2005年12月4日日曜日
声をあげよ、良き知らせを伝える者よ
イザヤ書40・9~11、ヨハネによる福音書1・6~9
「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。力を振るって声をあげよ、良い知らせをエルサレムに伝える者よ。声をあげよ、恐れるな、ユダの町々に告げよ。」
今日もまた、イザヤ書40章とヨハネによる福音書1章を開いていただきました。いずれも先週学んだ個所の続きです。
この御言葉の意味をお話しする前に、先週お話ししましたことを一点だけ繰り返します。それは、イザヤ書についてのさまざまな解釈の中で、わたし自身が選んでいる立場はどういうものかという点です。
それは、このイザヤ書40章以下を書いたのは、紀元前6世紀の預言者であるとする解釈の立場である、ということです。
紀元前6世紀は、神の民イスラエルに「バビロン捕囚」という大きな出来事が起こった時代です。彼らは、バビロンという国に神の民(当時の南ユダ王国の人々)が捕虜として連れて行かれました。捕囚の期間は、約七十年に及んだと言われます。しかし、その人々が解放され、祖国に帰ることができました。それが一連の出来事です。
そのバビロンの捕囚の出来事、そして捕囚からの解放という出来事こそがこの個所の歴史的な背景であるとする解釈の立場を、わたしは選んでいます。これは広く受け入れられている立場です。
ですから、わたしは、今日の個所も、まさにそのようなことが書かれているという前提に立って読んでいきたいと願っております。捕囚からの解放、またその解放の喜びが表現されている個所である、ということです。
それは、イスラエルの民にとって、まさに「良い知らせ」でした。また、それは「喜びの知らせ」でした。喜びの知らせ、良い知らせのことを、わたしたちは「福音」と呼んでよいはずです。日本語の「福音」の意味は、喜びの知らせ、よい知らせです。グッドニュースです。
また、主なる神があなたがたを奴隷状態から解放してくださるというこの良き知らせを宣べ伝えること、告げ知らせることを、わたしたちは「福音宣教」と呼んでよいはずです。「宣教」の意味は、神の救いを宣べ伝えること、告げ知らせることです。
その喜びの知らせ(福音)をイスラエルの人々に告げ知らせる「荒れ野に呼ばわる声」が来た。王のもとから走ってきた伝令役が叫んでいる。それがイザヤ書40章の状況です。
ここでわたしは、皆さんに考えていただきたい問題を、二つ出したいと思います。
第一の問題は、もしわたしたちが喜びの知らせ、良い知らせを、できるだけ多くの人々に広く、また効果的に伝えるとしたら、そのためにはどうしたらよいでしょうか、ということです。
今ならば、光の速さと同じ速度を持つ通信手段があります。インターネットやテレビやラジオなどがあります。また、昔からのやり方としては、チラシを配るとか、本を書いて出版することなどが考えられます。
しかし、いわばもっと単純で、手っ取り早い方法があります。それが、ここに出てくる「高い山に登る」という方法である、ということです。みんなのことを見渡すことができ、一度にみんなに声を届けることができる場所です。そこに立って大きな声で叫ぶ、という方法です。
ただし、ここで注意しておきたいことは、この9節の「高い山」という言葉には、先週学んだ個所に出てきた「荒れ野」(40・3)の場合に申し上げたことが再び当てはまるように思われます。
それは、ここで預言者が語っていることの中には、多分に象徴的な意味合いを含まれているに違いない、ということです。
字義どおりの地理的・物理的な「高い山」の意味だけではない。むしろ、もっと広い意味で、とにかく、できるだけ多くの人々のことを、一度に見渡すことができ、声を届かせることができる場所のことを指しているのではないか、ということです。
たとえば、わたしが今立っているこの講壇は、皆さんのことが最もよく見える場所です。松戸小金原教会の講壇は少し高い位置にあります。ここも、まさに「高い山」なのです。そのように考えることができるのです。
しかし、どうか誤解がありませぬように。講壇の高さは、人間の位(くらい)の高さを示しているわけではありません。それは完全な誤解です。
大切なことは、その高い場所がその目的にかなって効果的であるか、機能的であるかどうか、ただそれだけです。みんなの顔が見えて、一度に声を届かせることができるかどうか、です。
皆さんに考えていただきたい第二の問題を、これから申し上げます。それは、「高い山に登る」のは、誰でしょうか、という問題です。
9節に「良い知らせをシオンに伝える者」と書いてあります。高い山に登る者、登らなければならない者とは、すなわち、「神の民イスラエルに向かって良い知らせを伝える者」である、ということです。これは誰のことですか、という問題です。そのことは、この個所には必ずしも明らかにされていません。
一つの解釈の可能性は、高い山に登って、すべての民に福音を告げ知らせなければならないのは、王のもとから走ってきた伝令役自身です。
たとえば、新約聖書は、荒れ野に呼ばわる声の主は、イエス・キリストの道備えをしたバプテスマのヨハネであると解釈しています。今日お読みしましたヨハネによる福音書1・6〜9にもバプテスマのヨハネのことが紹介されています。
「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」
