2005年12月18日日曜日

言は肉となってわたしたちの間に宿られた


イザヤ書40・18~26、ヨハネによる福音書1・14~15

クリスマス礼拝を目前に控えて、今日もまた、待降節(たいこうせつ)の礼拝としてささげております。

イザヤ書40・18〜26に書かれていることは、先週まで学んできたことの続きです。今日の個所は、特に、わたしたちにとっては比較的理解しやすい内容であると思います。問題となっていますことは、前回とほぼ同様のことです。同じような内容が繰り返されていると言えます。どういう話題かということを、最初に申し上げておきます。

それは、一言でいいますならば、神さまと人間との大きさの比較です。神さまは大きな方である。しかし、人間は小さなものである。神さまとの比較において、神さまは大きいけれども、人間は小さい。また、この世界は小さい、ということを語ること。これが今日の個所全体の内容であり、文脈であるということです。そのように理解していただきたいと思います。

しかしまた、先週の個所との比較において、今日の個所には、特別な強調点が置かれている問題もある、ということも事実です。それは何なのか、ということを少しずつご説明していきたいと思います。

「お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか。職人は偶像を鋳て造り、金箔を作ってかぶせ、銀の鎖を付ける。献げ物にする桑の木、えり抜きの朽ちない木を巧みな職人は捜し出し、像を造り、据え付ける。」

ここに“偶像”という言葉が、はっきりと出てきます。人間が、わたしたちが、その手でつくる像の問題です。論点は、非常にはっきりしております。いわゆる偶像礼拝の問題です。偶像を造ったり拝んだりすることの問題です。それがここに取り上げられています。旧約聖書の中に出てくるモーセの十戒、とくにその中の第二の戒め、「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」という戒めに抵触する問題です。

わたしたちは、偶像を拝んではなりません。自分のために刻んだ像をつくってはなりません。しかし、誤解は早く解いておいたほうがよいと思います。かたちあるものすべてが悪である、というようなことを言いたいわけでは、決してありません。そのようなことを言い出したら、わたしたちは、この地上で生きていくことはできません。地上のすべてのものは、かたちあるものです。それが悪いなどということを、聖書は語っておりません。

“偶像”とは、一言でいいますと、宗教的な目的に用いるために造られる像です。それ自体を拝んだり祀ったりするためにつくられる道具の総称です。また、しかも、それを、宗教教団が信者に売って、それを拝ませるというようなことをする。そういうことのためにつくられるものです。そしてまた、それは、たいていの場合、高い値段で売られます。

その偶像の具体例が、今日の個所に出てきます。それは、木や金属で作られていました。そして、その上に、金箔がかけられていました。あるいは、銀の鎖がとりつけられていました。そのような仕方で、きらびやかに飾り立てられていました。しかしまた、それは、外側のメッキがはがれると、中の木が出てくる、あるいは、何が出てくるか分からない、というふうなものでもある、ということです。ここに書かれているのは、そのような偶像があったという歴史的な事実であるというべきです。

しかし、これは、先ほども言いましたように、宗教的な目的で刻まれ、つくられる像のことです。すべてのかたちあるものは悪であるということを言いたいわけでは決してない、ということは、繰り返し申し上げておきます。

その偶像に対して、またそれをつくる人々に対して、預言者は、次のように語るのです。「お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか」。この預言者の言葉の意図として考えられることは、いわゆる反語です。

あなたがたは偶像を造る、という。それは、神さまのお姿に似せたものを造る、という。だからこそ、神さまのかたちをしているそれを拝め、というわけだ。しかし、あなたがたは、それが神さまのかたちに似ていると言う。しかし、あなたがたは本当に、神さまの姿を見たことあるのですか、という問いであると言ってよいわけです。

見たこともない(と思われる)神さまに似ているとか、なんとか、そのこと自体、本当にそうなの?どういう理由でそんなことがいえるの?こういうふうに問いかけがなされているわけです。

ですから、これは反語です。預言者の意図は、だれひとりとして神さまのお姿を見たことがある人などいない、ということです。そして、だからこそ、神さまのかたちに似せて何かをつくるというようなことは、だれにもできないし、これはそういうものだとあなたがたが言っていることのすべてはウソである。こういうことを、はっきりと言おうとしているのです。

しかし、ここにはまた、考えていけば行くほど、わたしたちの心の中にある非常に深い落とし穴、またその中の闇のようなところに入っていくような気がする問題があります。そもそも偶像の問題というものには、まずだれかが神さまに似せて何かをつくるということがある。次に、これは神さまに似ているものだから拝め、と言われる。そして、それを信じる人々が出てくる、というような一連の問題があるわけです。

