2005年12月18日日曜日

言は肉となってわたしたちの間に宿られた


イザヤ書40・18~26、ヨハネによる福音書1・14~15

クリスマス礼拝を目前に控えて、今日もまた、待降節(たいこうせつ)の礼拝としてささげております。

イザヤ書40・18〜26に書かれていることは、先週まで学んできたことの続きです。今日の個所は、特に、わたしたちにとっては比較的理解しやすい内容であると思います。問題となっていますことは、前回とほぼ同様のことです。同じような内容が繰り返されていると言えます。どういう話題かということを、最初に申し上げておきます。

それは、一言でいいますならば、神さまと人間との大きさの比較です。神さまは大きな方である。しかし、人間は小さなものである。神さまとの比較において、神さまは大きいけれども、人間は小さい。また、この世界は小さい、ということを語ること。これが今日の個所全体の内容であり、文脈であるということです。そのように理解していただきたいと思います。

しかしまた、先週の個所との比較において、今日の個所には、特別な強調点が置かれている問題もある、ということも事実です。それは何なのか、ということを少しずつご説明していきたいと思います。

「お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか。職人は偶像を鋳て造り、金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける。献げ物にする桑の木、えり抜きの朽ちない木を巧みな職人は捜し出し、像を造り、据え付ける。」

ここに“偶像”という言葉が、はっきりと出てきます。人間が、わたしたちが、その手でつくる像の問題です。論点は、非常にはっきりしております。いわゆる偶像礼拝の問題です。偶像を造ったり拝んだりすることの問題です。それがここに取り上げられています。旧約聖書の中に出てくるモーセの十戒、とくにその中の第二の戒め、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」という戒めに抵触する問題です。

わたしたちは、偶像を拝んではなりません。自分のために刻んだ像をつくってはなりません。しかし、誤解は早く解いておいたほうがよいと思います。かたちあるものすべてが悪である、というようなことを言いたいわけでは、決してありません。そのようなことを言い出したら、わたしたちは、この地上で生きていくことはできません。地上のすべてのものは、かたちあるものです。それが悪いなどということを、聖書は語っておりません。

“偶像”とは、一言でいいますと、宗教的な目的に用いるために造られる像です。それ自体を拝んだり祀ったりするためにつくられる道具の総称です。また、しかも、それを、宗教教団が信者に売って、それを拝ませるというようなことをする。そういうことのためにつくられるものです。そしてまた、それは、たいていの場合、高い値段で売られます。

その偶像の具体例が、今日の個所に出てきます。それは、木や金属で作られていました。そして、その上に、金箔がかけられていました。あるいは、銀の鎖がとりつけられていました。そのような仕方で、きらびやかに飾り立てられていました。しかしまた、それは、外側のメッキがはがれると、中の木が出てくる、あるいは、何が出てくるか分からない、というふうなものでもある、ということです。ここに書かれているのは、そのような偶像があったという歴史的な事実であるというべきです。

しかし、これは、先ほども言いましたように、宗教的な目的で刻まれ、つくられる像のことです。すべてのかたちあるものは悪であるということを言いたいわけでは決してない、ということは、繰り返し申し上げておきます。

その偶像に対して、またそれをつくる人々に対して、預言者は、次のように語るのです。「お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか」。この預言者の言葉の意図として考えられることは、いわゆる反語です。

あなたがたは偶像を造る、という。それは、神さまのお姿に似せたものを造る、という。だからこそ、神さまのかたちをしているそれを拝め、というわけだ。しかし、あなたがたは、それが神さまのかたちに似ていると言う。しかし、あなたがたは本当に、神さまの姿を見たことあるのですか、という問いであると言ってよいわけです。

見たこともない(と思われる)神さまに似ているとか、なんとか、そのこと自体、本当にそうなの?どういう理由でそんなことがいえるの?こういうふうに問いかけがなされているわけです。

ですから、これは反語です。預言者の意図は、だれひとりとして神さまのお姿を見たことがある人などいない、ということです。そして、だからこそ、神さまのかたちに似せて何かをつくるというようなことは、だれにもできないし、これはそういうものだとあなたがたが言っていることのすべてはウソである。こういうことを、はっきりと言おうとしているのです。

しかし、ここにはまた、考えていけば行くほど、わたしたちの心の中にある非常に深い落とし穴、またその中の闇のようなところに入っていくような気がする問題があります。そもそも偶像の問題というものには、まずだれかが神さまに似せて何かをつくるということがある。次に、これは神さまに似ているものだから拝め、と言われる。そして、それを信じる人々が出てくる、というような一連の問題があるわけです。

しかしまた、その中に潜んでいる問題は、そういうふうにしてつくられた、これはそういうものであると言われながら差し出される偶像は、実際に見るとたしかに、わたしたちの目には魅力的な何かであるし、わたしたちの心を魅了する何か、あるいは幻惑するような何かである。偶像とは、まさにそのようなものとしてつくられているのだと言わなければならないのです。

中身は分かりません。しかし、外側はキンキラキン。銀の鎖がかかっている。そういうものである。また、それは「神さまに似ている」と言われる。そういうものとして差し出され、受け取ったとき、それを「拝みたい」という思いにさせられるような何かでもある、ということです。そういうものでなければ、人はそれを信じようとしないし、受け取ろうとしない、ということでもあるわけです。

ですから、預言者も、またおそらくわたしたちも、偶像の問題については、実際の場面では、いろんな反論を受けるのです。「これを拝んで何が悪いのか。これはよいものだ」というふうに、人々は感じるのです。わたしたちだって、そういう気持ちにさせられることがあるかもしれません。すごくきれいなものであるとか、それが人を魅了する力を持っていることは理解できることである、など。身に覚えのあることが多いと思います。

そしてまた、あと一歩踏み込んで言いますと、それが人の心を魅了する、まさに魅力をもっているものである、ということが、はっきりするならば、それはわたしたちにとって、ある意味で役に立つものなのです。

心を奪われて、うっとりして、「いいものだ」と感じることができる、というものであるならば、それ自体が目的になる、ということです。

それがもし仮に、たとえばわたしたちが天国に行って、神さまとお会いして、そのとき自分が手にしている偶像が神さまとは似ても似つかないものであるということが、後から分かったとしても、です。それでもいいと思える何かである。それが偶像の姿でもある、ということです。

自分が手にしている偶像それ自体が美しいものであり、いいものである、ということであるならば、です。神さまと似ていなくても、それはそれでいい、ということにもなってしまいかねないのです。

今この手の中に持っている、目に見える美しいもののほうが、はるかに、わたしたちにとって役に立つ。目に見えない神さまの存在などというものは、そもそも、実はいないのではないか、というようなことまで考えはじめてしまう。役に立たない、今実際にお会いすることのできない神さまよりも、今手に持っているこの美しいものを神として拝むほうが、わたしたちにとって有益である。こういう気持ちにさせられることは十分にありうることなのです。

わたしたちだって、かつてはそうだったかもしれません。今だって、そういう思いから抜け出ることができないでいるかもしれません。手にしている、目の前の、美しいもの、よいもの。それがたとえ偶像と呼ばれるようなものであっても、一向に構わない。わたしたちがそういう思いにさせられるということは、十分にありうることなのです。

しかし、そのようなことを預言者も、おそらく分かった上で、真剣に、真正面から一つの問いを問いかけているわけです。それは、どういう問いなのかということを、見て行きたいと思います。

「お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか。初めから告げられてはいなかったのか。理解していなかったのか、地の基の置かれた様を。主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り、その上に御座を置かれる。」

これと同じ問題が、25~26節にも出てきます。

「お前たちは、わたしをだれに似せ、だれと比べようとするのかと、聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」

天地万物をお造りになった方がおられる。それは誰ですか?偶像ですか?あなたの目の前にある、あなたが手の中に持っている、その偶像ですか?その偶像がこの世界を造ることができましたか?そんなことはできないでしょう。そういう問いかけがある、と言ってよいと思います。

神さまという方がおられる。しかも、その方は、この世界を、造ったら造りっぱなし、放ったらかしにされるのではなく、お造りになったあとも、これをちゃんと守り、治め、育て、養ってくださる。そういうことを、あなたがたは知らないのか、という問いかけがある、ということです。

もちろん、そういうふうに問われたからといって、実際に偶像をつくったり拝んだりしているような人たちが、それをやめようというような気持ちになるかどうかは、分かりません。

しかし、預言者が言おうとしていることは、はっきりしています。それは、あなたのその手の中にあるその小さな偶像にこの世界をつくることができましたか、という問いです。そんなことはできないはずだ。また、そのことはあなたがたがいちばんよく分かっているはずだ。そういう問いかけがある、と言ってよいと思います。

26節の「天の万象」とは、星のことをとくに表わしています。夜空に光るあの天の星のことです。それをだれが創造されたかをあなたがたは分かっていますかという問いかけがあります。そして、「それらを数えて引き出された」とは何のことを言っているのかといいますと、一つ一つ星を呼び出して、名を呼んで、一つ一つそれをお造りになった、ということです。神さまは、あの星を、一つ一つお造りになったのです。それくらいの大きな力を持った方なのです。

ただし、ちょっと気になる言葉が出てきます。22節に出てくる「地に住むものは虫けらに等しい」という言葉です。これは、たとえ聖書の御言葉であっても、神さまの御言葉であっても、なんとなく聞き捨てならないという気持ちにさせられる、非常にびっくりする、なんとなく解せない言葉であると思います。

ただ、しかし、もちろん、ここは、預言者の意図を、正しくくみとるべきであると思います。読み方のポイントは、一つ前に出てくる文章、「主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる」にあります。この御言葉との関連で、先の御言葉は読まれなければならないのです。

“主”とは、神さまのことです。主なる神さまが、空の上の椅子に座っておられる、というのです。そのような様子を想像することができます。天高いところに神さまがおられ、そこで椅子に座っておられるのです。

そこから見て、です。そこから見て、地上に住んでいる人々が、そのように見える、という話です。

新共同訳聖書では「虫けら」と訳されています。他の訳を見ますと、「バッタ」というのがあります。「地に住む人はバッタです」と、その聖書翻訳には訳されていました。

つまり、ここで語られていることは、高いところにおられる神さまの目から見て、地上に住む人々はバッタのように見える、ということだけです。

これは、ある意味で、事実です。

高いところならばどこでもよいわけですが、たとえて言うならば、東京タワーとか、観覧車とか、富士山とか、飛行機の中など。わたしも、飛行機にはもちろん何度か乗ったことがあるのですが、初めて乗ったときにやっぱりそう思いました。昇っていくと、下が見え、人間の姿がだんだん小さく見えます。バッタに見えたかどうかは別問題ですけれども、まあだいたい、なるほど、そんなようなものに見えます。そのように見える、ということは事実です。

そして、そのときに、やっぱり思ったわけです。「ああ、あんなに人間って小さいのか」と、です。そういうふうに、おそらくみんな思うのです。そして、わたしたちが日常生活を送っているあの生活の場所、自分の家とか町なども、非常に小さいものだと感じます。上から見ると、そう見えます。

日常的にわたしたちが悩んだり苦しんだりしていること、兄弟げんかとか夫婦げんかとか、そういうふうなことも、ああ、あんなに小さいところで行われている小さな問題なのか、というふうに感じる。

高いところから見ますと、そういうことが、わたしたちには、なんとなく分かるのです。そして、それは事実です。

それは、しかも、それほど悪い意味でもなく、ある種の解放感として、わたしには感じとられたわけです。いつも自分を支配している苦しみや悩みは小さいものなのだと感じられて、解放感を味わった、ということを、今、思い起こします。みなさんもおそらくそういうことを感じられたことがあるのではないかと思うのです。

しかし、しかし、です。

これは、わたしにとっては一瞬のことでした。最初にわたしが飛行機に乗りましたのは高知県にいたときで、高知空港から飛び立ったものですが、羽田空港に降りるのは一時間後です。昇ったら、はい降ります、という案内があります。すぐに降ります。

降りたら、また人間の姿が大きく見えてきます。町が大きく見えてきます。わたしたちが毎日悩んでいる事柄や問題が、やっぱり大きく感じられるようになってきます。

ですから、上から見ていたときにはちょっと解放感を味わいましたけれども、また現実に引き戻されたなあ、という思いにさせられたわけです。

それでいいと思います。はっと我に返らされます。

ですから、そういうことを実際に感じた者として申し上げておきたいことは、以下のことです。

第一に、人間を“虫けら”呼ばわりすることは、やっぱり、あまりよろしくないと思います、ということです。それがたとえ聖書に出てくる言葉であるとしても、わたしたちがそれを何か人間の尊厳を冒すような仕方で、わたしたち自身の言葉として語ることはよいことではないだろう、ということです。

実際の人間は、虫けらではありません。人間は人間です。人間はバッタでもありません。人間は人間です。この点は、一歩も譲ることはできません。

しかし、第二のこととして申し上げておきたいことは、神さまの目から見たら、また、高いところから見たら、人間はバッタのように見える、という事実が、ただその事実だけが、ここに述べられているのだ、ということです。人間を見くだしたりバカにしたりするような意味では、決してありません。差別的な意図ではありません。

訳としては「虫けら」よりは「バッタ」のほうがよいと思います。「バッタ」も、神さまの立派な創造作品です。わたしたち人間と同じくらい大切な、創造の作品です。

語られているのは、ただ、大きさの問題です。上から見ると、人間は、バッタくらいの大きさに見えます、ということです。そういうふうに、この個所を理解していただきたいと思います。

