2005年11月27日日曜日

わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ


イザヤ書40・1~8、ヨハネによる福音書1・1~5

今日から教会の暦で言いますところのアドベントに入ります。イエス・キリストのご降誕をお祝いするクリスマスの準備をはじめる季節になりました。

そのために、今日、聖書を二個所開いていただきました。旧約聖書のイザヤ書40章と、新約聖書のヨハネによる福音書1章です。このところを、アドベントの期間に学んでいきたいと願っております。

イザヤ書40章のほうを、まずご覧いただきたいと思います。とても印象的な言葉をもって始められています。

「慰めよ、わたしの民を慰めよと、あなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と。」

イザヤ書というこの書物には、いろいろな非常に異なる解釈の立場があります。その中で、わたしたちはどの立場かを選ぶべきか、という問いを避けて通ることは、できません。

しかしそのようなことについて詳しく述べる時間は、今日はありません。一つのことだけを述べておきたいと思います。わたしが選んでいる解釈の立場は何か、ということだけを申し上げておきます。

わたしが選んでいる立場は、イザヤ書の40章以下は、紀元前6世紀の時代に生きた預言者が書いたと理解する立場です。それ以上のことは、今日は申し上げません。

そのように考える場合に語りうることは、紀元前6世紀に起こったバビロン捕囚という出来事が、この個所の記述の歴史的背景である、ということです。

それではバビロン捕囚とは何かということについても、お話ししなければなりませんが、詳しく説明している時間はありません。

ごく簡単に言うならば、神の民イスラエルが南北の二つの国に分裂した後、エルサレムを首都とする南ユダ王国が隣国バビロンとの戦争に負け、エルサレム神殿は焼き払われ、城壁は破壊され、国民の多くが捕虜としてバビロンに連れて行かれ、七十年もの間、強制労働の苦役を強いられたという出来事です。

ただし、誤解がありませぬように。わたしたちが旧約聖書を読んでいくうちに分かってくることは、そのような出来事は、彼らを不意に襲った不幸、予期せぬ災難というようなことではなかった、ということです。

そうではなく、聖書が証ししていることは、明らかに、この出来事は、彼ら自身が神の前で犯した罪に対する神御自身の裁きであり、刑罰として起こったことである、ということです。そのように、聖書には、はっきりと書かれています。

しかも、それは、いわゆる彼らの自業自得であるとか因果応報であるというような意味ではありません。それはむしろ、彼ら自身が、明確に、自覚的に犯した罪に対する正当な裁きです。

それでは彼らはどういう罪を犯したのか、という点も重要です。しかし、そのことも、今日は触れないでおきます。

そのことではなく、今日、皆さんに考えてみていただきたいと願っております第一のことは、次のようなことです。

七十年という時間の長さは、どれくらいのものだろうか、ということです。

皆さんの中には、その長さがどれくらいのものであるか、そこで何が起こるのかということについては、体験的にご存じの方がたくさんおられます。みなさんは、七十年待ちました、ということを、何か持っておられるでしょうか。七十年忍耐しましたと。わたしには無理だろうなあと感じます。それほどの長さです。

神の民イスラエルは、七十年間のバビロン捕囚を忍耐することができたのでしょうか。苦しくなかったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。途中で嫌になり、やけくそにならなかったのでしょうか。そんなことはありえないでしょう。

しかし、その捕囚期間が終わりました。あなたの苦役の期間は終わりました。あなたの罪は許されました。あなたは故郷に帰ることができます。

そのことをわたしの民に伝えてください。そして、そのことによってわたしの民を十分に慰めてくださいと、主なる神が、紀元前6世紀に生きたこの預言者に命じたのだということです。それが、まず最初の段落に書かれていることです。

