2006年5月14日日曜日

「徴税人ザアカイ」

ルカによる福音書19・1~10



「イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった」。



エリコという町で起こった徴税人ザアカイとイエス・キリストとの出会いを描いたこの物語は、たいへん多くの人々に愛され、語り継がれてきました。



エリコは、ガリラヤからエルサレムに向かう旅の中ではいわば最終の宿場と言いうる、エルサレムの手前にあり、そこを必ず通っていくことになる、重要な拠点都市です。



その町にザアカイがいました。「徴税人の頭」とありますとおり、この仕事をしている中でいちばん偉い人の肩書きを付けていました。



ただし、これは少し皮肉です。「徴税人」は、ユダヤ社会における最も嫌われていた人々の代名詞でした。ユダヤを支配していたローマ帝国に納める税金を集める彼らの仕事は、ユダヤ人たちからは、裏切り者のようにみなされました。



また、当時の徴税人は、ゆすりたかりのたぐいを働いていました。ザアカイは「金持ち」であったと紹介されていますが、主な収入源は恐喝まがいの取り立てでした。一説によりますと、一般人で20パーセント分、ラビ(ユダヤ教の教師)の場合は25パーセント分のピンはねをしていたようです。そういうことを、ローマ帝国の権力を笠に着てするものだから、始末に終えない。



そんな感じでしたので、「徴税人の頭」とは、いちばん偉いというよりは、むしろいちばん悪い。いちばん社会から嫌われていた人の代名詞であったと理解すべきなのです。



お金はたくさんある。しかし、友達がいない。ザアカイは、そういう人でした。



「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」。



イエス・キリストがエリコをお通りになるという情報が、どこかから広まったのでしょう。イエスさまは、そのときまでには、すでに、かなりの有名人になっておられたと思われます。イエスという人はどんな人かを一目見たくて、大勢の人が集まってきました。



その中に、ザアカイも入ろうとしましたが、背が低かった。そのため、先回りして、いちじく桑の大きな木の上に登った、というのです。



木に登ったこと自体をどうこう言うことはできないかもしれませんが、強いて言うならば、そういうことを、いわゆる偉い人がするだろうか、ということを、つい考えてしまいます。



本当に偉い人ならば、(これも少し皮肉が混じっていますが)側近たちでも使って最前列に特等席でも確保させ、悠々とそこに座って、イエスさまご一行のお通りを眺めるのではないでしょうか。



ところが、ザアカイは、一人で走り回り、一人で木に登る。寂しさを感じます。



「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。』ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。『あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。』」



イエスさまは、そのザアカイを見つけてくださいました。イエスさまの目は、御自身の周囲の全体を見渡しながら、その中で最も変な感じがする、違和感がある、何かそこに問題があると感じる、そのようなところを、ズバリ見抜く力を持っておられるかのようです。一種の間違い捜しです。



そのような目は、おそらくわたしたちも、ある程度の訓練を受けると持つことができるように思います。それは要するに、全体を見渡しながら、その全体の中のどこかに違和感があるということを瞬時に察知し、どこに違和感があるかを的確に見抜く目です。



なぜ、木の上に人がいるのか。



なぜ、木の上にいる人が徴税人の頭なのか。



徴税人の頭が、なぜ木の上にいなければならないのか。



なぜ、あの人は、あれほどまでして、イエスさまを見たいのか。



あの人は、何か今、とっても悩んでいることがあるのではないか。



助けを求めているのではないか。



このような、いろんな問いを、瞬時に思いつき、問題の所在を察知する。「見る」という行為は、非常に大事です。



そしてイエスさまは、ザアカイの姿を木の上に見つけられたとき、ザアカイに声をかけ、「急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。



「急いで降りて来なさい」とは、そんな木の上などに一人でいないで、堂々とみんなの前に立ちなさい、というメッセージではないでしょうか。



「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」とは、何か切羽詰った思いを持っているように見えるあなたの話を、あなたの家で、ゆっくり聞かせてほしい、というメッセージではないでしょうか。



お金はたくさんある。しかし、友達がいない。そのザアカイを、イエスさまがみもとに呼び寄せてくださり、友達になってくださろうとしました。



その結果、どうなったか。ここに記されているのは、イエスさまから声をかけていただいたザアカイは、「急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」ということです。



ザアカイは、喜んだのです。それはおそらく、彼の心が求めていた何かを、得ることができたからです。イエスさまが自分の姿を見つけてくださり、また自分の家を訪ねてくださるということが、ザアカイにとっては、純粋かつ単純にうれしかったのです。