ただ、同時に、23節以下に書かれていることを見ますと、そこに書かれているこの預言者が語っている言葉は、たしかに、一つの批判的な要素を含んだ言葉である、ということも事実です。

「主は諸侯を無に等しいものとし、地を治める者をうつろなものとされる。彼らは植えられる間もなく、種蒔かれる間もなく、地に根を張る間もなく、風が吹きつけてこれを枯らす。嵐がわらのように巻き上げる。」

要するに、一つの国を治める国家権力者、あるいは、国の指導者、リーダーと呼ばれるような人々、そういう人々に対して、一つの強い規制が、ここに働いている、と理解することができます。

そういう人々がもしかしたら抱くことがある、ある種の全能感もしくは万能感、「わたしは何でもできる」という思い、この力を用いて、この地位と権力を用いて、何でもできるのだ、というふうに思い込むこと。そういう人間の思いに対する強い批判がある、ということです。そのことも事実です。

高いところにおられる、そこからすべてを見ておられる、神さまの目から見たら、どんなに偉ぶっている人であっても、「バッタ」にすぎない。ただの人にすぎないし、小さな人にすぎない。そういうふうに言われているのです。

まして、です。その権力者が、良い政治家ならばともかく、圧政や暴政を強いる政治家であるならば、なおさらです。そういう者を恐れることはない、ということです。その相手もまた、わたしたちと同じ人間であり、神さまの目から見たら「虫」にすぎないと言われているのです。だからこそ、わたしたちは、恐れることなくそのような相手に立ち向かうこともできるのです。

今日も、最初にヨハネによる福音書を読みました。次のように書かれていました。

「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

これは、ヨハネのクリスマスメッセージです。「言(ことば)」すなわち、神さまの永遠の御言であられ、また神の御子であられるイエス・キリストというお方が、「肉となった」と語られています。

「肉」とは、人間のことです。わたしたち人間の、この肉体のことです。神の御言が、この肉体をまとって、人間になられた、ということです。

神の御子が、神が、人間になられた。これがクリスマスの出来事です。しかし、このことも、先ほどまでお話ししてきました、イザヤ書40章の内容と呼応するかたちで理解していただきたいと願っております。

とくに注意していただきたい点は、決して神さまは、何か悪い意味で、上からこの世界とわたしたち人間を“見おろされて”、あいつらは悪いと言い、世界は邪悪であり、人間は邪悪であるなら、だから、あいつらを助けてあげよう、救ってあげよう。何かそういう仕方で、上から来てくださった、というふうに、もしわたしたちがこの事柄を理解しているとしたら、考え直してみなければならないだろう、ということです。

つまり、ここで問題にしたいことは、なんとなく押し付けがましい感じで、助けてあげよう、救ってあげよう、というような仕方で、神の御子が人間になられ、上から下へと降(くだ)って来てくださった、というふうに、御子のご降誕の意義をとらえることが本当に正しいかどうか、ということです。

そのようなとらえ方は正しくないと、わたしは申し上げたいわけです。むしろ、事実は全く逆であると言ってよいでしょう。

ヨハネによる福音書3・16に出てくる次の御言葉は、たいへん有名です。

「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。

わたしたちの神さまは、“この世を愛される方”です。この地上の世界、わたしたちが生きている現実、人間そのものを、愛してくださる神です。そのことの意味は何なのか、ということを、わたしたちは、よくよく考えてみる必要があると思います。

「あれは悪いやつだから、矯正してやりたい」とか、上から見おろして「問題を片付けてあげましょう」とか、そのような意味ではないように思います。

神さまは、この世を見くだしてはおられない、ということを申し上げておきたいと思います。むしろ、心から愛しておられるのです。

このようなことは、わたしたちにとっては、言わずもがなのことかもしれません。しかし、現実には、非常にうさんくさい“救い主”は、たくさん出回るわけです。それこそが、まさにわたしたちにとっての偶像です。偽物です。しかし、それは、人の目にはまことに美しく見え、人をだますものでもあります。きらびやかで、人の心を魅了する力を持っているものです。

お金の力、地位や名誉の力、高いビル。それさえあれば何でもできる、と言い張る人々がいます。わたしたちの目の前に登場します。

しかし、わたしたちの現実は、どうでしょうか。そのことによく気づく必要があります。神さまの目から見れば、人間は「バッタ」です。わたしたちは、もっと謙遜になるべきなのです。

ですから、このことから言えば、「言が肉となった」すなわち、神の御子イエス・キリストが人間になってくださった、ということは、イエス・キリストが、神さまの目から見た「バッタ」の一匹になってくださった、ということでもある、ということです。

イエス・キリストは、わたしたちと同じ、地上に生きる存在となってくださり、わたしたちを助け、寄り添ってくださる救い主となってくださいました。

そこに、真の「謙遜」の模範が示されているのです。

(2005年12月18日、松戸小金原教会主日礼拝)

2005年12月11日日曜日

国々は革袋からこぼれる一滴のしずく


イザヤ書40・12~17、ヨハネによる福音書1・10~13

今日もイザヤ書40章とヨハネによる福音書1章を開いていただきました。イザヤ書の、先週学んだ個所の続きには、次のように書かれています。

「手のひらにすくって海を量り、手の幅をもって天を計る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし、山々を秤にかけ、丘を天秤にかける者があろうか。」

海、天、地の塵、山々、丘。これらは、わたしたちが生きている世界と宇宙を構成している諸要素です。

神さまがお造りになった天地万物の大きさや広さや高さや深さや重さ、それらすべてをはかりつくすことができる人がいるでしょうか、そんな人はいません、ということです。そのようなことは人間には不可能であると、預言者は語ろうとしています。

しかし、わたしたちは、ここで預言者が語ろうとしていることの意図を、よく考える必要があります。

ここで預言者は、わたしたちにはかりつくすことができないのは、この天地万物である、と語っているように見えます。しかし、本当にはかりつくすことができないのは、この大きな世界をお造りになった神さまのほうです。それこそが、預言者の言葉の真意です。神さまは、はかりつくすことのできない、とても大きいお方なのです。

「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。」

「主の霊」とか「主の企て」と書かれていることを、もう少しわたしたちにとって身近な言葉で言い直すとすれば、神さまの御心、思い、計画、予定というあたりのことです。改革派神学の用語で言うところの「神の聖定」(God’s Counsel)という表現が、最も近いと思われます。

ですから、この個所で預言者が語ろうとしていることは、はっきりしています。わたしたち人間には、神の御心をすべてはかりつくすことなどはできません、ということです。なぜなら、神さまは大きな方だからです。

しかも、ここには、明言されてはいませんが、明らかに比較があります。何と何が比較されているかと言いますと、神の御心と人間の心です。神さまの大きさが、人間との比較においてはかられていると言えるかもしれません。神さまの大きさと人間の大きさの違いは、あまりにも明白である、ということです。

「主の霊を測る」とは、わたしたち人間が、神さまの御心の中身を「だいたいこの程度だろう」とあらかじめ見積もることです。そして、それ以上の期待を持たないことです。

しかし、そのように神さまがしてくださることの“程度”をはかることができる人間がいるのでしょうかと、預言者は問うています。神さまの御心とみわざは、わたしたち人間の想像を絶するものではないでしょうか、と訴えているのです。

「見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵と見なされる。島々は埃ほどの重さも持ちえない。レバノンの森も薪に足りず、その獣もいけにえに値しない。主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる。」

ここにも明らかに、神さまと地上の物事や人間のわざとの間の比較があります。神さまは大きい。しかし、地上の物事や人間のわざは、神さまと比べると、小さい、ということです。

「国々」とは、人間の・人間による・人間のための“国家”のことです。政治において司られる国です。政治とは、まさに人間のわざです。人間の・人間的なるわざです。

しかし、その“国家”のことを、聖書はあるいはこの預言者は「革袋からこぼれる一滴のしずく」にすぎないと語っています。あるいは「天秤の上の塵」にすぎない、としています。

「天秤」とは、あるものの重さと他のものの重さを比較する道具です。国家は天秤の上の塵である、ということは、神と国家は比較にならない、ということでしょう。片方に神さまがお乗りになっている天秤のもう片方に“塵”を乗せても、その天秤は全く動かないわけです。

「島は埃(ほこり)」。とても軽い、ということでしょう。

「森は薪(たきぎ)」。燃やしてしまえば灰になる、ということでしょう。

ここで明らかに語りうることは、この預言者は、国家というもの、あるいは、この世界の大自然というものを、それはとても小さいものであり、軽いものである、というふうに言い切ってしまっている、ということです。その意図は何なのであろうかと、考えざるをえません。

なぜ“考えざるをえない”のかと言いますと、少なくともわたし自身の感覚からすれば、とてもじゃないが、こんなことは言えない、と感じるからです。

国が小さいでしょうか。そんなふうに言われると、ぎょっとします。国は、ものすごく大きなものです。そのような感覚が、少なくともわたしには、あります。

あるいは、島が埃でしょうか。森が薪でしょうか。そんなふうに言われると、わたしには、全くついていくことができません。わたしにとっては、ものすごく大きなものです。非常に重いものです。

ですから、そのわたしの観点から言わせていただきますならば、国が小さいとか軽いとか、取るに足らないどうでもよいものだ、というふうに感じているようなときは、わたしたちは、表の空気をよく吸うべきであると思います。自分の家から出て、いろんな人の顔を見て、その人々の語っていること、考えていることに、よく耳を傾けてみるべきです。

都会にいる人は、満員電車に乗ったり、人ごみの中に出かけたりしてみるべきです。そうするほうがよいと思います。この世界が軽いとか、人間が小さいとか、そのようなことをもし感じているならば、そうしてみるべきです。

そうしてみると、おそらく、何か圧倒されるものがあります。そして、そこでおそらく気づかされることは、「この世界は小さい」ということではなく、逆に「わたしは小さい」ということなのです。電車の中ですし詰めになってつぶされているのは、このわたしです。世界が小さいのではなく、このわたしが小さいのです。そのことを感じるはずです。

「いや、わたしは、そのようなことを、まだ少しも感じない」ということであるならば、それを感じられるようになるまで、家の中に入るべきではないかもしれません。徹底的に世界の大きさを味わい尽くす必要があると、わたしは思います。

この世界に対する、あるいはこの地上の現実に対する過小な評価は、非常に危険な結果をもたらすことがありうるからです。

それは、牧師たちが、説教の中で、時々やってしまうことです。牧師たちはしばしば、世界は小さいと語ります。「わたしたち人間はウジ虫のような存在である」などと語ります。しかし、それは、非常に危険な言葉づかいです。

たとえ、それに類するような言葉が聖書に出てくることがあったとしても、です。それはいわば神さまだけが語りうる言葉なのであって、わたしが語るべき言葉ではない、ということです。

世界は小さくありません。人間は小さくありません。そのことを、わたしたちは、わきまえ知るべきです。

しかし、です。ここで預言者がたしかに語っていることは、神さまとの比較においてではありますが、世界は小さい、人間は軽い、ということです。そのことも、わたしたちは、認めなければなりません。

だからこそ、です。わたしたちは、この預言者がこのように語っている意図は何か、ということに、関心をもつべきです。

その理由に関して考えうることについては、先週と先々週の説教の中で、すでに触れました。一言でいえば、この預言者の発言は、明らかに歴史的に特別な背景をもっている、ということです。

それは、紀元前6世紀のイスラエルの民に起こった“バビロン捕囚”という出来事です。要するに、彼らは、自分の国を領土もろとも失ったのです。戦争に負けたのです。そして、捕虜として連れて行かれました。

彼らが長年にわたって自分自身で築き上げてきた町も、文化も、お城も、共同体の秩序も、宗教も、です。それらすべてを、彼らは失ったのです。彼らにとって、自分の財産と言いうるものは、すべて無くなってしまったのです。

このことを前提として考えていった先に、思い至ることがあります。それは何か。

国は小さい、世界と人類は軽い、神の存在の大きさ、神の御心の大きさと比べるならば、それらのものは取るに足りないとか、それは「革袋からもれる一滴のしずく」だなど、このように語られているときに思い描かれている“国”の第一の意味として考えられるのは、他ならぬ彼ら自身がかつては持っていたが、しかし、たしかにそのすべてを失ったものである、ということです。

また第二の意味として考えられるのは、今申し上げた同じことの裏面にあることです。この“国”の中には、彼らから国家とその財産を奪い取った敵国のことも含まれているのではないかということです。彼らが失った国が“国”であるとするならば、彼らから国を奪った国も“国”なのだ、ということです。

ですから、ここで考えられることは、この御言葉を語る者にも、聴く者にも、初めから分かっていたことは、彼らにとっての“国”は、小さいはずがないものであった、ということです。ものすごく大きなものです。彼らが命をかけても守ろうとしたものです。喉から手が出るくらい欲しいものだったです。それが彼らにとっての“国”です。国家であり、国土です。

しかし、だからこそ、と言いうる面もあるわけです。彼らにとっては、まさに、喉から手が出るほどに欲しい、命をかけても取り戻したい国家と国土であったからこそ、神さまは、あえて「軽い」と言われている。「無に等しい」とさえ言われている。そのように、わたしたちは、この箇所を読むことができるのです。

