ルカによる福音書18・31~43
今日は二つの段落を読みました。最初の段落に記されていますのは、イエス・キリスト御自身による、御自身の苦難と死、そして復活を、弟子たちの前で予告なさる御言葉です。
「イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。』十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」
実を言いますと、このルカによる福音書のこれまでのところでイエス・キリスト御自身が弟子たちの前でお語りになった同様の御言葉は、5回出てきました(9・22、9・44、12・50、13・32、17・25)。ですから、今日の個所は、いわば6回目であると言えるでしょう。
内容的に共通しているのは、イエス・キリスト御自身を意味する「人の子」はかならず苦しみを受ける、という点です。
もちろん、その苦しみとは、究極的に言うならば、まさにあのゴルゴタの丘の上でイエス・キリストが実際に体験されることになった、あの十字架の苦しみのことです。しかし、十字架の上だけがイエス・キリストの苦しみではありません。むしろ、そこに至るまでの全過程、全生涯が、苦しみでした。ガリラヤ地方で伝道されていたイエスさまが、エルサレムに乗り込む。その道のり、その歩みの中で、イエス・キリストは苦しみぬかれたのです。
なぜ、あるいは、何のために、イエス・キリストは、現実の苦しみを体験されなければならなかったのかという点については、今日は詳しくお話しする時間がありません。一言で言えば、人間の罪が、イエス・キリストを十字架につけたのです。イエス・キリストを苦しませ、死に至らせたのは、人間の罪です。しかし、その人間の罪が奪った救い主の命を、神が甦らせてくださったのです。
今日お話しできることは、その一つ手前のことです。ルカによる福音書によりますと、今日の個所を含めて6回にもわたって、イエスさまは、御自身がかならず体験されることになる苦しみについて弟子たちの前で語ってこられました。しかし、それにもかかわらず、今日の個所の記述によりますと、「十二人はこれらのことが何も分からなかった」というのです。彼らが理解できなかった理由についても、はっきり書かれています。「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかった」というのです。
言葉の意味を隠しているのは、神さま御自身であり、またイエス・キリスト御自身であると答えるべきでしょう。しかし考えてみると、イエスさまが何度も繰り返しおっしゃっていることの意味を理解できないというのは、やっぱりどこか恥ずかしいというか、複雑な気持ちになってくることも、事実です。
わたしたち人間には、自分自身でよく考えてみるということが求められています。だれかが語った言葉の意味は何なのかということを一生懸命に考えてみることが大切です。分からないままでいるのは、いらいらすることであり、気持ち悪いことでもあります。
また、自分一人で考えても答えが出ない場合は、他の人と一緒に考えることが大切です。可能な場合は夫婦や親子で語り合うなり、近くに相談相手がいない場合には教会員同士でもよいし、あるいは、長老や牧師に相談を持ちかけてくださるなりして、とにかく分かるまで考え抜く必要があるのです。
しかしまた、です。イエス・キリストの苦難と死、そして復活についての予告の言葉を弟子たちは、何度聞いても理解できなかった、ということも、まさに歴史上の事実であり、そのこと自体に対して、もっと真剣に考え抜いていくべきだったとか言ってみたところで、意味がありません。わたしが申し上げたいのは、そのようなことではありません。
むしろ、申し上げたいことは、おそらくわれわれ自身にとっても慰めになることです。それは、イエスさまがおっしゃったことを弟子たちが初めてはっきりと理解できたのは、イエスさま御自身が予告されたすべての出来事の終了してからのことであった、ということです。次のように書いてあるとおりです。
「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と』」(ルカ24・44~47)。
これは何を意味するのでしょうか。わたしが考えさせられたことは、なるほど、聖書に書いてあることは、実際に体験してみなければ、ほとんど理解できないことばかりである、ということです。
