2006年5月28日日曜日

「小事に忠実な者は大事にも忠実である」

ルカによる福音書19・11~27



今日の個所に記されていますのは、ふたたびイエスさまのたとえ話です。「ムナのたとえ」と名づけられています。



ただし、これよりも、内容はほとんど似ているマタイによる福音書25章の「タラントンのたとえ」のほうが有名でしょう。両者を比較しながら読むというのも面白い試みであると思います。しかし、今日はそのようなことを行う余裕がありません。



しかし、両者の比較について一点だけ触れておきます。すぐ分かることは、ルカによる福音書の「ムナのたとえ」のほうが、マタイによる福音書の「タラントンのたとえ」よりも恐ろしい、ということです。恐怖の要素が強調されている、ということです。



「イエスは言われた。『ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、「わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい」と言った。しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、「我々はこの人を王にいただきたくない」と言わせた。』」



最初に申し上げておきたいことは、イエスさまのこのたとえ話には、歴史的に実在する何らかのモデルがあると考えられている、ということです。



イエスさまのたとえ話のすべてに当てはまることかどうかは、分かりません。しかし、たとえ話の中には、明らかに何らかの実在する具体的なモデルがあって、当時の人々の耳で聞けばそれが何のことなのか、だれのことなのかが、すぐに分かるようなお話があった。これはその一つであると考えられているのです。



ある解説によりますと、「ある立派な家柄の人」は、当時のユダヤの支配者ヘロデ大王の息子アルケラオのことであると言われています。その場合、この人が王の位を受けて帰るために旅立つ「遠い国」とは、ローマのことです。アルケラオは、父ヘロデ大王と同様、非常に過酷な弾圧政策をもってユダヤの国を支配し、ユダヤ人たちから嫌われた人でした。



この点から確認しておきたいことがあります。それは、「ある立派な家柄の人」は神さまのことでもイエスさまのことでもないということです。このたとえ話を読みながらわたしたちが想像力を働かせる内容は、神さまの姿ではなく、むしろ、国民を弾圧し、国民から嫌われた、悪い王の姿である、ということです。



イエスさまがなぜ、そのような悪い王の姿を思い起こさせるような話をしておられるのか、その理由は何なのかは、はっきりしたことは言えません。しかし、重要なヒントは、11節の、イエスさまがこのたとえを話された理由です。「エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである」。



この一文から伝わってくることは、イエスさまがこのたとえをお話しになった理由は、「エルサレムに近づいておられる」からであるということです。それは同時にイエスさまが十字架に架けられて死ぬ日が近づいているということを意味するわけです。



ところが、そのようなイエスさま御自身の側の張り詰めた緊張感の傍らで、イエスさまの弟子たちを含む多くの人々は、「神の国はすぐにも現れるものと思っていた」、つまり、イエスさまのエルサレム入城によって、新しい時代の幕が開ける。まさに今こそ、神の国が始まるのである、という何とも能天気で楽観的な雰囲気が漂っていたからである。それがこのたとえを話された理由である、ということです。



つまり、このたとえ話は、そのような楽観的な雰囲気を戒め、「少しは緊張しなさい」と周囲の人々に警告を発し、警戒を促すために語られたものであると読むことが可能である、ということです。最初に触れました、このたとえ話の中では恐怖の要素が強調されているという点も、この辺の事情を反映しているからであると思われます。



このたとえ話の内容は単純です。旅行に出かけた主人が十人の僕たちに一ムナずつ自分の財産を渡して管理させました。ある僕は「一ムナで十ムナをもうけた」ところ、帰ってきた主人からほめられ、十の町の支配権を与えられました。他の僕は、「一ムナで五ムナを稼いだ」ところ、主人からほめられ、五つの町の支配権を与えられました。しかし、別の僕は、その一ムナを布に包んでしまっておき、増やすことも減らすこともしないで、そのまま主人に返したところ、主人から叱られ、持っているものまで取り上げられました。



しかし、繰り返しますが、この「主人」は、神さまでも、イエスさまでもありません。また、この十人の僕たちに預けられた一ムナは、マタイ25章のタラントンのたとえの場合のように「神の恵みの賜物」を連想してよいのか。神さまから与えられた賜物は、大切にしまいこんで事実上結局無駄にすることよりも、積極的に活用しましょう、というような一般的な教訓を読み取ってよいものなのか、といいますと、そういうふうに読むことはできない、ということです。



そういうことではない。むしろ、今日の個所の「一ムナ」は、わたしたちが日常生活の中でさんざん苦しめられている会社の仕事や、われわれの社会的な義務や責任というようなものを思い起こさせる何かである、ということです。重苦しさが付きまとう何かです。



主人から預かった一ムナを布にくるんでしまっておいた僕が叱られ、また「わたしが・・・厳しい人間だと知っていたのか。ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば・・・利息付きでそれを受け取れたのに」と言われていることも、これを神と人間との関係、あるいは神の御子イエス・キリストとわたしたちの関係などを指し示しているものである、と読むべきではない、ということです。



神さまは、御自分がわたしたち人間にお授けになった賜物から得た結果を返せとお命じになり、結果を出せなかった人々からは銀行からの利息で補いなさい、というようなことを強く望むほどに人間から厳しく取り立てる、そのようなお方ではない、ということです。



また、27節に記されている、「わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを・・・打ち殺せ」というこの点も、神と人間の関係、あるいは、イエス・キリストとわたしたちの関係を表わしているものではない、ということです。このあたりは、どうかご安心いただきたいと願う点です。



しかし、わたしは、ここで話を終わるわけには行きません。この次に必ず起こってくる問題が残っているからです。それは、それではなぜイエスさまは、エルサレムが近づいてきたこのときに、このような、国民に圧政を強いる悪い王のことや、毎日の厳しい仕事のことを連想させるような、なんともいえない重苦しさをまとった、まるで恐怖心を煽っておられるかのようなたとえをお話しになったのか、という問題です。



別の言い方をしますと、このたとえ話の中で最も注目すべき言葉はどの点かという問題です。それをわたしは17節の主人の言葉の中に見ます。「良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう」。この「ごく小さな事に忠実だった」という点です。



間違いなく言えることは、これは、かつて共に学びました「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である」(ルカ16・10)を思い起こさせる言葉である、ということです。



ルカ16・10の文脈は、わたしたちの多くが理解に苦しむ「不正な管理人」のたとえ話です。しかし、次第に分かってくることは、今日の個所とルカ16章の「不正な管理人」のたとえ話の間には内容的なつながりがある、ということです。



「不正な管理人」のたとえが教えていることは、あくまでも「この世の子ら」の“賢いふるまい”であること、「光の子ら」が真似をすべきところは不正そのものではなく、賢く生きることに関する部分だけであるとわたしは申し上げました。これと同じような読み方が、今日の個所にも当てはまると思います。



今日の個所の「主人」は、神さまでもイエスさまでもないからです。また、登場する僕たちと主人との関係は、神さまと人間、イエスさまとわたしたちの関係を、直接的に示すものではないからです。



しかし、です。ここで明らかなことは、一ムナを十ムナに増やした良い僕についてこの主人が語った「お前はごく小さな事に忠実だった」という点についてだけは、わたしたちが自分自身と神様との関係にかかわる事柄として真剣に学ぶべきところである、ということです。なぜなら、「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実」だからです。小さな仕事や事柄を軽んじる人に、大きな仕事や事柄を任せることはできないからです。



今、わたしたちが考えている問題は、それではなぜ、イエスさまは、このたとえ話を、エルサレムに近づかれたときにお話しになったのか、ということです。それを、わたしは、以下のように理解したいと思っています。



それは、この場面でイエスさまが「ごく小さな事」として考えておられるのは、イエスさま御自身が、まさにエルサレムで、ゴルゴタの丘の上で、十字架にかかって死んでくださること、そのことではないか、ということです。



イエスさまの十字架を「ごく小さな事」などと言うのは、全くとんでもないことであり、許されないことであるというふうに思われるかもしれません。わたし自身もそう思います。



しかし、そのように、イエスさま御自身が言われた、というふうに理解することは可能かもしれないのです。わたしたちのこととして考えてみても、自分がしていること、これからすることを「大きな事である」というでしょうか。なんとなく傲慢や不遜のにおいがしてきます。



もし今、自分のしていることは、他の人がしていることや、この世界の中に起こっていることよりも「大きい」と感じているときは危険です。頭を冷やしてみる必要があります。冷静なときのわたしたちは、「わたしのしていることは、取るに足りません」と言うのではないでしょうか。



イエスさまの場合は、なおさらです。イエスさまという方を、御自身のみわざを「ごく小さな事」と表現されるほどに謙遜なお方である、と考えることは、間違っているでしょうか。



しかし、その場合、「大きな事」とは何でしょうか。それが「神の国」です。そのように読むことが可能です。なぜなら、このたとえは、「神の国はすぐにも現れる」と思っている人々に対する戒めとして語られたものだからです。



神の国の実現という「大きな事」のために、イエスさまの十字架という「小さな事」に忠実でなければならない。そのようにイエスさま御自身が自覚されていた、ということは、ありうることです。



わたしたち自身がイエスさまの死を「小さな事」であると考えることは、通常ありません。しかし、イエスさまを信じない人々は、どうでしょうか。



あるいは、神がお造りになった全世界と全人類の大きさと比べて、ひとりのイエスさまの死の大きさは、どうでしょうか。冷静に考えてみて、どちらが大きいでしょうか。イエスさまの死でしょうか。それとも、全世界と全人類のほうでしょうか。



イエスさま御自身が、後者であるとお考えになったのです。この世界が神の世界となり、地上に神の国が打ち立てられる。そのことのほうが、御自身の命よりも、はるかに大きいと、イエスさま御自身が、お考えになったのです。



しかし、神の国の実現のためには、どうしても通らなければならない道がある。それが、イエスさま御自身の死です。エルサレムにおける十字架上の死です。



ですから、「小事に忠実な者は大事にも忠実である」とは、十字架の死において父なる神に従順であられたイエスさまだけが、神の国の王として、全人類と全世界を支配なさる方となる、という意味で理解することができるのです。



まさにこの意味で、イエスさまは、エルサレムを前にして、能天気に浮かれている場合ではないと、周りの人々を戒められたのだと思います。



もうちょっと緊張しなさい。わたしは、これから死ぬのだからと。



(2006年5月28日、松戸小金原教会主日礼拝)







2006年5月20日土曜日

教会の職務にある女性 A. ファン・ルーラーの理解

20世紀のオランダ改革派教会の神学者、アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー[Arnold Albert van Ruler, 1908-1970]は、「女性の牧師・長老」については、どのような考えを持っていたのでしょうか。

この問いの答えとなりうる事柄が、昨年(2005年)アムステルダム自由大学に提出された以下の博士論文によって、ほんの少しだけですが解明されました。以下に、かいつまんだところをご紹介いたします。

Allan Jay Janssen, Kingdom, office and church: A study of A. A. van Ruler's Doctrine of Ecclesiastical Office with Implications for the North American Ecumenical Discussion, Academisch Proefschrift, Vrije Universiteit Amsterdam, 2005.

