2006年4月30日日曜日

「人間にできないことも神にはできる」

ルカによる福音書18・18~30



「ある議員がイエスに、『善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか』と尋ねた。イエスは言われた。『なぜ、わたしを「善い」と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。「姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだ。』すると議員は、『そういうことはみな、子供の時から守ってきました』と言った。」



ここに出てくる「ある議員」とは、ユダヤの最高法院の議員です。当時の国会議員です。その人がイエスさまに近づいてきて、一つの質問をしたのです。



イエスさまは、質問にお答えになる前に、この議員が口にした小さな言葉を取り上げておられます。この人はイエスさまを「善い先生」と呼びました。ところが、イエスさまは、その呼び方をお嫌いになりました。



「先生」をされたことがある方なら理解していただけると思います。「善い先生」とか言いながら近づいてくる生徒がいるとしたら、どうでしょうか。かなり警戒するのではないでしょうか。これは何かあるなと。イエスさまはこの人に、奇妙な言い方をするのはよろしくないと、注意しておられるのです。



質問の内容に入って行きたいと思います。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。これと同じ質問をした人の話がルカによる福音書の中に一度出てきました(ルカ10・25)。



それは「律法の専門家」でした。そのときのイエスさまのお答えの内容と比較してみたいと思います。それで分かることは、前回のイエスさまのお答えと、今回のお答えとは、内容的に見て、基本的に同一線上にあると考えてよいものである、ということです。



前回のイエスさまのお答えは、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」でした(10・26)。すると、その人は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と答えたところ、イエスさまが「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われました。



今回のお答えは、「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ」でした。これらは律法の要約としてのモーセの十戒の後半部分です。ですからイエスさまのお答えの趣旨は、律法に書いてあることは何かをあなたは知っているはずだということです。つまり前回の「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」というお答えと内容的には同じなのです。



「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と、議員は言いました。すると、イエスさまが、一つの厳しい注文を付けられました。しかし、この注文も、前回の場合と基本的には同じ内容であると考えてよいものです。前回は、「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」というものでした。今回は、どういうものか。



「これを聞いて、イエスは言われた。『あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』」



この点も、じつは、前回の律法学者に対するお答えの場合と、内容的に一致していると見てよいものです。律法に書かれていること、聖書の御言葉、神の御心を実行しなさい、ということです。御言葉どおり、生きてみなさい。そうすれば永遠の命が手に入ります。それがイエスさまのお答えです。



聖書にはこう書いてある、ということを、知っているとか、勉強しているとか、学問的に正確に理解しているということ。このことも大事なことではあります。しかし、イエスさまがお求めになるのは、それだけではありません。いわば、もっと大切なことがある。それは、聖書のみことばを実行すること、信仰を実践することです。



そして、そのことを前提にしたうえでイエスさまがこの議員におっしゃっていることは、「あなたに欠けているものがまだ一つある」ということでした。



「あなたに欠けているもの」とは、イエスさま御自身がお用いになった表現でいいますと「天に富を積むこと」が欠けているということです。そのために「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分ける」ことです。そして、イエス・キリストに従うことです。



一つ一つ説明が必要だと思います。ここでイエスさまは、明らかに、「天に富を積むこと」と「永遠の命を受け継ぐこと」とを、同じ意味で語っておられます。この点を、まず確認しておきます。



そして、「永遠の命を受け継ぐこと」とは、わたしたちが永遠に生きることができるようになる、ということですから、とりあえず、「天国に入る」とか、その意味での「神の国の住人」になるということと同じ意味であると考えてよいでしょう。しかし、それが、なぜ「天に富を積むこと」と同じ意味になるのか。また、そのためになぜ全財産を売り払って貧しい人々に分けなければならないのか。このつながりはどうなっているのでしょうか。



最も大きな問題は、「天」あるいは「神の国」とは、どこにあるのか、ということです。「天」も「天国」も「神の国」もみな同じです。それぞれ別の場所や空間があるわけではありません。そしてそれは、第一義的に「神の支配領域」です。そこに神がおられ、また、そこを神が支配しておられる、そのような場所が「天」であり、「天国」であり、「神の国」です。それ以外の、あるいは、それ以上の説明は、わたしたちには、できません。



しかしまた、もしそうであるならば、わたしたちにとっては、「神の支配領域」としての「神の国」とは、向こう側の世界であるというよりは、むしろ、こちら側の世界です。今、ここで、わたしたちが生きているこの世界の側に実現する何かです。



そして、その「天」に「富を積む」とは、どういうことになるでしょうか。その意味は「神の国を豊かにすること」です。神が支配しておられるこの世界を豊かにすることです。



ですから、はっきり言いますと、イエスさまにとって「神の国」とは、われわれの積む富によって豊かになったり、反対に、貧しくなったりもする、そういうところなのです。また、その富とは、なんら抽象的なものではなく、非常に具体的かつ現実的なものです。まさに物質的な要素と呼ぶほかはないような何かが「神の国」を豊かにし、貧しくもする。そのような「神の国」を、イエスさまは、お教えになったのです。