わたしたちにも、かつて自分で持っていた、ものすごく大切なものが何かあるかもしれません。しかし、無くなってしまった。奪われた、あるいは、失ってしまった。そういうとき、わたしたちは、何を考えるのでしょうか。そして、そのようなものを、神さまから、それは小さいものだとか、軽いものだと言われたときに、わたしたちは、何を感じるのでしょうか。そのようなことを、いろいろと考えてみることが大切です。

彼らにとって“国”は、決して小さいものではありませんでした。そのことは彼ら自身がいちばんよく分かっていることでした。しかし、それを神さまは、あえて軽いと言われ、小さいと言われているのです。その理由として思い当たるのは、以下のようなことです。それは、わたしたち自身の問題として考えてみれば、何となく分かることです。

わたしたちは、この世界の現実に向き合わなければなりません。いろいろな問題に立ち向かって行かなければなりません。そのときに、です。しかし、それらのものが、わたしたちにとって、あまりにも大きすぎると感じてしまう。とても面倒くさいし、何かとても恐ろしいものである、というふうに感じてしまうとき、わたしたちは、思わずひるんでしまう。前に進んで行けなくなるのです。

そのようなときに、です。

わたしたちに、神さまから「世界は小さい。人間は軽い」と言ってもらえるならば、そのとき、わたしたちは、慰めを得ることがありえます。「取るに足りない」とまで言われることには、なお抵抗があります。しかし、それらのものは、神さまの目から見れば、小さいものですよ、と言ってもらえることは、なるほど有り難いことです。

あなたがたは、その程度の小さな現実、小さな問題にならば、立ち向かっていくことができるのではないですか。そういうメッセージとして、この個所を受けとることができるように思われます。

もうひとつ、逆のケースについても考えておきます。わたしたちが世界の大きさに圧倒されてしまう、という場合、恐怖心のほうではなく、むしろ反対に、そのあまりの大きさにうっとりと魅了されてしまうことがある、ということです。

そして、そのときしばしば起こることは、神を忘れる、ということです。この世界がまさにわたしのすべてであって、神さまは何か小さいものだ、と感じる。教会のやっているようなことは、全く取るに足らない。この世のやっていることのほうが大切だと感じる。

これはわたしたちが陥りやすい罠です。わたしたちがこの世の中でうまく行っているときにこそ陥りやすい罠です。

この罠から逃れるためにこそ、この世界は小さい、ということを、神さまから教えていただく必要があるのです。

ヨハネによる福音書には、次のように書かれています。

「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

ここで「世」とは何でしょうか。神の御子であられ、また神の永遠の御言そのものであられるイエス・キリストというお方が来てくださったその場所のことをヨハネは「世」と呼んでいます。その「世」の中に先ほどの預言者イザヤの語っていた「国々」や「島々」も含まれると考えてよいでしょう。そういうものを含んだ一切が「世」です。

ヨハネの語る「世」の意味は、決して“人間”だけではありません。神さまがお造りになった、文字どおりの“世界”全体、すなわち、天地万物が含まれています。わたしたちが生きているこの世界、この現実の中に、永遠の御言である神の御子、救い主イエス・キリストが来てくださったのです。

それが、ヨハネのクリスマスメッセージです。

「世は言を認めなかった」とあります。この世の人々、世界の現実は、神の御子イエス・キリストを“わたしの救い主”として受け入れようとはしません。簡単には受け入れません。むしろ明確に拒絶します。

しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストは、あえて、この世に来てくださいました。

イエスさまという方は、福音書を読んでいけばすぐに分かりますように、ご自分のことをちやほやしてくれる相手のところだけに出向いていく、というような方では、全くありません。

むしろ、反対する人の中にも、堂々と割って入られる方です。どんな反対があっても、拒絶があっても、おそれることなく、ひるむことなく、堂々と割って入られる方です。それこそが、聖書の語る、福音書の描く、主イエス・キリストのお姿です。

また、マタイによる福音書には、イエスさまのご降誕の際にユダヤの王ヘロデがそのことをかぎつけ、その救い主とやらを殺してしまえと思い立ち、二歳以下の幼子を探し回り、それを殺したことが記されています(マタイ2・1〜15)。国家権力の横暴さというものが、そのような仕方で示されています。

しかし、神の力と比べれば、国家権力などおそれるに足りない。そのように信じなければ、乗り越えていけない壁があり、成し遂げられないわざがある、ということも、聖書が語っている真実です。

救い主は、力をもって、来てくださいました。そして、この世界の中に、救い主に反対するこの世の中に、堂々と割って入ってくださり、イエス・キリストを信じて生きる人々を、呼び起こしてくださいました。

それこそが、神の御子イエス・キリストがこの地上の世界に来てくださったことの意味なのです。

(2005年12月11日、松戸小金原教会主日礼拝)

2005年12月4日日曜日

声をあげよ、良き知らせを伝える者よ


イザヤ書40・9~11、ヨハネによる福音書1・6~9

「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。」

今日もまた、イザヤ書40章とヨハネによる福音書1章を開いていただきました。いずれも先週学んだ個所の続きです。

この御言葉の意味をお話しする前に、先週お話ししましたことを一点だけ繰り返します。それは、イザヤ書についてのさまざまな解釈の中で、わたし自身が選んでいる立場はどういうものかという点です。

それは、このイザヤ書40章以下を書いたのは、紀元前6世紀の預言者であるとする解釈の立場である、ということです。

紀元前6世紀は、神の民イスラエルに「バビロン捕囚」という大きな出来事が起こった時代です。彼らは、バビロンという国に神の民(当時の南ユダ王国の人々)が捕虜として連れて行かれました。捕囚の期間は、約七十年に及んだと言われます。しかし、その人々が解放され、祖国に帰ることができました。それが一連の出来事です。

そのバビロンの捕囚の出来事、そして捕囚からの解放という出来事こそがこの個所の歴史的な背景であるとする解釈の立場を、わたしは選んでいます。これは広く受け入れられている立場です。

ですから、わたしは、今日の個所も、まさにそのようなことが書かれているという前提に立って読んでいきたいと願っております。捕囚からの解放、またその解放の喜びが表現されている個所である、ということです。

それは、イスラエルの民にとって、まさに「良い知らせ」でした。また、それは「喜びの知らせ」でした。喜びの知らせ、良い知らせのことを、わたしたちは「福音」と呼んでよいはずです。日本語の「福音」の意味は、喜びの知らせ、よい知らせです。グッドニュースです。

また、主なる神があなたがたを奴隷状態から解放してくださるというこの良き知らせを宣べ伝えること、告げ知らせることを、わたしたちは「福音宣教」と呼んでよいはずです。「宣教」の意味は、神の救いを宣べ伝えること、告げ知らせることです。

その喜びの知らせ(福音)をイスラエルの人々に告げ知らせる「荒れ野に呼ばわる声」が来た。王のもとから走ってきた伝令役が叫んでいる。それがイザヤ書40章の状況です。

ここでわたしは、皆さんに考えていただきたい問題を、二つ出したいと思います。

第一の問題は、もしわたしたちが喜びの知らせ、良い知らせを、できるだけ多くの人々に広く、また効果的に伝えるとしたら、そのためにはどうしたらよいでしょうか、ということです。

今ならば、光の速さと同じ速度を持つ通信手段があります。インターネットやテレビやラジオなどがあります。また、昔からのやり方としては、チラシを配るとか、本を書いて出版することなどが考えられます。

しかし、いわばもっと単純で、手っ取り早い方法があります。それが、ここに出てくる「高い山に登る」という方法である、ということです。みんなのことを見渡すことができ、一度にみんなに声を届けることができる場所です。そこに立って大きな声で叫ぶ、という方法です。

ただし、ここで注意しておきたいことは、この9節の「高い山」という言葉には、先週学んだ個所に出てきた「荒れ野」(40・3)の場合に申し上げたことが再び当てはまるように思われます。

それは、ここで預言者が語っていることの中には、多分に象徴的な意味合いを含まれているに違いない、ということです。

字義どおりの地理的・物理的な「高い山」の意味だけではない。むしろ、もっと広い意味で、とにかく、できるだけ多くの人々のことを、一度に見渡すことができ、声を届かせることができる場所のことを指しているのではないか、ということです。

たとえば、わたしが今立っているこの講壇は、皆さんのことが最もよく見える場所です。松戸小金原教会の講壇は少し高い位置にあります。ここも、まさに「高い山」なのです。そのように考えることができるのです。

しかし、どうか誤解がありませぬように。講壇の高さは、人間の位(くらい)の高さを示しているわけではありません。それは完全な誤解です。

大切なことは、その高い場所がその目的にかなって効果的であるか、機能的であるかどうか、ただそれだけです。みんなの顔が見えて、一度に声を届かせることができるかどうか、です。

皆さんに考えていただきたい第二の問題を、これから申し上げます。それは、「高い山に登る」のは、誰でしょうか、という問題です。

9節に「良い知らせをシオンに伝える者」と書いてあります。高い山に登る者、登らなければならない者とは、すなわち、「神の民イスラエルに向かって良い知らせを伝える者」である、ということです。これは誰のことですか、という問題です。そのことは、この個所には必ずしも明らかにされていません。

一つの解釈の可能性は、高い山に登って、すべての民に福音を告げ知らせなければならないのは、王のもとから走ってきた伝令役自身です。

たとえば、新約聖書は、荒れ野に呼ばわる声の主は、イエス・キリストの道備えをしたバプテスマのヨハネであると解釈しています。今日お読みしましたヨハネによる福音書1・6〜9にもバプテスマのヨハネのことが紹介されています。

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」

ここで大切なことは、ヨハネは一人であるということです。高い山に登って良き知らせを告げ知らせるのも一人であるという解釈の可能性には否定しきれないものがあります。

しかし、これ以外の解釈の可能性もあります。わたし自身は、これから申し上げる解釈を採りたいと願っております。

それは、高い山に登って、すべての民に福音を告げ知らせなければならないのは、その知らせを王の伝令役から聞いた神の民のすべてである、という解釈の可能性です。みんなで高い山に登るのだ、ということです。

それは、先週もご紹介しました別の聖書翻訳の場合に言いうることです。その聖書翻訳には、この9節は、以下のように訳されています。

「エルサレムよ、高い山に登って、福音を宣べ伝えなさい。福音を告げ知らせなさい。力の限りに叫びなさい。ユダの町に言いなさい。」

この翻訳によりますと、福音を宣べ伝える人が「エルサレム」と呼ばれています。これは、神の民イスラエル自身のことです。彼らが山に登るのです。

このほうが、わたしたちには、よく分かる話ではないかと思われます。だって、そうでしょう。王の伝令役の声だけなら、あまりにも小さな声です。大勢の人々が騒いでいる中では、全く聴こえません。

しかし、そうではなく、解放の喜びの知らせを聞いた人々全員が高い山に登り、みんなで大声を上げることであるとしたら、どうでしょうか。そのほうが、わずか数人の小さな声よりも、はるかによく響きわたります。遠くにいる人々にも聞こえます。

一人で声をあげるよりも、みんなで声をあげるほうが、はるかに効果的です。たとえば、みんなで声を合わせて讃美歌を歌うことも、ものすごく効果的です。

ですから、ここではっきりと申し上げておきたいことは、「高い山」とは、この松戸小金原教会の講壇だけではない、ということです。また、「高い山」に登るのは、福音の説教者たち、あるいは教会の牧師たちだけではない、ということです。

そうではなく、みんなで登るのです。みんなで、この福音を宣べ伝えるのです。

わたしたちの教会が、イエス・キリストの福音を、この町とこの国の人々に宣べ伝える方法も、まさにそれである、ということです。

「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」

この段落でまず最初に注意すべき言葉は「見よ」です。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」。何を見ればよいのでしょうか。

考えられることは、ひとつです。もうすでに、主なる神が、すぐそこまで、彼らの近くまで来てくださっている、ということです。ただし、まだ到着してはおられない。だからこそ、目を上げて、そのお方の到着を注意しつつ待ちなさいと、彼らは命ぜられているのです。

そして、この個所において次に注意していただきたいことは、彼らの前に登場されようとしている主なる神の特徴は、どのようなものであるか、ということです。

ここに記されている、主なる神の特徴は、大きく分けて二つあります。

第一の特徴は、「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」という点に表わされていることです。すなわち、ここで主なる神は、権力をもって支配する王の姿に描かれている、ということです。

第二の特徴は、「群れを養う羊飼い」です。そのお方は、「小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」、とても親切で、優しくて、憐れみ深い、弱い者の味方であるような、良い羊飼いです。

後者の特徴は、前者の特徴とは、まるで百八十度違うものであるかのようです。権力をもった存在であると共に、憐れみ深い存在でもある、というのですから。

しかし、ここに明らかにされている主なる神は、まさにそのようなお方なのであって、まことの王であられると同時に、まことの羊飼いでもあられる、と言われているのです。

わたしたちは、このお方こそが、わたしたちの救い主イエス・キリストであると信じております。イエス・キリストは、“王でも羊飼いでもあられるお方”として、父なる神のもとから、わたしたちのこの世界に来てくださったのです。

ただ、ちょっと気になることがあります。それは、次の点です。

優しくて親切で弱い者を受け入れてくださる羊飼いとしてのイエス・キリストというほうは、よく分かる話であるし、納得もできる。

しかし、権力をもって支配する王としてのイエス・キリストなどと言われると、なんとなくぞっとするし、そんなのは納得できない。

こんなふうにお感じになる方もおられるのではないでしょうか、という点です。

このことについて詳しくお話しする時間は、今日は、もうありません。しかし、この点は、ぜひ理解しておきたいことです。

それは、イエス・キリストは、ただ優しいだけのお方ではない、ということです。ふにゃふにゃではない、ということです。そうではなくて、強い方でもある。力を持った方でもある、ということです。

