2007年10月7日日曜日

「復活の命の力」

使徒言行録13・26~43



今日の個所に記されているのは、パウロの説教です。パウロの説教のうち、聖書の中で読むことができる最古のものです。ただし、今日は途中から読みました。



これは、ピシディア州のアンティオキアという町の会堂(シナゴーグ)での安息日礼拝において行われた説教です。説教の前に「律法と預言者の書」、つまり(旧約)聖書が朗読されました。そして、会堂長の使いがパウロたちのところに来て、「兄弟たち、何か会衆のために、励ましのお言葉があれば、話してください」と彼らに伝え、その願いに応じる形でパウロが立ち上がり、この説教を語り始めたのです(13・14~15)。



ですから、ここで重要と思われるのは、このパウロの説教は「そのとき会堂に集まっていた会衆を励ますために語られた言葉」であるという点です。



そもそもすべての説教はそのようなものである、と言うべきかもしれません。説教は、目の前にいてくださる方々のために語られるものです。そしてまた、すべての説教は目の前にいてくださる人々を「励ます」ためのものです。説教が励ましの言葉になっていないとしたら、どこかに根本的な間違いがあるのだと、説教者たちは強く自戒すべきです。



さて、このパウロの説教は、皆さんにとってどのようなものでしょうか。先ほどすでに一度読みました。第一印象は、実はとても重要です。私自身は、このパウロの説教は必ずしも分かりやすい話ではないと感じました。かなり難しい説教である。一度聴いただけでは、さっぱり分からない。そのように感じました。皆さんは、いかがでしょうか。



42節に、このパウロの説教を実際に聴いた人々が、「次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」とあります。この人々はパウロの説教がとても素晴らしいと思ったので、このようにお願いしているのでしょうか。もちろんその面もあるだろうと思います。しかし、ちょっと引っかかるのは、なぜ「同じ話」なのかという点です。



44節に明らかにされていることは、「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た」ということです。これで分かることは、今週パウロの説教を聴いた人々が、来週には、たくさんの人を誘って一緒に聴きに来た、ということです。良い説教ができたときには、来週も同じ説教をする、というのは、悪くない方法かもしれません。



しかし、です。この人々が、なぜ次の安息日にも「同じ話」を要求したのかという点で、もう一つ考えられることがあります。それは、やはり、この説教は一度聴いたくらいでは十分に分からなかった、ということではないだろうか、ということです。



ただし、です。もう一つ感じた印象は、いくらかパウロを弁護するものです。この説教を聴いていた人々は、(旧約)聖書についての知識を非常に豊富にもっている人々であったに違いないということです。このあたりはわたしたちとはいくらか違う点かもしれません。



実際、この説教の冒頭(16節)でも、26節でも、パウロはこの説教を聴いている人々を「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々」(16節)、「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち」(26節)と呼んでいます。



これで分かることは、外国に住むユダヤ人たちは、安息日ごとに会堂に集まって(旧約)聖書を一生懸命に勉強していたに違いないということです。一を聞けば十を知るほどまでに。だからこそパウロは、(旧約)聖書の出エジプト記のモーセたちの四十年の荒れ野の旅からサムエル記のダビデ王の着任までのほとんど千年分くらいの話を、短い言葉で一気に語りきることができたのです。



そして、「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」(23節)とパウロは語ります。このように語ることによって、パウロは、キリスト教会のかしらなる救い主イエス・キリストと(旧約)聖書との歴史的なつながりを明確にしているのです。モーセも、ダビデも、すべてキリスト教会のかしらなる救い主イエス・キリストと歴史的には明らかにつながっているし、彼らこそがイエス・キリストの道備えをしてきたのである、と語っているのです。



つまり、パウロがこの説教の中で最初に強調しているのは、(旧約)聖書とキリスト教会の連続性の要素です。さらに言えば、(旧約)聖書とエルサレム神殿を中心に据えるユダヤ教団の存在とキリスト教会との連続性の要素も強調されていると考えてよいでしょう。



しかし、です。あるいは、だからこそ、です。歴史的に見れば明らかに連続していると語りうる二つの存在、すなわち、旧約聖書とキリスト教会、ないしエルサレム神殿の宗教とイエス・キリストの宗教、その両者の関係を理解できない、受け入れようとしないその人々は、あのエルサレムに住む人々であり、その指導者たちである、とパウロは明言しています。そして、その人々が、イエス・キリストを罪に定め、死刑にした、ということを明らかにしています。



「『兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました。エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました。』」



ただし、です。重要と思うことを付け加えておきます。それは、これはパウロの説教である、ということです。どういうことか。パウロという人は、イエス・キリストが十字架にかけられたときにはまだ、(パウロ自身の言葉を借りて言えば)「エルサレムに住む人々やその指導者たち」の側に立っていた人である、ということです。この点が忘れられてはならないのです!