ファン・ルーラーが属していた「オランダ改革派教会」(Nederlandse Hervormde kerk)では、1950年代まで、女性の牧師も長老も、認められていませんでした。

しかし、そのオランダ改革派教会の教会規程が、ファン・ルーラーを中心的存在とする委員会によって改定されることになりました。そして、その改定作業の過程の中で、「教会の職務にある女性」(De vrouw in het ambt/ Woman in Office)というレポートがまとめられるなど、研究が盛んになされました。

そして、教会規程改定の結果として、女性の牧師と長老が、認められることになりました。

しかし、ファン・ルーラー自身は、女性の牧師と長老を認めることに「躊躇」(hesitation)を持っていたということを、上記のジャンセン論文が紹介しています。

その「躊躇」の理由は、たった一つだけです。

それは、キリスト教会において、「神と人間との関係」が、いわば「男と女の関係」として表現されてきたのは、ほとんど1900年間に及ぶ教会の「伝統」であるという、この点です。

しかも、この「伝統」は、「セクト」が勝手に変更してよいようなものではなく、「全体教会の伝統」でなければならず、それゆえ、カトリックとプロテスタントとの間のエキュメニカルな問いでもある、という点が、ファン・ルーラーを「躊躇」させました。

しかし、他方で、ファン・ルーラーの職務理解は、根本において、「職務は、しょせん単なる職務に過ぎない」(office is only office)という、どちらかといえばドライなものでした。

そして、「もしそうすることが必要な場合には、教会は、自己を改革する勇気を持たなければならない」(the church must have the courage to reform if need be.)とも考えました。

さらに、もう一つの点として、ファン・ルーラーは、「教会の職務を切り分けることはできない」とも考えました。

その意味は、そもそも教会の職務は、教会会議あってのものであり、会議から切り離された職務は存在しないこと、また「牧師」を「長老」や「執事」とは全く別扱いのものとすることはできないこと、そして「執事の奉仕」(service of the deacon)なしに「長老の治会」(governance of the elder)が存在しうるなどと考えてはならない、ということです。

ファン・ルーラーは、執事に用いられる「奉仕」(serving)という表現の意味は「神によって用いられた」(used by God)ということであるが、牧師・長老による「治会」(governance)も、じつは同じ意味である、とも語りました。

ジャンセンが紹介しているのは、この程度です。残念ながら、ファン・ルーラーは、女性教師・長老の問題について、あまり多くのことを語らなかったようです。

ちなみに、わたし自身は、女性を「教会会議」(小会・中会・大会)から排除する理由は、もはやどこにもない、と考えております。

『キリスト新聞』誌などで報じられましたので広く知られているとおり、数年前の日本キリスト改革派教会の定期大会で、女性教師・長老に関する件が「審議未了廃案」になりました。

しかし、それは、「未来永劫、二度と審議いたしません」という意味では全くありえません。教派の60周年信徒大会(2006年)が終わったら、もう一度、然るべき方々から提案され、きちんと取り扱います、という意味でした。少なくとも、大会の議場の大半は、そのように受け止めました。

きちんと取り扱っていただきたい。それがわたしの願いです。


2006年5月14日日曜日

「徴税人ザアカイ」

ルカによる福音書19・1~10



「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」。



エリコという町で起こった徴税人ザアカイとイエス・キリストとの出会いを描いたこの物語は、たいへん多くの人々に愛され、語り継がれてきました。



エリコは、ガリラヤからエルサレムに向かう旅の中ではいわば最終の宿場と言いうる、エルサレムの手前にあり、そこを必ず通っていくことになる、重要な拠点都市です。



その町にザアカイがいました。「徴税人の頭」とありますとおり、この仕事をしている中でいちばん偉い人の肩書きを付けていました。



ただし、これは少し皮肉です。「徴税人」は、ユダヤ社会における最も嫌われていた人々の代名詞でした。ユダヤを支配していたローマ帝国に納める税金を集める彼らの仕事は、ユダヤ人たちからは、裏切り者のようにみなされました。



また、当時の徴税人は、ゆすりたかりのたぐいを働いていました。ザアカイは「金持ち」であったと紹介されていますが、主な収入源は恐喝まがいの取り立てでした。一説によりますと、一般人で20パーセント分、ラビ(ユダヤ教の教師)の場合は25パーセント分のピンはねをしていたようです。そういうことを、ローマ帝国の権力を笠に着てするものだから、始末に終えない。



そんな感じでしたので、「徴税人の頭」とは、いちばん偉いというよりは、むしろいちばん悪い。いちばん社会から嫌われていた人の代名詞であったと理解すべきなのです。



お金はたくさんある。しかし、友達がいない。ザアカイは、そういう人でした。



「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」。



イエス・キリストがエリコをお通りになるという情報が、どこかから広まったのでしょう。イエスさまは、そのときまでには、すでに、かなりの有名人になっておられたと思われます。イエスという人はどんな人かを一目見たくて、大勢の人が集まってきました。



その中に、ザアカイも入ろうとしましたが、背が低かった。そのため、先回りして、いちじく桑の大きな木の上に登った、というのです。



木に登ったこと自体をどうこう言うことはできないかもしれませんが、強いて言うならば、そういうことを、いわゆる偉い人がするだろうか、ということを、つい考えてしまいます。



本当に偉い人ならば、(これも少し皮肉が混じっていますが)側近たちでも使って最前列に特等席でも確保させ、悠々とそこに座って、イエスさまご一行のお通りを眺めるのではないでしょうか。



ところが、ザアカイは、一人で走り回り、一人で木に登る。寂しさを感じます。



「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』」



イエスさまは、そのザアカイを見つけてくださいました。イエスさまの目は、御自身の周囲の全体を見渡しながら、その中で最も変な感じがする、違和感がある、何かそこに問題があると感じる、そのようなところを、ズバリ見抜く力を持っておられるかのようです。一種の間違い捜しです。



そのような目は、おそらくわたしたちも、ある程度の訓練を受けると持つことができるように思います。それは要するに、全体を見渡しながら、その全体の中のどこかに違和感があるということを瞬時に察知し、どこに違和感があるかを的確に見抜く目です。



なぜ、木の上に人がいるのか。



なぜ、木の上にいる人が徴税人の頭なのか。



徴税人の頭が、なぜ木の上にいなければならないのか。



なぜ、あの人は、あれほどまでして、イエスさまを見たいのか。



あの人は、何か今、とっても悩んでいることがあるのではないか。



助けを求めているのではないか。



このような、いろんな問いを、瞬時に思いつき、問題の所在を察知する。「見る」という行為は、非常に大事です。



そしてイエスさまは、ザアカイの姿を木の上に見つけられたとき、ザアカイに声をかけ、「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。



「急いで降りて来なさい」とは、そんな木の上などに一人でいないで、堂々とみんなの前に立ちなさい、というメッセージではないでしょうか。



「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とは、何か切羽詰った思いを持っているように見えるあなたの話を、あなたの家で、ゆっくり聞かせてほしい、というメッセージではないでしょうか。



お金はたくさんある。しかし、友達がいない。そのザアカイを、イエスさまがみもとに呼び寄せてくださり、友達になってくださろうとしました。



その結果、どうなったか。ここに記されているのは、イエスさまから声をかけていただいたザアカイは、「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」ということです。



ザアカイは、喜んだのです。それはおそらく、彼の心が求めていた何かを、得ることができたからです。イエスさまが自分の姿を見つけてくださり、また自分の家を訪ねてくださるということが、ザアカイにとっては、純粋かつ単純にうれしかったのです。



そして、この後に書かれていることで明らかになるのは、このイエスさまとの出会いによって、ザアカイは自分の生き方を大きく変えることを決心したのだ、ということです。それくらいに、この出会いは彼の人生において決定的な意味を持ちました。



ところで、わたしは、先ほど、ザアカイを木の上に見つけたイエスさまのような目は、ある程度までならば、わたしたちも、身につけることができるものである、と申し上げました。しかし、もちろん、イエスさまにしか、おできにならないこともあります。それは、いわばその先の部分です。



ザアカイがイエスさまを喜んで自分の家に迎えたのを見た人々が、イエスさまのことについて、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやきました。こんなふうに言われることは初めから分かっていたことでした。ザアカイは、嫌われ者として有名人でしたから。



しかし、イエスさまは、そのことをあえてなさる。ザアカイを罪の中から救い出すためになさる。周りの人々からなんと言われようとも、全くお構いなしになさる。



嫌われ者の仲間になるということは、事実上、自分自身も嫌われ者になる、ということです。少なくとも、そのように言われたり見られたりすることを覚悟するということです。



そのことを平気でなさる。人から嫌われる勇気をもってなさる。この点が、イエスさまのイエスさまたるゆえんです。他の人々には真似することができない点です。



そのようにして、イエスさまは、他の多くの人々が「壁」や「溝」であると思っているようなことを、勇気をもって打ち破ってくださり、飛び越え、乗り越えてくださるのです。



他のみんなが嫌がったのに、イエスさまだけが、徴税人ザアカイの友達になってくださいました。いわば、ただそれだけのことでした。ただそれだけのことで、ザアカイの人生に大きな転機が訪れたのです。



「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」



これを「ザアカイの回心」と呼ぶことが正しいかどうかは微妙です。ただ、このときを人生の転機にしなければならないとザアカイ自身が確信し、そのように決心し、具体的な計画を提示し、それをイエスさまの御前で約束したことは、たしかです。



「財産の半分を貧しい人々に施します」というのは、生ぬるいでしょうか。「財産の全部を施します」と、ザアカイは言うべきだったでしょうか。そうだと言えばそうかもしれません。しかし、彼の提案は、興味深いものです。



財産の全部を差し出してしまうことは、悪く言えば、自分の人生に対する無責任に通じます。半分は自分のものとして残し、それを自分自身や家族の人生に責任をもって生きていくために用いることは、悪いことでないどころか、むしろ非常に良いことです。



また、彼は、自分が徴税の仕事の中で働いてきた恐喝を止めることを決心しています。そして、その分を四倍にして返しますと約束しています。



財産の半分を自分の手元に残すということは、その賠償分に充てるということでもあるのです。この点でも、彼の提案は、非常に現実に即していて妥当性があります。



「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」



イエスさまは、ザアカイの決心と約束を喜んでくださいました。そして、そのザアカイの姿を見て、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われました。



ザアカイが財産の半分を貧しい人々に施すこと、恐喝で得た収入については四倍にして返すことは、ザアカイの悔い改めのしるしです。それで周りの人々が納得したかどうかは分かりません。



しかし、人がどう思うかということも大切ですが、自分は何をするかということが大切なのです。ザアカイの施しは、彼の悔い改めのしるしでした。もしそのようなものでないとしたら、彼の施しには、何の意味もありません。



「人の子は失われたものを捜して救うために来た」。このメッセージは、15章に出てくる三つのたとえ話(見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、放蕩息子のたとえ)とも共通している点です。



これこそが、救い主イエス・キリストが地上に来られた目的です。イエスさまが十字架にかかってわたしたち罪人の身代わりに死んでくださるために来てくださった目的がこれなのです。



「失われたもの」とは、罪を犯すことによって神の御前から失われたもの、神から遠ざかってしまった人々のことです。



そのことがザアカイにも当てはまります。お金だけが友達。ゆすりたかりもへっちゃら。そう思っていたザアカイが自分の人生を根本的にやり直すことを決心し、約束する。それを「救い」と呼ばなくて、何を救いと呼ぶのでしょうか。



その出来事が、エルサレムにイエスさまがお入りになる前に、エリコの町で起こった、ということも、象徴的です。



エリコの隣のエルサレムで、イエスさまは、十字架に架けられるのです。



イエスさまは、ザアカイのためにも、死んでくださったのです!