救い主は、力をもって、わたしたちを、まさに罪の奴隷状態から救い出してくださるのです。

力がなければ、“連れ出す”ことはできません。そのことも、事実です。

まことの力を持ったお方だけが、ひとを救うことができるのです。

そのことを覚えていただきたいと思います。

(2005年12月4日、松戸小金原教会主日礼拝)


2005年11月27日日曜日

わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ


イザヤ書40・1~8、ヨハネによる福音書1・1~5

今日から教会の暦で言いますところのアドベントに入ります。イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマスの準備をはじめる季節になりました。

そのために、今日、聖書を二個所開いていただきました。旧約聖書のイザヤ書40章と、新約聖書のヨハネによる福音書1章です。このところを、アドベントの期間に学んでいきたいと願っております。

イザヤ書40章のほうを、まずご覧いただきたいと思います。とても印象的な言葉をもって始められています。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」

イザヤ書というこの書物には、いろいろな非常に異なる解釈の立場があります。その中で、わたしたちはどの立場かを選ぶべきか、という問いを避けて通ることは、できません。

しかしそのようなことについて詳しく述べる時間は、今日はありません。一つのことだけを述べておきたいと思います。わたしが選んでいる解釈の立場は何か、ということだけを申し上げておきます。

わたしが選んでいる立場は、イザヤ書の40章以下は、紀元前6世紀の時代に生きた預言者が書いたと理解する立場です。それ以上のことは、今日は申し上げません。

そのように考える場合に語りうることは、紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚という出来事が、この個所の記述の歴史的背景である、ということです。

それではバビロン捕囚とは何かということについても、お話ししなければなりませんが、詳しく説明している時間はありません。

ごく簡単に言うならば、神の民イスラエルが南北の二つの国に分裂した後、エルサレムを首都とする南ユダ王国が隣国バビロンとの戦争に負け、エルサレム神殿は焼き払われ、城壁は破壊され、国民の多くが捕虜としてバビロンに連れて行かれ、七十年もの間、強制労働の苦役を強いられたという出来事です。

ただし、誤解がありませぬように。わたしたちが旧約聖書を読んでいくうちに分かってくることは、そのような出来事は、彼らを不意に襲った不幸、予期せぬ災難というようなことではなかった、ということです。

そうではなく、聖書が証ししていることは、明らかに、この出来事は、彼ら自身が神の前で犯した罪に対する神御自身の裁きであり、刑罰として起こったことである、ということです。そのように、聖書には、はっきりと書かれています。

しかも、それは、いわゆる彼らの自業自得であるとか因果応報であるというような意味ではありません。それはむしろ、彼ら自身が、明確に、自覚的に犯した罪に対する正当な裁きです。

それでは彼らはどういう罪を犯したのか、という点も重要です。しかし、そのことも、今日は触れないでおきます。

そのことではなく、今日、皆さんに考えてみていただきたいと願っております第一のことは、次のようなことです。

七十年という時間の長さは、どれくらいのものだろうか、ということです。

皆さんの中には、その長さがどれくらいのものであるか、そこで何が起こるのかということについては、体験的にご存じの方がたくさんおられます。みなさんは、七十年待ちました、ということを、何か持っておられるでしょうか。七十年忍耐しましたと。わたしには無理だろうなあと感じます。それほどの長さです。

神の民イスラエルは、七十年間のバビロン捕囚を忍耐することができたのでしょうか。苦しくなかったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。途中で嫌になり、やけくそにならなかったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。

しかし、その捕囚期間が終わりました。あなたの苦役の期間は終わりました。あなたの罪は許されました。あなたは故郷に帰ることができます。

そのことをわたしの民に伝えてください。そして、そのことによってわたしの民を十分に慰めてくださいと、主なる神が、紀元前6世紀に生きたこの預言者に命じたのだということです。それが、まず最初の段落に書かれていることです。

第二に考えてみていただきたいことは、この預言者の言葉を聞いた人々の心は、どのように動いただろうか、ということです。

うれしかったのではないでしょうか。しかしまた、反面、いろいろと複雑な心境ということもあったのではないでしょうか。七十年の間に体験したこと、これもまたこのわたしの人生そのものであって、今さら否定することができない、それはそれで受け入れるほかはないものであるという意味で、いま以上に新しいものを求める気が起こらない、今さら故郷に帰る理由が分からない、という人々もいたのではないでしょうか。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

「呼びかける声がある」と訳されています。もちろん、これでも構いません。しかし、もう少し身近に感じられる訳はないものかと思わされます。わたしが参考にした聖書翻訳では、「ねえちょっと聞いて。だれかが叫んでいますよ!」というふうなニュアンスで訳されていました。

想像しうるのは、王のもとから伝令役を命ぜられた人物が走ってきた場面です。その人が大勢集まっている人々に大声で何かを伝えようとした。その声にその大勢の中のある人が気づいた。そして他の人々に「しっ、ちょっと静かにして。何か声が聞こえます。騒いでいると、何を言っているか聞こえないじゃない」と注意している様子が思い浮かびます。

その声の主である伝令役が伝えようとしていることは、わたしたちの主なる神のために砂漠の真ん中に道を作りましょう、ということです。彼らの故郷にもとあったエルサレム神殿に通じる道を作りましょう、という意味かもしれません。そのような解釈が可能です。

ただし、「荒れ野」と訳されている砂漠という言葉には、字義通りの地理的な砂漠のことだけではなく、多分に象徴的な意味も含まれている、と考えられます。つまり、この言葉には「人生の荒れ野」、「人生の砂漠」という意味も含まれていると思われます。

そのような、人生と心の問題、すなわち、わたしたちのまさに“砂漠のように荒れ果てた人生と心”の問題を、この御言葉の中に読み取ることは許されているでしょう。

「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」とありますが、この訳はかなり疑問です。谷や山や丘が、自分自身で身を起こしたり、身を低くしたりできるかのようです。

しかし、ここはおそらくそういう意味ではなく、人間のなすべき仕事を指しています。つまりこれは、谷の部分に土を入れて高くしたり、山や丘を削って低くしたり、でこぼこ道はなめらかに、狭い道は広くする。そのような、わたしたち人間が汗水流して取り組むべき土木作業のことです。

そのようにして、一つのまっすぐな道を作りましょう。そういう道をわたしたち自身が作りましょう、という意味ではないかと思われるのです。

それは何のための道か。主のための、わたしたちの神のための道です。主なる神の栄光を「肉なる者」、すなわち全人類が、またわたしたち一人一人が、仰ぎ見るための道です。つまり、それは、主なる神がそこをお通りになり、わたしたち一人一人のところまで来てくださるための道です。そのようにしてわたしたちと主なる神とが出会うための道です。

そういう道を、ある意味で、わたしたち自身が作らなければならない、ということは、本当のことです。すべて備えられている。道はだれかが勝手に作ってくれる。その道を、わたしたちは、ただ勝手に通るだけだ、というようなことでは、決して済ますことができない何かがある、ということは、本当のことです。

この「荒れ野に道を作ろう」と呼びかける“声”を、新約聖書は、イエス・キリストの道備えをした洗礼者ヨハネのことを指していると解釈しています。大切なことは、ヨハネは人間である、ということです。人間の働きが、何らかの仕方で、評価されるべきです。

わたしの人生は荒れ野であり、砂漠であると、今まさに自覚している人が、そこにただ座り込んでしまってよいでしょうか。道を作ろう、一緒に作ろうという声が聴こえてきたときには、耳を傾けなければならないのではないでしょうか。そして立ち上がって、その事業に参加することが求められているのではないでしょうか。

「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

この段落に書かれていることは一つの会話であると考えられます。「呼びかけよ、と声は言う」とありますが、これもまた別の聖書翻訳には「ねえちょっと聞いて。だれかが何か話しているよ」というようなニュアンスで訳されています。だいぶ違う感じがします。

その聖書翻訳によりますと、その会話の内容は、こんな感じです。

「みなさんにお話ししておきたいことがあります。」
「それは何ですか。」

そして、この人の話が始まります。

「人は草だ、ということです。人間を信じることは、野の花を信頼するようなものです。しかし、草は枯れ、花はしぼむではありませんか。」

そのようなものを信頼することができるでしょうか、できないのではないでしょうか、という意味です。「肉なる者」とは人間のことです。人間は、草に等しいものである。草は枯れる。花はしぼむ。人間も枯れる、人間もしぼむ、と言っているのです。

ですから、これは、やや皮肉っぽく見るならば、ある意味で、人間というものに対する不信感を煽るような言葉である、というような読み方が、可能かもしれません。

わたしたちも人間です。わたしも人間です。わたしは草でしょうか。「あなたは草にすぎない」などと言われると、だんだん嫌な気持ちがしてきます。腹が立ってきます。

しかし、腹を立てる前に考えてみたいことがあります。それは最初から申し上げていることです。この個所の歴史的背景として想定することができる、バビロン捕囚の現実とはどのようなものであったか、という点です。

過酷な労働を強いられること、七十年。自由の利かない、何ものかに束縛された生活が延々と続く。そのような中で、人間を信じることができなくなるのは、無理もないことでしょう。人間を信じなさいということのほうが、無理な話です。

人は草である。草は枯れる、花はしぼむ。このことは、長年にわたって、他の人間からひどい目に遭わされてきた人にとっては、ある意味で、慰めの言葉になりうるものかもしれません。人間を信じるということを強制されることには、もはや堪えられないと感じるであろう人は、じつは、たくさんいるのです。

しかし、それにもかかわらず、です。最も恐ろしいことは、だれのことも、何のことも信じられなくなることです。この世の中にあるもの、生きている人間すべてに絶望することです。それは、現実にはしばしば起こることであるだけに、恐ろしいことです。

だからこそ、でしょう。だれのことも、何のことも「信じられない」と告白せざるをえない状況に置かれ続けた人々に向かってこそ、預言者は、神の御言葉に信頼を置くことの確かさ、大切さ、力強さ、そしてその永続性を語っているのです。

「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。すべての人があなたを裏切っても、です。だれも信用できない、人間を信じることができない、という思いの中に沈み込んでしまったときにこそ、です。神さまの言葉は、それだけは、信用できます、あなたを決して裏切ることはありません、ということです。

そのように、わたしたちも、信じてよいのです。

今日、もう一つの個所として読みました、ヨハネによる福音書に、次のように書かれていました。
 
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

なんとなく難解で、謎めいた言葉です。しかし、これは、よく知られていますように、神の御子イエス・キリストのご降誕の奥義を表現しているものである、ということです。

ここに出てくる「言(コトバ)」が、神の永遠の御子イエス・キリストを表わしています。イエス・キリストは、“初めにあった言”であり、“父なる神と共にあった言”であり、“神”御自身であられる言である、ということです。

人間を見限ったり、みくびったり、見下げたりすることは、もちろん、できるならば、しないほうがよいことです。すべきではないことです。

しかし、そうは言っても、です。長年にわたってだれかに裏切られてきた人、だれかに踏みにじられてきた人にとって、だれのことも、何のことも信じられない、という不信感のとりこになってしまうことは、ありうることです。無理もないことです。

だからこそ、そのときに、です。信頼できるものが“一つでも残っている”ということが、ありがたいではありませんか!

