使徒言行録14・1~20
今日の個所にもパウロとバルナバの海外宣教の様子が記されています。先週わたしたちは石丸新先生をお迎えして特別伝道集会を行いました。伝道とは何でしょうか。この問いを考えながら、今日の個所をご一緒に読んでいきたいと思います。
「イコニオンでも同じように、パウロとバルナバはユダヤ人の会堂に入って話をしたが、その結果、大勢のユダヤ人やギリシア人が信仰に入った。」
「イコニオンでも同じように」の「同じように」の意味は、ほかの町で行ったのと同じように、ということではありません。ほかのユダヤ人たちと同じように、という意味です。ユダヤ人たちは安息日ごとに会堂に集まっていたのです。パウロたちは、「ユダヤ人たちと同じように」、安息日ごとに会堂に足を運んだのです。
そして、パウロたちは、ユダヤ人の会堂に入って「話をした」とあります。これは文字どおりの意味で理解すべきです。申し上げたいことは、ここで「話をした」には「御言葉を宣べ伝えた」というほどの強い意味はない、ということです。
彼らは、まさに文字どおり「話をした」だけかもしれないと考えてみる必要があります。「おしゃべりをした」というほどの意味かもしれません。とにかく強い意味はありません。おそらく本当に、ただ「話をした」だけなのです。
わたしが今ここで何を言おうとしているのかは、おそらくすぐにお気づきいただけることです。二千年前のパウロたちが、イコニオンという町で伝道をしました。その方法は、毎週の安息日に、ユダヤ人たちの集まる会堂にとにかく足を運び、もちろんそこでユダヤ人たちと顔を合わせ、そこでとにかく「話をする」ということであった、ということです。
伝道においてはこういうことが大切なのです。営業の訓練のようなものです。地道に足を運ぶ。顔をつなぐ。話をする。これが信頼を獲得するための方法です。すなわち、相手がこのわたしの言葉に耳を傾けてくれるようになるための信頼関係を構築していくための、おそらく唯一の方法なのです。
この点では伝道も同じです。伝道とは神の御言葉をこのわたしの言葉で伝えることです。もしこのわたしの言葉に耳を傾けてくれる人がいないとしたら、伝道は絶対に成り立ちません。そして、このわたしの言葉に耳を傾けてくれる人が起こされることと、このわたしが周りの人々から信頼されるようになることとは無関係ではありません。信頼できない人の言葉を誰が聞くでしょうか。「わたしのことは信頼してくださらなくても結構ですから、わたしの語る言葉を信じてください」という言い方が通用するでしょうか。信頼できる人が語る言葉だから聞くのです。伝道の前提には人間同士の信頼関係がある、ということを考える必要があるのです。
ただし、そこで大事なことは、そのようにする目的は何なのかを、はっきりと認識し、把握しておくことだと思います。教会の目的は伝道です。ただ仲良くなればよいということではありません。
また、伝道に関してわたしたちが知っておくべき、もう一つの点があります。それは、伝道においては、どれだけ時間をかけても、地道に足を運んで話をすることによって信頼関係を築き、神の御言葉の真実を語り、救いの喜びを伝えたいと願っても、全く逆の方向に事柄が展開していくことがありうるということです。
「ところが、信じようとしないユダヤ人たちは、異邦人を扇動し、兄弟たちに対して悪意を抱かせた。それでも、二人はそこに長くとどまり、主を頼みとして勇敢に語った。主は彼らの手を通してしるしと不思議な業を行い、その恵みの言葉を証しされたのである。町の人々は分裂し、ある者はユダヤ人の側に、ある者は使徒の側についた。異邦人とユダヤ人が、指導者と一緒になって二人に乱暴を働き、石を投げつけようとしたとき、二人はこれに気づいて、リカオニア州の町であるリストラとデルベ、またその近くの地方に難を避けた。そして、そこでも福音を告げ知らせていた。」
パウロたちの前で起こったことは、御言葉を受け入れて信仰に入った人々と、そうではない人々とに分けられた、ということです。しかも、そのことがただ個人的な問題であるとか、心の中の問題であるというような次元に収まるものではなかったことが分かります。
町が分裂しました。そして文字どおりの「暴動」が起こりました。物理的な暴力をもって、パウロたちを町から排除しようとする、あるいは殺そうとする人々が現れたのです。社会問題、政治問題へと発展したのです。
伝道がただ単に「友達を増やすこと」にとどまるものではないし、それだけであってはならないと言われる点の理由が、ここにもあるように思います。もし伝道が「友達づくり」にとどまるものであるならば、迫害など起こりようがないのです。
なぜ迫害が起こるのでしょうか。神の御言葉は、真理そのものだからです。真理というものは、それを愛する人々にとっては救いとなります。しかし、この世の中には、真理を憎む人々もいるのです。真理を突きつけられると、偽りに満ちた自分自身のあからさまな姿が、暴露されるからです。そこで素直に悔い改めることができればよいのですが、悔い改めるどころか、逆恨みする。真理を嘲笑し、攻撃し、排除しようとするのです。
パウロたちは、石を投げつけようとする人々に気づいたときには、「難を逃れた」とありますとおり、要するに逃げました。それでよいのです。野蛮な人々の暴力によって怪我をさせられる必要はありません。暴力に対して暴力によって立ち向かうことが勇敢さを示す道ではありません。御言葉の宣教において、福音の伝道において、その言論活動において、真理を真理として語ることができる。反対者に屈しない。それが真の勇敢の道なのです。