(2006年5月14日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年5月7日日曜日

「信仰の具体性」

ルカによる福音書18・31~43



今日は二つの段落を読みました。最初の段落に記されていますのは、イエス・キリスト御自身による、御自身の苦難と死、そして復活を、弟子たちの前で予告なさる御言葉です。



「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。』十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」



実を言いますと、このルカによる福音書のこれまでのところでイエス・キリスト御自身が弟子たちの前でお語りになった同様の御言葉は、5回出てきました(9・22、9・44、12・50、13・32、17・25)。ですから、今日の個所は、いわば6回目であると言えるでしょう。



内容的に共通しているのは、イエス・キリスト御自身を意味する「人の子」はかならず苦しみを受ける、という点です。



もちろん、その苦しみとは、究極的に言うならば、まさにあのゴルゴタの丘の上でイエス・キリストが実際に体験されることになった、あの十字架の苦しみのことです。しかし、十字架の上だけがイエス・キリストの苦しみではありません。むしろ、そこに至るまでの全過程、全生涯が、苦しみでした。ガリラヤ地方で伝道されていたイエスさまが、エルサレムに乗り込む。その道のり、その歩みの中で、イエス・キリストは苦しみぬかれたのです。



なぜ、あるいは、何のために、イエス・キリストは、現実の苦しみを体験されなければならなかったのかという点については、今日は詳しくお話しする時間がありません。一言で言えば、人間の罪が、イエス・キリストを十字架につけたのです。イエス・キリストを苦しませ、死に至らせたのは、人間の罪です。しかし、その人間の罪が奪った救い主の命を、神が甦らせてくださったのです。



今日お話しできることは、その一つ手前のことです。ルカによる福音書によりますと、今日の個所を含めて6回にもわたって、イエスさまは、御自身がかならず体験されることになる苦しみについて弟子たちの前で語ってこられました。しかし、それにもかかわらず、今日の個所の記述によりますと、「十二人はこれらのことが何も分からなかった」というのです。彼らが理解できなかった理由についても、はっきり書かれています。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」というのです。



言葉の意味を隠しているのは、神さま御自身であり、またイエス・キリスト御自身であると答えるべきでしょう。しかし考えてみると、イエスさまが何度も繰り返しおっしゃっていることの意味を理解できないというのは、やっぱりどこか恥ずかしいというか、複雑な気持ちになってくることも、事実です。



わたしたち人間には、自分自身でよく考えてみるということが求められています。だれかが語った言葉の意味は何なのかということを一生懸命に考えてみることが大切です。分からないままでいるのは、いらいらすることであり、気持ち悪いことでもあります。



また、自分一人で考えても答えが出ない場合は、他の人と一緒に考えることが大切です。可能な場合は夫婦や親子で語り合うなり、近くに相談相手がいない場合には教会員同士でもよいし、あるいは、長老や牧師に相談を持ちかけてくださるなりして、とにかく分かるまで考え抜く必要があるのです。



しかしまた、です。イエス・キリストの苦難と死、そして復活についての予告の言葉を弟子たちは、何度聞いても理解できなかった、ということも、まさに歴史上の事実であり、そのこと自体に対して、もっと真剣に考え抜いていくべきだったとか言ってみたところで、意味がありません。わたしが申し上げたいのは、そのようなことではありません。



むしろ、申し上げたいことは、おそらくわれわれ自身にとっても慰めになることです。それは、イエスさまがおっしゃったことを弟子たちが初めてはっきりと理解できたのは、イエスさま御自身が予告されたすべての出来事の終了してからのことであった、ということです。次のように書いてあるとおりです。



「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と』」(ルカ24・44~47)。



これは何を意味するのでしょうか。わたしが考えさせられたことは、なるほど、聖書に書いてあることは、実際に体験してみなければ、ほとんど理解できないことばかりである、ということです。



たとえば、先ほど触れました「イエスさまはなぜ苦しみをお受けにならなくてはならなかったのか」という一つの問題を深く考え抜いていこうとするときに、これを実際に体験すること、つまり、実際に十字架にかけられてみるというようなことができる人は少ないというか、いないと思いますし、する必要はないと思います。



しかし、そういうことではなく、たとえば、イエスさまがお語りになったのと同じ言葉を、わたしたち自身が実際に語る。また、イエスさまがなさったのと同じことを、わたしたち自身が実際に行ってみる。そうすると、どうなるか、ということです。



先週の礼拝後、ある方から、次のような質問を受けました。「『神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける』(18・29~30)と、イエスさまが言われているようですが、本当に捨てることができなければ、わたしは天国に入ることはできないのでしょうか」。



わたしは少し説明いたしましたが、多くの説明はできませんでした。「わたしにも分かりません。この御言葉を理解するのは、とっても難しいことです」とお答えするほかはありませんでした。



わたしに申し上げることができたのは、たとえば、わたしたちが何か信仰上の大きな決断をしなければならないとき(洗礼を受けること、教会に通うこと、信仰の生涯を全うすること、自分の子供を信仰者として育てることなど)、家や妻や兄弟や両親や子供の言い分を、自分自身の判断停止の理由にすることはできないのではないかというあたりのことを考えてみると、いくらか理解可能なものになるかもしれません、というくらいのことでした。しかし、これとてイエスさまがお語りになっていることの真意であるかどうかは不明です。



ただ、それでも、イエスさまの御心が少しくらいでも分かるようになることがありうるとしたら、それはどういうときかと考えてみますと、それはおそらく間違いなく、イエスさまの御言葉の意味を自分の頭の中で思いめぐらしている(だけ)というときではなく、むしろ、その御言葉において語られていることを実際にやってみようとするときであり、実際にやってみたときであるだろう、ということです。



しかし、イエスさまがお語りになった多くのことは、はっきり言いますと、わたしたちにとっては、たいへん難しいことばかり、できそうもないことばかりなのです。ところが、イエスさまは、御自身が語られた御言葉に、全く忠実に生きられた方です。だからこそ、わたしたちには実行できそうもない難しい御言葉を御自身で生きてくださったことにより、まさにわたしたちの身代わりに苦しみを味わってくださった、ということが起こったのであり、また、わたしたちの身代わりに死んでくださる、ということが起こったのです。



弟子たちは、イエスさまのお姿を、いわばただ見ていただけです。最後までイエスさまのあとに従う覚悟ができていると立派なことを語っていた弟子たちでさえ、イエスさまの十字架の前から全員逃げ去りました。



しかし、この「見ていた」ということが大切です。もし聖書の中で弟子たちが、イエスさまのお語りになった御言葉について、「わたしにもできました。こんなの簡単ですよ」というふうに証言しているとしたら、わたしたちは、聖書を読むたびに絶望しなければならないかもしれません。「わたしにはできませんでした。しかし、このわたしの身代わりに、イエスさまが苦しんでくださったのです」という証しこそが、聖書の中の弟子たちの証しであり、これこそがキリスト教の福音なのです。



弟子たちは、イエスさまの話を、何度聞いても理解できませんでした。しかし、イエスさまが、彼らと共に生きてくださり、彼らの傍らに寄り添いつつ、彼らにはできないことを、まさに彼らの身代わりに行ってくださったので、そのイエスさまのお姿を彼らが見ることによって、イエスさまの話の内容が、やっと分かるようになったのです。



わたしたちは、どうでしょうか。聖書の時代とわたしたちの時代との根本的な違いは、イエスさまのお姿を、肉の目で見ることができない、ということです。そうであるならば、わたしたちは、聖書に書かれていることを、永久に理解できないのでしょうか。そんなことはないと思います。



強いて言うならば、というくらいのことですが、わたしたち教会の者たちは、今のこの時代の中で、完全に、とはとても言えませんが、わたしたちなりに、イエスさまがお語りになった御言葉に、できるかぎり忠実に生きようとする道を選ぶことによって、苦しみを味わっています。



もしそのことをお認めいただけるならば、聖書に書かれている、イエスさまがお語りになった「苦しみ」の意味を、わたしたちが本当に理解するためには、現実の教会が実際に味わっている苦しみを共に体験する必要がある、ということです。



もっと短く言い直せば、聖書の御言葉の意味を真に理解するためには、具体的な教会生活が必要である、ということです。教会生活から切り離されたところで聖書を理解することは事実上不可能である、ということです。その意味において、信仰には具体性があるのです。



今日お読みしました、第二番目の段落に記されていることにも、今わたしが申し上げたこととは少し違う角度からではありますが、共通するメッセージを読み取ることができると思われます。それは「信仰の具体性」という点です。無理にこじつけるつもりはありませんが、実際に読んでみると、御理解いただけるのではないかと期待しております。



「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群集が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ねた。『ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると、彼は、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか。』盲人は、『主よ、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」



ここに紹介されているのは、これまでも何度となく登場してきた、イエスさまに自分の病気や障碍、さまざまな苦しみや痛みをいやしていただきたいと願い出る人の一人である、と見ることが可能です。この人は、目が見えない人でした。



ところが、この人がイエスさまに向かって「わたしを憐れんでください」と叫んだとき、この人に「黙れ」と叱りつけた人々がいた、というのです。内容は異なりますが、乳飲み子たちをイエスさまのもとに連れて来た人々を叱りつけたことでイエスさまから叱られた(18・15)、あの弟子たちの姿と重なり合うものがあります。子供とか障碍をもっている人々の存在を邪魔者扱いするのは本当に間違っていることだと言わざるをえません。



しかし、ここで注目すべき点は、目の見えないこの人に対してイエスさまが投げかけられた問いの内容と、それに対するこの人自身の答えの内容です。



「何をしてほしいのか」。そのようにイエスさまから問われたので、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と、その人は、答えることができました。



