2005年11月6日日曜日

「何故正しき事を定めぬか」

ルカによる福音書12・49~59



今日の個所も、わたしたちの救い主、イエス・キリスト御自身がお語りになった説教の続きです。



三つの段落を続けて読みました。三つの段落に三つのことが書かれています。三つのことを、無理にこじつけるつもりはありません。しかし、深いところでは、互いに関係しあっているように思われます。



まず、最初の段落に記されていますのは、イエスさまが地上に来られた目的は何か、ということです。



「『わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。』」



非常に驚くべきことが書かれています。はっきりと記されている、イエスさまが地上に来られた目的は、二つです。



第一は、地上に「火」を投ずるためです。



第二は、地上に「分裂」をもたらすためです。



最初に言われていることのほうから考えてみたいと思います。ここで言われている「火」の意味は何か、ということです。二つほどの可能性が考えられます。



第一の可能性は、神の審きを意味する「火」です。その例は、旧約聖書の中にいくつかあります(詩編66・12、イザヤ43・2、ゼカリヤ13・9、マラキ3・2など)。



第二の可能性は、預言者の口から語られる神の言葉を意味する「火」です。この例は、エレミヤ書の以下の二個所(5・14、23・29)にあります。



「見よ、わたしはわたしの言葉をあなたの口に授ける。それは火となり、この民を薪とし、それを焼き尽くす」(エレミヤ書5・14)。



「このように、わたしの言葉は火に似ていないか。岩を打ち砕く槌のようではないか、と主は言われる」(エレミヤ書23・29)。



イエスさまが語っておられる「火」とは、火のような“神の審き”のことか、それとも、火のような“神の言葉”のことか。いずれの可能性も否定しきれません。



むしろ、これは一つのことではないかとも考えることができそうです。イエスさまが地上に来られた目的は、火のような神の審きを伝えるために、火のような神の言葉を語ることである。これでどうでしょうか。



どちらにしても、同様に言いうることがあります。



それは、今日の個所でイエスさまが「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」と語られていることによって、まさに明らかにされているのは、火を投ずるために来られたこの方こそが、あのバプテスマのヨハネが語った「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」(ルカ3・16)という預言の成就として来られたお方である、ということです。



ということは、ヨハネが語った「火」、つまり、来るべきキリストは「聖霊と火で、洗礼をお授けになる」という場合の「火」とは「神の御言」を指していると語ることもできるようになるでしょう。



さて、第二の件に移ります。第二番目に、イエスさまが来られた目的として語られていますのは、地上に「分裂」をもたらすためである、ということです。



これは、どういう意味でしょうか。かなり物騒な言葉です。要らぬ誤解を招きかねない言葉であると思われてなりません。イエスさまの意図は何かを、よく考える必要があるでしょう。



52節以下のところでイエスさまが引き合いに出しておられるのは、明らかに、いわゆる家庭内戦争のことです。父と子、母と娘、嫁としゅうとめ。ここに夫婦のことが語られていないのは不思議です。しかし、安心することはできないかもしれません。



といいますのは、ここでイエスさまが語っておられることは明らかに、旧約聖書のミカ書7章に、次のように記されていることに基づいている、と考えられるからです。



「お前の見張りの者が告げる日、お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる。隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも、お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り、娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ」(ミカ書7・4〜6)。



預言者ミカが描き出しているのは、間違いなく、近親憎悪というべき何かです。「安らう女」とは、妻のことでしょう。このように距離的・物理的に、あるいは心理的・精神的・生理的に最も近いところに生きている者たちが、現実の場面では、最も激しくいがみ合うのです。



しかし、このミカの預言には、続きがあります。「しかし、わたしは主を仰ぎ、わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる」(ミカ7・7)。



これで分かることは、預言者ミカが描き出している近親憎悪的な家庭内戦争の解決の道は、ただ一つ、主なる神を信じる信仰のみによる、ということです。



そしてまた、このことを別の角度から言えば、主なる神を信じる信仰が、家庭内戦争の原因になることもありうる、ということです。



イエスさまが語っておられることも全く同じであると思われます。マタイによる福音書には、「こうして、自分の家族の者が敵となる」(10・36)という、これもまた、たいへん厳しいイエスさまの御言葉が記されています。



イエス・キリストに従って信仰の道を歩むか、それとも、家族の一致を重んじて信仰を棄てるか。わたしたちは、このようなできれば避けて通りたいと誰もが願うであろう嫌な選択肢を突きつけられる場面に、遭遇します。



家族の中で自分一人だけが信仰を与えられ、教会に通っているという方々の苦しみや葛藤は、理解できないものではありません。



しかし、イエスさまは、わたしたちに、その二者択一の前にあっては、どっちつかずの中立的な立場などありえない、ということを、はっきりと示されています。これこそが、イエスさまがもたらされる「分裂」の意味なのです。



「イエスはまた群集にも言われた。『あなたがたは、雲が西に出るのを見るとすぐに、「にわか雨になる」と言う。実際そのとおりになる。また、南風が吹いているのを見ると、「暑くなる」と言う。事実そうなる。偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。』」



