2007年9月16日日曜日

「悪の問題」

使徒言行録12・13~25



ユダヤの王ヘロデ・アグリッパの邪悪な謀略によって、使徒ペトロが逮捕されました。ところがペトロは、天使の助けを得て牢を脱出し、キリスト者たちの集まっている家の門の前まで無事に帰ってくることができました。ほっと胸をなでおろしてよい場面です。



ところが、ペトロは、もうひとふんばり、頑張らなければなりませんでした。ペトロは帰ってくることができたのだということを、教会の人々が、なかなか信じてくれなかったからです。



「門の戸をたたくと、ロデという女中が取り次ぎに出て来た。ペトロの声だと分かると、喜びのあまり門を開けもしないで家に駆け込み、ペトロが門の前に立っていると告げた。人々は、『あなたは気が変になっているのだ』と言ったが、ロデは、本当だと言い張った。彼らは、『それはペトロを守る天使だろう』と言い出した。しかし、ペトロは戸をたたき続けた。彼らが開けてみると、そこにペトロがいたので非常に驚いた。ペトロは手で制して彼らを静かにさせ、主が牢から連れ出してくださった次第を説明し、『このことをヤコブと兄弟たちに伝えなさい』と言った。そして、そこを出てほかの所へ行った。夜が明けると、兵士たちの間で、ペトロはいったいどうなったのだろうと、大騒ぎになった。ヘロデはペトロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえで死刑にするように命じ、ユダヤからカイサリアに下って、そこに滞在していた。ヘロデ王は、ティルスとシドンの住民にひどく腹を立てていた。そこで、住民たちはそろって王を訪ね、その侍従ブラストに取り入って和解を願い出た。彼らの地方が、王の国から食糧を得ていたからである。定められた日に、ヘロデが王の服を着けて座に着き、演説をすると、集まった人々は、『神の声だ。人間の声ではない』と叫び続けた。するとたちまち、主の天使がヘロデを撃ち倒した。神に栄光を帰さなかったからである。ヘロデは、蛆に食い荒らされて息絶えた。神の言葉はますます栄え、広がって行った。バルナバとサウロはエルサレムのための任務を果たし、マルコと呼ばれるヨハネを連れて帰って行った。」



女中のロデは、ペトロの声だと、すぐに分かりました。しかし、相当驚き、また慌てたのでしょう、門を開けてペトロを家の中にかくまう前に、教会のみんなのところに行き、ペトロが帰ってきたことを報告しに行ったのです。



ところが、ここに新たな問題が起こります。教会の人々が、ペトロが帰ってきたことをなかなか信じてくれなかったのです。「ロデは、本当だと言い張った」とあります。これを内容的に言い直すとしたら、「あれは本当にペトロの声だった、と言い張った」ということです。なぜなら、彼女は、まだペトロの顔も姿も見ていないのですから。



ロデに対して、教会の人々が言い出したことは、「あなたは気が変になっている」とか、「それはペトロを守る天使(の声)だろう」ということでした。私は、この個所を読みながら、このように教会の人々が言い出した、あるいは言い張った理由は何だろうかという点を考えてみたいと感じました。



この問いに答えることは少しも難しいことではないと思います。単純明快です。一言でいえば、教会の人々は「ペトロはもはや絶対に帰って来ない」と確信していたに違いないということです。



使徒ヤコブが殺されたという事実が彼らにとってのまさに現実であったと言うべきです。ヤコブがあのように殺されたのだから、ペトロも当然殺されるであろうし、あるいはすでに殺されているかもしれないと、彼らが考えたであろうことは間違いありません。



そして、そのことが、彼らにとっての不動の確信となっていった。ペトロがわれわれのところに帰ってくることなど絶対にありえないという、ほとんど限りなく信仰に近い思いにまで至った。だから、ロデの言葉をなかなか信じることができなかったのです。



そして、ここでまた「天使」です。ロデが聞いた声は、「ペトロを守る天使だ」と彼らが言い張ったというわけです。どうやら初代教会の中には、一人一人のそばにいて、その人を守ってくれる天使の存在、守護天使のような存在を信じる信仰があったようです。私にも、そういう天使がいてくれたらいいのですが。



しかし、気になることがあります。それは、彼らが目に見えない守護天使のような存在については信じるが、ペトロが帰ってきたことについてはなかなか信じようとしなかった点です。たとえば私自身にとっては、目に見えない天使の存在を信じるよりも、ペトロが帰ってきたという話のほうが、はるかに信じやすいことなのです!



とはいえ、私は、初代教会の人々は目に見えない天使のような存在を信じる、迷信的な人々であった、というような仕方で、簡単に片付けることはできないだろうと考えます。そのようなことではなく、むしろ、ここで重要なことは先ほど触れたのと同じ点です。



考えられることは、彼らはこの場面で天使の存在を持ち出さなければならないほどまでに、ペトロが帰ってくることはもはや絶対にありえないことである、という確信を持っていたのではないか、ということです。



そして、ここでただちに考えさせられることがあります。それは、ペトロはもはや絶対に帰って来ないという確信の裏側にあるものは何かということです。



これもはっきりしています。彼らがこのような確信を抱かざるをえないほどに、当時でいえばヘロデの権力、あるいはまた、もう少し普遍的に言い直せば一つの国の最高権力者が有する力、まさしく国家権力というものは、初代教会の人々にとって大きすぎるものだった、ということです。あそこにいる、あの人々に捕まってしまったら、われわれの人生はもう終わりなのだ、と考えざるをえなかった、ということです。