このやりとりから読み取ることができると思われるのは、イエスさまがこの人にお尋ねになった「何をしてほしいのか」という問いの裏側にあるのは、「主よ、憐れんでください」という、いわば抽象的な願いや祈りだけでは不十分である、ということです。そのようなことをいくら叫んでも、何をしてほしいのか、自分がどうなりたいのか、分からないではないか、ということです。



それを、今、はっきりと口に出して言ってみなさい、ということです。自分の願いは何なのか、自分の要望、自分の目標、自分の計画は何なのか、その意味での自分の祈りは何なのか、ということを、はっきりと具体的に言葉にしてみなさい、ということです。



「言わずもがな」とか「以心伝心」とか、そういうことを重んじるのがわたしたち日本人なのかもしれません。「言葉で言わなくても分かってくれる」のが良い大人であり、良い教師である。「言わなければ何もしてくれない」のは中の下。「言っても何もしてくれない」のは下の下。われわれの一般的な評価は、そのあたりにあるような気がします。



しかし、です。少し考えてみていただきたいことは、教会もそうでしょうか、ということです。信仰者同士の関係、あるいは牧師と教会の関係、そして神さまとわたしたちとの関係までも「以心伝心」であることが、理想として求められるのでしょうか。



イエスさまは、厳しい意図をもって、目の見えないこの人に「何をしてほしいのか」と質問されたというふうに読むのは行き過ぎのように思います。イエスさまのおっしゃっていることは、厳しいことではありません。



ただし、です。「何も言わなくても、相手は分かってくれるはずだ」というような態度は、厳しく言えば、やや甘えです。それが通用するのは、たぶん親子の間だけです。



願いごとがあるなら、はっきり言ってください。



信仰とは具体的なものなのですから!



(2006年5月7日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年4月30日日曜日

「人間にできないことも神にはできる」

ルカによる福音書18・18~30



「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』すると議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。」



ここに出てくる「ある議員」とは、ユダヤの最高法院の議員です。当時の国会議員です。その人がイエスさまに近づいてきて、一つの質問をしたのです。



イエスさまは、質問にお答えになる前に、この議員が口にした小さな言葉を取り上げておられます。この人はイエスさまを「善い先生」と呼びました。ところが、イエスさまは、その呼び方をお嫌いになりました。



「先生」をされたことがある方なら理解していただけると思います。「善い先生」とか言いながら近づいてくる生徒がいるとしたら、どうでしょうか。かなり警戒するのではないでしょうか。これは何かあるなと。イエスさまはこの人に、奇妙な言い方をするのはよろしくないと、注意しておられるのです。



質問の内容に入って行きたいと思います。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。これと同じ質問をした人の話がルカによる福音書の中に一度出てきました(ルカ10・25)。



それは「律法の専門家」でした。そのときのイエスさまのお答えの内容と比較してみたいと思います。それで分かることは、前回のイエスさまのお答えと、今回のお答えとは、内容的に見て、基本的に同一線上にあると考えてよいものである、ということです。



前回のイエスさまのお答えは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」でした(10・26)。すると、その人は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えたところ、イエスさまが「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました。



今回のお答えは、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」でした。これらは律法の要約としてのモーセの十戒の後半部分です。ですからイエスさまのお答えの趣旨は、律法に書いてあることは何かをあなたは知っているはずだということです。つまり前回の「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」というお答えと内容的には同じなのです。



「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と、議員は言いました。すると、イエスさまが、一つの厳しい注文を付けられました。しかし、この注文も、前回の場合と基本的には同じ内容であると考えてよいものです。前回は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」というものでした。今回は、どういうものか。



「これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」



この点も、じつは、前回の律法学者に対するお答えの場合と、内容的に一致していると見てよいものです。律法に書かれていること、聖書の御言葉、神の御心を実行しなさい、ということです。御言葉どおり、生きてみなさい。そうすれば永遠の命が手に入ります。それがイエスさまのお答えです。



聖書にはこう書いてある、ということを、知っているとか、勉強しているとか、学問的に正確に理解しているということ。このことも大事なことではあります。しかし、イエスさまがお求めになるのは、それだけではありません。いわば、もっと大切なことがある。それは、聖書のみことばを実行すること、信仰を実践することです。



そして、そのことを前提にしたうえでイエスさまがこの議員におっしゃっていることは、「あなたに欠けているものがまだ一つある」ということでした。



「あなたに欠けているもの」とは、イエスさま御自身がお用いになった表現でいいますと「天に富を積むこと」が欠けているということです。そのために「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分ける」ことです。そして、イエス・キリストに従うことです。



一つ一つ説明が必要だと思います。ここでイエスさまは、明らかに、「天に富を積むこと」と「永遠の命を受け継ぐこと」とを、同じ意味で語っておられます。この点を、まず確認しておきます。



そして、「永遠の命を受け継ぐこと」とは、わたしたちが永遠に生きることができるようになる、ということですから、とりあえず、「天国に入る」とか、その意味での「神の国の住人」になるということと同じ意味であると考えてよいでしょう。しかし、それが、なぜ「天に富を積むこと」と同じ意味になるのか。また、そのためになぜ全財産を売り払って貧しい人々に分けなければならないのか。このつながりはどうなっているのでしょうか。



最も大きな問題は、「天」あるいは「神の国」とは、どこにあるのか、ということです。「天」も「天国」も「神の国」もみな同じです。それぞれ別の場所や空間があるわけではありません。そしてそれは、第一義的に「神の支配領域」です。そこに神がおられ、また、そこを神が支配しておられる、そのような場所が「天」であり、「天国」であり、「神の国」です。それ以外の、あるいは、それ以上の説明は、わたしたちには、できません。



しかしまた、もしそうであるならば、わたしたちにとっては、「神の支配領域」としての「神の国」とは、向こう側の世界であるというよりは、むしろ、こちら側の世界です。今、ここで、わたしたちが生きているこの世界の側に実現する何かです。



そして、その「天」に「富を積む」とは、どういうことになるでしょうか。その意味は「神の国を豊かにすること」です。神が支配しておられるこの世界を豊かにすることです。



ですから、はっきり言いますと、イエスさまにとって「神の国」とは、われわれの積む富によって豊かになったり、反対に、貧しくなったりもする、そういうところなのです。また、その富とは、なんら抽象的なものではなく、非常に具体的かつ現実的なものです。まさに物質的な要素と呼ぶほかはないような何かが「神の国」を豊かにし、貧しくもする。そのような「神の国」を、イエスさまは、お教えになったのです。



イエスさまは、この議員に対して、全財産を売り払って貧しい人に分けることを命じ、そして「わたしに従いなさい」と言われました。これは禁欲主義の教えではありません。そのようなことははっきり言って、どうでもよいことです。わたしたちは何を食べようが、何を飲もうが、何を着ようが、どんな家に住もうが、どんな仕事をし、どれだけ稼ごうが、全く自由です。



むしろ、大切なことは、あなたの目の前に、わたしたちの世界の中に、現実に貧しい人がいるということです。貧しい人々を前にしても、無関心を決め込み、ただひたすら自分の利益をむさぼり続ける。それが果たして本当によいことか。問われていることは、このあたりのことです。



また、イエスさまとやりとりしているのは、まさに当時の国会議員です。



「国会議員であるあなたは、この国の代表者であり、また全国民の生活に対して責任を持っている人々でしょう。しかし、そのあなたに、自分の全財産を売り払ってでも貧しい人々を助けることができるほどの責任を国民に対して感じているでしょうか。あなたの目には、この世界のなかで苦しみ悩む人々の姿が映っているでしょうか。映っていないのではないでしょうか」という問いかけがあると考えてよいと思うのです。



なぜそのように考えてよいかと言いますと、案の定、というのは、意地悪な言い方かもしれませんが、事実として、この議員が、イエスさまの話を聞いて、非常に悲しんだからです。



悲しみの理由は明白です。この人は、根本的なところで自分のことしか考えていない。イエスさまの指摘は図星を当ててしまったのです。



「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」



繰り返し申し上げておきますと、イエスさまが語っておられるのは、禁欲主義の勧めではありません。お金持ちになることが悪いと言われているのではなく、お金持ちが神の国に入ることは難しいと言われているだけです。その難しさに比べれば、らくだが針の穴を通る方が易しい、と言われているだけです。



神の国に入ることができるお金持ちもいる、と信じてよい。もし「らくだが針の穴を通ることができる」としたら、それと同じくらいの可能性ならばあります、ということです。



なぜ難しいのかについての説明はありません。強いて言うならば、そのことは、わたしたちが自分の胸に手を当てて考えてみれば分かることかもしれません。



自分のためにお金を集めるということと、他人を助けるということとは、方向性としては正反対の事柄かもしれません。他人を助けたい人は自分の貯えがちっともできない。余裕のある人は、その余裕を他人のために用いるかというと、そうならない。いかにわたしが豊かになりうるか。すべては自分のため。それくらいの気持ちがなければ、お金持ちになることはできない。それが現実かもしれません。



ですから、大切なことは方向性であると思います。



たとえば、聖書の御言葉を守ることについても、わたし自身の人生を豊かにするためであり、わたし自身が善く生きるためである、と考える方向性もありうると思います。それは厳しい言い方をすれば、宗教的な装いをもった利己主義です。そこに欠けているのは他人への関心です。共に生きている人々、あなたを支えてくれている人々のことが、全く見えていないのです。



方向を逆転させる必要があります。自分の存在も、自分の持ち物も、じつは、すべてが自分のためのものではなく、共に生きる人々のものであり、この世界を豊かにするためのものである。その意味での、神の国の豊かさのため、天に富を積むためのものである、ということに気づく必要があります。そして、現実に方向転換する必要があるのです。



その方向転換をしないかぎり、わたしたちの人生は、最後の最後に、とても寂しいものに終わる可能性があります。巨万の富を得るために、その結果として、多くの友人を失ってしまう人々がいます。最後の最後に何も無くなり、友人もいない。19章に登場する取税人ザアカイは、金持ちでしたが、イエスさまに出会うまでは寂しい人だったのです。



「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」



「人間にはできないことも神にはできる」。これは「らくだが針の穴を通ることができる可能性」という点の言い換えである、と理解することができるでしょう。



何度も言うようですが、ここでイエスさまは、お金持ちの人が神の国に入ることは100%不可能である、とは語っておられません。「らくだが針の穴を通る可能性」と同じくらいの可能性ならばありうるし、また「人間にはできないが神にはできる」という意味で、まさに神のみになしうる事柄としての可能性は残されている、ということです。



しかし、これによって、「できません」ということに限りなく近いことが語られているということは、誰でも理解できることでしょう。



わたし自身は、皆さんに対して、あまり「あれか・これか」を迫りたくはありません。わたし自身は、「お金持ちのクリスチャン」や「お金持ちの牧師」がいてよいと考えております。しかし、ここでわたしたちに「あれか・これか」を迫っているのは、イエスさま御自身です。



