使徒言行録13・44~52
今日の個所において明らかにされているのは、パウロとバルナバの伝道には“光の面”と“陰の面”があった、または“喜びの側面”と“悲しみの側面”があったということである、と表現できるかもしれません。
どういうことでしょうか。御言葉を読みながらご説明したいと思います。
「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群集を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。」
伝道における“光の面”と“陰の面”、あるいは“喜びの側面”と“悲しみの側面”とは何なのか。それは、わたしたちがすでに、十分に味わい尽くしていることです。
それは何なのか。神の御言葉を宣べ伝えるわざは、たとえそれを教会と説教者とがどれほど力強く熱心に、あるいは念入りかつ用意周到に行ったとしても、そこで必ず、信じて受け入れる人々と同時に、信じることも受け入れることもしない人々が現われる、ということと関係があります。
それどころか、教会と説教者が神の御言葉を宣べ伝えるわざを行うことに力強く熱心であればあるほど、かえってますます力強く熱心に反対してくる人々が現われると言うべきかもしれません。
先週と先々週、ピシディア州のアンティオキアの会堂(シナゴーグ)で行われたパウロの説教を学びました。その説教を聴いた人々が「次の安息日にも同じことを話してくれるように」(42節)パウロに頼みに来ました。そして次の安息日は、「ほとんど町中の人々」がパウロの説教を聴くために集まってきたというのです。
これはすごいことだ、と思わされます。16世紀の宗教改革者カルヴァンは、使徒言行録13・44の解説として、面白いことではありますが、わたしたちにとっては身につまされる(他人事でない)ことを書いています。
「人々が大勢集まったということによって、次のことが立証される。すなわち、パウロとバルナバとは安息日から安息日までの間を、遊んで暮らしていたのではなく、ふたりが異邦人のために尽した労苦は決して無用ではなかったということだ。というのは、人々の心が非常に立派に導かれたために、皆がもっと十分にその全部を知りたいと願ったからだ」(『新約聖書註解 使徒言行録 上』、益田健次訳、新教出版社、1968年、409頁)。
カルヴァンが書いていることを別の言葉で言い換えると、どうなるか。要するに、主の日ごとに行われる教会の礼拝に集まる人々の人数によって、教会と説教者が(とくに説教者が!)、主の日から主の日までの間を「遊んで暮らしていたかどうか」が分かる、ということです!
これは恐るべき言葉であり、聞くのもつらい言葉ですが、無視することはできません。説教の出来栄えとそれを聴きたいと願い、実際に足を運ぶ人々の人数は、決して無関係ではない、ということです。
しかし、です。これから申し上げることは、ぜひご理解いただきたいところです。それは教会の教師、説教者たちにとっては、説教の準備のための苦労ならば、いくらでもする覚悟があるということです。
少なくともわたしたち改革派教会の教師たちは、礼拝の説教にこの命をかけてきました。他の仕事や働きの面で「がんばれ」と言われても、たいていの教師が不器用で、情けないほど何にもできません。しかし、その分、礼拝の説教に全力を注いで来たのです。
カルヴァンが書いていることも、ぜひそのような意味でご理解いただきたいと願っています。説教の準備のために力を注がないこと。いいかげんで済ましてしまうこと。説教の準備以外の事柄に時間と力を奪われてしまうこと。このことを指して、カルヴァンは、「〔一週間を〕遊んで暮らしていた」と言っているのです。
そして、もう一つ申し上げておきたいことは、説教者たちにとって、説教の準備のための苦労と苦闘、また御言葉に反対する人々が現われること自体は、伝道における“悲しみの側面”ではなく、“喜びの側面”に属することなのだ、ということです。
“悲しみの側面”とは、何のことでしょうか。今申し上げていることは、それは、教会が宣べ伝える神の御言葉を信じないで、反対し、立ち向かってくる人々がいる、ということ自体ではない、ということです。
説教を聴いて反発を感じるとか、意見を述べることは、何の問題もないどころか、当然のことであり、歓迎すべきことです。説教は一方通行であってはなりません。説教も十分な意味で「対話」であり、「コミュニケーション」なのです。
それでは“悲しみの側面”とは何でしょうか。答えを言います。それは、伝道の現場には、必ずと言ってよいほど、パウロたちの前に集まって御言葉を熱心に学ぼうとしている大勢の人々の姿を見て、ひどくねたみ、口汚くののしる、まさしく今日の個所に出てくるユダヤ人たちのような人々が現われることです。
わたしたちの場合でいえば、わたしたちが日曜日ごとに教会に通うことを快く思わず、何とかして邪魔をし、妨害しようとする力の問題です。そのような力が強く働きはじめるとき、わたしたちが痛感することは、伝道における“悲しみの側面”なのです。