もちろん、それは、今のわたしたちについても、ある程度までは、同じことが言えるのだと思います。六十年前の日本では、はっきりとそのように語る必要があったでしょう。お上に逆らうことなど、ありえないことでしたでしょう。いったんあそこに、あの人々に捕まってしまったら、何をどう言い張っても無駄であると、思い知らされたことでしょう。



いちばん短い言葉でいえば、わたしたちは国家権力をなめてはいけないのだと思います。必要以上に恐れることはありませんし、おびえる必要はありませんが、なめてかかるような態度は間違っていると言わざるをえません。



しかし、です。ペトロは教会のみんなのところに帰ってくることができました。帰ってくることができたということは、国家権力を悪用してキリスト教会を弾圧する人間(具体的にはヘロデ・アグリッパ)の策略に打ち勝ったのだ、ということに他なりません。



ここで確認しておきたいことは、国家権力を悪用する人々の策略は、敗れることもある、ということです。彼らは神ではありません。彼らは全能ではありません。彼らにも限界があり、敗れることがあるのです。



そのため、わたしたちは、彼らの手のうちに落ちたら、“絶対に”帰ってくることができない、という確信など、持つ必要がないし、持つべきではないのです。そのような“絶対”などありえないのです。



ただし、それでもなお、国家の権力者たちが、一般市民に対してそのように思いこんでしまわせる何かを持っていることは事実でしょう。彼らが持っているものは、要するに、お金と軍隊です。軍隊をもっていない権力者たちは、それを持ちたくて持ちたくて仕方がない。また、他の国よりも強い兵器や武器を手に入れたくて手に入れたくて仕方がない。



金に飽かして軍隊を動かし、思うままに自分の国を支配し、他の国まで手を伸ばそうとする。そして、自分の思いどおりに動かないとか、失敗を犯した兵隊や軍人などがいようものなら、ただちに殺し、首をすげかえる。現に、ヘロデ・アグリッパは、ペトロの脱走を阻止することができなかった番兵たちを「死刑にするように」命じたのです。



しかし、このヘロデにも、最期の日が訪れました。



ここでも、またもや「天使」が登場します。重要な場面に、ことごとく天使が登場する。これが聖書の世界です。



ヘロデ・アグリッパが腹を立てていたという「ティルスとシドン」は、ヘロデの支配下にない地域でした。異教の地でもありました。



ヘロデ王家には一応ユダヤ教の信仰的伝統は受け継がれていましたが、彼ら自身は敬虔でも熱心でもなかったことは明白です。



そのため、「ティルスとシドン」に対してヘロデが腹を立てていた理由は、その地域の人々がユダヤ教を信じなかったから、ということではなく、ただ単に、自分の思い通りにならない地域である、というだけのこと、つまり権力欲を持っている人にとって、その欲求が満たされきらない、まさに欲求不満が生じる対象であった、ということに他なりません。



しかし、そのティルスとシドンの地域の人々は、ヘロデの国(ユダヤ)から食糧を得ていたために、彼らがヘロデの支配下に全く落ちてしまうことはなくても、政治的・経済的な面で実質的にヘロデに取り入る必要があったということのようです。



そのため、その人々がヘロデが演説しているときに言ったという「神の声だ。人間の声ではない」という言葉は、要するに、おべっか、おべんちゃらのたぐいであったと考えるべきです。権力者というのは、そのような言葉を聞きたくて聞きたくて仕方がない人々であるということを、彼らは熟知していたようです。



ついでに言えば、ヘロデ・アグリッパは、“ヘロデ大王のお坊ちゃま”でしたから、親の七光りで権力の座に登りつめた人である分、あまり苦労してきていない。人の誉める言葉の裏側にある真意を読み取ることができないのです。



わたしたちは、逆のことをいつも考えておくべきでしょう。「あなたは神だ」とか「人間を越えている」とかいう言葉をもって近づいてくる人がいたら、警戒しましょう。また、人から誉められるときは、注意しましょう。間違っても、いい気になってはなりません。その言葉の裏側にある真意を、読み取りましょう。



しかし、ヘロデは、おそらく、いい気になりました。「神の声だ」と言ってもらえることに満足し、慢心し、そしておそらく興奮して、いろいろと喋りだしたのでしょう。



その演説の真っ最中にヘロデは、「主の天使」によって撃ち倒されました。神御自身の手によって裁かれたのです。



そのようにして、初代教会に、一時的な平和が訪れました。邪悪な権力者に対して教会にできることは、武器を手にして立ち向かうことではなく、本当にただ、まさに祈ることだけでした。そして、文字どおり“神に任せること”だけでした。神御自身が悪を裁いてくださることを、“ただ信じること”だけでした。



ある人々にとっては、教会のそのような態度は、全く馬鹿馬鹿しいものに見えるかもしれません。しかし、われわれは、真剣そのものです。



神でないものを神としない。神と呼ばない。神でないものに捕らわれたときに、絶対に助からないなどと信じ込むことをやめる。これらの点で、われわれは真剣そのものです。



邪悪な人々の支配は、いずれにせよ有限なものです。今の苦しみはやがて過ぎ去ります。



全き平安と喜びが、わたしたちへと訪れるでしょう。



(2007年9月16日、松戸小金原教会主日礼拝)