しかしまた、その中に潜んでいる問題は、そういうふうにしてつくられた、これはそういうものであると言われながら差し出される偶像は、実際に見るとたしかに、わたしたちの目には魅力的な何かであるし、わたしたちの心を魅了する何か、あるいは幻惑するような何かである。偶像とは、まさにそのようなものとしてつくられているのだと言わなければならないのです。

中身は分かりません。しかし、外側はキンキラキン。銀の鎖がかかっている。そういうものである。また、それは「神さまに似ている」と言われる。そういうものとして差し出され、受け取ったとき、それを「拝みたい」という思いにさせられるような何かでもある、ということです。そういうものでなければ、人はそれを信じようとしないし、受け取ろうとしない、ということでもあるわけです。

ですから、預言者も、またおそらくわたしたちも、偶像の問題については、実際の場面では、いろんな反論を受けるのです。「これを拝んで何が悪いのか。これはよいものだ」というふうに、人々は感じるのです。わたしたちだって、そういう気持ちにさせられることがあるかもしれません。すごくきれいなものであるとか、それが人を魅了する力を持っていることは理解できることである、など。身に覚えのあることが多いと思います。

そしてまた、あと一歩踏み込んで言いますと、それが人の心を魅了する、まさに魅力をもっているものである、ということが、はっきりするならば、それはわたしたちにとって、ある意味で役に立つものなのです。

心を奪われて、うっとりして、「いいものだ」と感じることができる、というものであるならば、それ自体が目的になる、ということです。

それがもし仮に、たとえばわたしたちが天国に行って、神さまとお会いして、そのとき自分が手にしている偶像が神さまとは似ても似つかないものであるということが、後から分かったとしても、です。それでもいいと思える何かである。それが偶像の姿でもある、ということです。

自分が手にしている偶像それ自体が美しいものであり、いいものである、ということであるならば、です。神さまと似ていなくても、それはそれでいい、ということにもなってしまいかねないのです。

今この手の中に持っている、目に見える美しいもののほうが、はるかに、わたしたちにとって役に立つ。目に見えない神さまの存在などというものは、そもそも、実はいないのではないか、というようなことまで考えはじめてしまう。役に立たない、今実際にお会いすることのできない神さまよりも、今手に持っているこの美しいものを神として拝むほうが、わたしたちにとって有益である。こういう気持ちにさせられることは十分にありうることなのです。

わたしたちだって、かつてはそうだったかもしれません。今だって、そういう思いから抜け出ることができないでいるかもしれません。手にしている、目の前の、美しいもの、よいもの。それがたとえ偶像と呼ばれるようなものであっても、一向に構わない。わたしたちがそういう思いにさせられるということは、十分にありうることなのです。

しかし、そのようなことを預言者も、おそらく分かった上で、真剣に、真正面から一つの問いを問いかけているわけです。それは、どういう問いなのかということを、見て行きたいと思います。

「お前たちは知ろうとせず聞こうとしないのか。初めから告げられてはいなかったのか。理解していなかったのか、地の基の置かれた様を。主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる。地に住む者は虫けらに等しい。主は天をベールのように広げ、天幕のように張り、その上に御座を置かれる。」

これと同じ問題が、25~26節にも出てきます。

「お前たちは、わたしをだれに似せ、だれと比べようとするのかと、聖なる神は言われる。目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。」

天地万物をお造りになった方がおられる。それは誰ですか?偶像ですか?あなたの目の前にある、あなたが手の中に持っている、その偶像ですか?その偶像がこの世界を造ることができましたか?そんなことはできないでしょう。そういう問いかけがある、と言ってよいと思います。

神さまという方がおられる。しかも、その方は、この世界を、造ったら造りっぱなし、放ったらかしにされるのではなく、お造りになったあとも、これをちゃんと守り、治め、育て、養ってくださる。そういうことを、あなたがたは知らないのか、という問いかけがある、ということです。

もちろん、そういうふうに問われたからといって、実際に偶像をつくったり拝んだりしているような人たちが、それをやめようというような気持ちになるかどうかは、分かりません。

しかし、預言者が言おうとしていることは、はっきりしています。それは、あなたのその手の中にあるその小さな偶像にこの世界をつくることができましたか、という問いです。そんなことはできないはずだ。また、そのことはあなたがたがいちばんよく分かっているはずだ。そういう問いかけがある、と言ってよいと思います。

26節の「天の万象」とは、星のことをとくに表わしています。夜空に光るあの天の星のことです。それをだれが創造されたかをあなたがたは分かっていますかという問いかけがあります。そして、「それらを数えて引き出された」とは何のことを言っているのかといいますと、一つ一つ星を呼び出して、名を呼んで、一つ一つそれをお造りになった、ということです。神さまは、あの星を、一つ一つお造りになったのです。それくらいの大きな力を持った方なのです。

