2007年11月4日日曜日

「苦しみの意味と力」

使徒言行録14・21~28





「二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、『わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない』と言って、信仰に踏みとどまるように励ました。また、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。それから、二人はピシディア州を通り、パンフィリア州に至り、ペルゲで御言葉を語った後、アタリア州に下り、そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人に信仰の門を開いてくださったことを報告した。そしてしばらくの間、弟子たちと共に過ごした。」



パウロとバルナバの第一次海外派遣は、ここで終了いたします。彼らは海外に出かけて、いったい何をしたのでしょうか。そのことが今日の個所に明らかにされています。



21節の「この町で」は、直前の20節に出てくる「デルベ」のことです。デルベの町で、パウロとバルナバは「多くの人を弟子にした」と書かれています。気になるのはこの場合の「弟子」とは誰の弟子なのかということです。



この問いの答えは明快なものでなければなりません。「キリストの弟子」です!「パウロの弟子」でも「バルナバの弟子」でもありません。この点を読み間違えてはなりません。



「弟子にする」という表現が用いられているのは、使徒言行録にはこの個所だけですし、また、使徒言行録と同じ著者であるルカによる福音書には出てきません。しかし、マタイによる福音書には出てきます。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28・19)。



これはイエス・キリストの宣教命令です。すべての民を「わたしの弟子」、つまりイエス・キリストの弟子にすることが教会の伝道の目的なのです。



パウロとバルナバの働きも、彼ら自身の弟子を増やすことではありませんでした。このわたしの言うことを聞く人間が何人増えたというようなことに、おそらく彼らは何の関心もありませんでした。彼らはそのようなことを嫌がっていたと思います。キリスト教信仰にとってそのような感覚は、最も遠いものであり、うんざりすることだからです。



しかしまた、そのことは、ある面から言えば、人間の社会においては避けがたい運命、抵抗しがたい誘惑であると言わねばならないことかもしれません。政治家が自分の支持者を集めるように、宗教家が自分の弟子を増やそうとする。それは、事の成り行きとしては避けがたいことかもしれないのです。



パウロたちもその事情をよく分かっていました。だからこそ彼らは意識的ないし意図的に、伝道とは自分の弟子を増やすことではないということを具体的な行動と実践において明らかにしました。



この点で注目していただきたいのは22節の「信仰に踏みとどまるように励ました」という言葉と、23節の「彼らをその信ずる主に任せた」という言葉です。



今日の個所でパウロたちがしていることは、それまで歩んできた道を引き返すことです。ピシディア州のアンティオキア、イコニオン、リストラ、デルベと歩いてきた。その同じ道を今度はデルベ、リストラ、イコニオン、アンティオキアと引き返す。その目的は彼ら自身が伝道した町のなかで、イエス・キリストへの信仰を受け入れ、洗礼を受け、教会のメンバーになった人々に再び出会い、信仰に踏みとどまるように励ますことでした。



ご理解いただきたいのは、パウロたちが勧めたのは「信仰に踏みとどまること」、つまり、彼らが宣べ伝えたイエス・キリストへの「信仰」に踏みとどまることであって、われわれから受けた恩義に踏みとどまりなさい、感謝しなさいというようなことではなかったことです。恩義に踏みとどまれというような話は、仁侠道の一種であり、キリスト教信仰から最も遠いものなのです。



そしてパウロたちは、そのことを明らかにするためにこそ、23節に書かれているとおり、弟子たちのため教会ごとに長老たちを任命したのです。そして、「彼ら」つまり「長老たち」を「その信ずる主に任せた」のです。



どういうことか。要するに、パウロたちは、ひとつの町、ひとつの教会に長くとどまり続けることを意識的に避けた、ということです。彼ら自身の弟子をつくらないためです。キリスト者が文字どおり「キリスト者」であり続けること。パウロ主義者やバルナバ主義者をつくらないこと。そのために、彼ら自身は潔く身を引くのです。



しかしまた、彼らの伝道によって、町ごとに信仰者の群れが生み出され、そこに教会が形成されていった。その教会を大切にする責任が、パウロたちにもあった。そのために、教会を守る責任者として長老たちを任命し、その長老たちを「その信ずる主」、すなわち、救い主イエス・キリスト御自身「に」任せたのです。



ですから、別の言い方をすれば、パウロたち自身の仕事の目標は、たしかに旅先の地に信者の群れを生み出すことではありましたけれども、より具体的に言えば、その地に複数の長老を任命することであり、われわれの言葉で言えば「小会を組織すること」であって、それ以上のことは彼らの仕事ではなかったということです。あとのことはすべて長老たちが行うのです。
 
26節にも、23節にあったのと同じような表現が出てきます。「そこ〔アンティオキア〕は、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である」。



「二人」、すなわちパウロとバルナバの二人は、アンティオキアにおいて、神の恵み「に」ゆだねられました。神の恵み「が」彼らにゆだねられたわけではありません。それは、23節において長老たちがその信ずる主なるイエス・キリスト「に」任せられたのであって、パウロたちが長老たちにイエス・キリスト「を」任せたのではないのと同様です。



