ルカによる福音書12・35~48
今日の個所は、時間的にも内容的にも先週の個所に続いております。そうであるならば、イエスさまが「弟子たちに」(12・22)語られた説教の続きであると、読むことができます。
「『腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい』」。
このようにイエスさまが弟子たちにお語りになりました。語られているのは二つのことです。
第一は「腰に帯を締めなさい」です。
第二は「ともし火をともしていなさい」です。
この二つのことは、ひと続きに語られていることではありますが、今日は一応区別して考えておきます。
第一に語られていることは「腰に帯を締めなさい」です。これは明らかに、昔のユダヤ人たちがエジプトから脱出して、約束の地カナン(現在のパレスチナ地方)に移住した、あの出エジプトの出来事を連想させる言葉です。出エジプト記には、次のように記されています。
「今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。・・・それは、この月の十四日まで取り分けておき、イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。・・・それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」(出エジプト記12・2〜11)。
これで分かることがあります。昔のユダヤ人たちは、腰に帯を締めて、それで何をしたのかと言いますと、肉を焼いて食べたのだ、ということです。
そのようにして腹ごしらえをしました。そして、その後、出エジプトの旅に出かけたのです。つまり、腰に帯を締めて肉を食べたのは、彼らの旅支度のためでした。
このことから、ある人は、ここでイエスさまが弟子たちに向かって語っておられるのは「新たなる出エジプト」の勧めである、と解説しています。そのとおりであると、わたしも思います。
しかし、それでは、イエスさまの弟子たちは、何から、あるいは、どこから、脱出するのでしょうか。
この問いの答えとして考えられるのは、先週学んだ個所に記されていた事柄です。「命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(12・22)です。この種のことで思い悩むことそれ自体からの脱出、生活上の不安や恐れからの脱出です。
昔のユダヤ人が腰に帯を締めたのは、丈の長い服がだらだらして足もとにまとわりつくのを防ぐべく、腰のあたりで服を縛り、歩きやすくするためでした。
つまり、その目的は、ただ一つ、歩くためです。前に進んでいくためです。もはや後ろを振り向かない、という決意表明でもあります。邪魔になるものを、できるだけ整理し、取り除くためです。
ですから、それはちょうど、たとえばわたしたちが「さあ、これから力仕事をしよう」というときに、腕まくりをするようなものです。せっかく朝早く起きてアイロンをかけたワイシャツであっても、腕まくりしてしまえばクシャクシャです。
それでもよい、否、そうしなければならない場面が、わたしたちの人生は、いつか必ずあるわけです。
たとえば、の話です。自分の子どもが川に落ちて、おぼれている。それを親である者が「自分の服が汚れるから」という理由で助けない、ということが、ありうるでしょうか。
そんなことは、あるはずがない。あってよいはずがありません。
第二にイエスさまが語られているのは「ともし火をともしていなさい」です。
そして、これに続く36節以下の個所で、イエスさまが、この「ともし火」とは何のともし火なのか、「ともし火をともす」とはどういう意味なのかということを、説明しておられるのです。
「『主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばにいて給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。』」
これは、たとえ話です。このたとえ話の中で、イエスさまが描き出しておられるのは、結婚式の終わった後の場面です。
わたしがとくに興味深いと感じるのは、このたとえ話には、新郎も新婦も出てこないことです。登場するのは、新郎または新婦の友人です。その人が「主人」と呼ばれています。
その主人が、友人の結婚式の席から帰ってきて戸を叩く。そのときに、家のともし火をともしていて、戸をすぐに開けることができるように、主人の帰りを待っている人のようでありなさいと、イエスさまが弟子たちに語っておられるのです。
どうしてでしょうか。それを理解するためのポイントは、この主人が結婚式から帰ってきたばかりの人である、ということでしょう。
普通に考えてみて、当然、この主人は、美味しいものを食べて、あるいはおそらく少しお酒なども入っていて、とても幸せな気分で帰ってきているはずです。
ですから、この主人は、たいへん上機嫌です。だからこそ、と言えるでしょう。主人が家に帰ったときに、家の戸の鍵が開いていて、明かりもついていて、家のみんなが待ってくれていた、という場合には、どうなるか。
