト者たちの集まっている家の門の前まで無事に帰ってくることができました。ほっと胸をなでおろしてよい場面です。



ところが、ペトロは、もうひとふんばり、頑張らなければなりませんでした。ペトロは帰ってくることができたのだということを、教会の人々が、なかなか信じてくれなかったからです。



「門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。人々は、『あなたは気が変になっているのだ』と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、『それはペトロを守る天使だろう』と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、『このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい』と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。」



女中のロデは、ペトロの声だと、すぐに分かりました。しかし、相当驚き、また慌てたのでしょう、門を開けてペトロを家の中にかくまう前に、教会のみんなのところに行き、ペトロが帰ってきたことを報告しに行ったのです。



ところが、ここに新たな問題が起こります。教会の人々が、ペトロが帰ってきたことをなかなか信じてくれなかったのです。「ロデは、本当だと言い張った」とあります。これを内容的に言い直すとしたら、「あれは本当にペトロの声だった、と言い張った」ということです。なぜなら、彼女は、まだペトロの顔も姿も見ていないのですから。



ロデに対して、教会の人々が言い出したことは、「あなたは気が変になっている」とか、「それはペトロを守る天使(の声)だろう」ということでした。私は、この個所を読みながら、このように教会の人々が言い出した、あるいは言い張った理由は何だろうかという点を考えてみたいと感じました。



この問いに答えることは少しも難しいことではないと思います。単純明快です。一言でいえば、教会の人々は「ペトロはもはや絶対に帰って来ない」と確信していたに違いないということです。



使徒ヤコブが殺されたという事実が彼らにとってのまさに現実であったと言うべきです。ヤコブがあのように殺されたのだから、ペトロも当然殺されるであろうし、あるいはすでに殺されているかもしれないと、彼らが考えたであろうことは間違いありません。



そして、そのことが、彼らにとっての不動の確信となっていった。ペトロがわれわれのところに帰ってくることなど絶対にありえないという、ほとんど限りなく信仰に近い思いにまで至った。だから、ロデの言葉をなかなか信じることができなかったのです。



そして、ここでまた「天使」です。ロデが聞いた声は、「ペトロを守る天使だ」と彼らが言い張ったというわけです。どうやら初代教会の中には、一人一人のそばにいて、その人を守ってくれる天使の存在、守護天使のような存在を信じる信仰があったようです。私にも、そういう天使がいてくれたらいいのですが。



しかし、気になることがあります。それは、彼らが目に見えない守護天使のような存在については信じるが、ペトロが帰ってきたことについてはなかなか信じようとしなかった点です。たとえば私自身にとっては、目に見えない天使の存在を信じるよりも、ペトロが帰ってきたという話のほうが、はるかに信じやすいことなのです!



とはいえ、私は、初代教会の人々は目に見えない天使のような存在を信じる、迷信的な人々であった、というような仕方で、簡単に片付けることはできないだろうと考えます。そのようなことではなく、むしろ、ここで重要なことは先ほど触れたのと同じ点です。



考えられることは、彼らはこの場面で天使の存在を持ち出さなければならないほどまでに、ペトロが帰ってくることはもはや絶対にありえないことである、という確信を持っていたのではないか、ということです。



そして、ここでただちに考えさせられることがあります。それは、ペトロはもはや絶対に帰って来ないという確信の裏側にあるものは何かということです。



これもはっきりしています。彼らがこのような確信を抱かざるをえないほどに、当時でいえばヘロデの権力、あるいはまた、もう少し普遍的に言い直せば一つの国の最高権力者が有する力、まさしく国家権力というものは、初代教会の人々にとって大きすぎるものだった、ということです。あそこにいる、あの人々に捕まってしまったら、われわれの人生はもう終わりなのだ、と考えざるをえなかった、ということです。



もちろん、それは、今のわたしたちについても、ある程度までは、同じことが言えるのだと思います。六十年前の日本では、はっきりとそのように語る必要があったでしょう。お上に逆らうことなど、ありえないことでしたでしょう。いったんあそこに、あの人々に捕まってしまったら、何をどう言い張っても無駄であると、思い知らされたことでしょう。



いちばん短い言葉でいえば、わたしたちは国家権力をなめてはいけないのだと思います。必要以上に恐れることはありませんし、おびえる必要はありませんが、なめてかかるような態度は間違っていると言わざるをえません。



しかし、です。ペトロは教会のみんなのところに帰ってくることができました。帰ってくることができたということは、国家権力を悪用してキリスト教会を弾圧する人間(具体的にはヘロデ・アグリッパ)の策略に打ち勝ったのだ、ということに他なりません。