ただし、ちょっと気になる言葉が出てきます。22節に出てくる「地に住むものは虫けらに等しい」という言葉です。これは、たとえ聖書の御言葉であっても、神さまの御言葉であっても、なんとなく聞き捨てならないという気持ちにさせられる、非常にびっくりする、なんとなく解せない言葉であると思います。

ただ、しかし、もちろん、ここは、預言者の意図を、正しくくみとるべきであると思います。読み方のポイントは、一つ前に出てくる文章、「主は地を覆う大空の上にある御座に着かれる」にあります。この御言葉との関連で、先の御言葉は読まれなければならないのです。

“主”とは、神さまのことです。主なる神さまが、空の上の椅子に座っておられる、というのです。そのような様子を想像することができます。天高いところに神さまがおられ、そこで椅子に座っておられるのです。

そこから見て、です。そこから見て、地上に住んでいる人々が、そのように見える、という話です。

新共同訳聖書では「虫けら」と訳されています。他の訳を見ますと、「バッタ」というのがあります。「地に住む人はバッタです」と、その聖書翻訳には訳されていました。

つまり、ここで語られていることは、高いところにおられる神さまの目から見て、地上に住む人々はバッタのように見える、ということだけです。

これは、ある意味で、事実です。

高いところならばどこでもよいわけですが、たとえて言うならば、東京タワーとか、観覧車とか、富士山とか、飛行機の中など。わたしも、飛行機にはもちろん何度か乗ったことがあるのですが、初めて乗ったときにやっぱりそう思いました。昇っていくと、下が見え、人間の姿がだんだん小さく見えます。バッタに見えたかどうかは別問題ですけれども、まあだいたい、なるほど、そんなようなものに見えます。そのように見える、ということは事実です。

そして、そのときに、やっぱり思ったわけです。「ああ、あんなに人間って小さいのか」と、です。そういうふうに、おそらくみんな思うのです。そして、わたしたちが日常生活を送っているあの生活の場所、自分の家とか町なども、非常に小さいものだと感じます。上から見ると、そう見えます。

日常的にわたしたちが悩んだり苦しんだりしていること、兄弟げんかとか夫婦げんかとか、そういうふうなことも、ああ、あんなに小さいところで行われている小さな問題なのか、というふうに感じる。

高いところから見ますと、そういうことが、わたしたちには、なんとなく分かるのです。そして、それは事実です。

それは、しかも、それほど悪い意味でもなく、ある種の解放感として、わたしには感じとられたわけです。いつも自分を支配している苦しみや悩みは小さいものなのだと感じられて、解放感を味わった、ということを、今、思い起こします。みなさんもおそらくそういうことを感じられたことがあるのではないかと思うのです。

しかし、しかし、です。

これは、わたしにとっては一瞬のことでした。最初にわたしが飛行機に乗りましたのは高知県にいたときで、高知空港から飛び立ったものですが、羽田空港に降りるのは一時間後です。昇ったら、はい降ります、という案内があります。すぐに降ります。

降りたら、また人間の姿が大きく見えてきます。町が大きく見えてきます。わたしたちが毎日悩んでいる事柄や問題が、やっぱり大きく感じられるようになってきます。

ですから、上から見ていたときにはちょっと解放感を味わいましたけれども、また現実に引き戻されたなあ、という思いにさせられたわけです。

それでいいと思います。はっと我に返らされます。

ですから、そういうことを実際に感じた者として申し上げておきたいことは、以下のことです。

第一に、人間を“虫けら”呼ばわりすることは、やっぱり、あまりよろしくないと思います、ということです。それがたとえ聖書に出てくる言葉であるとしても、わたしたちがそれを何か人間の尊厳を冒すような仕方で、わたしたち自身の言葉として語ることはよいことではないだろう、ということです。

実際の人間は、虫けらではありません。人間は人間です。人間はバッタでもありません。人間は人間です。この点は、一歩も譲ることはできません。

しかし、第二のこととして申し上げておきたいことは、神さまの目から見たら、また、高いところから見たら、人間はバッタのように見える、という事実が、ただその事実だけが、ここに述べられているのだ、ということです。人間を見くだしたりバカにしたりするような意味では、決してありません。差別的な意図ではありません。

訳としては「虫けら」よりは「バッタ」のほうがよいと思います。「バッタ」も、神さまの立派な創造作品です。わたしたち人間と同じくらい大切な、創造の作品です。

語られているのは、ただ、大きさの問題です。上から見ると、人間は、バッタくらいの大きさに見えます、ということです。そういうふうに、この個所を理解していただきたいと思います。

ただ、同時に、23節以下に書かれていることを見ますと、そこに書かれているこの預言者が語っている言葉は、たしかに、一つの批判的な要素を含んだ言葉である、ということも事実です。