イエスさまは、この議員に対して、全財産を売り払って貧しい人に分けることを命じ、そして「わたしに従いなさい」と言われました。これは禁欲主義の教えではありません。そのようなことははっきり言って、どうでもよいことです。わたしたちは何を食べようが、何を飲もうが、何を着ようが、どんな家に住もうが、どんな仕事をし、どれだけ稼ごうが、全く自由です。



むしろ、大切なことは、あなたの目の前に、わたしたちの世界の中に、現実に貧しい人がいるということです。貧しい人々を前にしても、無関心を決め込み、ただひたすら自分の利益をむさぼり続ける。それが果たして本当によいことか。問われていることは、このあたりのことです。



また、イエスさまとやりとりしているのは、まさに当時の国会議員です。



「国会議員であるあなたは、この国の代表者であり、また全国民の生活に対して責任を持っている人々でしょう。しかし、そのあなたに、自分の全財産を売り払ってでも貧しい人々を助けることができるほどの責任を国民に対して感じているでしょうか。あなたの目には、この世界のなかで苦しみ悩む人々の姿が映っているでしょうか。映っていないのではないでしょうか」という問いかけがあると考えてよいと思うのです。



なぜそのように考えてよいかと言いますと、案の定、というのは、意地悪な言い方かもしれませんが、事実として、この議員が、イエスさまの話を聞いて、非常に悲しんだからです。



悲しみの理由は明白です。この人は、根本的なところで自分のことしか考えていない。イエスさまの指摘は図星を当ててしまったのです。



「しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。『財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。』」



繰り返し申し上げておきますと、イエスさまが語っておられるのは、禁欲主義の勧めではありません。お金持ちになることが悪いと言われているのではなく、お金持ちが神の国に入ることは難しいと言われているだけです。その難しさに比べれば、らくだが針の穴を通る方が易しい、と言われているだけです。



神の国に入ることができるお金持ちもいる、と信じてよい。もし「らくだが針の穴を通ることができる」としたら、それと同じくらいの可能性ならばあります、ということです。



なぜ難しいのかについての説明はありません。強いて言うならば、そのことは、わたしたちが自分の胸に手を当てて考えてみれば分かることかもしれません。



自分のためにお金を集めるということと、他人を助けるということとは、方向性としては正反対の事柄かもしれません。他人を助けたい人は自分の貯えがちっともできない。余裕のある人は、その余裕を他人のために用いるかというと、そうならない。いかにわたしが豊かになりうるか。すべては自分のため。それくらいの気持ちがなければ、お金持ちになることはできない。それが現実かもしれません。



ですから、大切なことは方向性であると思います。



たとえば、聖書の御言葉を守ることについても、わたし自身の人生を豊かにするためであり、わたし自身が善く生きるためである、と考える方向性もありうると思います。それは厳しい言い方をすれば、宗教的な装いをもった利己主義です。そこに欠けているのは他人への関心です。共に生きている人々、あなたを支えてくれている人々のことが、全く見えていないのです。



方向を逆転させる必要があります。自分の存在も、自分の持ち物も、じつは、すべてが自分のためのものではなく、共に生きる人々のものであり、この世界を豊かにするためのものである。その意味での、神の国の豊かさのため、天に富を積むためのものである、ということに気づく必要があります。そして、現実に方向転換する必要があるのです。



その方向転換をしないかぎり、わたしたちの人生は、最後の最後に、とても寂しいものに終わる可能性があります。巨万の富を得るために、その結果として、多くの友人を失ってしまう人々がいます。最後の最後に何も無くなり、友人もいない。19章に登場する取税人ザアカイは、金持ちでしたが、イエスさまに出会うまでは寂しい人だったのです。



「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエスは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」



「人間にはできないことも神にはできる」。これは「らくだが針の穴を通ることができる可能性」という点の言い換えである、と理解することができるでしょう。



何度も言うようですが、ここでイエスさまは、お金持ちの人が神の国に入ることは100%不可能である、とは語っておられません。「らくだが針の穴を通る可能性」と同じくらいの可能性ならばありうるし、また「人間にはできないが神にはできる」という意味で、まさに神のみになしうる事柄としての可能性は残されている、ということです。



しかし、これによって、「できません」ということに限りなく近いことが語られているということは、誰でも理解できることでしょう。



わたし自身は、皆さんに対して、あまり「あれか・これか」を迫りたくはありません。わたし自身は、「お金持ちのクリスチャン」や「お金持ちの牧師」がいてよいと考えております。しかし、ここでわたしたちに「あれか・これか」を迫っているのは、イエスさま御自身です。



自分の持ち物を世のため、人のためにささげ、イエス・キリストに従うか。



それとも、どこまでも自分の利益のみを追求する道を選ぶか。



そのあたりに、わたしたちの人生の大きな分かれ道が、置かれているのです。



(2006年4月30日、松戸小金原教会主日礼拝)