2005年12月11日日曜日

国々は革袋からこぼれる一滴のしずく


イザヤ書40・12~17、ヨハネによる福音書1・10~13

今日もイザヤ書40章とヨハネによる福音書1章を開いていただきました。イザヤ書の、先週学んだ個所の続きには、次のように書かれています。

「手のひらにすくって海を量り、手の幅をもって天を計る者があろうか。地の塵を升で量り尽くし、山々を秤にかけ、丘を天秤にかける者があろうか。」

海、天、地の塵、山々、丘。これらは、わたしたちが生きている世界と宇宙を構成している諸要素です。

神さまがお造りになった天地万物の大きさや広さや高さや深さや重さ、それらすべてをはかりつくすことができる人がいるでしょうか、そんな人はいません、ということです。そのようなことは人間には不可能であると、預言者は語ろうとしています。

しかし、わたしたちは、ここで預言者が語ろうとしていることの意図を、よく考える必要があります。

ここで預言者は、わたしたちにはかりつくすことができないのは、この天地万物である、と語っているように見えます。しかし、本当にはかりつくすことができないのは、この大きな世界をお造りになった神さまのほうです。それこそが、預言者の言葉の真意です。神さまは、はかりつくすことのできない、とても大きいお方なのです。

「主の霊を測りうる者があろうか。主の企てを知らされる者があろうか。主に助言し、理解させ、裁きの道を教え、知識を与え、英知の道を知らせうる者があろうか。」

「主の霊」とか「主の企て」と書かれていることを、もう少しわたしたちにとって身近な言葉で言い直すとすれば、神さまの御心、思い、計画、予定というあたりのことです。改革派神学の用語で言うところの「神の聖定」(God’s Counsel)という表現が、最も近いと思われます。

ですから、この個所で預言者が語ろうとしていることは、はっきりしています。わたしたち人間には、神の御心をすべてはかりつくすことなどはできません、ということです。なぜなら、神さまは大きな方だからです。

しかも、ここには、明言されてはいませんが、明らかに比較があります。何と何が比較されているかと言いますと、神の御心と人間の心です。神さまの大きさが、人間との比較においてはかられていると言えるかもしれません。神さまの大きさと人間の大きさの違いは、あまりにも明白である、ということです。

「主の霊を測る」とは、わたしたち人間が、神さまの御心の中身を「だいたいこの程度だろう」とあらかじめ見積もることです。そして、それ以上の期待を持たないことです。

しかし、そのように神さまがしてくださることの“程度”をはかることができる人間がいるのでしょうかと、預言者は問うています。神さまの御心とみわざは、わたしたち人間の想像を絶するものではないでしょうか、と訴えているのです。

「見よ、国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、天秤の上の塵と見なされる。島々は埃ほどの重さも持ちえない。レバノンの森も薪に足りず、その獣もいけにえに値しない。主の御前に、国々はすべて無に等しく、むなしくうつろなものと見なされる。」

ここにも明らかに、神さまと地上の物事や人間のわざとの間の比較があります。神さまは大きい。しかし、地上の物事や人間のわざは、神さまと比べると、小さい、ということです。

「国々」とは、人間の・人間による・人間のための“国家”のことです。政治において司られる国です。政治とは、まさに人間のわざです。人間の・人間的なるわざです。

しかし、その“国家”のことを、聖書はあるいはこの預言者は「革袋からこぼれる一滴のしずく」にすぎないと語っています。あるいは「天秤の上の塵」にすぎない、としています。

「天秤」とは、あるものの重さと他のものの重さを比較する道具です。国家は天秤の上の塵である、ということは、神と国家は比較にならない、ということでしょう。片方に神さまがお乗りになっている天秤のもう片方に“塵”を乗せても、その天秤は全く動かないわけです。

「島は埃(ほこり)」。とても軽い、ということでしょう。

「森は薪(たきぎ)」。燃やしてしまえば灰になる、ということでしょう。

ここで明らかに語りうることは、この預言者は、国家というもの、あるいは、この世界の大自然というものを、それはとても小さいものであり、軽いものである、というふうに言い切ってしまっている、ということです。その意図は何なのであろうかと、考えざるをえません。

なぜ“考えざるをえない”のかと言いますと、少なくともわたし自身の感覚からすれば、とてもじゃないが、こんなことは言えない、と感じるからです。

国が小さいでしょうか。そんなふうに言われると、ぎょっとします。国は、ものすごく大きなものです。そのような感覚が、少なくともわたしには、あります。

あるいは、島が埃でしょうか。森が薪でしょうか。そんなふうに言われると、わたしには、全くついていくことができません。わたしにとっては、ものすごく大きなものです。非常に重いものです。