神の言葉は、それだけは、信頼できるのです。わたしたちがそういうものにすがりたいという気持ちを持つことは、よいことではないでしょうか。

イエス・キリストは、わたしたちが永遠に信頼し続けてもよい、永遠の神の言葉です。わたしたちが人間不信の泥沼の中で、世界に絶望してしまうときにも、わたしたちの命と心を、しっかりと支え続けてくださいます。

イエス・キリストは、そのために、来てくださったのです。

(2005年11月27日、松戸小金原教会主日礼拝)

2005年11月20日日曜日

「神の国は一粒の芥種(からしだね)のごとし」

ルカによる福音書13・10~21



今日の個所は、わたしたちにとって本当に興味深いものです。イエスさまというお方は、この地上の世界に、何のために来られたのか、あるいは、何をするために来られたのかということが、よく分かる個所です。



「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」



いつものとおり、と言いますか、イエスさまの通常業務として、と言いますか、それをどう表現するかはともかくとして、です。イエスさまは、ユダヤ教の安息日である土曜日ごとに、ユダヤ教の会堂(シナゴグ)で行われる礼拝で、聖書に基づく説教を担当されていました。



その様子は、今まさにわたしたちがここでささげている礼拝と本質的に同じものであると考えていただいて構いません。



いわば、説教者が違うだけです。その日の説教を、イエスさまが担当されていたのです。



「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」



注目していただきたいのは、ここでルカが「十八年間も病の霊に取りつかれている女」という言葉でこの女性を紹介していることです。



「十八年間も病気に苦しんできた女」とは、書かれていません。「病の霊に取りつかれている女」と書かれています。とても意味深長な感じがします。



とくに気になる言葉は「病の霊」です。これは、どういう霊でしょうか。霊(プネウマ)は「精神」とも訳すことができます。ひとを病気にする霊であるということは間違いないでしょう。しかし、それは、いわゆる“精神の病気”でしょうか。そのような解釈もあるようです。



しかし、よりよい解釈は、13・11に書かれている二つの事柄を、一つのこととして読むことです。



つまり、「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた」という第一の事柄と、「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」という第二の事柄は、じつは一つのことである、と理解する、そのような読み方です。



これは、おそらく、わたしたちにも、身に覚えのある事柄です。



すでにお話ししておりますとおり、わたしも、慢性の腰痛もちです。ですから、腰痛のことは、よく分かります。この病気の正体が分かります。その苦しみも分かります。



はっきりしていることがあります。それは、この病気は、決して小さなものではなく、わたしたちの人生を左右するほどのものになりうるものだ、ということです。



しかしまた、もう一つ、この病気は、かなりの部分において、わたしたちの生活習慣と深く関連しているものである、ということです。



たとえば、わたしが「腰が痛い」と言いますと、皆さんは「先生、運動不足ですよ」と必ず言われるでしょう。その関連性は、あまりにも明白だからです。



そういうことと、今日の個所に出てくる女性の問題とは、どうやら、深く関わっているように思われてなりません。



わたしの腰は、痛いのだと。曲がったまま、伸ばすことができないのだと。もちろん、本当に、そうだったに違いありません。そのことに、わたしは何かケチをつけようとしているわけではありません。



しかし、です。この個所を読むかぎり、彼女の腰痛は、生まれつきのもの、先天的なものではなさそうです。むしろ、後天的なものではないか、また、そこにおそらく生活習慣的な要素がかなりの部分含まれているのではないかと思われます。



その場合に、です。自分の腰は治らない、もう絶対に治らないのだと、この女性が確信を持ってしまっていた。悪く言えば、そのようにすっかり“思い込んでしまっていた”という面があったのではないかと、考えざるをえないのです。



そのように考えることができる根拠として挙げることができるのが、先ほど触れました、ここでルカが書いている「病の霊に取りつかれていた」という言葉であるというわけです。



わたしは病気なのだ、もうこの病気は治らない、絶対に治らないのだ、と思い込むこと。そのような確信を持つこと、またその確信自体に心の中がすっかり束縛されてしまうこと。その確信の奴隷状態になり、心の悪循環に陥ってしまうこと。



そのことを、ルカは「病の霊に取りつかれる」という言葉で表現しているのではないかと、思われてならないのです。



18年間も、です。一つのことを、思い込む。わたしの病気は治らない。わたしの人生は変わらない。わたしの不幸は変わらない。



でも、そんなことを、わたしたちが信じる必要は、ないはずです。信じるべき対象は、神さまだけです。病気を信じるのでしょうか。あるいは、わたしたちを不幸に導く悪魔を信じるのでしょうか。そんなものは、信じなくてもよいはずです。



「霊に取りつかれる」とは、心の中で、わたしたち自身が、何らかの精神的・心理的な悪循環に陥っている状態が、少なくとも含まれている、と考えてよいでしょう。



わたしたちは、そういう状態から、救い出される必要があるのです。



「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」



ここに書かれていることを、わたしたちは、もちろん、イエスさまが行われた、特別で奇蹟的ないやしのみわざとして理解すべきです。イエスさまが手を置いてくださったことによって、この女性の腰が、ぴんと伸びたのです。



しかしまた、いわばもう一つの点として、ぜひ注目していただきたいのは、イエスさまが語られた御言葉の内容です。「婦人よ、病気は治った」。



わたしがとくに問題にしたいことは、この御言葉をわたしたちがどのように理解すべきか、という点です。



この点で、わたしはこのたび自分で調べてみて分かったことですが、イエスさまがここで語っておられる「病気は治った」という中の「治った」には、ギリシア語の文法で言うところの“受動態過去完了”という時制が用いられている、ということです。



そして、その時制が用いられているときには「○○されてしまっている」というふうに訳さなければならない、ということです。



ですから、イエスさまの御言葉を正確に訳すと、「あなたの腰は治ってしまっている」とか、「あなたの病気は、とっくにいやされてしまっていますよ」というふうになる、ということです。



そうであるならば、です。ここに次の問題が生じます。この女性の腰がいやされたのは、“どの時点”か、という問題です。



彼女がいやされたのは、イエスさまがその手で触れてくださったそのとき、その瞬間であると読むことも、当然できます。



しかし、もう少し別のニュアンスもあるのではないだろうかと思われます。「あなたの腰は、もうとっくに治っていましたよ」と。もう大丈夫ですからね、伸ばしてみてくださいよ、と。



イエスさまは、そのようにして、この女性の“心”を、悪循環から救い出されたのです。



「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」



この場面でこのようなことを言い出す人のことを、(できるだけ口にすべきでない言葉ではあると思いますが!)“バカ”と呼んでおきます。やめてくれ、という感じです。イエスさまは「偽善者」と呼んでおられます。どちらがひどい言い方かは、分かりません。



わたしが最も不思議でたまらないのは、なぜこの会堂長は、「安息日に病人がいやされたこと」に、腹を立てなければならなかったのでしょうか、という点です。



逆ではないでしょうか。喜ぶべきでしょう。病人が、いやされたのですから。



その安息日が、十八年間の苦しみから解放された、その記念日になったのですから。



それに、よく考えてみれば、ここは、この会堂長が責任をもって管理している“会堂”です。宗教施設です。神を礼拝する場所です。



また、その日は、安息日でした。神さまの御言葉が語られ、聞かれる日です。



そういう日、そういう場所で、一人の人が、長年の痛みから解放され、やっと安らぎを得たわけです。とてもよいことではありませんか。それなのに、この会堂長は、なぜ腹を立てなければならなかったのか。全く理解に苦しみます。



「安息日はいけない」という掟が、いかに彼らを束縛していたかが分かります。



そしてまた、その日に一人の人がいやされたことに腹を立てるこの人のことを、イエスさまが「偽善者」という厳しい言葉で非難されたことも、分かります。



「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群集はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」



この個所において、そして今日の個所全体を通して、「束縛からの解放」というテーマがはっきりと示されていることに、きっとお気づきいただけるでしょう。



救いとは、「束縛から解放されること」を意味しているのだ、ということです。心も、体も、全く自由にされること。それが救いです。



ですから、「安息日はいけない」というこの会堂長の言葉も、ある意味で、まさに何かに束縛されている人の言葉である、ということです。戒律のとりこになっているのです。



イエスさまの場合は、むしろ、安息日だからこそ、です。この日にこそ、救いが起こり、いやしが起こるのです。



そうでなければ、どういうことになるのでしょうか。この会堂長に逆に聞いてみたいことは、安息日ごとに、あなたの会堂で行われている礼拝の中では、本当に何も起こらないのですか、ということです。いやしも起こらない。救いも起こらない。何も起こらない。そんなことで本当によいのですか、と聞いてみたいです。



イエスさまの場合は、会堂の中で、です。安息日にこそ、です。礼拝において、です。いやしと救いが起こるのです。いやしと救いを求めて、ひとがイエスさまのもとに集まるのです。



「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」



ここには、二つのたとえ話が語られています。「からし種」とは、文字どおり辛い、あのからし(マスタード)の種です。「パン種」とは、パン生地に入れる酵母のことです。



からし種も、パン種も、たいへん小さいものです。それがどこにあるかが分からない。パン種に至っては、パン生地に混ぜてしまうものです。



二つのたとえ話に共通しているテーマは明らかです。「小さなものが大きくなる」ということです。あるいは「小さなものの影響で全体が大きくなる」ということです。



また、からし種にせよ、パン種にせよ、両方に共通している「種」という言葉が持っているイメージから、語りうることがあります。



それは、要するに、“埋めるもの、埋め込むもの”であり、“中に入れるもの”であり、“浸透する、浸透させるもの”です。



思い当たるのは、神の救いであり、神の御言です。それらのものは、わたしたちの外側にあるべきものではありません。外側にあるうちは、神の御言葉は、まだ全く聞かれていないのと同じです。



そのとき、わたしたちは、じつは、まだ、救われてもいないのです。わたしの心まで、救いが届いていないのです。



大切なことは、中に入ってくること、です。わたしたちの存在の内側へと入ってくること、内部に浸透してくること、これが「種」という言葉が持っているニュアンスであると語ることができるでしょう。



小さな種が蒔かれ、土の中に入り込む。その種が「成長して木になる」のです。また、小さなパン種によって「全体が膨れる」のです。



神さまの救い、神の御言葉が、わたしたちの現実の世界、日常生活の中に、入ってくる。わたしたちの体験的現実の中に、入ってくる。深く浸透してくる。そして、それによって全体が成長する。



もしそうだとすれば、「神の国」とは何でしょうか。それは要するに、わたしたちの日常生活である、ということです。



わたしたちは「神の国」と聞くとどうしても、“向こうの世界”とか“あの世に行くこと”をイメージしてしまいます。しかし、それは、イエスさまがお語りになる「神の国」とは、異なるものです。



イエスさまの「神の国」は、わたしたちの日常生活です。



わたしたちの心の中に、神の御言葉が浸透する。それと共に、救いが浸透する。それによって、わたしたち自身が成長する。わたしたちの生活が「神の国」へと造りかえられていく。



こういうことが起こるのです。



ですから、ここで大切なものは“言葉”であるということが、おそらくかなり分かっていただけるでしょう。



イエスさまが救いの御言葉を語られ、その手で触れられる。それによって、十八年間も「わたしは絶対に治らない。この病気は絶対に治らない」と、そう確信していたこの女性が、いやされました。



イエスさまの御言葉を聴いて信じる。言葉が種のように心の中に蒔かれ、埋め込まれて、浸透する。わたしのものとなる。そのときに、その人に“救い”が起こるのです。



言葉がひとを変え、現実を変え、世界を変えるのです。



わたしたちが教会でしていること、また牧師がしていることは、ごく小さなことです。外から見ると、またわたしたち自身の率直な感覚としても、教会で行われていることは、ごく小さなことです。なんでもないことです。



しかし、です。このごく小さな営みが、一回一回の礼拝とか、わたしたち一人一人が心で神を信じるといったこのごく小さな営みが、大きなものになっていきます。わたしたち自身の人生を変え、また世界を変えていきます。



わたしたちは、そのように、信じてよいのです。



(2005年11月20日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年11月13日日曜日

「悔改めずば亡ぶべし」

ルカによる福音書13・1~9



この個所で、イエスさまは、全く同じ言葉を二度繰り返しておられます。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。



これは聖書に限らず、一般的にも同じように言いうることですが、繰り返されている言葉には強調がある、と考えてください。そこに主題(テーマ)があります。今日の個所の主題は、悔い改めなければ滅びる。みんな滅びる、ということです。



ただし、です。わたしは、ここに但し書きを置いておきます。今日の個所は、表面的にさらっと読むだけでは理解できないところである、と思います。注意深く読まなければ、読み間違えてしまうでしょう。



とくに注意深くありたいことは、この御言葉を、イエスさまご自身はどのような意味で語っておられるか、ということです。悔い改めるべきことの具体的な内容は何か、です。いったい、わたしたちは“何について”悔い改めなければならないのでしょうか。



「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」



「ちょうどそのとき」とは、どういうときでしょうか。これと全く同じ言葉(ちょうどそのとき)が13・31にも出てきます。同じ言葉が繰り返されています。繰り返されている言葉には、強調があるのです。



それは、イエスさまが、弟子たちや群集に向かって、一連の説教をしておられたときである、と理解することができるでしょう。



ここで思い起こしていただきたいのは、先週学んだ御言葉です。「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」(12・56)。ここに出てくる「今の時」、これが「ちょうどそのとき」という言葉の具体的な意味であると考えられます。



イエスさまは、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」とお語りになることにおいて、あなたがたは「今の時」を見分けることができるようになりなさいと強く願っておられることは明らかです。



「今の時」とは、どういうときでしょうか。神の子、救い主イエス・キリストが地上に来られているときです。イエス・キリストを通して救いの恵みが地上にもたらされているとき、救いが実現しはじめているときです。神の国が近づいているときです。



しかしまた、そのときは人々が救いを求めているときでもあります。救いを必要としている人々があふれている時代です。



ヨハネによる福音書1・5に「光は暗闇の中で輝いている」と記されています。この「光」とは、イエス・キリストのことです。光としてのイエス・キリストは、暗闇の時代に来てくださったのです。



イエス・キリストは、弟子たちに、「今の時」を見分けることができるようになることをお求めになりました。そのときは、暗闇のときでもあります。



「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とあります。このピラトこそ、イエス・キリストが十字架にかけられる前に行われた裁判(不当な裁判!)の審き主です。ローマの提督ポンティオ・ピラトです。このピラトが、いったい何をしたのでしょうか。



ここに出てくる「ガリラヤ人」とは、ガリラヤ地方出身のユダヤ人、しかもエルサレムに移住していた人々のことであろうと考えられています。



この人々が殺されたようです。なぜ殺されたのかまでは分かりません。しかし、当時のガリラヤ人たちは、ユダヤ教の主流派から虐げられていた、と伝えられています。反主流派である彼らが、ローマ帝国とその支配下にあるユダヤ王国の支配者に対する政治的暴動を起こしたのではないか、というようなことが考えられています。



この事件のことを指していると言われているのが、使徒言行録5・37に紹介されている出来事です。「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。」



それで彼らは処刑された。そしてピラトは、ガリラヤ人たちの血をいけにえに混ぜた。この「いけにえ」とは、過越祭のときエルサレム神殿に犠牲として供えられた動物のことであろうと考えられています。屠殺された、血まみれの動物です。