たとえば、先ほど触れました「イエスさまはなぜ苦しみをお受けにならなくてはならなかったのか」という一つの問題を深く考え抜いていこうとするときに、これを実際に体験すること、つまり、実際に十字架にかけられてみるというようなことができる人は少ないというか、いないと思いますし、する必要はないと思います。
しかし、そういうことではなく、たとえば、イエスさまがお語りになったのと同じ言葉を、わたしたち自身が実際に語る。また、イエスさまがなさったのと同じことを、わたしたち自身が実際に行ってみる。そうすると、どうなるか、ということです。
先週の礼拝後、ある方から、次のような質問を受けました。「『神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける』(18・29~30)と、イエスさまが言われているようですが、本当に捨てることができなければ、わたしは天国に入ることはできないのでしょうか」。
わたしは少し説明いたしましたが、多くの説明はできませんでした。「わたしにも分かりません。この御言葉を理解するのは、とっても難しいことです」とお答えするほかはありませんでした。
わたしに申し上げることができたのは、たとえば、わたしたちが何か信仰上の大きな決断をしなければならないとき(洗礼を受けること、教会に通うこと、信仰の生涯を全うすること、自分の子供を信仰者として育てることなど)、家や妻や兄弟や両親や子供の言い分を、自分自身の判断停止の理由にすることはできないのではないかというあたりのことを考えてみると、いくらか理解可能なものになるかもしれません、というくらいのことでした。しかし、これとてイエスさまがお語りになっていることの真意であるかどうかは不明です。
ただ、それでも、イエスさまの御心が少しくらいでも分かるようになることがありうるとしたら、それはどういうときかと考えてみますと、それはおそらく間違いなく、イエスさまの御言葉の意味を自分の頭の中で思いめぐらしている(だけ)というときではなく、むしろ、その御言葉において語られていることを実際にやってみようとするときであり、実際にやってみたときであるだろう、ということです。
しかし、イエスさまがお語りになった多くのことは、はっきり言いますと、わたしたちにとっては、たいへん難しいことばかり、できそうもないことばかりなのです。ところが、イエスさまは、御自身が語られた御言葉に、全く忠実に生きられた方です。だからこそ、わたしたちには実行できそうもない難しい御言葉を御自身で生きてくださったことにより、まさにわたしたちの身代わりに苦しみを味わってくださった、ということが起こったのであり、また、わたしたちの身代わりに死んでくださる、ということが起こったのです。
弟子たちは、イエスさまのお姿を、いわばただ見ていただけです。最後までイエスさまのあとに従う覚悟ができていると立派なことを語っていた弟子たちでさえ、イエスさまの十字架の前から全員逃げ去りました。
しかし、この「見ていた」ということが大切です。もし聖書の中で弟子たちが、イエスさまのお語りになった御言葉について、「わたしにもできました。こんなの簡単ですよ」というふうに証言しているとしたら、わたしたちは、聖書を読むたびに絶望しなければならないかもしれません。「わたしにはできませんでした。しかし、このわたしの身代わりに、イエスさまが苦しんでくださったのです」という証しこそが、聖書の中の弟子たちの証しであり、これこそがキリスト教の福音なのです。
弟子たちは、イエスさまの話を、何度聞いても理解できませんでした。しかし、イエスさまが、彼らと共に生きてくださり、彼らの傍らに寄り添いつつ、彼らにはできないことを、まさに彼らの身代わりに行ってくださったので、そのイエスさまのお姿を彼らが見ることによって、イエスさまの話の内容が、やっと分かるようになったのです。
わたしたちは、どうでしょうか。聖書の時代とわたしたちの時代との根本的な違いは、イエスさまのお姿を、肉の目で見ることができない、ということです。そうであるならば、わたしたちは、聖書に書かれていることを、永久に理解できないのでしょうか。そんなことはないと思います。
強いて言うならば、というくらいのことですが、わたしたち教会の者たちは、今のこの時代の中で、完全に、とはとても言えませんが、わたしたちなりに、イエスさまがお語りになった御言葉に、できるかぎり忠実に生きようとする道を選ぶことによって、苦しみを味わっています。
もしそのことをお認めいただけるならば、聖書に書かれている、イエスさまがお語りになった「苦しみ」の意味を、わたしたちが本当に理解するためには、現実の教会が実際に味わっている苦しみを共に体験する必要がある、ということです。
