2007年9月30日日曜日

「励ましの言葉」

使徒言行録13・13~25



「パウロとその一行は、パフォスから船出してパンフィリア州のペルゲに来たが、ヨハネは一行と別れてエルサレムに帰ってしまった。パウロとバルナバはペルゲから進んで、ピシディア州のアンティオキアに到着した。そして、安息日に会堂に入って席に着いた。律法と預言者の書が朗読された後、会堂長たちが人をよこして、『兄弟たち、何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください』と言わせた。そこで、パウロは立ち上がり、手で人々を制して言った。」



先週から使徒言行録の後半部分に入りました。後半部分の中心テーマは教会の海外伝道です。先週の個所からサウロは「パウロ」に変わりました。パウロは外国で通用しやすい名前なのです。これがいちばん単純な説明であると思います。



しかし、パウロとバルナバの宣教旅行は、名前を変えれば何とかなるというような単純なことでは済みません。単純なことでも簡単なことでもありませんでした。そのことがすぐに明らかにされています。



先週の個所には地中海のキプロス島伝道の様子が書かれていました。キプロスの歴史に少しだけ触れておきます。キプロスは紀元前76年にローマ帝国に併合されていましたが、非常に早い時期からキリスト教信仰を受け入れ、今日までキリスト教の伝統を受け継いでいる島です。そのキプロスのキリスト教史の最初期にバルナバとパウロの二人が関与していたことが明らかにされているのです。



しかし、その内実は非常にたいへんなものでした。とくにパウロは、一人の偽預言者との激突を余儀なくされました。詳しい内容は省略いたします。



それでもその結果は良かったというべきです。キプロス島駐在のローマ総督がキリスト教信仰を受け入れました。パウロとバルナバ、この二人の伝道が成功をおさめたのです。



ただし、です。前後関係から見ればキプロス伝道がきっかけになったとも思われるのですが、伝道者たちの間になんだかちょっと変な感じの動き、不穏な空気が始まった様子も見てとれるのです。今日の個所の最初に書かれていることが、それです。



何が分かるのでしょうか。少なくとも二つのことがはっきりと分かります。



第一に分かることは、ここに書いてあるとおり、「ヨハネ」がエルサレムに帰ってしまうという衝撃的な出来事が起こったということです。



このヨハネは「マルコ」とも呼ばれた人です。この人物、ヨハネ・マルコがパウロとバルナバの助手として彼らと一緒に海外伝道に出かけたわけですが(13・5)、何があったのでしょうか、結果的に二人の伝道者の前から助手が逃げ出して、エルサレムに帰ってしまったのです。



第二に分かることは、ここに書いてあることをじっと見なければ分からないことですが、先週の個所までは二人の伝道者の名前は「バルナバとサウロ」と紹介されていましたが、今日の個所からは「パウロとバルナバ」と紹介されているということです。



問題は、名前が紹介されている順序です。順序は決して無関係ではありません。キプロス島の事件が起こるまでは、この伝道チームの中ではバルナバのほうが主導権を握っていた。ところが、この事件が起こってからは、今度はパウロのほうが主導権を握るようになったのだと考えることができるのです。それほど名前が紹介される順序は重要なのです。



また、13節にははっきりと「パウロとその一行は」と記されています。その意味は、この宣教団体(ミッションボード)のリーダーはバルナバではなくパウロであるということです。



そして、私は今申し上げましたこの第二の点と、先ほど申しました第一の点、すなわち、ヨハネ・マルコが海外伝道の仕事を事実上途中で放り投げてエルサレムに逃げ帰ってしまったこととは無関係ではないように思われてなりません。



結びつけ方は強引かもしれません。しかし、こういうことは現実の伝道、現実の教会においては決して珍しいことではないということを考えざるをえません。



私の読み方は次のとおりです。彼らの助手ヨハネ・マルコは、バルナバ先生にはついて行きたいと願い、ついて来たが、パウロ先生にはついて行けないと考えたのです。



キプロス伝道の際に明らかになったことは、パウロ先生はすぐ怒るということです。初めて出会った相手であろうと、にらみつけて怒鳴りつける。あんな乱暴でけんか腰の先生にはついて行けません、と思ったのではないでしょうか。



理由は必ずしもこれではないかもしれません。しかし、ともかく、ヨハネ・マルコの側に何らかの理由があってパウロについて行けなくなったことは事実です。バルナバ先生とはうまく行く。しかしパウロ先生とはうまく行かない。そんな様子が何となく伝わってくるのです。



またバルナバのほうも、今のところはまだ大丈夫ですが、もうまもなく(15・36以下)パウロとは別行動をとることになります。その仲たがいの原因が、じつはヨハネ・マルコの離脱行為に対する評価の違いでした。



バルナバはヨハネ・マルコのことが好きなのです。変な意味ではありません。お互いに伝道者として大切に思っているのです。だから、バルナバはパウロと別れた後に再びヨハネ・マルコと共にキプロス島に行き、一緒に伝道を続けます。



バルナバという人は、教会の中でだれよりも先にパウロのことを信用したときと言い、海外伝道が途中で嫌になっちゃったヨハネ・マルコのことをもう一度伝道に連れ出すときと言い、温かいというか、手厚いというか、お人よしというか、ちょっとやさしすぎる人です。今、わたしたちの目の前にバルナバのような人がいるとしたら、おそらく周囲の好感度は高いのではないかと思わされます。