ここで確認しておきたいことは、国家権力を悪用する人々の策略は、敗れることもある、ということです。彼らは神ではありません。彼らは全能ではありません。彼らにも限界があり、敗れることがあるのです。



そのため、わたしたちは、彼らの手のうちに落ちたら、“絶対に”帰ってくることができない、という確信など、持つ必要がないし、持つべきではないのです。そのような“絶対”などありえないのです。



ただし、それでもなお、国家の権力者たちが、一般市民に対してそのように思いこんでしまわせる何かを持っていることは事実でしょう。彼らが持っているものは、要するに、お金と軍隊です。軍隊をもっていない権力者たちは、それを持ちたくて持ちたくて仕方がない。また、他の国よりも強い兵器や武器を手に入れたくて手に入れたくて仕方がない。



金に飽かして軍隊を動かし、思うままに自分の国を支配し、他の国まで手を伸ばそうとする。そして、自分の思いどおりに動かないとか、失敗を犯した兵隊や軍人などがいようものなら、ただちに殺し、首をすげかえる。現に、ヘロデ・アグリッパは、ペトロの脱走を阻止することができなかった番兵たちを「死刑にするように」命じたのです。



しかし、このヘロデにも、最期の日が訪れました。



ここでも、またもや「天使」が登場します。重要な場面に、ことごとく天使が登場する。これが聖書の世界です。



ヘロデ・アグリッパが腹を立てていたという「ティルスとシドン」は、ヘロデの支配下にない地域でした。異教の地でもありました。



ヘロデ王家には一応ユダヤ教の信仰的伝統は受け継がれていましたが、彼ら自身は敬虔でも熱心でもなかったことは明白です。



そのため、「ティルスとシドン」に対してヘロデが腹を立てていた理由は、その地域の人々がユダヤ教を信じなかったから、ということではなく、ただ単に、自分の思い通りにならない地域である、というだけのこと、つまり権力欲を持っている人にとって、その欲求が満たされきらない、まさに欲求不満が生じる対象であった、ということに他なりません。



しかし、そのティルスとシドンの地域の人々は、ヘロデの国(ユダヤ)から食糧を得ていたために、彼らがヘロデの支配下に全く落ちてしまうことはなくても、政治的・経済的な面で実質的にヘロデに取り入る必要があったということのようです。



そのため、その人々がヘロデが演説しているときに言ったという「神の声だ。人間の声ではない」という言葉は、要するに、おべっか、おべんちゃらのたぐいであったと考えるべきです。権力者というのは、そのような言葉を聞きたくて聞きたくて仕方がない人々であるということを、彼らは熟知していたようです。



ついでに言えば、ヘロデ・アグリッパは、“ヘロデ大王のお坊ちゃま”でしたから、親の七光りで権力の座に登りつめた人である分、あまり苦労してきていない。人の誉める言葉の裏側にある真意を読み取ることができないのです。



わたしたちは、逆のことをいつも考えておくべきでしょう。「あなたは神だ」とか「人間を越えている」とかいう言葉をもって近づいてくる人がいたら、警戒しましょう。また、人から誉められるときは、注意しましょう。間違っても、いい気になってはなりません。その言葉の裏側にある真意を、読み取りましょう。



しかし、ヘロデは、おそらく、いい気になりました。「神の声だ」と言ってもらえることに満足し、慢心し、そしておそらく興奮して、いろいろと喋りだしたのでしょう。



その演説の真っ最中にヘロデは、「主の天使」によって撃ち倒されました。神御自身の手によって裁かれたのです。



そのようにして、初代教会に、一時的な平和が訪れました。邪悪な権力者に対して教会にできることは、武器を手にして立ち向かうことではなく、本当にただ、まさに祈ることだけでした。そして、文字どおり“神に任せること”だけでした。神御自身が悪を裁いてくださることを、“ただ信じること”だけでした。



ある人々にとっては、教会のそのような態度は、全く馬鹿馬鹿しいものに見えるかもしれません。しかし、われわれは、真剣そのものです。



神でないものを神としない。神と呼ばない。神でないものに捕らわれたときに、絶対に助からないなどと信じ込むことをやめる。これらの点で、われわれは真剣そのものです。



邪悪な人々の支配は、いずれにせよ有限なものです。今の苦しみはやがて過ぎ去ります。



全き平安と喜びが、わたしたちへと訪れるでしょう。



(2007年9月16日、松戸小金原教会主日礼拝)