神の御言葉の真理を学び尽くすためには非常に長い時間がかかると思います。一回聴くだけで分かるという人はいません。われわれの持っている聖書は、外国語の辞書、あるいは日本の六法全書(市販のもの)は、同じくらいの重さ(重量)です。これをわたしたちは文字どおり一生かけて学んでいくのです。必要なことは“学ぶ”ことです。“知る”とか“感じる”ということ以上です。
聖書を“学ぶ”ためには、間違いなく、多くの時間がかかります。とにかく長く続けること、地上の人生が終わるまで続けること、それが教会生活にとって重要なことなのです。
そのことをぜひ自覚していただきたいのです。反発を感じることは、何の問題もありませんし、むしろ当然のことであり、歓迎されるべきことでさえあります。反発を感じるということは、その人が御言葉を聴いている証拠だからです。聴いていない言葉には、反発を感じることもありません。
教会生活をやめ、御言葉を聴くことをやめてしまうこと、あるいは、何らかの外的な力が働いて“やめさせられること”。
そのような人々の姿を見ることが、教会と説教者にとっていちばんつらいこと、悲しいことなのです。伝道の現場において、それを見なければならない場面がある。それこそが“悲しみの側面”なのです。
「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。』」
パウロは、ここでもやはり、少し腹を立てているように読めなくもありません。しかし、パウロたちが語っていることは、ユダヤ人たちに対する“厳粛かつ冷静な抗議”です。
ユダヤ人たちのどの部分に対する抗議なのでしょうか。それはもちろん、その場にいた異邦人たちが神の御言葉を熱心に学ぼうとしているのを妨害してきたことに対して、です。
彼らはなぜ邪魔するのでしょうか。なぜ「口汚くののしる」のでしょうか。異邦人たちの自由に任せたらよいではありませんか。
彼らは、なぜ干渉するのでしょうか。他人のしていることに、やかましく口を出すのでしょうか。「キリスト教だけは絶対にやめなさい」と言いはじめるのでしょうか。全く余計なお世話です。わたしたちの理解の範囲を超えるものがあります。
「『見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。」』異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った。こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。」
ここでパウロたちは、一つの重大な決心を口にしています。「わたしたちは異邦人の方に行く」。これは、神の御言葉を信じることも受け入れることもしない、あなたがたユダヤ人たちの方ではなく、という意味です。彼らは、実際にそうしました。
そして、御言葉を信じることも受け入れることもしない人々に対し、「足の塵を払い落として」出て行きました。腹いせで行っていることではありません。神の言葉の尊厳を守るために行っていることであると、理解すべきです。
ユダヤ人たちは、ある意味で喜んだと思います。目の上のたんこぶが自分たちの側から「別のところに行く」と言いはじめ、実際にそうしてくれたのですから。
しかし、です。重要なことは、このときパウロたちは、ユダヤ人たちの前から、尻尾を巻いて逃げたわけではないということです。伝道が思うように進まないから、ここで伝道するのはもうやめた、という話ではない、ということです。
この点でパウロは、きわめて戦術家であり、戦略家であったと言うべきです。ローマの信徒への手紙に、次のように書いてあるとおりです。
「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。・・・わたしは異邦人の使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(ローマ11・11~14)。
短くいえば、パウロが異邦人伝道を志した真の理由はユダヤ人の救いのためであった、ということです。パウロの願いは、異邦人が先に救われ、喜びの人生を送りはじめることによって、その姿を見るユダヤ人の心の中に「ねたみ」が起こることでした。「あの人々があんなに喜んで生きているには何らかの理由があるに違いない」。キリスト者の姿を見て、そのように思い、キリスト教会に通いはじめる人々が多く起こされることを願いました。それこそが、パウロの異邦人伝道の真の目的であり、動機だったのです。
なんと“壮大な”話でしょうか。これは、間違いなく“途方もない回り道”の話です。自分の家族のだれかが、信仰を受け入れてくれない。その人を何とかして信仰に導くために、隣近所の人々をまず先に導き、その人々自身が心から喜んで信仰生活を送っている姿を(信仰を受け入れない)自分の家族に見てもらい、信仰生活を始めるかどうかを考えてもらうのだ、と言っているようなものです。
伝道とはまさにそのようなものであると申し上げておきます。わたしたちが聖書を学ぶために一生の時間が必要であるように、教会の伝道にもとてつもない時間がかかるのです。
しかしそれは伝道における“陰の面”ではなく“光の面”です。伝道に時間をかけないこと、地道でないこと、すぐに目に見える成果を求めて挫折してしまうことが“陰の面”なのです。
(2007年10月14日、松戸小金原教会主日礼拝)