2005年11月20日日曜日

「神の国は一粒の芥種(からしだね)のごとし」

ルカによる福音書13・10~21



今日の個所は、わたしたちにとって本当に興味深いものです。イエスさまというお方は、この地上の世界に、何のために来られたのか、あるいは、何をするために来られたのかということが、よく分かる個所です。



「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。」



いつものとおり、と言いますか、イエスさまの通常業務として、と言いますか、それをどう表現するかはともかくとして、です。イエスさまは、ユダヤ教の安息日である土曜日ごとに、ユダヤ教の会堂(シナゴグ)で行われる礼拝で、聖書に基づく説教を担当されていました。



その様子は、今まさにわたしたちがここでささげている礼拝と本質的に同じものであると考えていただいて構いません。



いわば、説教者が違うだけです。その日の説教を、イエスさまが担当されていたのです。



「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。」



注目していただきたいのは、ここでルカが「十八年間も病の霊に取りつかれている女」という言葉でこの女性を紹介していることです。



「十八年間も病気に苦しんできた女」とは、書かれていません。「病の霊に取りつかれている女」と書かれています。とても意味深長な感じがします。



とくに気になる言葉は「病の霊」です。これは、どういう霊でしょうか。霊(プネウマ)は「精神」とも訳すことができます。ひとを病気にする霊であるということは間違いないでしょう。しかし、それは、いわゆる“精神の病気”でしょうか。そのような解釈もあるようです。



しかし、よりよい解釈は、13・11に書かれている二つの事柄を、一つのこととして読むことです。



つまり、「そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた」という第一の事柄と、「腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった」という第二の事柄は、じつは一つのことである、と理解する、そのような読み方です。



これは、おそらく、わたしたちにも、身に覚えのある事柄です。



すでにお話ししておりますとおり、わたしも、慢性の腰痛もちです。ですから、腰痛のことは、よく分かります。この病気の正体が分かります。その苦しみも分かります。



はっきりしていることがあります。それは、この病気は、決して小さなものではなく、わたしたちの人生を左右するほどのものになりうるものだ、ということです。



しかしまた、もう一つ、この病気は、かなりの部分において、わたしたちの生活習慣と深く関連しているものである、ということです。



たとえば、わたしが「腰が痛い」と言いますと、皆さんは「先生、運動不足ですよ」と必ず言われるでしょう。その関連性は、あまりにも明白だからです。



そういうことと、今日の個所に出てくる女性の問題とは、どうやら、深く関わっているように思われてなりません。



わたしの腰は、痛いのだと。曲がったまま、伸ばすことができないのだと。もちろん、本当に、そうだったに違いありません。そのことに、わたしは何かケチをつけようとしているわけではありません。



しかし、です。この個所を読むかぎり、彼女の腰痛は、生まれつきのもの、先天的なものではなさそうです。むしろ、後天的なものではないか、また、そこにおそらく生活習慣的な要素がかなりの部分含まれているのではないかと思われます。



その場合に、です。自分の腰は治らない、もう絶対に治らないのだと、この女性が確信を持ってしまっていた。悪く言えば、そのようにすっかり“思い込んでしまっていた”という面があったのではないかと、考えざるをえないのです。



そのように考えることができる根拠として挙げることができるのが、先ほど触れました、ここでルカが書いている「病の霊に取りつかれていた」という言葉であるというわけです。



わたしは病気なのだ、もうこの病気は治らない、絶対に治らないのだ、と思い込むこと。そのような確信を持つこと、またその確信自体に心の中がすっかり束縛されてしまうこと。その確信の奴隷状態になり、心の悪循環に陥ってしまうこと。



そのことを、ルカは「病の霊に取りつかれる」という言葉で表現しているのではないかと、思われてならないのです。



18年間も、です。一つのことを、思い込む。わたしの病気は治らない。わたしの人生は変わらない。わたしの不幸は変わらない。



でも、そんなことを、わたしたちが信じる必要は、ないはずです。信じるべき対象は、神さまだけです。病気を信じるのでしょうか。あるいは、わたしたちを不幸に導く悪魔を信じるのでしょうか。そんなものは、信じなくてもよいはずです。