ですから、ピラトがしたことは、要するに、人間の血を動物の血に混ぜた、ということです。これが、なんとひどい、なんとむごいことか、ということは、誰もが感じることでしょう。人間として、断じて許されないことです。



これで分かることは、ピラトという人は、こういうことを平気で行うことができる人間であった、ということです。全くひどい、文字どおり“人を人とも思わない”、残酷な人間であった、ということです。このポンティオ・ピラトによって、イエスさまは、十字架につけられたのです。



「今の時」とは、どういうときでしょうか。これで少し分かりました。“人を人とも思わない”人が、人を裁く人の座に着いているときです。人の道の正義がねじ曲げられている時代です。恐るべき圧政の時代です。



「イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。』」



ここに「イエスはお答えになった」とあります。ここで言いうることは、イエスさまが語っておられるのは、お答えではなく、むしろ、問いかけである、ということです。



そして、もう一つ言いうることは、イエスさまが彼らに問うておられるのは何かと言いますと、それは要するに、「思うのか」という点である、ということです。



あなたがたは、その血をいけにえの中に混ぜられるというひどい目に遭った一部のガリラヤ人たちが、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったから、そのような目にあったのだ、というふうに「思うのか」。



つまり、要するに、そのような目にあったガリラヤ人たちは、いわゆる“自業自得”とか“因果応報”の死を遂げたのだと「思うのか」。



イエスさまが問うておられるのは、その点です。あなたがたは、そういうふうに思うのか。そういう考え方は正しいのか、と問うておられるのです。



そして、イエスさまは「決してそうではない」と、お答えになりました。イエスさまのところに、殺されたガリラヤ人たちについての情報を知らせてきた人々自身が持っていたと思われる、まさにこの“自業自得”だの“因果応報”だのという考え方それ自体を否定されたのです。



よく考えてみれば、そのとおりです。ガリラヤ人が殺されたこと、彼らの血が動物の血の中に混ぜられたことが“自業自得”であるわけがありません。



当時の裁判に、問題があったのです。“人を人とも思わない”ローマの提督ポンティオ・ピラトにこそ問題があり、ユダヤ人の指導者たちにこそ問題があったのです。



「『また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。」



これも同じです。シロアムの塔が倒れて死んだ。その人々が死んだのは“自業自得”であったと、あなたがたは「思うのか」と、イエスさまは、問うておられるのです。



「『言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」



イエスさまが警告しておられることは、その“自業自得”とか“因果応報”という考え方そのものに罪がある、ということです。そういう考え方はやめなさい、ということです。その考え方そのものを“悔い改める”必要があるのです。



このことを、わたしたち自身の問題として考えてみると、分かるはずです。なるほど、わたしたちがそのような考え方を持ち続けているかぎり、本当に見抜かなければならない問題を、見抜くことができません。



本当の問題は、どこにあるのか。本当に悪いのは誰であり、本当に裁かれなければならないのは、誰なのか。そういうことが分からなくなってしまいます。事の真相が見えなくなってしまいます。



何か事が起きたとき、それを“自業自得”と考えて、自分や個人の小さな問題にしてしまうことによって、本当の問題が見えなくなる。それによって、社会の巨悪を生き延びさせる結果を招いているかもしれません。



わたしたち日本キリスト改革派教会が重んじるウェストミンスター大教理問答を見ていただきますと、一言で「罪」と言っても、「上の人」(社会的に地位が高い人)が犯す罪は、「下の人」(地位が低い人)が犯す罪よりも「重い」と言われています(大教理問答第151問の答えを参照してください)。全く同じ、というわけではないのです。



「悔改めずば亡ぶべし」。このイエスさまの御言葉を、もしわたしたちが、ただ単にわたしたち自身の個人的な心の中の問題にしてしまうときには、おそらく、イエスさまの意図を、読み間違えているのです。



むしろ、もっと大きな問題です。社会の問題です。“自業自得”という思想によって、真の問題が隠蔽されると、社会全体が道を間違います。それによって、「皆が滅びる」。“全滅”の危機に陥るのです。



イエスさまは、“自業自得”とか“因果応報”という考えに対して、真っ向から反対されました。最も有名な個所は、ヨハネによる福音書9・1〜3でしょう。



イエスさまは、生まれつき目の見えない人の前で、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と質問する弟子に対して、次のようにお答えになりました。



「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)。



本人の“自業自得”ではない。両親の“因果応報”でもない、という意味です。これらの思想を、イエスさまは、はっきりと否定されたのです。



だからこそ、です。わたしたちが悔い改めなければならないことは何でしょうか。このように考えることをやめる、ということです。この思想の呪縛から、救い出されなければならないのです。



「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」』」。



このイエスさまのたとえ話の中で興味深く感じるのは、ここに登場するぶどう園の主人が園丁に言った言葉の中に出てくる「もう三年もの間」という点です。



と言いますのは、イエスさまが伝道活動をなさった期間について、(それにはさまざまな計算方法や考え方があるのですが)、一般的には約三年間であったと言われているからです。



三年もの間、せっかく植えたいちじくの木に、実ができない。そのような木など、早く切り倒してしまいなさいと、ぶどう園の主人が園丁に命じた、というのです。



ところが、園丁は、いちじくをかばいました。今年もこのままにしておいてくださいと。肥やしをやってみます、そうすれば、来年は実がなるかもしれませんと。



このたとえ話の意図は明らかです。ぶどう園の主人は父なる神さま、園丁はイエスさまです。



イエスさまは、三年間待っても実をつけないダメないちじくの木を、かばってくださいます。



イエスさまにかばっていただいている「いちじくの木」とは“だれ”のことでしょうか。それは、イエスさまが何度説教しても、どんなに言葉を尽くして神の御言葉を語っても、罪を悔い改めない人のことです。イエスさまを信じようとしない人々のことです。



イエスさまは、そのような人々を、かばってくださいます。そして、忍耐強く、待っていてくださいます。



イエスさまの御心は、人が滅びることではなく、人が生きることなのです。



(2005年11月13日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年11月6日日曜日

「何故正しき事を定めぬか」

ルカによる福音書12・49~59



今日の個所も、わたしたちの救い主、イエス・キリスト御自身がお語りになった説教の続きです。



三つの段落を続けて読みました。三つの段落に三つのことが書かれています。三つのことを、無理にこじつけるつもりはありません。しかし、深いところでは、互いに関係しあっているように思われます。



まず、最初の段落に記されていますのは、イエスさまが地上に来られた目的は何か、ということです。



「『わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。』」



非常に驚くべきことが書かれています。はっきりと記されている、イエスさまが地上に来られた目的は、二つです。



第一は、地上に「火」を投ずるためです。



第二は、地上に「分裂」をもたらすためです。



最初に言われていることのほうから考えてみたいと思います。ここで言われている「火」の意味は何か、ということです。二つほどの可能性が考えられます。



第一の可能性は、神の審きを意味する「火」です。その例は、旧約聖書の中にいくつかあります(詩編66・12、イザヤ43・2、ゼカリヤ13・9、マラキ3・2など)。



第二の可能性は、預言者の口から語られる神の言葉を意味する「火」です。この例は、エレミヤ書の以下の二個所(5・14、23・29)にあります。



「見よ、わたしはわたしの言葉をあなたの口に授ける。それは火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くす」(エレミヤ書5・14)。



「このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」(エレミヤ書23・29)。



イエスさまが語っておられる「火」とは、火のような“神の審き”のことか、それとも、火のような“神の言葉”のことか。いずれの可能性も否定しきれません。



むしろ、これは一つのことではないかとも考えることができそうです。イエスさまが地上に来られた目的は、火のような神の審きを伝えるために、火のような神の言葉を語ることである。これでどうでしょうか。



どちらにしても、同様に言いうることがあります。



それは、今日の個所でイエスさまが「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と語られていることによって、まさに明らかにされているのは、火を投ずるために来られたこの方こそが、あのバプテスマのヨハネが語った「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3・16)という預言の成就として来られたお方である、ということです。



ということは、ヨハネが語った「火」、つまり、来るべきキリストは「聖霊と火で、洗礼をお授けになる」という場合の「火」とは「神の御言」を指していると語ることもできるようになるでしょう。



さて、第二の件に移ります。第二番目に、イエスさまが来られた目的として語られていますのは、地上に「分裂」をもたらすためである、ということです。



これは、どういう意味でしょうか。かなり物騒な言葉です。要らぬ誤解を招きかねない言葉であると思われてなりません。イエスさまの意図は何かを、よく考える必要があるでしょう。



52節以下のところでイエスさまが引き合いに出しておられるのは、明らかに、いわゆる家庭内戦争のことです。父と子、母と娘、嫁としゅうとめ。ここに夫婦のことが語られていないのは不思議です。しかし、安心することはできないかもしれません。



といいますのは、ここでイエスさまが語っておられることは明らかに、旧約聖書のミカ書7章に、次のように記されていることに基づいている、と考えられるからです。



「お前の見張りの者が告げる日、お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる。隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」(ミカ書7・4〜6)。



預言者ミカが描き出しているのは、間違いなく、近親憎悪というべき何かです。「安らう女」とは、妻のことでしょう。このように距離的・物理的に、あるいは心理的・精神的・生理的に最も近いところに生きている者たちが、現実の場面では、最も激しくいがみ合うのです。



しかし、このミカの預言には、続きがあります。「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」(ミカ7・7)。



これで分かることは、預言者ミカが描き出している近親憎悪的な家庭内戦争の解決の道は、ただ一つ、主なる神を信じる信仰のみによる、ということです。



そしてまた、このことを別の角度から言えば、主なる神を信じる信仰が、家庭内戦争の原因になることもありうる、ということです。



イエスさまが語っておられることも全く同じであると思われます。マタイによる福音書には、「こうして、自分の家族の者が敵となる」(10・36)という、これもまた、たいへん厳しいイエスさまの御言葉が記されています。



イエス・キリストに従って信仰の道を歩むか、それとも、家族の一致を重んじて信仰を棄てるか。わたしたちは、このようなできれば避けて通りたいと誰もが願うであろう嫌な選択肢を突きつけられる場面に、遭遇します。



家族の中で自分一人だけが信仰を与えられ、教会に通っているという方々の苦しみや葛藤は、理解できないものではありません。



しかし、イエスさまは、わたしたちに、その二者択一の前にあっては、どっちつかずの中立的な立場などありえない、ということを、はっきりと示されています。これこそが、イエスさまがもたらされる「分裂」の意味なのです。



「イエスはまた群集にも言われた。『あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、「暑くなる」と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。』」



この段落でイエスさまが語っておられる御言葉の対象は、54節に記されているとおり、「群集」です。イエスさまは、弟子たち以外の人々(「群集」も当然含まれる)に対しては、たとえを用いてお語りになる、ということが、すでに記されていました(8・10)。ここでイエスさまが語っておられるのも、たとえ話です。



しかしまた、このたとえ話は、ユダヤ人たちにとっては、ごく常識的で当たり前のことです。きわめて現実的なたとえ話です。パレスチナ地方の地形を考えると、すぐに分かることです。



パレスチナ地方の西側には、地中海があります。ですから、雲が西に出ると、海の上でたくわえた雨が、彼らの上に降ってくるのです。



また、南風は、サウジアラビアやアフリカなどの砂漠地帯、また赤道の方面から吹いてくる熱風です。イスラエルが暑くなるのは、当然です。



ところが、です。「偽善者よ」とは明らかに、イエスさまの説教を聴いている群集のことです。偽善者よ、あなたがたは、そのような天候についての知識を持っているではないか、ということです。



それなのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか、と語っておられます。この話のつながりを、よく理解する必要があると思います。



このたとえ話においてイエスさまが語ろうとしておられることのポイントは、要するに、原因と結果の関係という問題である、と理解することができます。



雲が西に出ると、雨が降る。南風が吹くと、暑くなる。そうであるならば、です。



今や、あなたがたの目の前には、このわたしがいる。まことの救い主、神の御子イエス・キリストが立っている。このわたしが神の御言葉を語り、さまざまな奇蹟を行い、救いのみわざを行い、現実に救われている人々がいる。



この因果関係を、あなたがたは、どうして見分けることができないのかということを、イエスさまは、彼らに問いかけておられるのです。それは、「今の時」はどういう「時」なのかという問いかけでもあります。



「今の時」に起こっていることは何かと。このわたし、救い主イエス・キリストが来ている「時」であり、イエス・キリストの周りに“神の国”が実現しはじめている「時」である、ということを、どうして分からないのかと。



それは同時に、このわたしが来た、というこのことと、このわたしのもとで現実に起こっている救いの出来事との関係を、あなたがたは、どうして理解できないのか、という問いでもあります。その因果関係は「西に雲が出れば雨になる」というほどに、明らかなことではないか、ということです。



これは、わたしたちにも当てはまることでしょう。



わたしたちが教会に通うようになるよりも前と今、あるいは、イエス・キリストを信じるようになるよりも前と今とは、全く同じでしょうか。何も変わらないでしょうか。



もし、ほんの少しでも何かが変わってきているのだとしたら、その“原因”は何か。あるいは何の“力”が、わたしたちに働いているのでしょうか。このことを正しく見分けることが、わたしたちにも求められているのです。