ここで大切なことは、ヨハネは一人であるということです。高い山に登って良き知らせを告げ知らせるのも一人であるという解釈の可能性には否定しきれないものがあります。
しかし、これ以外の解釈の可能性もあります。わたし自身は、これから申し上げる解釈を採りたいと願っております。
それは、高い山に登って、すべての民に福音を告げ知らせなければならないのは、その知らせを王の伝令役から聞いた神の民のすべてである、という解釈の可能性です。みんなで高い山に登るのだ、ということです。
それは、先週もご紹介しました別の聖書翻訳の場合に言いうることです。その聖書翻訳には、この9節は、以下のように訳されています。
「エルサレムよ、高い山に登って、福音を宣べ伝えなさい。福音を告げ知らせなさい。力の限りに叫びなさい。ユダの町に言いなさい。」
この翻訳によりますと、福音を宣べ伝える人が「エルサレム」と呼ばれています。これは、神の民イスラエル自身のことです。彼らが山に登るのです。
このほうが、わたしたちには、よく分かる話ではないかと思われます。だって、そうでしょう。王の伝令役の声だけなら、あまりにも小さな声です。大勢の人々が騒いでいる中では、全く聴こえません。
しかし、そうではなく、解放の喜びの知らせを聞いた人々全員が高い山に登り、みんなで大声を上げることであるとしたら、どうでしょうか。そのほうが、わずか数人の小さな声よりも、はるかによく響きわたります。遠くにいる人々にも聞こえます。
一人で声をあげるよりも、みんなで声をあげるほうが、はるかに効果的です。たとえば、みんなで声を合わせて讃美歌を歌うことも、ものすごく効果的です。
ですから、ここではっきりと申し上げておきたいことは、「高い山」とは、この松戸小金原教会の講壇だけではない、ということです。また、「高い山」に登るのは、福音の説教者たち、あるいは教会の牧師たちだけではない、ということです。
そうではなく、みんなで登るのです。みんなで、この福音を宣べ伝えるのです。
わたしたちの教会が、イエス・キリストの福音を、この町とこの国の人々に宣べ伝える方法も、まさにそれである、ということです。
「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む。主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる。」
この段落でまず最初に注意すべき言葉は「見よ」です。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」。何を見ればよいのでしょうか。
考えられることは、ひとつです。もうすでに、主なる神が、すぐそこまで、彼らの近くまで来てくださっている、ということです。ただし、まだ到着してはおられない。だからこそ、目を上げて、そのお方の到着を注意しつつ待ちなさいと、彼らは命ぜられているのです。
そして、この個所において次に注意していただきたいことは、彼らの前に登場されようとしている主なる神の特徴は、どのようなものであるか、ということです。
ここに記されている、主なる神の特徴は、大きく分けて二つあります。
第一の特徴は、「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」という点に表わされていることです。すなわち、ここで主なる神は、権力をもって支配する王の姿に描かれている、ということです。
第二の特徴は、「群れを養う羊飼い」です。そのお方は、「小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」、とても親切で、優しくて、憐れみ深い、弱い者の味方であるような、良い羊飼いです。
後者の特徴は、前者の特徴とは、まるで百八十度違うものであるかのようです。権力をもった存在であると共に、憐れみ深い存在でもある、というのですから。
しかし、ここに明らかにされている主なる神は、まさにそのようなお方なのであって、まことの王であられると同時に、まことの羊飼いでもあられる、と言われているのです。
わたしたちは、このお方こそが、わたしたちの救い主イエス・キリストであると信じております。イエス・キリストは、“王でも羊飼いでもあられるお方”として、父なる神のもとから、わたしたちのこの世界に来てくださったのです。
ただ、ちょっと気になることがあります。それは、次の点です。
優しくて親切で弱い者を受け入れてくださる羊飼いとしてのイエス・キリストというほうは、よく分かる話であるし、納得もできる。
しかし、権力をもって支配する王としてのイエス・キリストなどと言われると、なんとなくぞっとするし、そんなのは納得できない。
こんなふうにお感じになる方もおられるのではないでしょうか、という点です。
このことについて詳しくお話しする時間は、今日は、もうありません。しかし、この点は、ぜひ理解しておきたいことです。
それは、イエス・キリストは、ただ優しいだけのお方ではない、ということです。ふにゃふにゃではない、ということです。そうではなくて、強い方でもある。力を持った方でもある、ということです。
救い主は、力をもって、わたしたちを、まさに罪の奴隷状態から救い出してくださるのです。
力がなければ、“連れ出す”ことはできません。そのことも、事実です。
まことの力を持ったお方だけが、ひとを救うことができるのです。
そのことを覚えていただきたいと思います。
(2005年12月4日、松戸小金原教会主日礼拝)