「霊に取りつかれる」とは、心の中で、わたしたち自身が、何らかの精神的・心理的な悪循環に陥っている状態が、少なくとも含まれている、と考えてよいでしょう。



わたしたちは、そういう状態から、救い出される必要があるのです。



「イエスはその女を見て呼び寄せ、『婦人よ、病気は治った』と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。」



ここに書かれていることを、わたしたちは、もちろん、イエスさまが行われた、特別で奇蹟的ないやしのみわざとして理解すべきです。イエスさまが手を置いてくださったことによって、この女性の腰が、ぴんと伸びたのです。



しかしまた、いわばもう一つの点として、ぜひ注目していただきたいのは、イエスさまが語られた御言葉の内容です。「婦人よ、病気は治った」。



わたしがとくに問題にしたいことは、この御言葉をわたしたちがどのように理解すべきか、という点です。



この点で、わたしはこのたび自分で調べてみて分かったことですが、イエスさまがここで語っておられる「病気は治った」という中の「治った」には、ギリシア語の文法で言うところの“受動態過去完了”という時制が用いられている、ということです。



そして、その時制が用いられているときには「○○されてしまっている」というふうに訳さなければならない、ということです。



ですから、イエスさまの御言葉を正確に訳すと、「あなたの腰は治ってしまっている」とか、「あなたの病気は、とっくにいやされてしまっていますよ」というふうになる、ということです。



そうであるならば、です。ここに次の問題が生じます。この女性の腰がいやされたのは、“どの時点”か、という問題です。



彼女がいやされたのは、イエスさまがその手で触れてくださったそのとき、その瞬間であると読むことも、当然できます。



しかし、もう少し別のニュアンスもあるのではないだろうかと思われます。「あなたの腰は、もうとっくに治っていましたよ」と。もう大丈夫ですからね、伸ばしてみてくださいよ、と。



イエスさまは、そのようにして、この女性の“心”を、悪循環から救い出されたのです。



「ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。『働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。』」



この場面でこのようなことを言い出す人のことを、(できるだけ口にすべきでない言葉ではあると思いますが!)“バカ”と呼んでおきます。やめてくれ、という感じです。イエスさまは「偽善者」と呼んでおられます。どちらがひどい言い方かは、分かりません。



わたしが最も不思議でたまらないのは、なぜこの会堂長は、「安息日に病人がいやされたこと」に、腹を立てなければならなかったのでしょうか、という点です。



逆ではないでしょうか。喜ぶべきでしょう。病人が、いやされたのですから。



その安息日が、十八年間の苦しみから解放された、その記念日になったのですから。



それに、よく考えてみれば、ここは、この会堂長が責任をもって管理している“会堂”です。宗教施設です。神を礼拝する場所です。



また、その日は、安息日でした。神さまの御言葉が語られ、聞かれる日です。



そういう日、そういう場所で、一人の人が、長年の痛みから解放され、やっと安らぎを得たわけです。とてもよいことではありませんか。それなのに、この会堂長は、なぜ腹を立てなければならなかったのか。全く理解に苦しみます。



「安息日はいけない」という掟が、いかに彼らを束縛していたかが分かります。



そしてまた、その日に一人の人がいやされたことに腹を立てるこの人のことを、イエスさまが「偽善者」という厳しい言葉で非難されたことも、分かります。



「しかし、主は彼に答えて言われた。『偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。』こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群集はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。」



この個所において、そして今日の個所全体を通して、「束縛からの解放」というテーマがはっきりと示されていることに、きっとお気づきいただけるでしょう。



救いとは、「束縛から解放されること」を意味しているのだ、ということです。心も、体も、全く自由にされること。それが救いです。



ですから、「安息日はいけない」というこの会堂長の言葉も、ある意味で、まさに何かに束縛されている人の言葉である、ということです。戒律のとりこになっているのです。



イエスさまの場合は、むしろ、安息日だからこそ、です。この日にこそ、救いが起こり、いやしが起こるのです。



そうでなければ、どういうことになるのでしょうか。この会堂長に逆に聞いてみたいことは、安息日ごとに、あなたの会堂で行われている礼拝の中では、本当に何も起こらないのですか、ということです。いやしも起こらない。救いも起こらない。何も起こらない。そんなことで本当によいのですか、と聞いてみたいです。



