ルカによる福音書13・1~9
この個所で、イエスさまは、全く同じ言葉を二度繰り返しておられます。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。
これは聖書に限らず、一般的にも同じように言いうることですが、繰り返されている言葉には強調がある、と考えてください。そこに主題(テーマ)があります。今日の個所の主題は、悔い改めなければ滅びる。みんな滅びる、ということです。
ただし、です。わたしは、ここに但し書きを置いておきます。今日の個所は、表面的にさらっと読むだけでは理解できないところである、と思います。注意深く読まなければ、読み間違えてしまうでしょう。
とくに注意深くありたいことは、この御言葉を、イエスさまご自身はどのような意味で語っておられるか、ということです。悔い改めるべきことの具体的な内容は何か、です。いったい、わたしたちは“何について”悔い改めなければならないのでしょうか。
「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。」
「ちょうどそのとき」とは、どういうときでしょうか。これと全く同じ言葉(ちょうどそのとき)が13・31にも出てきます。同じ言葉が繰り返されています。繰り返されている言葉には、強調があるのです。
それは、イエスさまが、弟子たちや群集に向かって、一連の説教をしておられたときである、と理解することができるでしょう。
ここで思い起こしていただきたいのは、先週学んだ御言葉です。「偽善者よ、このように空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか」(12・56)。ここに出てくる「今の時」、これが「ちょうどそのとき」という言葉の具体的な意味であると考えられます。
イエスさまは、「どうして今の時を見分けることを知らないのか」とお語りになることにおいて、あなたがたは「今の時」を見分けることができるようになりなさいと強く願っておられることは明らかです。
「今の時」とは、どういうときでしょうか。神の子、救い主イエス・キリストが地上に来られているときです。イエス・キリストを通して救いの恵みが地上にもたらされているとき、救いが実現しはじめているときです。神の国が近づいているときです。
しかしまた、そのときは人々が救いを求めているときでもあります。救いを必要としている人々があふれている時代です。
ヨハネによる福音書1・5に「光は暗闇の中で輝いている」と記されています。この「光」とは、イエス・キリストのことです。光としてのイエス・キリストは、暗闇の時代に来てくださったのです。
イエス・キリストは、弟子たちに、「今の時」を見分けることができるようになることをお求めになりました。そのときは、暗闇のときでもあります。
「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた」とあります。このピラトこそ、イエス・キリストが十字架にかけられる前に行われた裁判(不当な裁判!)の審き主です。ローマの提督ポンティオ・ピラトです。このピラトが、いったい何をしたのでしょうか。
ここに出てくる「ガリラヤ人」とは、ガリラヤ地方出身のユダヤ人、しかもエルサレムに移住していた人々のことであろうと考えられています。
この人々が殺されたようです。なぜ殺されたのかまでは分かりません。しかし、当時のガリラヤ人たちは、ユダヤ教の主流派から虐げられていた、と伝えられています。反主流派である彼らが、ローマ帝国とその支配下にあるユダヤ王国の支配者に対する政治的暴動を起こしたのではないか、というようなことが考えられています。
この事件のことを指していると言われているのが、使徒言行録5・37に紹介されている出来事です。「その後、住民登録の時、ガリラヤのユダが立ち上がり、民衆を率いて反乱を起こしたが、彼も滅び、つき従った者も皆、ちりぢりにさせられた。」
それで彼らは処刑された。そしてピラトは、ガリラヤ人たちの血をいけにえに混ぜた。この「いけにえ」とは、過越祭のときエルサレム神殿に犠牲として供えられた動物のことであろうと考えられています。屠殺された、血まみれの動物です。
ですから、ピラトがしたことは、要するに、人間の血を動物の血に混ぜた、ということです。これが、なんとひどい、なんとむごいことか、ということは、誰もが感じることでしょう。人間として、断じて許されないことです。
これで分かることは、ピラトという人は、こういうことを平気で行うことができる人間であった、ということです。全くひどい、文字どおり“人を人とも思わない”、残酷な人間であった、ということです。このポンティオ・ピラトによって、イエスさまは、十字架につけられたのです。
「今の時」とは、どういうときでしょうか。これで少し分かりました。“人を人とも思わない”人が、人を裁く人の座に着いているときです。人の道の正義がねじ曲げられている時代です。恐るべき圧政の時代です。
「イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。』」
ここに「イエスはお答えになった」とあります。ここで言いうることは、イエスさまが語っておられるのは、お答えではなく、むしろ、問いかけである、ということです。
そして、もう一つ言いうることは、イエスさまが彼らに問うておられるのは何かと言いますと、それは要するに、「思うのか」という点である、ということです。
あなたがたは、その血をいけにえの中に混ぜられるというひどい目に遭った一部のガリラヤ人たちが、ほかのガリラヤ人よりも罪深い者だったから、そのような目にあったのだ、というふうに「思うのか」。