ここで考えなければならないことは、神の御子なる救い主イエス・キリストは、生きておられる方であるということです。また、恵み深い父なる神は、生きておられる方であるということです。「イエス・キリスト」も「神の恵み」も、パウロたち伝道者たちがだれか他の人々に「はい、どうぞ」と手渡して預けることができるような、物のような存在ではないということです。



むしろ事情は正反対です。御言葉の教師たちが、長老たちが、そしてすべてのキリスト者たちが、父なる神と御子イエス・キリスト「に」任せられ、ゆだねられるのです。このことも間違えてはなりません。



さて、ここで話をもう一度前のほうに戻します。パウロたちが旅先の町々で福音を宣べ伝えた結果ないし成果としてうみだされたキリスト者たちとその教会に対してパウロたちが語った言葉は「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」というものでした。この意味は何なのだろうか、ということを考えてみたいと思います。



私にとって気になることは、ひとつです。この点は皆さんにぜひお尋ねしたいことでもあります。「多くの苦しみを経なくてはならない」という言葉は、22節によりますと、弟子たちを「力づける」言葉であったと言われています。



問題は、皆さんならば、このような言葉で「力づけ」られるでしょうかということです。「苦しみがあります」とか「苦しまなければなりません」という言葉を聞くと、たちまち元気がなくなるとか逃げ出したくなるという方はおられませんか。この点がちょっと気になる、いや、かなり気になる点です。



しかも、明らかなことは、パウロたちが語っている、わたしたちが経なくてはならない「苦しみ」の内容は、どう考えてもやはり、教会をたてあげ、守り抜くことに伴う苦しみであるということです。はっきり言えば、パウロたちが語っていることの趣旨は、教会は楽しいばかりのところではなく、苦しいところでもある、ということです。



しかし、教会の何がそんなに苦しいのでしょうか。それは、わたしたち自身が、すでに十分に味わってきたことです。



毎週の礼拝に通うこと。このこと自体が楽しいばかりのことではなかったし、今もそうであるし、これからもそうであろうということを、わたしたちはよく知っています。



教会生活は、それを始めるときには喜びと感謝と興味がいっぱいあるものです。しかし問題は、それを続けることができるかどうかです。喜びも感謝も興味もそのうち失われていくのです。長く続けることができそうもないという理由で最初から入ることを躊躇している人々も大勢いることを、私は知っています。



また、とくに小さな子供たちにとっては、日曜日の朝に早起きをするということだけでも一苦労です。教会には近くに住んでいる人々だけではなく、遠くに住んでいる人々もいます。一人で通っている人々だけではなく家族揃って通っている人々もいます。「揃って」というところに、これまた大きな苦労が生じます。



ともかく、わたしたちひとりひとりがこの礼拝のために毎週払っている苦労は、決して過小評価されるべきではないのです。



また、教会を維持することのために、わたしたちは、多くのささげものをささげてきたし、ささげているし、ささげ続けるであろうということも、決して楽なことではないし、涙が出てくるような苦労があります。



そしてまた、教会は人間が集まるところであり、そこには人間の問題が必ずあるのです。いろいろなトラブルもある。嫌になって逃げ出したくなるような場面は、教会生活のなかには、何度でも訪れるのです。



加えて外からの妨害や迫害もあります。わたしたち教会の者たちにとっては命に代えても惜しくないほど大切なことが、教会の外側にいる人々にとっては、どうでもよいことであり、無意味なことに見える。そのように面と向かって言われる。そのような人々の声に、わたしたち自身が負けてしまうことがあるのです。



わたしたち自身に原因や責任がある場合もあります。毎週日曜日、教会から帰ってくるたびに愚痴を言う。疲れ果て、くたびれ果てて、蒼い顔して、寝込んでしまう。「そんなにつらいんだったら、教会なんかやめたらいい」と家族の人々が本気で心配してくれる場合があります。人が苦しんでいる姿は、つまずきにもなるのです。



しかし、勇気を持とうではありませんか。教会には何の苦しみもありませんと語ることはうそになりますし、聖書の証言に反していますので、そのように語ることは私にはできません。



それでもなお申し上げたいことは、教会の存在は決して無意味ではないし、無駄でもないということです。たとえ苦しみがあっても、教会には命をかけて守り抜く価値があり、意味があるということです。この町に教会があることは、わたしたち教会の者たちにとってだけではなく、町の人々にとっても意味があり、価値があるのです。



みんなで一緒に苦しみましょう!私も苦しみます。教会は「地上における神のみわざ」なのです。教会はイエス・キリストの体なのです。天地創造のみわざは、教会なしに行われました。しかし、救いに関して言えば、神さまは教会なしには何もなさらないのです。



わたしたちが苦しんで、涙も流して、一生懸命に支えて、つくりあげていく地上の教会をとおして、神御自身が救いのみわざを行われるのです。



その意味で、わたしたちの苦しみが、神の力なのです。



(2007年11月4日、松戸小金原教会主日礼拝)