イエスさまの場合は、会堂の中で、です。安息日にこそ、です。礼拝において、です。いやしと救いが起こるのです。いやしと救いを求めて、ひとがイエスさまのもとに集まるのです。



「そこで、イエスは言われた。『神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。』また言われた。『神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。』」



ここには、二つのたとえ話が語られています。「からし種」とは、文字どおり辛い、あのからし(マスタード)の種です。「パン種」とは、パン生地に入れる酵母のことです。



からし種も、パン種も、たいへん小さいものです。それがどこにあるかが分からない。パン種に至っては、パン生地に混ぜてしまうものです。



二つのたとえ話に共通しているテーマは明らかです。「小さなものが大きくなる」ということです。あるいは「小さなものの影響で全体が大きくなる」ということです。



また、からし種にせよ、パン種にせよ、両方に共通している「種」という言葉が持っているイメージから、語りうることがあります。



それは、要するに、“埋めるもの、埋め込むもの”であり、“中に入れるもの”であり、“浸透する、浸透させるもの”です。



思い当たるのは、神の救いであり、神の御言です。それらのものは、わたしたちの外側にあるべきものではありません。外側にあるうちは、神の御言葉は、まだ全く聞かれていないのと同じです。



そのとき、わたしたちは、じつは、まだ、救われてもいないのです。わたしの心まで、救いが届いていないのです。



大切なことは、中に入ってくること、です。わたしたちの存在の内側へと入ってくること、内部に浸透してくること、これが「種」という言葉が持っているニュアンスであると語ることができるでしょう。



小さな種が蒔かれ、土の中に入り込む。その種が「成長して木になる」のです。また、小さなパン種によって「全体が膨れる」のです。



神さまの救い、神の御言葉が、わたしたちの現実の世界、日常生活の中に、入ってくる。わたしたちの体験的現実の中に、入ってくる。深く浸透してくる。そして、それによって全体が成長する。



もしそうだとすれば、「神の国」とは何でしょうか。それは要するに、わたしたちの日常生活である、ということです。



わたしたちは「神の国」と聞くとどうしても、“向こうの世界”とか“あの世に行くこと”をイメージしてしまいます。しかし、それは、イエスさまがお語りになる「神の国」とは、異なるものです。



イエスさまの「神の国」は、わたしたちの日常生活です。



わたしたちの心の中に、神の御言葉が浸透する。それと共に、救いが浸透する。それによって、わたしたち自身が成長する。わたしたちの生活が「神の国」へと造りかえられていく。



こういうことが起こるのです。



ですから、ここで大切なものは“言葉”であるということが、おそらくかなり分かっていただけるでしょう。



イエスさまが救いの御言葉を語られ、その手で触れられる。それによって、十八年間も「わたしは絶対に治らない。この病気は絶対に治らない」と、そう確信していたこの女性が、いやされました。



イエスさまの御言葉を聴いて信じる。言葉が種のように心の中に蒔かれ、埋め込まれて、浸透する。わたしのものとなる。そのときに、その人に“救い”が起こるのです。



言葉がひとを変え、現実を変え、世界を変えるのです。



わたしたちが教会でしていること、また牧師がしていることは、ごく小さなことです。外から見ると、またわたしたち自身の率直な感覚としても、教会で行われていることは、ごく小さなことです。なんでもないことです。



しかし、です。このごく小さな営みが、一回一回の礼拝とか、わたしたち一人一人が心で神を信じるといったこのごく小さな営みが、大きなものになっていきます。わたしたち自身の人生を変え、また世界を変えていきます。



わたしたちは、そのように、信じてよいのです。



(2005年11月20日、松戸小金原教会主日礼拝)