2002年2月20日(2007年10月20日加筆修正)
昨日〔2002年2月19日〕、私は、ほぼ丸一日かけて、日本史上最初にプロテスタント・キリスト教を宣べ伝えたことで知られる米国オランダ改革派教会宣教師、S. R. ブラウン[1810~1880年]の書簡集を読んでいました。全378ページもある、第一級の歴史資料です。
日本におけるブラウンの働きについては、短い文章で書くことは不可能なほど大きなものがありました。とくに彼が力を注いだのは、聖書を日本語に翻訳すること、日本のプロテスタント神学校の先駆けとなったブラウン塾の創立、そして日本史上最初のプロテスタント教団となった「日本基督公会」の創立などに集約されます。
書簡の内容の多くは献金依頼のために割かれています。あるときは「母教会〔米国オランダ改革派教会〕が『ケチ』だと非難されたり、母教会の名が『なまけもの』だとか『利己心』と同義語に使われるのは堪えられません」(同上書、187ページ) という殺し文句まで用いながら。現実世界に生きている者として当然の要求であり、宣教師の責任に属する事柄です。
このブラウンは日本伝道に大きな夢を持っていました。1862年11月8日の書簡には、次のように記されています。
「わたしは、しばしば、独りごとに、いや仲間にも言っているのですが、この日本国がキリスト教国となったら、どんなにすばらしいだろう、と。この国民に福音の喜ばしい感化を与えることができるよう、神は力をあらわしてくださるでしょう。もしそうなれば、日本を地上の楽園とすることも不可能ではありません。この美しい谷や野原、山腹、農家、村落、町村、都市、全国どこにでもきかれる『南無阿弥陀仏』という祈祷が『なんじ、高きにいます神よ』または『天にましますわれらの父よ、み名をあがめさせたまえ』という祈りに変わる時代は現に来つつあるのです。」 (同上書、115~116ページ)
ブラウン宣教師がこの夢を見たときから、はや140年。はたして、日本は「地上の楽園」になったでしょうか。彼はナイーブな楽天家でありすぎたのでしょうか。
また、1872年9月28日の書簡には、「日本基督公会」という教団名称の意味に関して次のように記されています。
「神よ願わくは、日本におけるキリスト教の発達に関心を持つ者として、同一なる公会の精神と統一した目的とに結合されて、キリスト教国における教会の美をはばむ分派をば、できるかぎり、この国から排除せられんことを。そして、もし、ただ組合教会とか、長老教会とか、リフォームド教会とかの相違が、異教徒に見えないよう、かくされてしまって、教会のこれらの分派が、少しもあらわれずに…すべてのものが、ひとりの共通の『主』と『かしら』につらなって、一つの教壇に立ちうるようになったならば、わたしたちの後から日本に来るものは、どんなに幸いでありましょう。」(同上書、286ページ)
「公会主義」と称せられるこのブラウンの夢は、しばしば、現在の日本における最大のプロテスタント合同教団である「日本基督教団」の存在を肯定的に評価する人々によって引用されるものでしょう。
しかし、これについて我々はどのような評価を下すべきでしょうか。たとえば熊野義孝先生の文章に見られるような「反省」、すなわち、「ただ聖書にのみ即する神学であるならば、それは単一全般的な神学であることを観念的に誇りうるかも知れないが、すでに伝統といふ以上、そこには諸教会の伝統が並存しているのであるから、現実的にはもはや教派的ならざる神学は存在しがたいではないか、といふ反省が促される」(熊野義孝著『教義学』、第一巻、新教出版社、1954年、45~46ページ)という物言いは、ブラウンが警戒する「キリスト教国における教会の美をはばむ分派」を促進するものとみなされるべきなのでしょうか。
はたして、すべての教派の存在は、すなわち「分派」なのでしょうか。このようなことを言いながら、ブラウン自身は紛れもなく「米国オランダ“改革派”教会」の宣教師以外の何ものでもなかったのではないでしょうか。彼はやはり、あまりにもナイーブすぎたのでしょうか。やや手厳しく言えば、「公会主義を説く改革派宣教師」ブラウンは自分自身の中で存在と思想が内部分裂を起こしていた、と言えないでしょうか。
しかし、私はこのようなことを考えながら、ブラウンの次の文章を読んでいたとき、思わずハッとさせられるものを感ぜざるをえませんでした。