この段落でイエスさまが語っておられる御言葉の対象は、54節に記されているとおり、「群集」です。イエスさまは、弟子たち以外の人々(「群集」も当然含まれる)に対しては、たとえを用いてお語りになる、ということが、すでに記されていました(8・10)。ここでイエスさまが語っておられるのも、たとえ話です。



しかしまた、このたとえ話は、ユダヤ人たちにとっては、ごく常識的で当たり前のことです。きわめて現実的なたとえ話です。パレスチナ地方の地形を考えると、すぐに分かることです。



パレスチナ地方の西側には、地中海があります。ですから、雲が西に出ると、海の上でたくわえた雨が、彼らの上に降ってくるのです。



また、南風は、サウジアラビアやアフリカなどの砂漠地帯、また赤道の方面から吹いてくる熱風です。イスラエルが暑くなるのは、当然です。



ところが、です。「偽善者よ」とは明らかに、イエスさまの説教を聴いている群集のことです。偽善者よ、あなたがたは、そのような天候についての知識を持っているではないか、ということです。



それなのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか、と語っておられます。この話のつながりを、よく理解する必要があると思います。



このたとえ話においてイエスさまが語ろうとしておられることのポイントは、要するに、原因と結果の関係という問題である、と理解することができます。



雲が西に出ると、雨が降る。南風が吹くと、暑くなる。そうであるならば、です。



今や、あなたがたの目の前には、このわたしがいる。まことの救い主、神の御子イエス・キリストが立っている。このわたしが神の御言葉を語り、さまざまな奇蹟を行い、救いのみわざを行い、現実に救われている人々がいる。



この因果関係を、あなたがたは、どうして見分けることができないのかということを、イエスさまは、彼らに問いかけておられるのです。それは、「今の時」はどういう「時」なのかという問いかけでもあります。



「今の時」に起こっていることは何かと。このわたし、救い主イエス・キリストが来ている「時」であり、イエス・キリストの周りに“神の国”が実現しはじめている「時」である、ということを、どうして分からないのかと。



それは同時に、このわたしが来た、というこのことと、このわたしのもとで現実に起こっている救いの出来事との関係を、あなたがたは、どうして理解できないのか、という問いでもあります。その因果関係は「西に雲が出れば雨になる」というほどに、明らかなことではないか、ということです。



これは、わたしたちにも当てはまることでしょう。



わたしたちが教会に通うようになるよりも前と今、あるいは、イエス・キリストを信じるようになるよりも前と今とは、全く同じでしょうか。何も変わらないでしょうか。



もし、ほんの少しでも何かが変わってきているのだとしたら、その“原因”は何か。あるいは何の“力”が、わたしたちに働いているのでしょうか。このことを正しく見分けることが、わたしたちにも求められているのです。



「『あなたがたは、何が正しいかを、どうして自分で判断しないのか。あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。』」



今日の説教のタイトルは、この第三段落の最初の御言葉から採りました。ただし、文語訳です。正確には、「何故みづから正しき事を定めぬか」です。



この最初の御言葉においてイエスさまが語っておられることは、明快です。わたしたち人間は、何が正しいことであり、何が間違っていることであるかという判断を、自分自身でしなければならない、ということです。



ただし、そのことをイエスさまは、問いかけという仕方で語っておられます。どうして自分で判断しないのか。どうして、そのような基本的なことさえできないのか、と。



そしてまた、イエスさまは、そのことを、わたしたち人間がしなければならないのは、わたしたちの犯した罪によって心や肉体に傷を受けた人によって告訴され、現実の裁判が始まる“前”である、ということを、明らかにしておられます。



「役人のところ」とは、現実の裁判が行われる場所のことです。そのような場所に行く前に「途中でその人と仲直りするように努めなさい」とは、訴えている原告側がなすべきことではなく、訴えられている被告側の人、つまり、罪を犯した人のほうがなすべきことです。



イエスさまが語っておられるのは、そのような意味のことです。傷を受けた側の人に、「告訴を取り下げてあげなさい」と言われているわけではありません。黒いものを「白」と言ってあげなさい、という話ではありません。



求められていることは、罪を犯した人自身が、自分で何が正しいかを判断し、反省し、悔い改めることです。



死んでお詫びするというのはダメです。お詫びしなければならないのは、生きている間です。自分の罪を悔い改めることも、神さまに赦していただくことも、生きている間になされなければならないことなのです。



ここに至って、最初の段落でイエスさまが語っておられたことをもう一度持ち出すことが、意味を持つでしょう。



イエスさまが来られたのは、地上に火を投ずるためであり、また、分裂をもたらすためである、とありました。それは、何の秩序も脈絡も無い暴動を起こすこととは、全く違います。



イエスさまの目的は、ただ一つ、イエスさまの御言葉に従って、主なる神を信じる信仰によって生きる人々を、罪の中から救い出すことです。そのようにして、信仰と不信仰を厳格に区別することです。



神の国とは、イエス・キリストを通して語られた神の御言葉が支配する、現実の国です。そこには、真の正義があり、自由があり、慰めがあり、喜びがあります。



だからこそ、わたしたちが神の国に入るためには、罪の問題が解決されなくてはなりません。



イエス・キリストによる罪の赦しと救いが必要なのです。



(2005年11月6日、松戸小金原教会主日礼拝)