さて、次の段落には、イコニオンで起こった暴動から逃れて辿り着いたリストラという町での出来事が記されています。このリストラの町で起こったことは、イコニオンで体験したこととは、かなり違うものでした。
「リストラに足の不自由な男が座っていた。生まれつき足が悪く、まだ一度も歩いたことがなかった。この人が、パウロの話すのを聞いていた。パウロは彼を見つめ、いやされるのにふさわしい信仰があるのを認め、『自分の足でまっすぐに立ちなさい』と大声で言った。すると、その人は踊り上がって歩きだした。群集はパウロの行ったことを見て声を張り上げ、リカオニアの方言で、『神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった』と言った。そして、バルナバを『ゼウス』と呼び、またおもに話す者であることから、パウロを『ヘルメス』と呼んだ。町の外にあったゼウスの神殿の祭司が、家の門の所まで雄牛数頭と花輪を運んで来て、群集と一緒になって二人にいけにえを献げようとした。」
パウロたちは、何をされたのでしょうか。最も短く言えば、神さま扱いされたのです。言うならば、祀り上げられたのであり、神棚の上にあげられそうになったのであり、神社が建てられそうになったのです。
パウロたちがしたことは、生まれたときから一度も歩いたことがなかった、足が不自由な人を立たせたことでした。絶対にありえないと思われてきたことが、ありえた。不可能を可能にする人が現われた。それが、パウロたちが神扱いされた理由であると思われます。こういう話は、わたしたち日本人にとっては少しも珍しいことではありません。日本には、そこいらじゅうに「カミサマ」がたくさんいるではありませんか。
そして、日本の中では、周りの人々に神扱いされている人は、私の知る限り、そのことを喜んでいるし、満足しているように見えます。謙遜のために笑いながら否定することはあっても、むきになって否定するようなことはないのではないかと思います。「あなたは神である」と言われて、悪い気はしないのではないでしょうか。
これが、先ほど私が申し上げた、イコニオンでの出来事とリストラでの出来事との違いであると感じられる点です。彼らがイコニオンで味わったのは、信仰に入る人々を得ることができたという喜びと同時に、厳しい迫害でした。しかし、リストラで味わったのは、神扱いです。ある意味で迫害の正反対です。うやうやしく扱われること、最大限の尊敬を受けることです。ほめたたえられること、絶賛されることです。尊敬され、ほめられて、腹を立てる人がいるでしょうか。通常はニッコリ笑う場面ではないでしょうか。
ところが、です。パウロたちはこの点では、わたしたち日本人の多くがとる態度とは、おそらく全く違います。彼らは本当に腹を立て、むきになり、必死になって、「わたしたちは神ではない。わたしは神ではない」ということを、声を大にして主張したのです。
「使徒たち、すなわちバルナバとパウロはこのことを聞くと、服を裂いて群集の中に飛び込んで行き、叫んで言った。『皆さん、なぜ、こんなことをするのですか。わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。この神こそ、天と地と海と、そしてその中にあるすべてのものを造られた方です。神は過ぎ去った時代には、すべての国の人が思い思いの道を行くままにしておかれました。しかし、神は御自分のことを証ししないでおられたわけではありません。恵みをくださり、天からの雨を降らせて実りの季節を与え、食物を施して、あなたがたの心を喜びで満たしてくださっているのです。』こう言って、二人は、群集が自分たちにいけにえを献げようとするのを、やっとやめさせることができた。」
パウロたちは、なぜ、神さま扱いされることを嫌がったのでしょうか。理由は明白です。わたしたちの信仰、キリスト教信仰がそれを許さないのです。
人間は神ではない。人間は神によって造られた被造物である。創造者と被造物の間には、永遠の隔たりがある。被造物はいかなる意味でも神ではない。もしこの点がゆるがせにされるならば、キリスト教信仰の終わりを意味する。教会のいのちの終わりを意味するのです。
教会は、神は神であること、そして人間は人間であることを重んじます。人間が神になること、人間を神にすることは許されていないのです。人間が人間として生きること、「人間らしく生きること」のうちに真実があり、誠実さがあります。神を名乗る人間はすべてでたらめな存在なのです。
今日は宗教改革記念礼拝として行っています。敬意をこめて、宗教改革者カルヴァンの言葉を引用しておきたいと思います。
カルヴァンは今日の個所の注解のなかで興味深いことを書いています。それは、説教には二つの段階がある、ということです。
第一の段階は「無根のでっち上げられた無数の神々を取り除くこと」であり、第二の段階は「天と地の創造主であるこの神はどんなかたであるかを教えること」です(カルヴァン『新約聖書註解 使徒行伝下』、益田健次訳、432ページ参照)。
わたしは、これを「説教の二つの課題」と呼んでおきます。二つともどうしても避けて通れないことです。神ではないものを「神ではない」と語ること。すなわち、人間は人間であり、物は物であると語ること。正直に語り、あるがままの存在を指し示すこと。うそを言わないこと、言わせないこと。これが説教の第一の課題なのです。
そして、まことの神とはどんな方であるかを教えることが説教の第二の課題なのです。
(2007年10月28日、松戸小金原教会主日礼拝)