「主は諸侯を無に等しいものとし、地を治める者をうつろなものとされる。彼らは植えられる間もなく、種蒔かれる間もなく、地に根を張る間もなく、風が吹きつけてこれを枯らす。嵐がわらのように巻き上げる。」

要するに、一つの国を治める国家権力者、あるいは、国の指導者、リーダーと呼ばれるような人々、そういう人々に対して、一つの強い規制が、ここに働いている、と理解することができます。

そういう人々がもしかしたら抱くことがある、ある種の全能感もしくは万能感、「わたしは何でもできる」という思い、この力を用いて、この地位と権力を用いて、何でもできるのだ、というふうに思い込むこと。そういう人間の思いに対する強い批判がある、ということです。そのことも事実です。

高いところにおられる、そこからすべてを見ておられる、神さまの目から見たら、どんなに偉ぶっている人であっても、「バッタ」にすぎない。ただの人にすぎないし、小さな人にすぎない。そういうふうに言われているのです。

まして、です。その権力者が、良い政治家ならばともかく、圧政や暴政を強いる政治家であるならば、なおさらです。そういう者を恐れることはない、ということです。その相手もまた、わたしたちと同じ人間であり、神さまの目から見たら「虫」にすぎないと言われているのです。だからこそ、わたしたちは、恐れることなくそのような相手に立ち向かうこともできるのです。

今日も、最初にヨハネによる福音書を読みました。次のように書かれていました。

「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

これは、ヨハネのクリスマスメッセージです。「言(ことば)」すなわち、神さまの永遠の御言であられ、また神の御子であられるイエス・キリストというお方が、「肉となった」と語られています。

「肉」とは、人間のことです。わたしたち人間の、この肉体のことです。神の御言が、この肉体をまとって、人間になられた、ということです。

神の御子が、神が、人間になられた。これがクリスマスの出来事です。しかし、このことも、先ほどまでお話ししてきました、イザヤ書40章の内容と呼応するかたちで理解していただきたいと願っております。

とくに注意していただきたい点は、決して神さまは、何か悪い意味で、上からこの世界とわたしたち人間を“見おろされて”、あいつらは悪いと言い、世界は邪悪であり、人間は邪悪であるなら、だから、あいつらを助けてあげよう、救ってあげよう。何かそういう仕方で、上から来てくださった、というふうに、もしわたしたちがこの事柄を理解しているとしたら、考え直してみなければならないだろう、ということです。

つまり、ここで問題にしたいことは、なんとなく押し付けがましい感じで、助けてあげよう、救ってあげよう、というような仕方で、神の御子が人間になられ、上から下へと降(くだ)って来てくださった、というふうに、御子のご降誕の意義をとらえることが本当に正しいかどうか、ということです。

そのようなとらえ方は正しくないと、わたしは申し上げたいわけです。むしろ、事実は全く逆であると言ってよいでしょう。

ヨハネによる福音書3・16に出てくる次の御言葉は、たいへん有名です。

「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)。

わたしたちの神さまは、“この世を愛される方”です。この地上の世界、わたしたちが生きている現実、人間そのものを、愛してくださる神です。そのことの意味は何なのか、ということを、わたしたちは、よくよく考えてみる必要があると思います。

「あれは悪いやつだから、矯正してやりたい」とか、上から見おろして「問題を片付けてあげましょう」とか、そのような意味ではないように思います。

神さまは、この世を見くだしてはおられない、ということを申し上げておきたいと思います。むしろ、心から愛しておられるのです。

このようなことは、わたしたちにとっては、言わずもがなのことかもしれません。しかし、現実には、非常にうさんくさい“救い主”は、たくさん出回るわけです。それこそが、まさにわたしたちにとっての偶像です。偽物です。しかし、それは、人の目にはまことに美しく見え、人をだますものでもあります。きらびやかで、人の心を魅了する力を持っているものです。

お金の力、地位や名誉の力、高いビル。それさえあれば何でもできる、と言い張る人々がいます。わたしたちの目の前に登場します。

しかし、わたしたちの現実は、どうでしょうか。そのことによく気づく必要があります。神さまの目から見れば、人間は「バッタ」です。わたしたちは、もっと謙遜になるべきなのです。

ですから、このことから言えば、「言が肉となった」すなわち、神の御子イエス・キリストが人間になってくださった、ということは、イエス・キリストが、神さまの目から見た「バッタ」の一匹になってくださった、ということでもある、ということです。

イエス・キリストは、わたしたちと同じ、地上に生きる存在となってくださり、わたしたちを助け、寄り添ってくださる救い主となってくださいました。

そこに、真の「謙遜」の模範が示されているのです。

(2005年12月18日、松戸小金原教会主日礼拝)