「今、この国土〔日本〕から、改宗者が集められている、宣教の初期において、イエス・キリストを愛するものは、すべて、この地の教会が一つで、分かれることなく、わたしたちの本国の教会とか、他の国の教会のように、分派によって、異教徒を迷わし、教会の力を弱めることなく、むしろ「日本基督公会」(the Church of Christ in Japan)という、そうした土台をおくことを要望するに相違ないと思います。」(同上書、282ページ)
この文章が書かれたのは「1872年9月4日」です。この時期、アメリカの教会や「他の国の教会」が分裂し、その結果として教会の力が弱まっていたことはなるほど確かです。
ブラウンの時代、アメリカ全土は南北戦争で悩まされ、その影響で教会もまた南・北に分裂していき、互いに争い合うなどの悲劇を味わっていました。彼の書簡集にも繰り返し、わたしの悲しみは南北戦争だと書いています。
また、オランダ系アメリカ人たちの精神的故郷であるオランダ本国の改革派教会(国教会系と称されるNHK教会が米国RCAの出自)も1834年に起こった「第一次大分裂」(アフスヘイディングと呼ばれる)の傷がいえぬまま、1886年にはアブラハム・カイパーをリーダーとするグループのNHKからの離脱が起こります(「第二次大分裂」「ドレアンシー」などと呼ばれる)。つまり、ブラウンが生まれた1810年のオランダ王国に存在した唯一の「改革派教会」は、ブラウンの死(1880年)の後まもなく、三つの「改革派教会」へと分裂してしまうのです。
ブラウンの思いの中にこれがあったのではないか。オランダの国土は日本の九州地方と同じくらいの面積しかないと言われます。その狭い国の中でなぜ「オランダ改革派教会」が分裂しなければならないのか。なぜ「改革派教会」は一つではありえないのか。書簡集によるとブラウンは、米国オランダ改革派教会の機関紙“Sower”(種まく者)などを日本ミッション宛に定期的に送ってもらっていました。そこから当然、オランダ改革派教会の分裂情報の詳細も逐一伝えられていたはずです。
今日の評者がブラウンたちの「公会主義」をいろいろと批判することについては、その自由が確保されて然るべき面があるでしょう。しかし、その際に我々が考慮すべきであろうことは、まさに当時、彼自身が「母教会」と呼んで愛していたアメリカやオランダの「改革派教会」が分裂の真っ最中であった、このことを彼は深く憂慮し、何とかしなければならないと心に誓い、神に祈っていたのではないかという点です。
オランダ改革派教会の牧師であり神学者であったアーノルト・A. ファン・ルーラー(1908年~1970年)は、1969年に「家庭内争議の終焉」 と題する講演を行い、その中でオランダ国内における「改革派ファミリー」が再一致すべきこと、そして、「西暦2000年までに」再合同すべきことを呼びかけました。具体的には彼の属する国教会系NHKと上記カイパーが創立したGKNとの再合同です。
ファン・ルーラーの夢の実現は残念ながら西暦2000年には間に合いませんでした。[しかし、まもなくゴールに到達しようとしています。もちろん、まだまだ多くの問題が山積されたままのようですが。](2004年にオランダプロテスタント教会が誕生しました)。
私の夢もまた、日本においても、せめて「改革派・長老派の伝統を継承する諸教会」は再一致すべきであり、可能ならば再合同すべきではないだろうかということにあります。
外資系の教派はともかく、国内で自立して行かなければならない国内の改革派・長老派諸教派は、このままだと共倒れの危険がありはしませんか。
一般企業ならば、とっくの昔に合併整理されているような危ない橋を我々は「信仰で乗り越えていく」という。もちろんそうに違いないのですけれども。
しかし、しかし、です。今や、我々教会人たちが信仰をもって生きていくための基盤としてのこの世の生活そのものが脅かされつつあるという紛れも無い事実を、我々はどのように考えるべきでしょうか。
この場合の「我々教会人たち」とは、牧師ひとりだけではなく、教会役員たち、信徒のみなさんも含みます。会堂建築ブームで教会が抱える借金は膨れ上がり、「自由献金」として始められたものは、やがて各個教会の負担金と化して行く。“増税感”は否めません。我々は観念の中だけで生きているのではないのです。
構造改革・意識改革の必要は、現在の教会の中にこそあるのです。それは教団・教派を越えた課題であると私は考えております。