ですから、そのわたしの観点から言わせていただきますならば、国が小さいとか軽いとか、取るに足らないどうでもよいものだ、というふうに感じているようなときは、わたしたちは、表の空気をよく吸うべきであると思います。自分の家から出て、いろんな人の顔を見て、その人々の語っていること、考えていることに、よく耳を傾けてみるべきです。

都会にいる人は、満員電車に乗ったり、人ごみの中に出かけたりしてみるべきです。そうするほうがよいと思います。この世界が軽いとか、人間が小さいとか、そのようなことをもし感じているならば、そうしてみるべきです。

そうしてみると、おそらく、何か圧倒されるものがあります。そして、そこでおそらく気づかされることは、「この世界は小さい」ということではなく、逆に「わたしは小さい」ということなのです。電車の中ですし詰めになってつぶされているのは、このわたしです。世界が小さいのではなく、このわたしが小さいのです。そのことを感じるはずです。

「いや、わたしは、そのようなことを、まだ少しも感じない」ということであるならば、それを感じられるようになるまで、家の中に入るべきではないかもしれません。徹底的に世界の大きさを味わい尽くす必要があると、わたしは思います。

この世界に対する、あるいはこの地上の現実に対する過小な評価は、非常に危険な結果をもたらすことがありうるからです。

それは、牧師たちが、説教の中で、時々やってしまうことです。牧師たちはしばしば、世界は小さいと語ります。「わたしたち人間はウジ虫のような存在である」などと語ります。しかし、それは、非常に危険な言葉づかいです。

たとえ、それに類するような言葉が聖書に出てくることがあったとしても、です。それはいわば神さまだけが語りうる言葉なのであって、わたしが語るべき言葉ではない、ということです。

世界は小さくありません。人間は小さくありません。そのことを、わたしたちは、わきまえ知るべきです。

しかし、です。ここで預言者がたしかに語っていることは、神さまとの比較においてではありますが、世界は小さい、人間は軽い、ということです。そのことも、わたしたちは、認めなければなりません。

だからこそ、です。わたしたちは、この預言者がこのように語っている意図は何か、ということに、関心をもつべきです。

その理由に関して考えうることについては、先週と先々週の説教の中で、すでに触れました。一言でいえば、この預言者の発言は、明らかに歴史的に特別な背景をもっている、ということです。

それは、紀元前6世紀のイスラエルの民に起こった“バビロン捕囚”という出来事です。要するに、彼らは、自分の国を領土もろとも失ったのです。戦争に負けたのです。そして、捕虜として連れて行かれました。

彼らが長年にわたって自分自身で築き上げてきた町も、文化も、お城も、共同体の秩序も、宗教も、です。それらすべてを、彼らは失ったのです。彼らにとって、自分の財産と言いうるものは、すべて無くなってしまったのです。

このことを前提として考えていった先に、思い至ることがあります。それは何か。

国は小さい、世界と人類は軽い、神の存在の大きさ、神の御心の大きさと比べるならば、それらのものは取るに足りないとか、それは「革袋からもれる一滴のしずく」だなど、このように語られているときに思い描かれている“国”の第一の意味として考えられるのは、他ならぬ彼ら自身がかつては持っていたが、しかし、たしかにそのすべてを失ったものである、ということです。

また第二の意味として考えられるのは、今申し上げた同じことの裏面にあることです。この“国”の中には、彼らから国家とその財産を奪い取った敵国のことも含まれているのではないかということです。彼らが失った国が“国”であるとするならば、彼らから国を奪った国も“国”なのだ、ということです。

ですから、ここで考えられることは、この御言葉を語る者にも、聴く者にも、初めから分かっていたことは、彼らにとっての“国”は、小さいはずがないものであった、ということです。ものすごく大きなものです。彼らが命をかけても守ろうとしたものです。喉から手が出るくらい欲しいものだったです。それが彼らにとっての“国”です。国家であり、国土です。

しかし、だからこそ、と言いうる面もあるわけです。彼らにとっては、まさに、喉から手が出るほどに欲しい、命をかけても取り戻したい国家と国土であったからこそ、神さまは、あえて「軽い」と言われている。「無に等しい」とさえ言われている。そのように、わたしたちは、この箇所を読むことができるのです。

わたしたちにも、かつて自分で持っていた、ものすごく大切なものが何かあるかもしれません。しかし、無くなってしまった。奪われた、あるいは、失ってしまった。そういうとき、わたしたちは、何を考えるのでしょうか。そして、そのようなものを、神さまから、それは小さいものだとか、軽いものだと言われたときに、わたしたちは、何を感じるのでしょうか。そのようなことを、いろいろと考えてみることが大切です。