「『あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。』」



今日の説教のタイトルは、この第三段落の最初の御言葉から採りました。ただし、文語訳です。正確には、「何故みづから正しき事を定めぬか」です。



この最初の御言葉においてイエスさまが語っておられることは、明快です。わたしたち人間は、何が正しいことであり、何が間違っていることであるかという判断を、自分自身でしなければならない、ということです。



ただし、そのことをイエスさまは、問いかけという仕方で語っておられます。どうして自分で判断しないのか。どうして、そのような基本的なことさえできないのか、と。



そしてまた、イエスさまは、そのことを、わたしたち人間がしなければならないのは、わたしたちの犯した罪によって心や肉体に傷を受けた人によって告訴され、現実の裁判が始まる“前”である、ということを、明らかにしておられます。



「役人のところ」とは、現実の裁判が行われる場所のことです。そのような場所に行く前に「途中でその人と仲直りするように努めなさい」とは、訴えている原告側がなすべきことではなく、訴えられている被告側の人、つまり、罪を犯した人のほうがなすべきことです。



イエスさまが語っておられるのは、そのような意味のことです。傷を受けた側の人に、「告訴を取り下げてあげなさい」と言われているわけではありません。黒いものを「白」と言ってあげなさい、という話ではありません。



求められていることは、罪を犯した人自身が、自分で何が正しいかを判断し、反省し、悔い改めることです。



死んでお詫びするというのはダメです。お詫びしなければならないのは、生きている間です。自分の罪を悔い改めることも、神さまに赦していただくことも、生きている間になされなければならないことなのです。



ここに至って、最初の段落でイエスさまが語っておられたことをもう一度持ち出すことが、意味を持つでしょう。



イエスさまが来られたのは、地上に火を投ずるためであり、また、分裂をもたらすためである、とありました。それは、何の秩序も脈絡も無い暴動を起こすこととは、全く違います。



イエスさまの目的は、ただ一つ、イエスさまの御言葉に従って、主なる神を信じる信仰によって生きる人々を、罪の中から救い出すことです。そのようにして、信仰と不信仰を厳格に区別することです。



神の国とは、イエス・キリストを通して語られた神の御言葉が支配する、現実の国です。そこには、真の正義があり、自由があり、慰めがあり、喜びがあります。



だからこそ、わたしたちが神の国に入るためには、罪の問題が解決されなくてはなりません。



イエス・キリストによる罪の赦しと救いが必要なのです。



(2005年11月6日、松戸小金原教会主日礼拝)





2005年10月30日日曜日

「ともし火をともしていなさい」

ルカによる福音書12・35~48



今日の個所は、時間的にも内容的にも先週の個所に続いております。そうであるならば、イエスさまが「弟子たちに」(12・22)語られた説教の続きであると、読むことができます。



「『腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい』」。



このようにイエスさまが弟子たちにお語りになりました。語られているのは二つのことです。



第一は「腰に帯を締めなさい」です。



第二は「ともし火をともしていなさい」です。



この二つのことは、ひと続きに語られていることではありますが、今日は一応区別して考えておきます。



第一に語られていることは「腰に帯を締めなさい」です。これは明らかに、昔のユダヤ人たちがエジプトから脱出して、約束の地カナン(現在のパレスチナ地方)に移住した、あの出エジプトの出来事を連想させる言葉です。出エジプト記には、次のように記されています。



「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。・・・それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。・・・それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」(出エジプト記12・2〜11)。



これで分かることがあります。昔のユダヤ人たちは、腰に帯を締めて、それで何をしたのかと言いますと、肉を焼いて食べたのだ、ということです。



そのようにして腹ごしらえをしました。そして、その後、出エジプトの旅に出かけたのです。つまり、腰に帯を締めて肉を食べたのは、彼らの旅支度のためでした。



このことから、ある人は、ここでイエスさまが弟子たちに向かって語っておられるのは「新たなる出エジプト」の勧めである、と解説しています。そのとおりであると、わたしも思います。



しかし、それでは、イエスさまの弟子たちは、何から、あるいは、どこから、脱出するのでしょうか。



この問いの答えとして考えられるのは、先週学んだ個所に記されていた事柄です。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(12・22)です。この種のことで思い悩むことそれ自体からの脱出、生活上の不安や恐れからの脱出です。



昔のユダヤ人が腰に帯を締めたのは、丈の長い服がだらだらして足もとにまとわりつくのを防ぐべく、腰のあたりで服を縛り、歩きやすくするためでした。



つまり、その目的は、ただ一つ、歩くためです。前に進んでいくためです。もはや後ろを振り向かない、という決意表明でもあります。邪魔になるものを、できるだけ整理し、取り除くためです。



ですから、それはちょうど、たとえばわたしたちが「さあ、これから力仕事をしよう」というときに、腕まくりをするようなものです。せっかく朝早く起きてアイロンをかけたワイシャツであっても、腕まくりしてしまえばクシャクシャです。



それでもよい、否、そうしなければならない場面が、わたしたちの人生は、いつか必ずあるわけです。



たとえば、の話です。自分の子どもが川に落ちて、おぼれている。それを親である者が「自分の服が汚れるから」という理由で助けない、ということが、ありうるでしょうか。



そんなことは、あるはずがない。あってよいはずがありません。



第二にイエスさまが語られているのは「ともし火をともしていなさい」です。



そして、これに続く36節以下の個所で、イエスさまが、この「ともし火」とは何のともし火なのか、「ともし火をともす」とはどういう意味なのかということを、説明しておられるのです。



「『主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばにいて給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。』」



これは、たとえ話です。このたとえ話の中で、イエスさまが描き出しておられるのは、結婚式の終わった後の場面です。



わたしがとくに興味深いと感じるのは、このたとえ話には、新郎も新婦も出てこないことです。登場するのは、新郎または新婦の友人です。その人が「主人」と呼ばれています。



その主人が、友人の結婚式の席から帰ってきて戸を叩く。そのときに、家のともし火をともしていて、戸をすぐに開けることができるように、主人の帰りを待っている人のようでありなさいと、イエスさまが弟子たちに語っておられるのです。



どうしてでしょうか。それを理解するためのポイントは、この主人が結婚式から帰ってきたばかりの人である、ということでしょう。



普通に考えてみて、当然、この主人は、美味しいものを食べて、あるいはおそらく少しお酒なども入っていて、とても幸せな気分で帰ってきているはずです。



ですから、この主人は、たいへん上機嫌です。だからこそ、と言えるでしょう。主人が家に帰ったときに、家の戸の鍵が開いていて、明かりもついていて、家のみんなが待ってくれていた、という場合には、どうなるか。



イエスさまのご説明によりますと、その主人は、なんと気前のよいことに、自分で帯を締めて、自分の帰りを待っていた人々に、「さあさあ、お前たちも食べなさい」と鼻歌でも歌いながら給仕してくれるのだ、というのです。



逆のことも考えておくべきでしょう。帰ってきたとき、戸の鍵が閉まっている、明かりは消えている、家の人はすっかり寝静まっているという場合には、どうなるか。そのときには機嫌が悪くなる。そういうことも考えられるわけです。



身勝手といえば、こんな身勝手な話は、他にないほどです。そんなふうに、自分の気分次第で生きられては、困る。はなはだ迷惑であるとお感じの方もおられるでしょう。



しかしまた、これこそ現実の人間の姿であり、わたしたち自身のありのままの姿である、と感じてくださる方も、おられるのではないでしょうか。



ただし、ここでよく注意しなければならない点があります。それは、このたとえ話の中に登場する、この「主人」とは、明らかに、まさにこのたとえ話を語っておられるイエスさまご自身のことである、という点です。これは忘れられてはならないことです。



「『家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』」



ここで「あれ?」と思われる方もおられるでしょう。話の内容が、かなり変わってきています。思いがけない時に来るのは「泥棒」なのか、それとも「人の子」なのかということも、なんとなく不明です。



この話を聞いている弟子たちも、話の中身が、よく分からなくなってきたのではないでしょうか。それで、ペトロが次のような質問をしたのだと思います。



「そこでペトロが、『主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか』と言うと、主は言われた。」



イエスさまの答えは、以下のようなものでした。しかし、あまりきちんとした答えではありません。どこを読んでも、ペトロの質問に対する直接的な答えが、見当たりません。はぐらかされているような感じさえしてきます。



「『主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。』」



ここでイエスさまが何を語ろうとしておられるかを理解するためのキーワードは、二つあると思います。



第一のキーワードは、「主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」という中の「〔主人の〕言われたとおりにしている」です。



第二のキーワードは、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕」という中にある「主人の思いどおりにしなかった」です。



ここに二人の僕が登場します。一人目は、主人の言われたとおりにして、主人から信頼され、全財産を管理するという大きな仕事を任されることになった、幸せな僕です。



二人目は、主人の思いどおりにしなかったので、ひどく鞭打たれる僕です。この二人の僕の違いは、明白です。



ただし、注意しなければならないと感じることがあります。それは、「主人に言われたとおりにすること」と「主人の思いどおりにすること」とは、いくらか違うことではないか、ということです。



「主人に言われたとおりにすること」とは、主人が実際に口に出して語った“命令”に服従する、という意味でしょう。



しかし、そのことと、主人の心の中の“思い”を理解し、そして、その主人の“思い”どおりにする、ということは、区別されなければならないことであり、「言われたとおりにすること」を越えたことであり、またそれよりも深いことであると思われます。



イエスさまが弟子たちに求めておられることは、絶対服従ではありません。強制労働ではありません。そのような重苦しく、堅苦しいことであるかのように理解されるべきではありません。



むしろ、求められていることは、イエスさまの御心をよく知る、ということです。逆に言えば、イエスさまの御心をよく知る者、よく知ろうとする者こそが、イエスさまの弟子である、ということでもあるでしょう。イエスさまがペトロの質問に直接お答えになっていないのは、このことを分からせようとしておられるからではないでしょうか。



そして、イエスさまの御心の本質は、喜びです。なぜなら、この主人は、結婚式の喜びの祝宴から帰って来て、みんなをエプロン姿で喜ばせてくださる、そういうお方であると言われているのです!



わたしたちにとって、最も重要なことは、このお方の喜びを十分に知りつくし、味わいつくすことです。そのために必要なことは、何でしょうか。



一言で言えば、たくましい想像力です。よく考えることです。頭と心を、十分に用いることです。そのようにして、わたしたちが十分かつ不断に用いて主の御心はどこにあるのかを豊かに思いめぐらし、理解し、そして信じることです。



そのことこそが、今日の最初に出てくる、「ともし火をともしていなさい」という御言葉の真意なのです。



(2005年10月30日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年10月23日日曜日

「小さな群れよ、恐れるな」

ルカによる福音書12・22~34



これは、わたしたちの救い主イエス・キリスト御自身の御言葉です。「イエスさまの説教」と呼ぶこともできます。



イエスさまは、この説教の中で、いったい、何を言おうとしておられるのでしょうか。この説教の核心部分は、どこにあるのでしょうか。



みなさんには、ぜひ、今日の個所を繰り返して読んでいただきたいと願っております。しかし、おそらく、引っかかりをお感じになるところが、たくさんあるだろうと思います。



わたしにもあります。どうしても引っかかってしまう第一の点をズバリ語ることは難しいのですが、要するに、カラスだの、野原の花だの、草などと、このわたしを、どうか比較しないでください、と言いたくなる、ということです。



わたしは人間だ、と言いたくなります。イエスさまが語っておられることは、まるで、思い悩んでいる人はカラスよりも劣っている、草よりも花よりも劣っている、と言われているかのようです。



引っかかってしまう第二の点は、実際のわたしたちが、ここでイエスさまが持ち出されているような問題に、全く思い悩まなくて済む、というようなことがありうるだろうか、と問いたくなる、ということです。



わたし自身のことを考えてみますと、こういうことであまり思い悩まなくて済んでいたのは、今から10年くらい前までだったように思います。30才くらいまでです。すでに結婚はしておりましたが、子どもは長男が生まれるかどうかというくらいの頃までです。



その頃までのわたしは、自分の命のことで何を食べようかとも、自分の体のことで何を着ようかとも、「思い悩む」などというようなことは、ほとんどありませんでした。



しかし、です。そんなわたしでも、ほんの少しずつではありますが、だんだん変わってきたように思います。子どもが与えられたことが、やはり大きいでしょう。「何を食べさせようか、何を着せようか」という、それまではほとんど一度も考えたこともなかったような全く新しい要素が、加わってきました。



このように今日は、まず最初にわたし自身の不信仰を告白する、というところからしか始めることができませんでした。ここにわたしの罪があると、言わなければならないのかもしれません。



しかし、です。かく言うわたし自身にとって、今日の個所で、イエスさまが強く語っておられることには、まさに痛いほど、身に染みて分かる、と感じる部分もあるのです。



それは、今日わたしがいちばん最初に問いました、今日の個所の、イエスさまの説教の中心部分は、どこにあるのか、ということを考えてみたときに、見えてくる事柄です。



中心部分は、次の御言葉であると思われます。



「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」



このイエスさまの説教は、22節に記されているとおり「弟子たちに」語られたものです。一般の不特定多数の人々、いわゆる「群集に」向かって語られたものとは一応区別されるべきです。



イエスさまの弟子である者たちは、ただ、神の国を求めるべきです。「ただ」というのは「ひたすら」という意味です。わき目もふらず、ただひたすら、という意味です。そのことに集中することです。神の国を求めることに、です。