第二に考えてみていただきたいことは、この預言者の言葉を聞いた人々の心は、どのように動いただろうか、ということです。

うれしかったのではないでしょうか。しかしまた、反面、いろいろと複雑な心境ということもあったのではないでしょうか。七十年の間に体験したこと、これもまたこのわたしの人生そのものであって、今さら否定することができない、それはそれで受け入れるほかはないものであるという意味で、いま以上に新しいものを求める気が起こらない、今さら故郷に帰る理由が分からない、という人々もいたのではないでしょうか。

「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される。」

「呼びかける声がある」と訳されています。もちろん、これでも構いません。しかし、もう少し身近に感じられる訳はないものかと思わされます。わたしが参考にした聖書翻訳では、「ねえちょっと聞いて。だれかが叫んでいますよ!」というふうなニュアンスで訳されていました。

想像しうるのは、王のもとから伝令役を命ぜられた人物が走ってきた場面です。その人が大勢集まっている人々に大声で何かを伝えようとした。その声にその大勢の中のある人が気づいた。そして他の人々に「しっ、ちょっと静かにして。何か声が聞こえます。騒いでいると、何を言っているか聞こえないじゃない」と注意している様子が思い浮かびます。

その声の主である伝令役が伝えようとしていることは、わたしたちの主なる神のために砂漠の真ん中に道を作りましょう、ということです。彼らの故郷にもとあったエルサレム神殿に通じる道を作りましょう、という意味かもしれません。そのような解釈が可能です。

ただし、「荒れ野」と訳されている砂漠という言葉には、字義通りの地理的な砂漠のことだけではなく、多分に象徴的な意味も含まれている、と考えられます。つまり、この言葉には「人生の荒れ野」、「人生の砂漠」という意味も含まれていると思われます。

そのような、人生と心の問題、すなわち、わたしたちのまさに“砂漠のように荒れ果てた人生と心”の問題を、この御言葉の中に読み取ることは許されているでしょう。

「谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」とありますが、この訳はかなり疑問です。谷や山や丘が、自分自身で身を起こしたり、身を低くしたりできるかのようです。

しかし、ここはおそらくそういう意味ではなく、人間のなすべき仕事を指しています。つまりこれは、谷の部分に土を入れて高くしたり、山や丘を削って低くしたり、でこぼこ道はなめらかに、狭い道は広くする。そのような、わたしたち人間が汗水流して取り組むべき土木作業のことです。

そのようにして、一つのまっすぐな道を作りましょう。そういう道をわたしたち自身が作りましょう、という意味ではないかと思われるのです。

それは何のための道か。主のための、わたしたちの神のための道です。主なる神の栄光を「肉なる者」、すなわち全人類が、またわたしたち一人一人が、仰ぎ見るための道です。つまり、それは、主なる神がそこをお通りになり、わたしたち一人一人のところまで来てくださるための道です。そのようにしてわたしたちと主なる神とが出会うための道です。

そういう道を、ある意味で、わたしたち自身が作らなければならない、ということは、本当のことです。すべて備えられている。道はだれかが勝手に作ってくれる。その道を、わたしたちは、ただ勝手に通るだけだ、というようなことでは、決して済ますことができない何かがある、ということは、本当のことです。

この「荒れ野に道を作ろう」と呼びかける“声”を、新約聖書は、イエス・キリストの道備えをした洗礼者ヨハネのことを指していると解釈しています。大切なことは、ヨハネは人間である、ということです。人間の働きが、何らかの仕方で、評価されるべきです。

わたしの人生は荒れ野であり、砂漠であると、今まさに自覚している人が、そこにただ座り込んでしまってよいでしょうか。道を作ろう、一緒に作ろうという声が聴こえてきたときには、耳を傾けなければならないのではないでしょうか。そして立ち上がって、その事業に参加することが求められているのではないでしょうか。

「呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」

この段落に書かれていることは一つの会話であると考えられます。「呼びかけよ、と声は言う」とありますが、これもまた別の聖書翻訳には「ねえちょっと聞いて。だれかが何か話しているよ」というようなニュアンスで訳されています。だいぶ違う感じがします。

