20世紀のオランダ改革派教会の神学者、アーノルト・アルベルト・ファン・ルーラー[Arnold Albert van Ruler, 1908-1970]は、「女性の牧師・長老」については、どのような考えを持っていたのでしょうか。
この問いの答えとなりうる事柄が、昨年(2005年)アムステルダム自由大学に提出された以下の博士論文によって、ほんの少しだけですが解明されました。以下に、かいつまんだところをご紹介いたします。
Allan Jay Janssen, Kingdom, office and church: A study of A. A. van Ruler's Doctrine of Ecclesiastical Office with Implications for the North American Ecumenical Discussion, Academisch Proefschrift, Vrije Universiteit Amsterdam, 2005.
ファン・ルーラーが属していた「オランダ改革派教会」(Nederlandse Hervormde kerk)では、1950年代まで、女性の牧師も長老も、認められていませんでした。
しかし、そのオランダ改革派教会の教会規程が、ファン・ルーラーを中心的存在とする委員会によって改定されることになりました。そして、その改定作業の過程の中で、「教会の職務にある女性」(De vrouw in het ambt/ Woman in Office)というレポートがまとめられるなど、研究が盛んになされました。
そして、教会規程改定の結果として、女性の牧師と長老が、認められることになりました。
しかし、ファン・ルーラー自身は、女性の牧師と長老を認めることに「躊躇」(hesitation)を持っていたということを、上記のジャンセン論文が紹介しています。
その「躊躇」の理由は、たった一つだけです。
それは、キリスト教会において、「神と人間との関係」が、いわば「男と女の関係」として表現されてきたのは、ほとんど1900年間に及ぶ教会の「伝統」であるという、この点です。
しかも、この「伝統」は、「セクト」が勝手に変更してよいようなものではなく、「全体教会の伝統」でなければならず、それゆえ、カトリックとプロテスタントとの間のエキュメニカルな問いでもある、という点が、ファン・ルーラーを「躊躇」させました。
しかし、他方で、ファン・ルーラーの職務理解は、根本において、「職務は、しょせん単なる職務に過ぎない」(office is only office)という、どちらかといえばドライなものでした。
そして、「もしそうすることが必要な場合には、教会は、自己を改革する勇気を持たなければならない」(the church must have the courage to reform if need be.)とも考えました。
さらに、もう一つの点として、ファン・ルーラーは、「教会の職務を切り分けることはできない」とも考えました。
その意味は、そもそも教会の職務は、教会会議あってのものであり、会議から切り離された職務は存在しないこと、また「牧師」を「長老」や「執事」とは全く別扱いのものとすることはできないこと、そして「執事の奉仕」(service of the deacon)なしに「長老の治会」(governance of the elder)が存在しうるなどと考えてはならない、ということです。
ファン・ルーラーは、執事に用いられる「奉仕」(serving)という表現の意味は「神によって用いられた」(used by God)ということであるが、牧師・長老による「治会」(governance)も、じつは同じ意味である、とも語りました。
ジャンセンが紹介しているのは、この程度です。残念ながら、ファン・ルーラーは、女性教師・長老の問題について、あまり多くのことを語らなかったようです。
ちなみに、わたし自身は、女性を「教会会議」(小会・中会・大会)から排除する理由は、もはやどこにもない、と考えております。
『キリスト新聞』誌などで報じられましたので広く知られているとおり、数年前の日本キリスト改革派教会の定期大会で、女性教師・長老に関する件が「審議未了廃案」になりました。
しかし、それは、「未来永劫、二度と審議いたしません」という意味では全くありえません。教派の60周年信徒大会(2006年)が終わったら、もう一度、然るべき方々から提案され、きちんと取り扱います、という意味でした。少なくとも、大会の議場の大半は、そのように受け止めました。
きちんと取り扱っていただきたい。それがわたしの願いです。