自分の持ち物を世のため、人のためにささげ、イエス・キリストに従うか。



それとも、どこまでも自分の利益のみを追求する道を選ぶか。



そのあたりに、わたしたちの人生の大きな分かれ道が、置かれているのです。



(2006年4月30日、松戸小金原教会主日礼拝)





2006年4月23日日曜日

「子供のように神の国を受け入れなさい」

ルカによる福音書18・15~23



今日は二つの段落を続けて読みました。両方の段落に共通するキーワードがあります。それは「子供」です。



最初の段落に紹介されているのは、イエスさまのところに乳飲み子を連れて来た人々のことをイエスさまの弟子たちが叱ったところ、そのようなことを言う弟子たちのことを、イエスさまがお叱りになった、という出来事です。



「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。」



「イエスに触れていただくために・・・連れて来た」とありますが、この人々は、子供たちをどこに連れて来たのでしょうか。



考えられるのは、安息日またはそれ以外の日に、ユダヤ教の会堂または野外で行われていた礼拝の中で、イエスさまが聖書に基づく説教をしておられた、その場所であるという可能性です。その礼拝の出席者の中に、乳飲み子を連れて来た人がいたのです。



もしそうでないとしたら、乳飲み子を連れて来た人々を弟子たちが「叱った」理由を説明することは、ほとんど不可能です。弟子たちがその人々を叱った理由は、書かれていません。しかし、考えられるのは、おそらく一つのことでしょう。



もしその一つのこと以外の理由であるとしたら、弟子たちのしたことを理解することは、わたしには、全く不可能です。イエスさまのみもとに乳飲み子を連れて行くことが、どうして叱られなければならないことなのでしょうか。全く説明ができません。



しかし、です。もしわたしが考えるこの一つの理由に限っては、それを“理解”することは、わたしにはできないのですが、“説明”くらいならば、できるかもしれません。



もし教会の礼拝というこの場所が、第一義的に「説教を聴く場所」であるということが一般的な前提理解となっているような場所であるならば、わたしはこの点を説明することくらいはできます。礼拝が説教を聴く場所であるということと、その礼拝の中に乳飲み子が参加していることは、ある意味で矛盾する関係にある、ということは否定できないからです。乳飲み子の仕事は「泣くこと」だからです。



しかし、イエスさまはその人々を叱った弟子たちを、お叱りになりました。弟子たちがその人々を叱ったことを、お叱りになったのです。



「しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。』」



これこそがイエスさまの結論であり、また、わたしたち教会の出すべき結論です。



イエスさまは、「乳飲み子たちを」みもとに呼び寄せられました。「親たちを」ではありません。「乳飲み子たち」を、イエスさまが、わたしのところに来なさいと呼び寄せられたのです。



よく考えてみていただきたいことは、もしそこが、イエスさまが説教をされている礼拝の場所であるとすれば、その礼拝の真ん中は、イエスさまが立っておられる場所である、ということです。おそらくそれは会堂の真正面であり、全会衆の視線が集まっている礼拝の中心部分です。



そこにおられるイエスさまが、乳飲み子たちを呼び寄せられた、ということは、乳飲み子たちの存在が、礼拝の中心に集められた、ということです。



そうすると、どうなるのでしょうか。当然のことというべきでしょう、乳飲み子たちは、ところかまわず泣くでしょう。その泣き声で、イエスさまの話も何もすべてかき消されてしまいます。



先日、「赤ちゃんが産まれました!」という知らせを聞いたすぐあとに、病院までお見舞いに行きました。赤ちゃんの顔を見せていただきましたが、ガラス張りの同じ部屋に、ほとんど同じ日に産まれた赤ちゃんたちが、たしか10人くらい並んで寝かされていました。一斉に泣いていました。しかし、かなり分厚い防音ガラスが張られていたからでしょう、廊下まで聴こえてくる声は小さなものでした。



あの防音ガラスがないとなれば、どうなるのでしょうか。わたしたちの教会の聖歌隊もびっくりの、大音量の大合唱ではないでしょうか。



イエスさまが乳飲み子をお招きになったとき、その場所は、まさに騒然となったのです。しかし、大切なことは、そのことをイエスさま御自身が望まれたのだ、ということです。それを止めようとした弟子たちのほうが、イエスさまから叱られたのです。



「『神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。』」



これは、どのような意味に理解すればよいのでしょうか。「神の国はこのような者たちのものである」という点と、それに続く「はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」という点との関係が、やや気になります。



前者の「このような者たち」が指していると思われるのは、明らかに「乳飲み子」です。ところが、後者の「子供のように神の国を受け入れる」と言われている中の「子供」とは、まさに「神の国を受け入れること」、つまり、そこには何らかの自覚的で・主体的で・積極的で・理性的な「受けいれる」という行為を行ないうる「子供」の存在が前提されているようにも読めます。



もちろん「子供のように・・・受け入れる」とは、子供のように無邪気に、という意味でしょう。また、ここで「子供」は年齢の問題だけではなく、親に対する子供という意味です。親の存在を受け入れる子供のように神の存在を受け入れ、神の国を受け入れなければ、という意味です。



それはそれでよいと思います。しかし、「神の国を受け入れる」となると、そこには必ずなんらかの自覚や主体性が求められるように思われます。そういうことは「乳飲み子」には不可能です。



ですから、前者と後者、「神の国はこのような者たちのものである」という点と、「子供のように神の国を受け入れる人」という点とを論理的に切り分けて考えてみることは不可能ではないように思います。



そして、わたしたちにとって大いに気になるところは、要するに、イエスさまの御心はどちらなのだろうかということです。イエス・キリストの御名によって行われている礼拝に参加してもよいのは「乳飲み子」であろうか、それとも「神の国を受け入れる」ということを自覚的・主体的・積極的・理性的になしうる年齢に達している子供たちだろうか、ということです。



しかし、結論ははっきりしていると思われます。もちろん前者です。「乳飲み子」です。イエスさま御自身がそのことをはっきりとおっしゃっているからです。イエス・キリストの御名によって行われている礼拝に、(泣くのが仕事の!)乳飲み子が参加するのを妨げることは、イエスさまご自身によって禁じられているのです。



ですから、このことがはっきりしている以上、わたしは、むしろ、このことから反対に、礼拝とは何なのかということを考え直して行くとよいだろうと、考えております。



先日、3月19日(日)の教会勉強会で、わたしがお話しいたしましたことは、「牧師の説教だけが礼拝のすべてではない」(「教会の生命としての礼拝」参照)ということです。



礼拝には、説教だけではなく、他にもたくさんの要素があります。司式者の長老が必要であり、賛美歌の奏楽者が必要です。出席してくださるみなさんひとりひとりが必要です。受付の奉仕者、献金の奉仕者、さまざまな奉仕者が必要です。日曜学校の先生たちが必要であり、週報や月報を作ってくださる長老が必要です。多くの人の力によって教会が成り立ち、礼拝が成り立っています。礼拝を牧師の独り相撲の場にしてはならないのです。



この点から考えてみたときに、です。たとえばの話ですが、「牧師の説教を静かに聴くことができるどうか」という点だけから、その静けさを確保するという目的で、その静けさを妨げることにつながるあらゆる要素を礼拝から取り除くことが、本当にふさわしいことだろうか、ということを、わたし自身は考えざるをえないのです。



もちろんわたしは、こういうことをはっきり言い過ぎると、いろんな波紋が起こりかねないことを知っているつもりです。しかし、あまり口ごもっていることも、よろしくないでしょう。



乳飲み子の泣き声で説教が妨げられる、というようなことを、気にすることはない、というのが、わたしの結論です。それが理由で乳飲み子を礼拝に連れてくることができないとお考えになる方が一人もいないことを、期待します。



乳飲み子が泣くのは、おしゃべりとは違います。おしゃべりの場合は、「ちょっと、そこ、静かにしてください」と注意するかもしれません。しかし、乳飲み子に「泣くな」と言えるでしょうか。乳飲み子を抱えた親たちは、礼拝から排除されなければならないのでしょうか。



わたしたち夫婦の経験からしても、いろいろな意味でいちばん辛かったのは、子供たちが小さかった頃です。わたしたちは、人生の中で最も辛いときにこそ、神の御言葉を聴くべきです。乳飲み子を抱えた親たちこそが、この世の中で最も礼拝の説教を聴くべき存在なのかもしれないのです。



子供が泣こうが騒ごうが、それが理由で礼拝に出席できない親たちが一人もいないことを、わたしは期待します。乳飲み子と親の存在は、セットで考えるべきです。イエスさまが、乳飲み子たちがみもとに来ることを妨げてはならないとおっしゃったことには、親に対する配慮という面もあったのではないかと考えるのは無理なことではないと思います。



ところで、親が、あるいは大人が、子供たちを礼拝に連れてくることの意味は何でしょうか。今日お読みしました二段落目に書かれていることが、この問いにかかわってきます。



「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』すると議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。」



ここに出てくるのは、「ある議員」とイエスさまの二人です。「議員」とはユダヤの最高法院の議員です。



注目していただきたい個所は、イエスさまがこの議員に「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟を、あなたは知っているはずだ」と言われたのに対し、この議員が「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えているところです。



ここに「子供」というキーワードが出てきます。なぜこの点に注目していただきたいかと言いますと、この発言は、この議員の人にとっては、間違いなく、自分自身の良い意味でのプライド、矜持(きょうじ)に満ちた告白である、ということです。



わたしは、子供の頃から今日に至るまで一貫して、神の御言葉を、聖書の教えを守ってきました。この点では、右にも左にもそれずに来ました。このように語ることができるのは、やはり幸せなことです。そうではないでしょうか。



そして、ここで考えていただきたいことは、この人が「子供の頃から」と言っている言葉は、彼自身が子供の頃から(ユダヤ教のではありますが)「教会」に通っていた、ということを事実上意味するわけですが、その背景には、この人の親の存在がある、ということは否定できないのです。



彼自身が、子供の頃から、自分ひとりで聖書を学び、自分ひとりで神の御言葉に従ってきたと言えるでしょうか。おそらくそうではなく、親がこの人に、子供の時から、聖書の御言葉を学ぶように教え、神の御言葉に従って、しつけてきたのです。



そのことが大切である、と思います。赤ちゃんのときから自分の意志で教会に通いたいと願ってきたといえる人は、ひとりもいないのです。むしろ、赤ちゃんのときには、連れて来られるだけです。



しかし、その時期を越えれば、この議員の人のように、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」ということを、良い意味での自信や矜持をもって語ることができるようになるのです。