パウロは、そのような自分の過去などは全く忘れ去ってしまって、今ではもうすっかりイエス・キリストとキリスト教会の側に立ってしまった上で、エルサレムに住むあの連中が悪い、全くひどい連中だと、まるで他人事のように、知らん顔して、相手方を一方的に責め立てているのでしょうか。そんなふうにパウロの説教を聴いたり、あるいは読んだりしてよいでしょうか。それは違うと、私は思います。



パウロは、この説教を語りながら、胸の痛みを感じていたと思います。キリキリ痛んでいた。パウロは、そういう人です。パウロが自分の心の痛みを告白していることで有名なのはローマの信徒への手紙9・1以下です。その個所にパウロは「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(ローマ9・2)と書いています。「肉による同胞」であり、「兄弟」であるユダヤ人たちのことで胸が痛いと言っています。パウロにとってユダヤ人たちのことは他人事ではなかったからです!



この「他人事でないと感じること」、胸がキリキリ痛むこと、このあたりがどうも、先週の説教の中で私が触れました、伝道者パウロの“怒りっぽさ”という点と大いに関係あると思われてなりません。



パウロの目から見るとイエス・キリストを受け入れようとしないユダヤ人たちの姿は、ついこのあいだまで自分自身もそうであった姿に見えたことでしょう。パウロからすると、自分自身がかつて、いや、ついこのあいだまでそのような者であっただけに、しかし今は、全く違う者へと造りかえられたと感じるほどに、わたしはイエス・キリストの側に立っている、と実感できる人間になっているゆえに、イエス・キリストを受け入れないユダヤ人たちの姿を見れば見るほど、イライラするような感覚にとらわれたのではないでしょうか。



私は今、パウロが怒ったりイライラしたりすることが良いことだと言っているわけではありません。申し上げたいことは、パウロの怒りや苛立ちには、明らかに理由があったということだけです。イエス・キリストを受け入れないユダヤ人たちの姿に、かつての自分自身の姿を見いだしていたに違いないのです。



伝道者パウロの怒りには、悪い側面ももちろんあります。しかしまたそれは、パウロを伝道へと押し出す力、パウロをして「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)と言わしめた力(爆発力!)の源にもなっていたのではないかと見ることができるかもしれません。



「『しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです。このイエスは、御自分と一緒にガリラヤからエルサレムに上った人々に、幾日にもわたって姿を現されました。その人たちは、今、民に対してイエスの証人となっています。わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです。(中略)ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです。だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです。』」



この説教の後半部分、すなわち、話題の中心にあることは怒りでも裁きでもありません。今ここで御言葉を語っているパウロは、怒りに任せて相手を怒鳴りつけるようなパウロではありません。イエス・キリストにおける救いの事実を告げ知らせる福音の使者、慰めと励ましの説教者です。



そして、この説教の中心にあるのは、イエス・キリストは死者の中から復活された、ということです。



イエス・キリストの復活が、なぜ「励まし」なのでしょうか。死者がよみがえることが、なぜ喜びの知らせなのでしょうか。パウロが挙げている理由は大きく分けて二つあります。



第一は、主なる神は、救い主イエス・キリストを死者の中から復活させてくださること、すなわち、「朽ち果てるままにしておかれないこと」によって、ダビデの子孫たち、神の民イスラエルに属する人々に対する「約束」を守ってくださった、ということです。



言葉を変えて言えば、天地の造り主なる神は、御自身の民との間にお立てになる約束に対して、どこまでも忠実であり続けてくださる方である、ということです。



約束を守り抜いてくださる方は、信頼できる方です。約束を破る人は、信頼されません。この単純な真理において、「神さまは永遠に信頼しうるお方である」と示すことにおいて、パウロは、人々を励ます言葉を語っているのです。



第二は、神が復活させてくださった救い主、イエス・キリストによる罪の赦しの恵みは、永久に有効であるということです。「朽ち果てる存在」が提供する罪の赦しの恵みなるものがたとえあるとしても、それは、その存在が朽ち果てると同時に、効力を失うのです。



しかし、そうではない。イエス・キリストは、永遠に生きておられるのです。



その方の救いのみわざ、罪の赦しの恵みは、いつまでも朽ちることも変わることもない無限の力を持っているのです!



(2007年10月7日、松戸小金原教会主日礼拝)