そして、この後に書かれていることで明らかになるのは、このイエスさまとの出会いによって、ザアカイは自分の生き方を大きく変えることを決心したのだ、ということです。それくらいに、この出会いは彼の人生において決定的な意味を持ちました。



ところで、わたしは、先ほど、ザアカイを木の上に見つけたイエスさまのような目は、ある程度までならば、わたしたちも、身につけることができるものである、と申し上げました。しかし、もちろん、イエスさまにしか、おできにならないこともあります。それは、いわばその先の部分です。



ザアカイがイエスさまを喜んで自分の家に迎えたのを見た人々が、イエスさまのことについて、「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやきました。こんなふうに言われることは初めから分かっていたことでした。ザアカイは、嫌われ者として有名人でしたから。



しかし、イエスさまは、そのことをあえてなさる。ザアカイを罪の中から救い出すためになさる。周りの人々からなんと言われようとも、全くお構いなしになさる。



嫌われ者の仲間になるということは、事実上、自分自身も嫌われ者になる、ということです。少なくとも、そのように言われたり見られたりすることを覚悟するということです。



そのことを平気でなさる。人から嫌われる勇気をもってなさる。この点が、イエスさまのイエスさまたるゆえんです。他の人々には真似することができない点です。



そのようにして、イエスさまは、他の多くの人々が「壁」や「溝」であると思っているようなことを、勇気をもって打ち破ってくださり、飛び越え、乗り越えてくださるのです。



他のみんなが嫌がったのに、イエスさまだけが、徴税人ザアカイの友達になってくださいました。いわば、ただそれだけのことでした。ただそれだけのことで、ザアカイの人生に大きな転機が訪れたのです。



「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。『主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。』」



これを「ザアカイの回心」と呼ぶことが正しいかどうかは微妙です。ただ、このときを人生の転機にしなければならないとザアカイ自身が確信し、そのように決心し、具体的な計画を提示し、それをイエスさまの御前で約束したことは、たしかです。



「財産の半分を貧しい人々に施します」というのは、生ぬるいでしょうか。「財産の全部を施します」と、ザアカイは言うべきだったでしょうか。そうだと言えばそうかもしれません。しかし、彼の提案は、興味深いものです。



財産の全部を差し出してしまうことは、悪く言えば、自分の人生に対する無責任に通じます。半分は自分のものとして残し、それを自分自身や家族の人生に責任をもって生きていくために用いることは、悪いことでないどころか、むしろ非常に良いことです。



また、彼は、自分が徴税の仕事の中で働いてきた恐喝を止めることを決心しています。そして、その分を四倍にして返しますと約束しています。



財産の半分を自分の手元に残すということは、その賠償分に充てるということでもあるのです。この点でも、彼の提案は、非常に現実に即していて妥当性があります。



「イエスは言われた。『今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。』」



イエスさまは、ザアカイの決心と約束を喜んでくださいました。そして、そのザアカイの姿を見て、「今日、救いがこの家を訪れた」と言われました。



ザアカイが財産の半分を貧しい人々に施すこと、恐喝で得た収入については四倍にして返すことは、ザアカイの悔い改めのしるしです。それで周りの人々が納得したかどうかは分かりません。



しかし、人がどう思うかということも大切ですが、自分は何をするかということが大切なのです。ザアカイの施しは、彼の悔い改めのしるしでした。もしそのようなものでないとしたら、彼の施しには、何の意味もありません。



「人の子は失われたものを捜して救うために来た」。このメッセージは、15章に出てくる三つのたとえ話(見失った羊のたとえ、無くした銀貨のたとえ、放蕩息子のたとえ)とも共通している点です。



これこそが、救い主イエス・キリストが地上に来られた目的です。イエスさまが十字架にかかってわたしたち罪人の身代わりに死んでくださるために来てくださった目的がこれなのです。



「失われたもの」とは、罪を犯すことによって神の御前から失われたもの、神から遠ざかってしまった人々のことです。



そのことがザアカイにも当てはまります。お金だけが友達。ゆすりたかりもへっちゃら。そう思っていたザアカイが自分の人生を根本的にやり直すことを決心し、約束する。それを「救い」と呼ばなくて、何を救いと呼ぶのでしょうか。



その出来事が、エルサレムにイエスさまがお入りになる前に、エリコの町で起こった、ということも、象徴的です。



エリコの隣のエルサレムで、イエスさまは、十字架に架けられるのです。



イエスさまは、ザアカイのためにも、死んでくださったのです!



(2006年5月14日、松戸小金原教会主日礼拝)