2005年10月23日日曜日

「小さな群れよ、恐れるな」

ルカによる福音書12・22~34



これは、わたしたちの救い主イエス・キリスト御自身の御言葉です。「イエスさまの説教」と呼ぶこともできます。



イエスさまは、この説教の中で、いったい、何を言おうとしておられるのでしょうか。この説教の核心部分は、どこにあるのでしょうか。



みなさんには、ぜひ、今日の個所を繰り返して読んでいただきたいと願っております。しかし、おそらく、引っかかりをお感じになるところが、たくさんあるだろうと思います。



わたしにもあります。どうしても引っかかってしまう第一の点をズバリ語ることは難しいのですが、要するに、カラスだの、野原の花だの、草などと、このわたしを、どうか比較しないでください、と言いたくなる、ということです。



わたしは人間だ、と言いたくなります。イエスさまが語っておられることは、まるで、思い悩んでいる人はカラスよりも劣っている、草よりも花よりも劣っている、と言われているかのようです。



引っかかってしまう第二の点は、実際のわたしたちが、ここでイエスさまが持ち出されているような問題に、全く思い悩まなくて済む、というようなことがありうるだろうか、と問いたくなる、ということです。



わたし自身のことを考えてみますと、こういうことであまり思い悩まなくて済んでいたのは、今から10年くらい前までだったように思います。30才くらいまでです。すでに結婚はしておりましたが、子どもは長男が生まれるかどうかというくらいの頃までです。



その頃までのわたしは、自分の命のことで何を食べようかとも、自分の体のことで何を着ようかとも、「思い悩む」などというようなことは、ほとんどありませんでした。



しかし、です。そんなわたしでも、ほんの少しずつではありますが、だんだん変わってきたように思います。子どもが与えられたことが、やはり大きいでしょう。「何を食べさせようか、何を着せようか」という、それまではほとんど一度も考えたこともなかったような全く新しい要素が、加わってきました。



このように今日は、まず最初にわたし自身の不信仰を告白する、というところからしか始めることができませんでした。ここにわたしの罪があると、言わなければならないのかもしれません。



しかし、です。かく言うわたし自身にとって、今日の個所で、イエスさまが強く語っておられることには、まさに痛いほど、身に染みて分かる、と感じる部分もあるのです。



それは、今日わたしがいちばん最初に問いました、今日の個所の、イエスさまの説教の中心部分は、どこにあるのか、ということを考えてみたときに、見えてくる事柄です。



中心部分は、次の御言葉であると思われます。



「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。」



このイエスさまの説教は、22節に記されているとおり「弟子たちに」語られたものです。一般の不特定多数の人々、いわゆる「群集に」向かって語られたものとは一応区別されるべきです。



イエスさまの弟子である者たちは、ただ、神の国を求めるべきです。「ただ」というのは「ひたすら」という意味です。わき目もふらず、ただひたすら、という意味です。そのことに集中することです。神の国を求めることに、です。



そうすれば、です。「これらのもの」とは、食べ物や着る物のことです。生活上の必需品です。そのようなものは、「加えて」(以前の訳では「添えて」)与えられるのです。



なぜ「与えられる」のでしょうか。自分でお金を稼ぐなりして「買う」のではないのでしょうか。もらいもの、でしょうか。どこかで拾うのでしょうか。



そのような意味も、イエスさまの御言葉の中には、どこかしら含まれているような気がしてなりません。と言いますのは、先ほど申し上げましたように、この御言葉を、イエスさまは、「弟子たちに」語っておられるからです。



ただし、この場合の弟子たちとは、使徒と呼ばれるいわゆる十二人の特別な弟子だけに限定すべきかどうかは微妙です。ルカによる福音書では、すでに10章のところで、七十二人の弟子を、イエスさまが派遣しておられますので。



そして、七十二人の派遣の際にイエスさまは、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。財布も袋も履物も持って行くな」(10・3〜4)と語られ、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」(10・5)と語られ、「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(10・7)と語られました。



イエス・キリストの「弟子たち」が、です。わき目もふらずに、ただひたすら、「神の国」を求めるとき、食べる物や飲む物や着る服などが「加えて与えられる」、あるいは「添えて与えられる」とは、まさにこの意味であると、考えられるのです。