彼らにとって“国”は、決して小さいものではありませんでした。そのことは彼ら自身がいちばんよく分かっていることでした。しかし、それを神さまは、あえて軽いと言われ、小さいと言われているのです。その理由として思い当たるのは、以下のようなことです。それは、わたしたち自身の問題として考えてみれば、何となく分かることです。

わたしたちは、この世界の現実に向き合わなければなりません。いろいろな問題に立ち向かって行かなければなりません。そのときに、です。しかし、それらのものが、わたしたちにとって、あまりにも大きすぎると感じてしまう。とても面倒くさいし、何かとても恐ろしいものである、というふうに感じてしまうとき、わたしたちは、思わずひるんでしまう。前に進んで行けなくなるのです。

そのようなときに、です。

わたしたちに、神さまから「世界は小さい。人間は軽い」と言ってもらえるならば、そのとき、わたしたちは、慰めを得ることがありえます。「取るに足りない」とまで言われることには、なお抵抗があります。しかし、それらのものは、神さまの目から見れば、小さいものですよ、と言ってもらえることは、なるほど有り難いことです。

あなたがたは、その程度の小さな現実、小さな問題にならば、立ち向かっていくことができるのではないですか。そういうメッセージとして、この個所を受けとることができるように思われます。

もうひとつ、逆のケースについても考えておきます。わたしたちが世界の大きさに圧倒されてしまう、という場合、恐怖心のほうではなく、むしろ反対に、そのあまりの大きさにうっとりと魅了されてしまうことがある、ということです。

そして、そのときしばしば起こることは、神を忘れる、ということです。この世界がまさにわたしのすべてであって、神さまは何か小さいものだ、と感じる。教会のやっているようなことは、全く取るに足らない。この世のやっていることのほうが大切だと感じる。

これはわたしたちが陥りやすい罠です。わたしたちがこの世の中でうまく行っているときにこそ陥りやすい罠です。

この罠から逃れるためにこそ、この世界は小さい、ということを、神さまから教えていただく必要があるのです。

ヨハネによる福音書には、次のように書かれています。

「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

ここで「世」とは何でしょうか。神の御子であられ、また神の永遠の御言そのものであられるイエス・キリストというお方が来てくださったその場所のことをヨハネは「世」と呼んでいます。その「世」の中に先ほどの預言者イザヤの語っていた「国々」や「島々」も含まれると考えてよいでしょう。そういうものを含んだ一切が「世」です。

ヨハネの語る「世」の意味は、決して“人間”だけではありません。神さまがお造りになった、文字どおりの“世界”全体、すなわち、天地万物が含まれています。わたしたちが生きているこの世界、この現実の中に、永遠の御言である神の御子、救い主イエス・キリストが来てくださったのです。

それが、ヨハネのクリスマスメッセージです。

「世は言を認めなかった」とあります。この世の人々、世界の現実は、神の御子イエス・キリストを“わたしの救い主”として受け入れようとはしません。簡単には受け入れません。むしろ明確に拒絶します。

しかし、それにもかかわらず、イエス・キリストは、あえて、この世に来てくださいました。

イエスさまという方は、福音書を読んでいけばすぐに分かりますように、ご自分のことをちやほやしてくれる相手のところだけに出向いていく、というような方では、全くありません。

むしろ、反対する人の中にも、堂々と割って入られる方です。どんな反対があっても、拒絶があっても、おそれることなく、ひるむことなく、堂々と割って入られる方です。それこそが、聖書の語る、福音書の描く、主イエス・キリストのお姿です。

また、マタイによる福音書には、イエスさまのご降誕の際にユダヤの王ヘロデがそのことをかぎつけ、その救い主とやらを殺してしまえと思い立ち、二歳以下の幼子を探し回り、それを殺したことが記されています(マタイ2・1〜15)。国家権力の横暴さというものが、そのような仕方で示されています。

しかし、神の力と比べれば、国家権力などおそれるに足りない。そのように信じなければ、乗り越えていけない壁があり、成し遂げられないわざがある、ということも、聖書が語っている真実です。

救い主は、力をもって、来てくださいました。そして、この世界の中に、救い主に反対するこの世の中に、堂々と割って入ってくださり、イエス・キリストを信じて生きる人々を、呼び起こしてくださいました。

それこそが、神の御子イエス・キリストがこの地上の世界に来てくださったことの意味なのです。

(2005年12月11日、松戸小金原教会主日礼拝)