2007年9月9日日曜日

「主がわたしを救い出してくださった」

使徒言行録12・1~12



「そのころ、ヘロデ王は教会のある人々に迫害の手を伸ばし、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。そして、それがユダヤ人に喜ばれるのを見て、更にペトロをも捕らえようとした。それは、除酵祭の時期であった。ヘロデはペトロを捕らえて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。過越祭の後で民衆の前に引きずり出すつもりであった。こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた。ヘロデがペトロを引き出そうとしていた日の前夜、ペトロは二本の鎖でつながれ、二人の兵士の間で眠っていた。番兵たちは戸口で牢を見張っていた。すると、主の天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。天使はペトロのわき腹をつついて起こし、『急いで起き上がりなさい』と言った。すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。天使が、『帯を締め、履物を履きなさい』と言ったので、ペトロはそのとおりにした。また天使は、『上着を着て、ついて来なさい』と言った。それで、ペトロは外に出てついて行ったが、天使のしていることが現実のこととは思われなかった。幻を見ているのだと思った。第一、第二の衛兵所を過ぎ、町に通じる鉄の門の所まで来ると、門がひとりでに開いたので、そこを出て、ある通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った。ペトロは我に返って言った。『今、初めて本当のことが分かった。主が天使を遣わして、ヘロデの手から、またユダヤ民衆のあらゆるもくろみから、わたしを救い出してくださったのだ。』こう分かるとペトロは、マルコと呼ばれていたヨハネの母マリアの家に行った。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。」



今日の個所に出てくる「ヘロデ王」は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アグリッパです。ヘロデ大王もひどい男であったことが聖書に記されていますが、息子ヘロデ・アグリッパも本当にひどい男でした。



ヘロデがしたことは、明らかに、国家的権力を悪用した一宗教に対する迫害行為です。ヘロデは国王です。一国の王が自分の手下を使ってヨハネの兄弟ヤコブを殺し、さらに、エルサレム教会の最高指導者であったペトロを、全く理由もなく不当に逮捕したのです。それは国家権力による犯罪行為です。



「ヨハネの兄弟ヤコブ」とは、使徒と呼ばれたイエス・キリストの十二人の弟子の中の一人です。つまり、このヤコブは十二使徒の中では最初の殉教者になった人であるということです。キリスト教会全体の中では、ステファノに続く二番目の殉教者になりました。ヤコブという名前の使徒は二人います(使徒の名前の一覧表はマタイ10・2~4、マルコ3・16~19、ルカ6・14~16に出てきます)。最初の殉教者となったヤコブは、「アルファイの子ヤコブ」のほうではなく「ゼベダイの子ヤコブ」です。当時の教会には、もうひとり、イエスさまの弟として登場するヤコブもいますが、その人でもありません。



ちょっと気になることがあるとしたら、このヤコブの殉教の場面は、ステファノの殉教の場面と比べますと、あまりにも簡単すぎるのではないだろうか、ということです。短く一言で語られています。分量が問題ではないかもしれませんが、ステファノのためには6章と7章の二章分が割かれています。ステファノが教会の執事に選ばれてから殉教の死に至るまでの歩みが事細かに紹介されています。しかしヤコブの殉教は一言です。いくらか公平さに欠くような気がしなくもありません。



ゼベダイの子ヤコブについて分かることを、ちょっとだけご紹介しておきます。マルコによる福音書10・35~45を見ますと、そこにゼベダイの二人の息子ヨハネとヤコブに関係する話が出てきます(マタイによる福音書20・20~28に平行記事があります)。



この二人がイエスさまのところに行き、「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」と言い、イエスさまが「何をしてほしいのか」とお尋ねになったとき、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願った、という話です(マタイの場合は、この二人がではなく、彼らの母がイエスさまにそのように願った、という話になっています)。



そのようなことを言う彼らに対して、イエスさまは「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と言われました。そして、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」とのお尋ねに対し、この二人は「できます」と答えました。



注目していただきたいのは、その彼らに対するイエスさまご自身のお答えです。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」。



イエスさまがお飲みになる杯、イエスさまがお受けになる洗礼とは、イエスさま御自身が、全人類の救いのために、十字架にかかって死んでくださることでした。



その杯をあなたがたも飲むことになる、とイエスさまがおっしゃったことの意味は何でしょうか。あなたがたもいつか、イエスさまと同じような姿で死ぬ、殺されるということではないでしょうか。イエスさまは、使徒たちの前で次のようにおっしゃいました。



「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかしあなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10・42~45)。



イエスさまがそのようにおっしゃっている目の前にいたゼベダイの二人の子どものうちのひとり、ヤコブが、十二使徒のなかの最初の殉教者になったのです。



ただ、深く考えさせられることは、ステファノと言い、ヤコブと言い、彼らの殉教の死とは何なのか、ということです。その死にはどのような意味があるのか、ということです。イエス・キリストの死も、ある意味で同じことを考えさせられるものです。