ところが他方、パウロのほうは伝道の途中で仕事を投げ出して帰ってしまうような人間など二度と信用しない。絶対に信用しない。そういう激しいというか、厳しいというか、恐ろしいというか、容赦のない性格を持った人。そういう面をパウロは持っていたのです。いずれにせよ、パウロとバルナバは非常に対照的な存在であったと考えることができそうなのです。



私は今、一つのやや小さな問題にしつこく拘っているわけですが、拘る理由があるからです。それは、伝道を妨げる要因は、必ずしも教会の外側にあるだけではないということです。実際にはもっと大きな要因が教会の内側にあるかもしれないということを疑ってみる必要があるということです。



一言でいえば、教会の内輪もめです。あるいは伝道者同士の主導権争い、小競り合いです。また伝道者の乱暴なやり方、強引なやり方です。けんか腰で人を怒鳴りつけたりするやり方、それは伝道なのかという問いがあるということです。そのような乱暴で強引でけんか腰なやり方にはついて行けないと言い出す人も出てくるという問題です。



全く単純明快な事実は、伝道は人間が行うことであるということです。あるいは、教会が、と言ってもよい。人間の集まりである教会が、伝道するのです。



申し上げたいことは、伝道者は生身の人間であるということです。教会の牧師も長老も執事も生身の人間なのです。だから、人の言葉に傷つくこともある。すっかり嫌になって途中で実家に帰ってしまう人もいる(私の話をしているのではありません。一般論です)。



教会の兄弟姉妹だからといって言いたい放題、好きなことを言ってはならないのです。お互いに労わる気持ちを持つべきです。



内側でもめている教会にだれが入ってきたいと思うでしょうか。そのような雰囲気は、外から入ってくる人にはすぐに分かるのです。肌触りで分かる。直感的に分かるのです。



しかしそれでは、パウロのやり方はすべて間違っていたのでしょうか。そんなことは決してありません。パウロの強さは仇になることもある。もめごとの種にもなりかねない。しかし、パウロの強さがあったからこそ突破できた壁もある。乗り越えられた谷間もあるのです。バルナバの優しさが仇になるときもあるでしょう。



こういうことをいろいろと考えてみることが今日の個所では重要です。



パウロとバルナバは、「アンティオキア」という町に到着しました。やや紛らわしいですが、彼らの海外伝道を背後から支援している「アンティオキア教会」のある町とは全く別のアンティオキアです。



そして興味深いことは、二人がこのアンティオキアで行ったことは、安息日に会堂に入って席に着いたことであり、会堂で「律法と預言者の書」、つまり(旧約)聖書が朗読されたことであり、会堂長がパウロのところまで来て何か話をしてくれとお願いしたことであり、その願いを受けてパウロが立ち上がり、その場で説教をはじめたことです。



気づく必要があることは、この一連の流れはまさにわたしたちが今ここで行っているのと(曜日は違いますが)ほとんど全く同じようなことであるということです。



伝道、伝道と一言で言いますが、パウロにとって伝道とは安息日に説教することだったということです。それは当時から今日に至るまで変わっていません。安息日の礼拝の中で行われてきたことの中心は、聖書朗読と説教なのです。そこに賛美歌が加わる。われわれが行っているこの礼拝の姿は昔から何も変わっていないのです。



安息日以外はパウロたちはどうしていたのか。もちろんいろいろとやることはたくさんあったと思いますが、大きなことは移動です。安息日ごとの礼拝に出席し、そこで説教を行うためにいろんな町の教会に行く。その一つの教会から他の教会への移動や諸連絡のために安息日以外の週日が用いられていた様子が伝わってくるのです。



一言でいえば、教会の礼拝こそが伝道であるということです。教会の礼拝こそが伝道の王道です。伝道の他の方法を否定するつもりはありません。しかし、礼拝が中心から抜け落ちてしまっているような伝道の方法は、パウロたちが採用しなかったやり方です。それはわたしたちのやり方ではありません。



そしてパウロは会堂長から「励ましの言葉を語ってほしい」という依頼を受けました。この点も非常に興味深いと私には感じられます。果たしてこれから始まるパウロの説教は、この依頼どおり本当に「励ましの言葉」になっているのか、どの部分が・どのように「励まし」になるのかということに興味を抱きますが、今日はこの説教の内容に入る時間はもう残っていません。来週お話しいたします。



しかし最後に、内容ではなく、このパウロの説教について注目しておきたい点を一つだけ述べておきます。それは、このパウロの説教は使徒言行録のなかで、また聖書全体のなかで、パウロ自身が行った説教としてその文章が文字になって残っている最初のものであり、つまり最古のものであるということです。若き伝道者パウロの最も旧い説教原稿の内容がここにあるということです。パウロの伝道活動の初期における初々しさのようなものを感じることができればと思います。



すべての説教者、すべての牧師にかけだしの頃がありました。一生懸命のあまり周囲の人々を傷つけたり、人間関係を壊してしまったりすることもある、かもしれません。



言い訳は見苦しい。しかし、若い頃には、動かない壁を動かすための、越えがたい谷間を越えるための、力任せの試行錯誤もある。そのことをご理解いただきたい面もあります。



(2007年9月30日、松戸小金原教会主日礼拝)