その聖書翻訳によりますと、その会話の内容は、こんな感じです。

「みなさんにお話ししておきたいことがあります。」
「それは何ですか。」

そして、この人の話が始まります。

「人は草だ、ということです。人間を信じることは、野の花を信頼するようなものです。しかし、草は枯れ、花はしぼむではありませんか。」

そのようなものを信頼することができるでしょうか、できないのではないでしょうか、という意味です。「肉なる者」とは人間のことです。人間は、草に等しいものである。草は枯れる。花はしぼむ。人間も枯れる、人間もしぼむ、と言っているのです。

ですから、これは、やや皮肉っぽく見るならば、ある意味で、人間というものに対する不信感を煽るような言葉である、というような読み方が、可能かもしれません。

わたしたちも人間です。わたしも人間です。わたしは草でしょうか。「あなたは草にすぎない」などと言われると、だんだん嫌な気持ちがしてきます。腹が立ってきます。

しかし、腹を立てる前に考えてみたいことがあります。それは最初から申し上げていることです。この個所の歴史的背景として想定することができる、バビロン捕囚の現実とはどのようなものであったか、という点です。

過酷な労働を強いられること、七十年。自由の利かない、何ものかに束縛された生活が延々と続く。そのような中で、人間を信じることができなくなるのは、無理もないことでしょう。人間を信じなさいということのほうが、無理な話です。

人は草である。草は枯れる、花はしぼむ。このことは、長年にわたって、他の人間からひどい目に遭わされてきた人にとっては、ある意味で、慰めの言葉になりうるものかもしれません。人間を信じるということを強制されることには、もはや堪えられないと感じるであろう人は、じつは、たくさんいるのです。

しかし、それにもかかわらず、です。最も恐ろしいことは、だれのことも、何のことも信じられなくなることです。この世の中にあるもの、生きている人間すべてに絶望することです。それは、現実にはしばしば起こることであるだけに、恐ろしいことです。

だからこそ、でしょう。だれのことも、何のことも「信じられない」と告白せざるをえない状況に置かれ続けた人々に向かってこそ、預言者は、神の御言葉に信頼を置くことの確かさ、大切さ、力強さ、そしてその永続性を語っているのです。

「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。すべての人があなたを裏切っても、です。だれも信用できない、人間を信じることができない、という思いの中に沈み込んでしまったときにこそ、です。神さまの言葉は、それだけは、信用できます、あなたを決して裏切ることはありません、ということです。

そのように、わたしたちも、信じてよいのです。

今日、もう一つの個所として読みました、ヨハネによる福音書に、次のように書かれていました。
 
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」

なんとなく難解で、謎めいた言葉です。しかし、これは、よく知られていますように、神の御子イエス・キリストのご降誕の奥義を表現しているものである、ということです。

ここに出てくる「言(コトバ)」が、神の永遠の御子イエス・キリストを表わしています。イエス・キリストは、“初めにあった言”であり、“父なる神と共にあった言”であり、“神”御自身であられる言である、ということです。

人間を見限ったり、みくびったり、見下げたりすることは、もちろん、できるならば、しないほうがよいことです。すべきではないことです。

しかし、そうは言っても、です。長年にわたってだれかに裏切られてきた人、だれかに踏みにじられてきた人にとって、だれのことも、何のことも信じられない、という不信感のとりこになってしまうことは、ありうることです。無理もないことです。

だからこそ、そのときに、です。信頼できるものが“一つでも残っている”ということが、ありがたいではありませんか!

神の言葉は、それだけは、信頼できるのです。わたしたちがそういうものにすがりたいという気持ちを持つことは、よいことではないでしょうか。

イエス・キリストは、わたしたちが永遠に信頼し続けてもよい、永遠の神の言葉です。わたしたちが人間不信の泥沼の中で、世界に絶望してしまうときにも、わたしたちの命と心を、しっかりと支え続けてくださいます。

イエス・キリストは、そのために、来てくださったのです。

(2005年11月27日、松戸小金原教会主日礼拝)