子育てには我慢と苦労が必要です。教会の子供たちを育てることにも我慢と苦労が必要なのです。それを乗り越えた先を期待しましょう。この子供たちが、神の栄光を表わす者へと、成長していくのです。



(2006年4月23日、松戸小金原教会主日礼拝)





今持っているものを固く守れ


ヨハネの黙示録2・18~29

ティアティラ教会に書き送られたイエス・キリストの手紙にも、他の教会と同じように、ほめられるべき点と、責められるべき点との両方が、書かれています。

「わたしは、あなたの行い、愛、信仰、奉仕、忍耐を知っている。更に、あなたの近ごろの行いが、最初のころの行いにまさっていることも知っている。」

これは、ほめられるべき点です。とくに注目したいのは、後半部分に書かれていることです。

「行い」とは、聖書の御言葉とキリスト教信仰とに基づく、キリスト教的な行いです。これが、最初のころよりも、近ごろのほうがまさっている、と言われているのですから、時間の流れの中で、変化があり、進歩があり、成長がある、ということです。

そういうことがある、ということを、わたしたちは否定すべきではありません。教会に何十年通いました。信仰生活を何十年続けてきました。そういう場合に、わたしたちは、行いの面でも、なんらかの変化があり、進歩があり、成長もあると、信じることができるのです。

とはいえ、しかし、そのことがわたしたちに起こるのは、自動的なことであるのか、というと、そういうふうには言えません。教会に何十年も通い、信仰生活を何十年も続ける、ということの中で、わたしたちが体験することは、教会の中には必ずある「訓練」という要素です。

礼拝に出席するということだけでも、そこには必ず、訓練という要素があります。洗礼を受けたばかり、まだ数年しか経っていないという人にとって、礼拝は、一回一回が新鮮な感動に満ちあふれているものかもしれません。

ところが、それがだんだんマンネリ化してくる。退屈に思えてくる。だからこそ、マンネリ化との戦いというテーマが、わたしたちの信仰生活にとっての重要な課題にもなってくるわけです。

40年、50年の信仰生活を送ってきた人は、一体、何回の礼拝、何回の説教を聴いてきたのでしょうか。1年に52回の日曜日があるとして、それをたとえば50年間続けるとどうなるか。52回×50年=2600回の礼拝が行われ、その回数だけの説教を、聴いてきたことになるでしょう。

また、教会の中には、牧師・説教者がしょっちゅう替わる教会もあれば、40年とか50年間という長さで、たった一人の牧師が、そこで説教をしてきたという教会もあります。みなさんは、一人の牧師の説教を2600回聴くことができますでしょうか。とても耐えられないと思う方も多いのではないでしょうか。もしかしたら、そのようなひどい目に遭うのは、その牧師のおくさんかもしれません。

そう考えますと、いわばただ礼拝に出席するだけで、他の特別な奉仕は何もしていない、という人であっても、50年くらい礼拝生活を続けてくること自体において、十分な訓練を受けてきたことになるし、うんざりするほどの過酷な修行を積んできたことになるのです。

説教を聴くことを軽んじるなかれ。人の話を聴く訓練は、実際に体験したことがある人なら誰でも、それがとても大変なものであるということを理解していただけるでしょう。

そしてそのような教会的な訓練の中で、わたしたちの行いが変化し、進歩し、成長するということが、必ず起こる、と信じてよいのです。しかしまた、そのわたしたちの変化が起こるのは、いわば教会で「訓練」を受けたからである、ということも事実として認めるべきでしょう。

「わたしは、教会で洗礼を受けました。しかし、それ以降はほとんど教会には通っていませんし、礼拝にも出席していません。説教も聴いていないし、聖書も学んだことがありません」という人であっても、「洗礼を受けている」だけで、行いの変化が起こるだろうか。そのような「自動的な変化」が起こるかどうか。全くありえないとは言えないかもしれませんが、非常に難しいことであると語ることは許されるだろうと思います。

わたしが強調したいことは、わたしたちが信仰的に成長していくためには、教会の活動に参加することが必要である、ということだけです。場合によっては、長老や執事、日曜学校の教師といった責任ある立場に就くことも、わたしたちが信仰的に飛躍的に成長していくために、必要な道であるとも言えるでしょう。

ティアティラ教会に所属している人々にも、行いの成長ということが、実際に起こった。このことは、ほめられるべき点です。

ところが、です。ティアティラ教会には、責められるべき点もあった、ということが、次に記されています。

「しかし、あなたに対して言うべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女のすることを大目に見ている。この女は、自ら預言者と称して、わたしの僕たちを教え、また惑わして、みだらなことをさせ、偶像に献げた肉を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女はみだらな行いを悔い改めようとしない。」

このイゼベルという女性が何者なのか、ということについては、ここに書かれていることしか分かりません。自称「預言者」であり、みだらな行いや偶像礼拝を自ら行い、また教会員たちにも勧める。教会員を惑わし、ごまかし、ペテンにかける。

そういう人の存在を、ティアティラ教会の人々は「大目に見ている」。これが、責められるべき点です。

「大目に見る」とは、見て見ぬ振りをすること、あるいは、それが発覚しても、お咎めなしとする、ということでしょう。

もちろん、そんなことが頻繁にあってはならないことですが、わたしたち日本キリスト改革派教会の場合は、たとえば、教師や長老、あるいは教会員の中に、みだらな行いをしているということが明確になった場合には「戒規」という訓練を受けていただくことになります。そのことを皆さんは、よくご存じです。

とはいえ、もちろん、そこに「大目に見る」ということが全くないかというと、そんなことはありえません。わたしたちは、可能な限り大目に見るのです。こんなに許してよいのかと思うくらいに、あほじゃないのかと批判されるくらいに、どこまでも許し続けるのです。

しかし、です。そこには限度があることも知るべきです。ただし、それはわたしたちの堪忍袋の緒が切れる、ということではありません。戒規の目的は、その人が不適切な行為、みだらな行いを続けるのをやめさせること、そして自分の罪を認めさせ、悔い改めさせることにあるのです。

大目に見ることに限度がある、というのは、わたしたちの忍耐と寛容に限度がある、という意味ではありません。その人が自ら行うみだらな行いによって、自分自身の身に裁きと滅びを招いている、ということを知らしめることが、わたしたちの責任であるゆえに、いつか必ずその人に向かって、主の御言葉に基づく罪の宣告を語らざるをえない、という意味です。

「見よ、わたしはこの女を床に伏せさせよう。この女と共にみだらなことをする者たちも、その行いを悔い改めないなら、ひどい目に遭わせよう。」

ここで、わたしたちがつい、裁きの内容の激しさに目を奪われて、読み落としてしまいがちなのは、「その行いを悔い改めないなら」という条件です。これは執行猶予つきの裁きです。

神は、とことんまで、忍耐と寛容を示してくださいます。わたしたち人間が悔い改めるのを待っていてくださいます。罪を犯したものを打ち殺すという、ただこの面だけを見てはならないのです。

そしてまた、わたしたちにとって大切なことは、そのような、みだらな行いを勧めたり、偶像礼拝のようなことを教えたりする偽預言者、偽教師のような人の後について行ってはならない、ということです。

同じ罪と言っても、「教師」を名乗る人が犯す罪と、そうでない人が犯す罪とでは、重さが違います。教師の犯す罪のほうが重いのです。

それはまた、「教師」を自称しているだけで中身は偽物である、という人であっても、その人の語る言葉や行いが持っている影響力は、大きいのです。だからこそ、その人の言葉や行いが犯す罪は、大きいのです。

もちろん実際には、「教師」を名乗る人の語る言葉や行いに、教師でない人々が逆らうことには、勇気が必要ですし、困難が伴います。

しかし、もしそれが必要なときには、わたしたちは、その勇気を持たなければならないのです。

「ただ、わたしが行くときまで、今持っているものを固く守れ。」

この「今持っているもの」とは、正しいキリスト教信仰のことであり、また正しい信仰に基づく正しい行いのことです。

それを守ることが大切です。保守的であることのすべてが、恥ずかしいことではありません。

信仰生活のマンネリ化は、改善されていくべきですが、目新しいが間違っているというような教えに走ってよいわけではありません。目新しさや斬新さには、同時に危険が伴うことも事実です。

わたしたちは、惑わされてはならないのです。

(2006年4月23日、松戸小金原教会主日夕拝)


2006年4月16日日曜日

信仰は試練によって本物と証明される


ペトロの手紙一1・3~9

イースターおめでとうございます。今日は、わたしたちの救い主、イエス・キリストが死者の中から復活されたことを記念する、復活日の礼拝です。

わたしたちキリスト教の教会、全世界の教会は、二千年の間、イエス・キリストの復活を信じてきました。これがわたしたちの信仰であり、希望です。

使徒パウロは、もしキリストが復活しなかったのだとしたら、わたしたちキリスト教の教会が宣べ伝えていることは無駄であるし、キリスト教の信仰も無駄であると、はっきり言っています(一コリント15・14)。

要するに、教会などやめちゃったほうがいいし、毎週日曜日の礼拝に通う必要はない。牧師や教会役員(長老・執事)の存在も、教会の建物も無意味である。パウロの言おうとしていることは、これくらい激しいことです。

もちろん、それは、もしイエスさまが、キリストが復活しなかったとしたら、という話です。しかし、パウロが本当に言いたいのは、正反対のことです。

イエス・キリストは復活されたのです。これは本当のことなのです。そのことを、声を大にして言いたい。命をかけて言いたい。実際にパウロは、このイエス・キリストの復活を宣べ伝えることのために命をかけ、まさにそのために命を捨てた人です。

先ほどお読みしましたのは、使徒ペトロの手紙です。ペトロもまた、イエス・キリストの復活を、心から信じ、声を大にして宣べ伝えた人の一人です。

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」

ここでペトロは、わたしたちの主イエス・キリストの父である神」が「死者の中からのイエス・キリストの復活」によって、わたしたちに、「生き生きとした希望」を与えてくださった、と書いています。

もう少し短く言えば、神がイエス・キリストの復活によってわたしたちに希望を与えてくださった、ということです。つまり、イエス・キリストの復活は、わたしたちの希望である、ということです。キリストの復活は希望である、ということです。

なぜ、キリストの復活が希望なのでしょうか。少し説明が必要かもしれません。イエスさまというお方は、イエスさまに反対する人々の手によって殺されたのです。そのあたりから話を始めなくてはなりません。

今でもそういう人はたくさんいますが、イエスさまの時代にも、自分に都合の悪いことを言ったりしたりする相手がいると、簡単に殺す人がいます。「死人に口なし」と言います。要するに、自分にとって都合が悪いことを言う人を殺して口封じをするのです。「臭いものに蓋」は、少し意味が違うかもしれません。しかし、ひとの口に蓋をしようとする人が、世の中には、たくさんいるのです。