「当然の報酬」と言われています。しかし、これは自分がした仕事に対する当然の対価というような意味ではありません。伝道者は“自給いくら”で働くわけではありません。



そういうことではなくて、むしろ、使徒パウロがコリントの信徒への手紙一に書いている、「そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか」(9・7)という点こそに関係しています。これは明らかに、伝道者たちが教会から受けとる生活費を指しています。



ぶどう畑で食べてもよい実とは、商品価値のない出来損ないのものや、地に落ちてしまったものでしょう。ですから、それは、落穂ひろいのようなものである、とも表現できそうです。



ですから、それは、強いて言うなら、「腹がへっては、いくさはできぬ」というくらいの意味です。



あるいは、もっと大胆に踏み込んで言わせていただくならば、要するに、イエスさまの弟子たち、とくに伝道者たちは、教会を、そして、神さまご自身を、その意味で信頼してよい、ということです。



教会の牧師であるわたしが言うと、なんだかへんな感じになるかもしれませんが、ただひたすら、神の国を求めて献身している者たちを、教会は決して見殺しにしたり、見捨てたりすることは、ありえない、ということです。



だからこそ、です。イエスさまは、“弟子たちに”言われました。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」と。



そんな心配はする必要がないのだ、と。「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである」と。すべてをご存じである神さま御自身が、あなたがたの必要を満たしてくださるのだ、と。



そのことを信頼すべきである、ということを、イエスさまは、教えておられるのです。



「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。』」



ここで「群れ」とは、砂漠で遊牧生活を送っている、ベドウィンの人々が用いる単位であると言われます。そして、その群れが「小さい」とは、およそ20〜30ほどの家畜や獣の数を示すのだそうです。



しかし、もちろん、イエスさまが語っておられるのは、家畜や獣の話ではありません。イエスさまを信じて生きる弟子たちの話であり、信仰者の共同体としての教会の話です。ですから、「小さな群れ」という言葉から、わたしたちが、20人から30人ほどの教会の姿を連想することは、決して間違いではありません。



20人から30人。これは、じつは、わたしたち日本の教会の現時点での平均的な姿です。現在の日本の教会は、依然として、間違いなく、ここでイエスさまが言われているとおりの、まさに「小さな群れ」です。



「小さな群れよ、恐れるな」と、イエスさまは、今も、わたしたちに対しても、語っておられます。



小さいからダメ、ということはありません。どの国の教会も、最初はみな、小さな群れだったのです。その人々に、「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」と、イエスさまは、励ましの言葉を語ってくださったし、今も語っておられるのです。



この脈絡でこの話題を持ち出すことは、決して飛躍ではないと思いますので、申し上げます。



先々週川越市で開催されました、日本キリスト改革派教会第60回定期大会で決議された、重要な事項の一つとして、はっきり言って現在ジリ貧に陥っている東北中会と四国中会の諸教会を支援するために、大会所属の全教会が自由募金を行なうことになりました。その目的は牧師の生活を支えることである、ということも確認されました。



地方の教会の現状については、わたし自身も体験してきたことですので、責任をもった証言を行なうことができます。



地方の教会では、牧師たちが生活に困っている例が、いくらでもあります。地方の教会では、十年も二十年も、一人として洗礼を受ける人が現れないというケースも少なくありません。その中で、とくに若い教師たちは、伝道への意欲や自信をすっかり失ってしまうのです。それが現実です。



地方の教会は、成長しないからといって、サボっているわけではありません。また都会の教会は、地方の教会で洗礼を受けた人々によって成り立っている、という面もあります。



ですから、「都会の教会は豊かであるが、地方の教会は貧しい」というこの状況は、是正されるべきなのです。



みんなで力を寄せ合い、支え合うことが大切です。ささげる人はささげるばかり、受けとる人は受けとるばかり、という話ではありません。お互いに、支え合うのです。



わたしたちイエスさまの弟子である者たちが、教会が、「神の国」のために、喜んで自分のものを差し出し合うことが、大切です。



道は、そこから開けていくのです。



(2005年10月23日、松戸小金原教会主日礼拝)