もっと短く言い直せば、聖書の御言葉の意味を真に理解するためには、具体的な教会生活が必要である、ということです。教会生活から切り離されたところで聖書を理解することは事実上不可能である、ということです。その意味において、信仰には具体性があるのです。
今日お読みしました、第二番目の段落に記されていることにも、今わたしが申し上げたこととは少し違う角度からではありますが、共通するメッセージを読み取ることができると思われます。それは「信仰の具体性」という点です。無理にこじつけるつもりはありませんが、実際に読んでみると、御理解いただけるのではないかと期待しております。
「イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。群集が通って行くのを耳にして、『これは、いったい何事ですか』と尋ねた。『ナザレのイエスのお通りだ』と知らせると、彼は、『ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください』と叫んだ。先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫び続けた。イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか。』盲人は、『主よ、目が見えるようになりたいのです』と言った。そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。」
ここに紹介されているのは、これまでも何度となく登場してきた、イエスさまに自分の病気や障碍、さまざまな苦しみや痛みをいやしていただきたいと願い出る人の一人である、と見ることが可能です。この人は、目が見えない人でした。
ところが、この人がイエスさまに向かって「わたしを憐れんでください」と叫んだとき、この人に「黙れ」と叱りつけた人々がいた、というのです。内容は異なりますが、乳飲み子たちをイエスさまのもとに連れて来た人々を叱りつけたことでイエスさまから叱られた(18・15)、あの弟子たちの姿と重なり合うものがあります。子供とか障碍をもっている人々の存在を邪魔者扱いするのは本当に間違っていることだと言わざるをえません。
しかし、ここで注目すべき点は、目の見えないこの人に対してイエスさまが投げかけられた問いの内容と、それに対するこの人自身の答えの内容です。
「何をしてほしいのか」。そのようにイエスさまから問われたので、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と、その人は、答えることができました。
このやりとりから読み取ることができると思われるのは、イエスさまがこの人にお尋ねになった「何をしてほしいのか」という問いの裏側にあるのは、「主よ、憐れんでください」という、いわば抽象的な願いや祈りだけでは不十分である、ということです。そのようなことをいくら叫んでも、何をしてほしいのか、自分がどうなりたいのか、分からないではないか、ということです。
それを、今、はっきりと口に出して言ってみなさい、ということです。自分の願いは何なのか、自分の要望、自分の目標、自分の計画は何なのか、その意味での自分の祈りは何なのか、ということを、はっきりと具体的に言葉にしてみなさい、ということです。
「言わずもがな」とか「以心伝心」とか、そういうことを重んじるのがわたしたち日本人なのかもしれません。「言葉で言わなくても分かってくれる」のが良い大人であり、良い教師である。「言わなければ何もしてくれない」のは中の下。「言っても何もしてくれない」のは下の下。われわれの一般的な評価は、そのあたりにあるような気がします。
しかし、です。少し考えてみていただきたいことは、教会もそうでしょうか、ということです。信仰者同士の関係、あるいは牧師と教会の関係、そして神さまとわたしたちとの関係までも「以心伝心」であることが、理想として求められるのでしょうか。
イエスさまは、厳しい意図をもって、目の見えないこの人に「何をしてほしいのか」と質問されたというふうに読むのは行き過ぎのように思います。イエスさまのおっしゃっていることは、厳しいことではありません。
ただし、です。「何も言わなくても、相手は分かってくれるはずだ」というような態度は、厳しく言えば、やや甘えです。それが通用するのは、たぶん親子の間だけです。
願いごとがあるなら、はっきり言ってください。
信仰とは具体的なものなのですから!
(2006年5月7日、松戸小金原教会主日礼拝)