しかし、これは他人事でしょうか。わたしたちも、同じようなことを考えることはないでしょうか。わたしの心の中には罪があります。また、人の目に見えないところで、実際に悪いことをしてしまうことがあるのです。

しかしまた、少し言い訳がましい言葉になるかもしれませんが、わたしたちが心の中で他人に対して悪意や殺意を抱くことと、たとえば、影響力の大きな人々、たとえば一国の王とか大統領とか総理大臣とかその他の政治家とか、学校の教師とか、大きな会社の社長とか、あるいは大きな宗教団体の宗教家とかが考えるのとで、全く同じとは言えないのではないか、という点は、考慮しなければならないはずです。

自分の都合の悪いことを言ったりしたりする人を、殺したいとか死んでほしいと願う。このことを、たとえば、一国の王が願い、自由自在に実際にその相手を殺すことができる時代。格好をつけるつもりはありませんが、わたし自身は、その種の権力を手に入れたいと願う人の気持ちが、全く理解できません。

権力を持っている人、そのような立場に就いている人には、他の人々よりも大きな責任があるのです。その人々の抱く悪意や殺意は、その国全体、ひいてはその時代全体を暗くします。イエスさまが十字架に架けられて殺された時代とは、まさにそのような暗い時代、悪い時代だったのです。

しかし、使徒ペトロは、イエス・キリストの復活はわたしたちの希望である、と語っています。ペトロの時代は、イエスさまと同じ時代です。暗い時代であり、悪い時代です。その中でペトロは、「生き生きとした希望」を語ります。希望など、どこにもない。ただ絶望するほかないような時代の只中で、イエス・キリストの復活を信じる信仰に基づく希望を語っているのです。

なぜキリストの復活が希望なのか、という問いに対する答えは、まだ申し上げておりません。答えはこれからです。考えていただきたい問題は、死人に口なし、臭いものには蓋、面倒な奴は殺してしまえ、このようなことが横行していた時代に、イエスさまが死者の中から復活された、ということは、何を意味するのか、ということです。

ごく分かりやすく言います。イエスさまの復活によって明らかになったことは、イエスさまの父なる神さまというお方は、だれか人間が口封じしようとした相手の口をお開きになるお方であり、「臭いものが入っているから」という理由で、だれかがふさいだ蓋を取り去られるお方である、ということです。

別の言い方をすれば、権力や暴力によってイエス・キリストの口を封じること、イエス・キリストがお語りになる神の御言葉を封じることはだれにもできなかったということです。

これは、わたしたちにとって喜ぶべきことであると、思っていただきたいところです。ごく一般的なところから言えば、言論の自由、表現の自由、結社の自由、そして信教の自由などに通じる事柄でもあります。

もちろん、イエス・キリストの復活によって明らかになったことは、そのような、いわゆる基本的人権の問題だけに限られるものではありません。いわばもっと広いこと、もっと大きなことです。

何を信じてもよいという自由が保障されているということも大事です。しかし、もっと大事なことは、真実とは何かという問いを抱くこと、そしてその問いに答えが与えられることです。イエス・キリストがお語りになったのは、父なる神の御心であり、まさに真実の言葉です。

その言葉をイエスさまがお語りになることを、だれにも止めることができませんでした。口封じなどできませんでした。十字架に架けて殺しても、三日目に蘇って、御言葉を語り続ける、それがイエス・キリストというお方なのです。

イエス・キリストは復活して、今は天の父なる神さまのもとにおられ、二千年前の人々に神の御言葉をお語りになったように、今のわたしたちに対しても、聖霊なる神の働きを通して、聖書と教会を通して、生きた御言葉を、語り続けておられます。

わたしたちは、教会で、聖書を通して、過去の歴史の記録を勉強しているだけではありません。教会の礼拝は、世界史の授業ではありません。

わたしたちがしていることは、今生きておられるイエス・キリストの御言葉を、聖書を通して、わたしたち一人一人の心の中で聴きとることです。イエスさまの御心を悟り、わたしたちが今の時代を、現実の世界を、日常の生活を、どのように生きるべきかを考え、決定することです。

ですから、逆に言えば、使徒パウロが語った、もしキリストが復活しなかったとしたら、教会の宣教も信仰も無駄です、という言葉は、とても乱暴ではあると思いますが、しかし、なるほど正しいと言いうるものであることが分かります。

イエスさまが二千年前に復活され、今も生きておられるからこそ、わたしたちは、教会や礼拝には意味があると信じることができるし、また、わたしたちが信じているこの信仰には意味がある、と確信することができるのです。

わたしたちにとって「生き生きとした希望」とは、まさに、イエス・キリストが今、生きた言葉をわたしたちに語ってくださるという信仰から生まれるものなのです。

「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています。それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

今日の説教の題名は、今お読みしました個所の中の「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明される」という御言葉から、採らせていただきました。

「試練」とは、日本語としても、宗教的な意味合いが強いようです。広辞苑には「信仰または決心のかたさをこころみためすこと。また、そのための苦難」と定義されています。

ですから、試練を受けるとは、信仰が試されることです。このわたしの信仰は、本物であるかどうかが、そこでまさに試されるのです。試験を受けるわけです。そしてその試験の結果として、このわたしの信仰の確かさ、正しさが、まさに証明される。「あなたの信仰は本物です」という保証書、神さまからのお墨付きをいただくことができるのです。

苦しみや悩みがあると信じることをやめる。その信仰は本物でしょうか。それは本物ではない、偽物であると、すぐに言い切ってしまうことは、やめましょう。

苦しみや悩みがあるとき、つらいときは、本当につらいのです。今、現実の苦しみに押しつぶされそうになり、信仰を失いかけている人に向かって、「あなたには信仰が足りない」とか「あなたの信仰は偽物だ」と言い放つことによって、つらい人の心をさらに傷つけ、追い討ちをかけるようなことは、やめましょう。

しかし、です。全くの愚問かもしれませんが、どうか腹を立てずに聴いていただきたいと願うことがあります。

それは、わたしたちに現実の苦しみや悩みがあるときに、同時に信じることもやめてしまうならば、果たして、その先、わたしたちは、みなさんは、どうやって生きていくのでしょうか、という問いです。

だれかが助けてくれるでしょうか。神さまとか宗教は信じない。わたしは人間を信じる。お母さんやお父さんを信じる。隣のおばちゃんを信じる。テレビの司会者を信じる。有名な人が書いた本を信じる。それで十分に間に合っていますというのでしたら、それはそれで、わたしは尊重します。

しかし、その上であえて問いたいことは、その人々は本当にわたしたちを最後まで助けてくれるでしょうか、ということです。

わたしたちの救い主なる神イエス・キリストを信じることは、少なくともわたし自身にとっては、苦しみや悩みがあるから信じない、ということとは、逆の道筋、正反対の方向性においてしか、とらえることができないものです。

苦しいから信じるのです。もちろん、苦しくなくたって信じてよいわけですが。しかし、わたしたちは、悩みがあるから信じるのです。苦しいときの神頼みで、大いに結構です。

これで神さまが助けてくださらなかったら本当の絶望です。イエス・キリストが復活されなかったとしたら、絶望です。

これは、格好をつけているのでも何でもない、わたしたちにとって、本当の真実の言葉です。

(2006年4月16日、松戸小金原教会主日礼拝)

2006年4月9日日曜日

「十字架の上で救われた人―受難週―」

ルカによる福音書23・39~43



今日開いていただきました個所の登場人物は、三人です。まんなかにイエスさま、その右側と左側に一人ずついます。三人とも十字架の上です。絶望的な状況であると言うべきでしょう。



ところが、です。やや不謹慎であるとは思いますが、わたしは、この個所を読むたびに、面白いと感じます。三人が十字架の上で大いに語り合っています。もちろん状況は、ものすごく深刻なものですので、面白がっている場合ではないかもしれません。



しかし、どういうことでしょうか、おだやかで、なごやかな雰囲気に満ちている会話が交わされています。



たとえどんなに絶望的な状況であっても、イエスさまが共におられる時と場所においては、このような穏やかさ、和やかさが生まれるのです。そのように信じてよいのです。



イエスさまの隣の十字架にかけられていた二人のうちの一人が、イエスさまをあざ笑いました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。



この言葉は、もちろん、この人自身が本当にそう考えたので、自分の考えどおりのことを言ったのであると理解することも可能でしょう。しかし、もう一つ考えられることは、この人が語っている言葉は、はじめから自分ひとりで考えた末に至った結論、というようなものではないかもしれない、ということです。



そのように考えることができる一つの根拠があります。それは、この人が言っているのとほとんど同じ言葉を、この直前に二回、しかも、それぞれ別の人々が言っていたということが、はっきりと記されているからです。



まず、ユダヤの最高法院の議員たちがイエスさまをあざ笑いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23・35)。



次に、ユダヤに駐留していたローマ帝国の兵隊もイエスさまをあざ笑いました。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23・36)。



この文脈から明らかなことは、議員も言う、兵隊も言う、その言葉をおそらく他の多くの人々が聞いているわけですが、十字架にかけられたこの犯罪人も聞いていたに違いない、ということです。



そして、その言葉に、この犯罪人もまた深く共感している、という第一の可能性がある。あるいは、第二の可能性として、あの議員たちや兵隊たちが言っていることを、おうむがえし、受け売りしているようでもある、ということです。



他の人が言っているから、わたしも言いたくなった。他の人が言っているから、わたしも言ってもよい。この人はそのように考えた可能性があります。うんと批判的な言い方を許していただけば、この人には主体性がありません。自分の頭で深く物を考えていません。他人の意見や周りの雰囲気に流されやすい傾向がある、と言えるでしょう。



みんなと一緒になって、同じ言葉を、イエスさまに向かって吐き出す。



「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」



あなたって「救い主」なんでしょ。自分を救うこともできないのに、なんでそんなエラそうなことを言えるのですか。そのように、言いたいわけです。



ですから、この人がイエスさまに言いたいことは、本当に自分を救ってもらいたい、という意味ではおそらくなく、できないことを「できない」と認めなさい、と言いたいだけです。そのようにして、イエスさまの心に、なんとかしてダメージを与えたいだけです。



この人は、どうして、イエスさまに、できないことを「できない」と認めさせたいのでしょうか。それは、おそらく、彼自身がいろんなことに敗北してきた人だったからです。自分に負け、人生に負け、世間に負けたのです。



ところが、です。このわたしの目の前に、自分はすでに十字架の上に張りつけにされているにもかかわらず、この期に及んでも、何一つあきらめてないように見える人がいる。そのことが、許せなかったのです。



議員たちについても、兵士たちについても、同じことが言えるように思います。彼らは、イエスさまを「自分を救ってみろ」という言葉であざ笑いました。もちろん、自分を救うことはお前にはできないだろう、という意味です。十字架上のイエスさまの無力さを笑うためです。そして彼らも、イエスさまの口から一種の敗北宣言を聞きたかったのです。