そうすれば、です。「これらのもの」とは、食べ物や着る物のことです。生活上の必需品です。そのようなものは、「加えて」(以前の訳では「添えて」)与えられるのです。



なぜ「与えられる」のでしょうか。自分でお金を稼ぐなりして「買う」のではないのでしょうか。もらいもの、でしょうか。どこかで拾うのでしょうか。



そのような意味も、イエスさまの御言葉の中には、どこかしら含まれているような気がしてなりません。と言いますのは、先ほど申し上げましたように、この御言葉を、イエスさまは、「弟子たちに」語っておられるからです。



ただし、この場合の弟子たちとは、使徒と呼ばれるいわゆる十二人の特別な弟子だけに限定すべきかどうかは微妙です。ルカによる福音書では、すでに10章のところで、七十二人の弟子を、イエスさまが派遣しておられますので。



そして、七十二人の派遣の際にイエスさまは、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな」(10・3〜4)と語られ、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(10・5)と語られ、「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(10・7)と語られました。



イエス・キリストの「弟子たち」が、です。わき目もふらずに、ただひたすら、「神の国」を求めるとき、食べる物や飲む物や着る服などが「加えて与えられる」、あるいは「添えて与えられる」とは、まさにこの意味であると、考えられるのです。



「当然の報酬」と言われています。しかし、これは自分がした仕事に対する当然の対価というような意味ではありません。伝道者は“自給いくら”で働くわけではありません。



そういうことではなくて、むしろ、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一に書いている、「そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか」(9・7)という点こそに関係しています。これは明らかに、伝道者たちが教会から受けとる生活費を指しています。



ぶどう畑で食べてもよい実とは、商品価値のない出来損ないのものや、地に落ちてしまったものでしょう。ですから、それは、落穂ひろいのようなものである、とも表現できそうです。



ですから、それは、強いて言うなら、「腹がへっては、いくさはできぬ」というくらいの意味です。



あるいは、もっと大胆に踏み込んで言わせていただくならば、要するに、イエスさまの弟子たち、とくに伝道者たちは、教会を、そして、神さまご自身を、その意味で信頼してよい、ということです。



教会の牧師であるわたしが言うと、なんだかへんな感じになるかもしれませんが、ただひたすら、神の国を求めて献身している者たちを、教会は決して見殺しにしたり、見捨てたりすることは、ありえない、ということです。



だからこそ、です。イエスさまは、“弟子たちに”言われました。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と。



そんな心配はする必要がないのだ、と。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と。すべてをご存じである神さま御自身が、あなたがたの必要を満たしてくださるのだ、と。



そのことを信頼すべきである、ということを、イエスさまは、教えておられるのです。



「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。』」



ここで「群れ」とは、砂漠で遊牧生活を送っている、ベドウィンの人々が用いる単位であると言われます。そして、その群れが「小さい」とは、およそ20〜30ほどの家畜や獣の数を示すのだそうです。



しかし、もちろん、イエスさまが語っておられるのは、家畜や獣の話ではありません。イエスさまを信じて生きる弟子たちの話であり、信仰者の共同体としての教会の話です。ですから、「小さな群れ」という言葉から、わたしたちが、20人から30人ほどの教会の姿を連想することは、決して間違いではありません。



20人から30人。これは、じつは、わたしたち日本の教会の現時点での平均的な姿です。現在の日本の教会は、依然として、間違いなく、ここでイエスさまが言われているとおりの、まさに「小さな群れ」です。



「小さな群れよ、恐れるな」と、イエスさまは、今も、わたしたちに対しても、語っておられます。



小さいからダメ、ということはありません。どの国の教会も、最初はみな、小さな群れだったのです。その人々に、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、イエスさまは、励ましの言葉を語ってくださったし、今も語っておられるのです。



この脈絡でこの話題を持ち出すことは、決して飛躍ではないと思いますので、申し上げます。



先々週川越市で開催されました、日本キリスト改革派教会第60回定期大会で決議された、重要な事項の一つとして、はっきり言って現在ジリ貧に陥っている東北中会と四国中会の諸教会を支援するために、大会所属の全教会が自由募金を行なうことになりました。その目的は牧師の生活を支えることである、ということも確認されました。



地方の教会の現状については、わたし自身も体験してきたことですので、責任をもった証言を行なうことができます。



地方の教会では、牧師たちが生活に困っている例が、いくらでもあります。地方の教会では、十年も二十年も、一人として洗礼を受ける人が現れないというケースも少なくありません。その中で、とくに若い教師たちは、伝道への意欲や自信をすっかり失ってしまうのです。それが現実です。



地方の教会は、成長しないからといって、サボっているわけではありません。また都会の教会は、地方の教会で洗礼を受けた人々によって成り立っている、という面もあります。



ですから、「都会の教会は豊かであるが、地方の教会は貧しい」というこの状況は、是正されるべきなのです。



みんなで力を寄せ合い、支え合うことが大切です。ささげる人はささげるばかり、受けとる人は受けとるばかり、という話ではありません。お互いに、支え合うのです。



わたしたちイエスさまの弟子である者たちが、教会が、「神の国」のために、喜んで自分のものを差し出し合うことが、大切です。



道は、そこから開けていくのです。



(2005年10月23日、松戸小金原教会主日礼拝)



2005年10月9日日曜日

「真の豊かさとは何か」

ルカによる福音書12・13~21



今日の個所に記されているのは、イエスさまのたとえ話です。新共同訳聖書では、「愚かな金持ちのたとえ」という小見出しが付けられています。わたしが調べた注解書の中には「豊かな愚か者」という表題が付けられたものがありました。前後をひっくり返しただけですので、だいたい同じですが、微妙なニュアンスの違いがあると言えるかもしれません。



今日の個所で、わたしがとくに慎重でありたいと考えています点を、最初に申し上げておきます。それは、ここでイエスさまは、お金を持っている人すべてが愚か者であるとか、お金を持つこと自体が愚かである、というふうに言われているわけではないということです。そうではなく、わたしたちが豊かな富を求めるその思いの中に落とし穴がある、ということです。その落とし穴に陥らないように、気をつけなければならないのです。



「群衆の一人が言った。『先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。』



まず最初に記されていますのは、イエスさまがこのたとえ話をお語りになったきっかけは何か、ということです。



ここに出てくる「群集の一人」には、自分の兄弟との間に遺産相続をめぐる骨肉の争いがあったようです。そのようなことについて、この人は、イエスさまならばきっと何とかしてくださるに違いないと、おそらく真剣な思いで、持ちかけたに違いありません。



ところが、イエスさまは、その願いを事実上拒否されました。そして、たいへん厳しい言葉を返されました。



「イエスはその人に言われた。『だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。』」



これは、もちろん、「わたしは、あなたがたのそのような問題についての裁判官や調停人ではない」という意味です。このことをイエスさまは、どのような意図で語っておられるかについては、はっきりとは分かりません。



しかし、いずれにせよ言いうることは、イエスさまは、この人の抱えている問題に介入してくださらず、この人の味方にもなってくださらなかった、ということです。



なんとなく冷たい感じがしなくもありませんが、イエスさまのご判断を尊重すべきです。



「そして、一同に言われた。『どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい『有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。』それから、イエスはたとえを話された。」



これで分かることは、イエスさまは、この「群衆の一人」が持ちかけてきた遺産相続の問題をきっかけにされながら、わたしたち人間の誰もが持っている“貪欲”という落とし穴に注意すべきであることを教えられるために、このたとえ話をお語りになったのだ、ということです。



「『ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたが、やがてこう言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい・・・」



このたとえ話は、比較的分かりやすいものだと思います。どういう意味で分かりやすいかと申しますと、この話の中に登場する金持ちは、わたしたちにとって身近な人と思えるような、どこにでもいる感じの、ごく普通の人だからです。想定しうるのは、パレスチナ地方の農家の人です。



ある年の畑が豊作でした。そのため、それによって一山できた財産の扱いをどうするかという問題が浮上しました。うらやましい話です。



そこで、この人が思いついた案はと言いますと、現在の小さな倉を取り壊して、もっと大きな倉を建て、その中に畑の作物を備蓄することでした。



おそらくここまでは、だれでもすることでしょう。この人は全く当然のことをしているまでです。逆に考えてみて、こういうこと(豊かな財産を蓄えておくこと)をしない人のほうが、それこそ愚か者と言われて然るべきです。



ですから、もしこの人に何か問題があるとしたら、これに続く点であると思われます。



「『「こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」』」



これを、この人の犯した誤りである、と断言できるかどうかは、微妙です。なぜなら、このようなことは、明らかに、だれでも考えることだからです。



たとえば、実際、この世の中には「これから先何年も生きて行くだけの蓄え」を持っているという自覚を持っている人は現実に存在するのだと思います。もちろん、その蓄えがどれくらいかを量る量りは、その人自身の価値観や生き方、お金の使い方に拠るところもあります。



そして、実際にそれだけの蓄えを持っている人にとって、当分の間、それ以上の財産を持つ必要がないのだとしたら、「ひと休みすること」、また「食べたり飲んだりして楽しむこと」は、ある意味でその人の自由であり、権利でもある、と語ることもできるはずです。



ここで一つ思い当たることは、いわゆる高齢者の生活、いわゆる「老後の生活」のことです。



それまでにたくさん働いてきた人々が、その働きによって得た蓄えによって、ひと休みすること、そして、人生を楽しむことは十分に許されていることです。このことは、批判されたり責められたりされてはならないことです。



また、いわゆる高齢者という範疇に属さない人々であっても、たくさん持っている人はいます。その人々が自分の財産を元手にして、ひと休みすること、人生を楽しむことは、許されて然るべきことである、と思われてなりません。



そうであるならば、です。この人の問題は、いったいどこにあるのだろうか、ということが、わたしたちの次の問題になります。



「『しかし神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われた。』」



ここに、いわば突如として、神さまが登場されます。この神さまは、たくさんの財産を手にすることができた、この幸せな人の人生を、まるで強制的に終了され、中断されようとしておられるかのようです。



これは、おそらくわたしたちの身にも、現実に訪れることです。地上の人生の終わりは、まさに突然やってきます。



そして、そのとき、神さまがこの人に言われたことは、「お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」ということでした。



ここに至って、この人は、初めて大きな壁にぶつかっています。ここに至って、この人は、初めて自分のしてきたこと、考えてきたことの問題に気づくべきところに立たされています。



ただし、この人が自分の問題に気づくことができるかどうかは別問題です。



おそらく、その日・そのときまで、この人が用意した物は、すべて自分のものであると思っていました。自分が生活するため、あるいは、せいぜい自分の家族のために、それは用いられるべきものである、と。それ以上、何の問題も感じていませんでした。



しかし、そのためにこの人がしようとしたことは、自分の財産のすべてを、自分の倉の中に「しまっておく」ことでした。これで大丈夫だと、自分に言い聞かせることでした。



もしこの人のどこかに問題があるとするならば、まさにここにある、と言わざるをえません。なるほど、わたし自身、ここに至って、はっと気づかされることがあります。



それは、この人の発想の中には、たくさんの財産を得たときに、それを他の人々に分け与えるとか、多くの人々と共に収穫を喜ぶ、というような点が全く現れてこない、ということです。



また、それを神さまのためにささげようとか、公共の福祉のために、というような発想が全く現れてきません。



すべては自分のためです。自分だけのためです。



強いて言うならば、ここに“貪欲”の罪があるのです。



貪欲もしくは貪りとは、第一義的には「他人のものを欲しがる」ということを意味しています。しかし、もっと広い意味もあります。



それは、自分が持っているもの、自分に与えられているものに、どこまでも満足しないこと、不平不満を持ち続けることです。そして、あたかも、この世のすべてのものが自分のものでなければならないかのように、何でもかんでも欲しがり、抱え込み、決して隣人に分け与えないことです。



これも、十分な意味で“貪欲”の罪なのです。



しかし、「今夜、お前の命は取り上げられる」。その日、そのときに、あなたの持ち物は、だれのものになるのかと、神さまは、わたしたちにも、問われるのです。



「『自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。』」



このように、イエスさまは、締めくくっておられます。「神の前に豊かにならない者」、あるいは反対に言って「神の前に豊かな者」の意味は、必ずしも明確ではありません。



しかし、強いて言うならば、それは、「自分のためだけに富を積む者」の正反対の生き方をなしうる人々のことである、と言えるかもしれません。



自分のために富を積む、というこのこと自体は、とても真剣な事柄なのだと思います。必死のわざです。このこと自体は、批判されたり、軽んじられたりすべきことではありません。貧しさにも、問題があります。貧しければよい、というような話ではありません。



しかし、です。その富をただひたすら自分だけのものにする、ということを、ただひたすら望む、というような生き方が、もしあるとするならば、そのような生き方は、とてもさびしいものであると、言わざるをえないのです。



そのような考えや思いに基づいて築かれていく人生は、自分の財産を常に多くの人々と分かち合いながら生きていく人々の人生とは、どこかが違います。



厳しい言い方かもしれませんが、自分のことしか考えない人は、多くの人々から見捨てられてしまうでしょう。「今夜、お前の命は取り上げられる」という神の御声を聴く日に、孤独のさびしさを味わうでしょう。



「お金が大事である」。これは、そのとおりかもしれません。



しかし、わたしたちはお金だけで生きているわけではありません。



神さまと共に生きているということ、そして、多くの隣人と共に、神の恵みを分かち合いながら、感謝と喜びをもって生きている、という自覚こそが、大事なのです。



(2005年10月9日、松戸小金原教会主日礼拝)