イエスさまもステファノも、そしてヤコブも、自分で望んで死んだわけではありません。殺す側の人々には大した理由もない、はっきり言えばふざけ半分の、遊び足りない人々が自分の好奇心を満足させるためという程度のことで、イエスさまもステファノも、そしてヤコブも殺されたのです。



そのようなことで人が簡単に殺されてよいのかと、怒りを覚えざるをえません。とくに、この点は決して誤解されてはならないと思うことは、教会はそのような国家権力者の横暴に対して、ただ黙って泣き寝入りをするような者たちではない、ということです。



ただし、そのような場合にわたしたちの採りうる方法は、逃げることです。ぜひご理解いただきたいことは、迫害者から逃げることは迫害者に対する抵抗を意味する、ということです。神さまがわたしたちに与えてくださっているこの自由において喜んで生きる人生の行く手を妨げるいかなる不当な力に対しても、わたしたちは戦わなければなりません。その場合の戦いとは、わたしたちを不自由の中に閉じ込めようとする人々のもとから解放されること、要するに、逃げることなのです。



ここで私に思い起こされるのは、モーセの十戒の第十の戒め、「隣人の家を欲してはならない」です。この戒めはだれにも守れないと、しばしば言われます。しかし守らなければなりません。この戒めが禁じていることは、究極的に言えば、このわたしとあなたの間にある境目を不当に越えてはならないということです。プライバシーを侵害してはならない、ということです。



人の自由を奪う人々が犯す罪は、まさしくこれです。あなたとわたしは、あなたが思うほど親しくもないし、近くもない。そう思っている相手が、突然ぴょんと、境目を越えて不当に侵入してくるのです。国家権力者のような赤の他人が突然襲いかかり、人の自由と喜びを奪おうとする。人の命を簡単に踏みにじるのです。



ペトロが逮捕された。それを知らされた教会がただちに始めたことは、ペトロのために祈ることでした。「祈るしかない」と、よく言われます。私自身はあまり使いたくない言葉なのですが、たしかに、わたしたちに残された最後の手段は、まさに「祈りしかない」と言うべきかもしれません。



相手は国家権力です。人の命を簡単に奪うことができる、恐ろしい存在です。しかし、教会の使命は死ぬことではなく、生きることです。生き延びて、救い主イエス・キリストが与えてくださった救いの喜び、信仰の喜び、自由の喜びをもって生きることです。



逃げることも、隠れることも、引きこもることも、必要なときがあるのです。そうすることは、卑怯なことでも、臆病なことでもありません。



教会の祈りに、主が答えてくださいました。主なる神御自身が、ペトロの前に「天使」を送ってくださり、牢のすべての鎖と鍵を壊してくださり、ペトロを全く自由にしてくださいました。そして、ペトロは、彼のために祈っている教会のみんなのもとに帰ることができたのです。



「天使」という話が出てくると急に興ざめする、という方もおられるかもしれません。あまりにも非現実的な感じがするからでしょうか。しかし、私は聖書に出てくる「天使」の話が嫌いではありません。面白いなあと思いながら、いつも読みます。



なぜなら、聖書に「天使」が出てくる場面は、たいてい、説明不可能と思えるような、あるいは絶対にありえないと感じるようなことが起こるときだからです。いちいち、その個所を挙げるのは省略いたします。天使が登場する場面は、人間の予想や推理では絶対に不可能と思えるような状況がまさに奇跡的に変えられるときであり、そこに道がなかったところに新しい道が開かれるような場面です。



そのような場面が、わたしたちの人生に、実際にある!



なんだかよく分からないのだが、とにかく不思議な仕方で道が開けた。



そういうことが、実際にあるのです。



それこそ「天使」でも登場しなければこの話は決して完結しそうもないと思えるような場面が、わたしたちの人生に何度となく出現するのです。



ですから、私にとっては、「天使」が登場する人生のほうが、それが登場しない人生よりも、はるかにリアルなものに思えてならないのです。



皆さんは、これまでの人生の中で起こってきたすべてのことを、きちんと、理路整然と、「天使」とか「奇跡」という言葉を用いないで、説明することができるでしょうか。私はそれができません。だいたい、あまりきちんと覚えていません。子どもの頃のことなどは、ほとんど忘れました。昨日のことさえも正確に思い出すことはできません。不可能です。



そういう中で、しかし、わたしたちにはそのように語ることが許されている言葉がある。その言葉を、ペトロが語っているのです。



「主が天使を遣わして、わたしを救い出してくださった」。



学校の試験の答案にこのように書いたら、落第点をつけられるかもしれません。



しかし、教会は違います。



合格です!



(2007年9月9日、松戸小金原教会主日礼拝)