彼らはなぜ、そのような言葉を聞きたいのか。彼らもまた、いろんなことに敗れてきた人々だったからでしょう。プライドだけは高いのですが、彼らには、人を助けることも、救うこともできなかったのです。



ところが、彼らの前に、十字架の上にあっても、何一つあきらめていないように見える存在が現われた。この人は敗れていない。そのことが許せなかったのです。



ところが、です。イエスさまの隣に十字架につけられていた二人の人の内のもう一方の人は明らかに違いました。この人も、犯罪人として十字架に架けられた人ではあります。しかし、この人は、十字架の上で自分の犯した罪を思い起こし、深く悔い改め、反省し、そしてその上でイエスさまを信じる信仰へと導かれ、自分が救われることを心から願ったのです。



もう一人の人との決定的な違いがある、と言えるでしょう。



「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」



ここに書いていることで明らかなことは、この人は今、自分が十字架にかけられていることは、「自分のやったことの当然の報い」であるという自覚があった、ということです。死罪に当たる罪を犯した、という自覚が、この人にはありました。



自分の罪を認め、反省すれば、その人の罪は、すっかり無くなってしまうのかというと、おそらくそうではありません。被害を受けた人の心や体の傷、あるいは生活上の損害は、永久に残り続けるものです。



しかし、です。「牧師さん、それは甘いよ」と言われてしまうかもしれませんが、しかし、です。いろいろなケースを考えてみても、犯罪の被害にあった人々や、その家族の人々にとって、加害者に対して最も強く求めることは、何よりも自分の罪を認めて反省することです。それだけであると言ってもよいほどです。



賠償請求とかなんとかも、お金が欲しいわけではないと考えている人が多いのです。加害者に求めることは、ただひたすら、自分の罪を認め、反省すること、ただそれだけである。そのように、多くの人は、願うのです。



イエスさまの隣にいたもう一人の犯罪人は、「自分の罪を認め、反省していた」という点については、クリアしていた、ということを、わたしたちは、今日の個所から、確認することができるでしょう。



そして、もう一つの点として、この人は「自分の罪を認め、反省した」上で、イエス・キリストを信じる信仰へと導かれたということを、確認することができます。



第一に、この人は、イエス・キリストは「何も悪いことをしていない」ゆえに、十字架にかけられるべきではないお方である、ということを、はっきりと明言しました。



そのことを、この人は、いわば十字架の上に至って、自分の死の直前になって、初めて認識したのです。もちろん、この人を「世界で最初のキリスト者」と呼ぶのは言いすぎだと思います。しかし、この人は、十字架の下にいるだれ一人として認めなかった「イエスさまは無罪である」という事実を、最初に認め、公に告白したのです。



「この方は、何も悪いことをしていない」と、彼は言いました。「悪いこと」とは、もう少し原文に即して言い直しますと、「不適切なこと」とか「見苦しいこと」とか「無作法なこと」というようになります。それは「罪」よりも広い意味です。



「罪」とは、第一義的には、法を破ることです。しかし、法を破るまでには至っていないが、きわめて不適切なこと、というのが存在します。それは罪よりも広い意味です。



ですから、ここで彼が言っていることも、イエスさまは、「罪」を犯されなかったというばかりか、もっと広い意味での「不適切なこと」さえも、なさらなかった、という意味で、理解してよいだろうと思われます。



第二に、この人は、十字架の上で、イエスさまに対し、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。



謙遜な願いである、と言ってよいでしょう。この願いには、少なくとも次の二つの意味が込められていると思います。



一つは、イエスさま、あなたは神の国においでになる、という確信です。



そして、もう一つは、わたし自身はあまりにも罪深いので神の国に入ることはできそうもない。しかし、そんなわたしでも、イエスさまに覚えていただくだけで満足である、ということでしょう。



わたしたちが、自分は間違いなく天国に入ることができます、という確信を持つことが間違っているわけではありません。わたしは、そのことをはっきりと申し上げておきます。わたしたちが、そのことについて、どうして確信を持ってはいけないのでしょうか。



このようにわたしが申し上げることには、一つの理由があります。わたしがこれまでの牧師生活の中で出会ってきた人々の中に、「わたしは天国に入ることができますという確信を持つことは傲慢である」という考えを持っている人々がいたからです。



わたしは、それは間違いであると考えております。天国の確信を持つことは、間違いではありません。わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのですから、信仰を持っているすべての人々には、天国に入れていただけることについての確信を持つことが許されています。



確信を持つことが許されているのに、持たないこと、持とうとしないことのほうが、間違いなのです。



しかし、です。「わたしを思い出してください」としか語ることができなかったこの人の気持ちも、まさに痛いほど分かります。



この人は、イエスさまの前で自分の罪を悔い改め、かつ反省し、自分の犯した罪の重さを知れば知るほど、「イエスさま、わたしを天国に連れて行ってください」と語ることは、できなかったのです。わたしには、その資格がないと、心底感じられたのです。



悔い改めとは、ひょっとしたら、そのようなものかもしれません。つまり、それは、「自分は天国にふさわしくない人間であると自覚すること」です。



これは、先ほど申し上げた「わたしは天国に行くことができると確信すること」とは、矛盾するかもしれません。しかし、この矛盾を同時に語ることが、信仰の奥義というべきものではないかと思います。



「すると、イエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた。」



このイエスさまの御言葉は、十字架の上で、真の救い主イエス・キリストとの出会いを果たし、自分の罪を悔い改め、反省した人にとって十分な慰めになったに違いありません。



「楽園」とは、天国のことであり、神の国のことです。そこには、イエス・キリストがおられます。イエスさまが共にいてくださる。そこが天国であり、神の国であり、楽園なのです。



十字架の上で悔い改めて救われた人がいる。この事実がわたしたちに教えていることは、わたしたちの信仰と悔い改めに「遅い」ということはない、ということです。



今、ここで、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じる人は、救われるのです!



(2006年4月9日、松戸小金原教会主日礼拝)



2006年4月6日木曜日

ユダは自分の福音書の中では「裏切り者」ではない

以下は、本日わたしのもとにオランダから配信されたメールニュース(2006年4月6日付)の記事の拙訳です。「ユダによる福音書」公開のニュースです。



情報源はオランダでは伝統ある改革派系のキリスト教新聞Trouwのメールニュースです。Trouwは、かつてはG. C. ベルカウワーなどの連載記事を売りにしていたこともあります。以下の記事は、ウェブ上でも公開されています。
http://www.trouw.nl/deverdieping/religie_filosofie/article273317.ece/



2006年4月6日(木) Trouw掲載記事



ユダは自分の福音書の中では「裏切り者」ではない



ローデヴェイク・ドロス 文/関口 康 訳



太古に書かれた『ユダによる福音書』は、聖書に記されているような裏切り者とは異なるユダの姿を描いている。さらにこの文書は、最初期のキリスト教会の様子を紹介している。



本日(2006年4月6日)、米国ワシントンにて『ユダによる福音書』が初公開される。研究者ハンス・ファン・オールト(Hans van Oort)氏は、この発見の偉大な意義について、本紙インタビューの中で初めて口を開いた。ファン・オールト氏は、ネイメーヘン〔カトリック〕大学の教父ならびにグノーシス主義研究室の教授である。同氏は、このテキストを研究してきた少数者の中の一人である。



ファン・オールト氏によると、新約聖書では「イエスを裏切った人物」であるこの弟子は、ユダによる福音書では「イエスを最もよく理解していた人物」として登場する。ユダは、自分の福音書の中では、他の使徒たちよりも優れた者であり、まさに「スター」として登場する。



コプト語写本は1700年前に書かれたものであるが、それはさらに紀元180年以前に書かれたに違いないギリシア語原典にさかのぼる。当時 『ユダによる福音書』は教父エイレナイオスによって論駁された。その文書が1970年代に発見され、中央エジプトに譲渡されたが、長い間、非公開とされてきた。昨年、この文書を復元し、翻訳するためにスイス人が立ち上げた財団法人〔マエケナス財団〕が、この文書を購入した。その成果が、本日発表される運びになった。



ファン・オールト氏によると、『ユダによる福音書』はグノーシス主義のテキストである。グノーシス主義とは正統派のキリスト教会との戦いに敗北した古代キリスト教の一潮流である。グノーシスとは「直観的認識」のことであり、それによって信者を救う洞察を得ることである。この文書は、グノーシス主義についての知識を(ニューエイジの思想家たちに)提供するだけではなく、最初期のキリスト教会の様子を物語るものである。原始キリスト教会は、改宗したユダヤ人たちによって構成されていた。



「ユダ写本(Judas-codex)の発見の歴史はダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』よりも素晴らしい。なぜなら、これは正真正銘の事実(echt gebeurd)だからである」と教授は語る。ファン・オールト氏によると、この写本の発見から30年が経過し、公開を妨害してきた人々のおそらく半分は、いなくなった。公開を妨害してきた人々とは、「〔公開するならば〕殺すぞと脅迫する者、密輸業者、写本のすべてあるいは一部を強奪しようとする者、パピルスを単に倉庫にしまっているだけの売買業者」などのことである。ファン・オールト氏は、失われたテキストが将来、さらに発見されることを期待している。



(拙訳者コメント)



当然のことながら、わたしたちは聖書学や教父学、さらにグノーシス主義研究にも関心を持つべきです。それらの研究に関心を持つからと言って、教義学を捨てることや、グノーシス主義者になることを、ただちに意味するわけではありません。



ファン・ルーラーは、第一義的には「改革派教義学者」でしたが、ユトレヒト大学では旧約聖書学の講義を担当したこともあり、その成果である『キリスト教会と旧約聖書』は、自らドイツ語で執筆したものですが、国際的に非常に高い評価を得ることができ、英語版まで出版されました。ファン・ルーラーのヘブライ語やギリシア語の知識は抜群でした。教義学を志す人々に聖書学を避けて通る道はありません。



また、ファン・ルーラーの「グノーシス主義批判」はわれわれの中では周知の事柄ですが、逆に言えば、「グノーシス主義」とは何かを徹底的に知らなければ、ファン・ルーラーが何を批判しようとしていたかが分からないということにもなります。その意味で「グノーシス主義研究」は、わたしたちファン・ルーラー研究者にとっての不可避的課題と言えるかもしれません。



それに何よりも、原始キリスト教会には新約聖書に収められている四つの福音書以外にもたくさんの「福音書」が存在したというのは今や常識であり、別にどうってこともない話です。『トマスによる福音書』であれ、『ユダによる福音書』であれ、『ダ・ヴィンチ・コード』であれ、笑いながら読めばいいし、読まなくてもよい。ただそれだけのことです。ミイラ取りがミイラには、なりません。



なお、本日の『ユダによる福音書』の公開に関しては、以下の記事があるようです。
http://cjcskj.exblog.jp/3073105/