イエスさまのご説明によりますと、その主人は、なんと気前のよいことに、自分で帯を締めて、自分の帰りを待っていた人々に、「さあさあ、お前たちも食べなさい」と鼻歌でも歌いながら給仕してくれるのだ、というのです。
逆のことも考えておくべきでしょう。帰ってきたとき、戸の鍵が閉まっている、明かりは消えている、家の人はすっかり寝静まっているという場合には、どうなるか。そのときには機嫌が悪くなる。そういうことも考えられるわけです。
身勝手といえば、こんな身勝手な話は、他にないほどです。そんなふうに、自分の気分次第で生きられては、困る。はなはだ迷惑であるとお感じの方もおられるでしょう。
しかしまた、これこそ現実の人間の姿であり、わたしたち自身のありのままの姿である、と感じてくださる方も、おられるのではないでしょうか。
ただし、ここでよく注意しなければならない点があります。それは、このたとえ話の中に登場する、この「主人」とは、明らかに、まさにこのたとえ話を語っておられるイエスさまご自身のことである、という点です。これは忘れられてはならないことです。
「『家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。』」
ここで「あれ?」と思われる方もおられるでしょう。話の内容が、かなり変わってきています。思いがけない時に来るのは「泥棒」なのか、それとも「人の子」なのかということも、なんとなく不明です。
この話を聞いている弟子たちも、話の中身が、よく分からなくなってきたのではないでしょうか。それで、ペトロが次のような質問をしたのだと思います。
「そこでペトロが、『主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか』と言うと、主は言われた。」
イエスさまの答えは、以下のようなものでした。しかし、あまりきちんとした答えではありません。どこを読んでも、ペトロの質問に対する直接的な答えが、見当たりません。はぐらかされているような感じさえしてきます。
「『主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。』」
ここでイエスさまが何を語ろうとしておられるかを理解するためのキーワードは、二つあると思います。
第一のキーワードは、「主人が帰ってきたとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」という中の「〔主人の〕言われたとおりにしている」です。
第二のキーワードは、「主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕」という中にある「主人の思いどおりにしなかった」です。
ここに二人の僕が登場します。一人目は、主人の言われたとおりにして、主人から信頼され、全財産を管理するという大きな仕事を任されることになった、幸せな僕です。
二人目は、主人の思いどおりにしなかったので、ひどく鞭打たれる僕です。この二人の僕の違いは、明白です。
ただし、注意しなければならないと感じることがあります。それは、「主人に言われたとおりにすること」と「主人の思いどおりにすること」とは、いくらか違うことではないか、ということです。
「主人に言われたとおりにすること」とは、主人が実際に口に出して語った“命令”に服従する、という意味でしょう。
しかし、そのことと、主人の心の中の“思い”を理解し、そして、その主人の“思い”どおりにする、ということは、区別されなければならないことであり、「言われたとおりにすること」を越えたことであり、またそれよりも深いことであると思われます。
イエスさまが弟子たちに求めておられることは、絶対服従ではありません。強制労働ではありません。そのような重苦しく、堅苦しいことであるかのように理解されるべきではありません。
むしろ、求められていることは、イエスさまの御心をよく知る、ということです。逆に言えば、イエスさまの御心をよく知る者、よく知ろうとする者こそが、イエスさまの弟子である、ということでもあるでしょう。イエスさまがペトロの質問に直接お答えになっていないのは、このことを分からせようとしておられるからではないでしょうか。
そして、イエスさまの御心の本質は、喜びです。なぜなら、この主人は、結婚式の喜びの祝宴から帰って来て、みんなをエプロン姿で喜ばせてくださる、そういうお方であると言われているのです!
わたしたちにとって、最も重要なことは、このお方の喜びを十分に知りつくし、味わいつくすことです。そのために必要なことは、何でしょうか。
一言で言えば、たくましい想像力です。よく考えることです。頭と心を、十分に用いることです。そのようにして、わたしたちが十分かつ不断に用いて主の御心はどこにあるのかを豊かに思いめぐらし、理解し、そして信じることです。
そのことこそが、今日の最初に出てくる、「ともし火をともしていなさい」という御言葉の真意なのです。
(2005年10月30日、松戸小金原教会主日礼拝)