つまり、要するに、そのような目にあったガリラヤ人たちは、いわゆる“自業自得”とか“因果応報”の死を遂げたのだと「思うのか」。
イエスさまが問うておられるのは、その点です。あなたがたは、そういうふうに思うのか。そういう考え方は正しいのか、と問うておられるのです。
そして、イエスさまは「決してそうではない」と、お答えになりました。イエスさまのところに、殺されたガリラヤ人たちについての情報を知らせてきた人々自身が持っていたと思われる、まさにこの“自業自得”だの“因果応報”だのという考え方それ自体を否定されたのです。
よく考えてみれば、そのとおりです。ガリラヤ人が殺されたこと、彼らの血が動物の血の中に混ぜられたことが“自業自得”であるわけがありません。
当時の裁判に、問題があったのです。“人を人とも思わない”ローマの提督ポンティオ・ピラトにこそ問題があり、ユダヤ人の指導者たちにこそ問題があったのです。
「『また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。」
これも同じです。シロアムの塔が倒れて死んだ。その人々が死んだのは“自業自得”であったと、あなたがたは「思うのか」と、イエスさまは、問うておられるのです。
「『言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。』」
イエスさまが警告しておられることは、その“自業自得”とか“因果応報”という考え方そのものに罪がある、ということです。そういう考え方はやめなさい、ということです。その考え方そのものを“悔い改める”必要があるのです。
このことを、わたしたち自身の問題として考えてみると、分かるはずです。なるほど、わたしたちがそのような考え方を持ち続けているかぎり、本当に見抜かなければならない問題を、見抜くことができません。
本当の問題は、どこにあるのか。本当に悪いのは誰であり、本当に裁かれなければならないのは、誰なのか。そういうことが分からなくなってしまいます。事の真相が見えなくなってしまいます。
何か事が起きたとき、それを“自業自得”と考えて、自分や個人の小さな問題にしてしまうことによって、本当の問題が見えなくなる。それによって、社会の巨悪を生き延びさせる結果を招いているかもしれません。
わたしたち日本キリスト改革派教会が重んじるウェストミンスター大教理問答を見ていただきますと、一言で「罪」と言っても、「上の人」(社会的に地位が高い人)が犯す罪は、「下の人」(地位が低い人)が犯す罪よりも「重い」と言われています(大教理問答第151問の答えを参照してください)。全く同じ、というわけではないのです。
「悔改めずば亡ぶべし」。このイエスさまの御言葉を、もしわたしたちが、ただ単にわたしたち自身の個人的な心の中の問題にしてしまうときには、おそらく、イエスさまの意図を、読み間違えているのです。
むしろ、もっと大きな問題です。社会の問題です。“自業自得”という思想によって、真の問題が隠蔽されると、社会全体が道を間違います。それによって、「皆が滅びる」。“全滅”の危機に陥るのです。
イエスさまは、“自業自得”とか“因果応報”という考えに対して、真っ向から反対されました。最も有名な個所は、ヨハネによる福音書9・1〜3でしょう。
イエスさまは、生まれつき目の見えない人の前で、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも両親ですか」と質問する弟子に対して、次のようにお答えになりました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9・3)。
本人の“自業自得”ではない。両親の“因果応報”でもない、という意味です。これらの思想を、イエスさまは、はっきりと否定されたのです。
だからこそ、です。わたしたちが悔い改めなければならないことは何でしょうか。このように考えることをやめる、ということです。この思想の呪縛から、救い出されなければならないのです。
「そして、イエスは次のたとえを話された。『ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」』」。
このイエスさまのたとえ話の中で興味深く感じるのは、ここに登場するぶどう園の主人が園丁に言った言葉の中に出てくる「もう三年もの間」という点です。
と言いますのは、イエスさまが伝道活動をなさった期間について、(それにはさまざまな計算方法や考え方があるのですが)、一般的には約三年間であったと言われているからです。
三年もの間、せっかく植えたいちじくの木に、実ができない。そのような木など、早く切り倒してしまいなさいと、ぶどう園の主人が園丁に命じた、というのです。
ところが、園丁は、いちじくをかばいました。今年もこのままにしておいてくださいと。肥やしをやってみます、そうすれば、来年は実がなるかもしれませんと。
このたとえ話の意図は明らかです。ぶどう園の主人は父なる神さま、園丁はイエスさまです。
イエスさまは、三年間待っても実をつけないダメないちじくの木を、かばってくださいます。
イエスさまにかばっていただいている「いちじくの木」とは“だれ”のことでしょうか。それは、イエスさまが何度説教しても、どんなに言葉を尽くして神の御言葉を語っても、罪を悔い改めない人のことです。イエスさまを信じようとしない人々のことです。
イエスさまは、そのような人々を、かばってくださいます。そして、忍耐強く、待っていてくださいます。
イエスさまの御心は、人が滅びることではなく、人が生きることなのです。
(2005年11月13日、松戸小金原教会主日礼拝)