ルカによる福音書4・31〜44
関口 康
今日は、少し長く、三つの段落を読みました。イエス・キリストは、故郷のナザレでは受け入れられませんでした。ルカの記述によりますと、その後、ガリラヤ地方のカファルナウムという町に移り、そこに伝道の拠点を据えられました。
その後カファルナウムは、イエスさまにとって「自分の町」(マタイ9・1)と呼ばれるほどに、まさにイエスさまの町になりました。他の町の人々に出かけて行かれても、またカファルナウムに帰ってこられるのです。
カファルナウムでイエスさまがお住まいになった場所は「シモンの家」(4・38)であると考えられています。カファルナウムには、イエスさまがペトロ(岩)という名前を授けた漁師シモンと弟アンデレの家があったのです。
イエスさまは、シモンの家にいわば居候(いそうろう)されて、その家族の人々と共に食事をされたり、寝泊りされていたのです。
そして、安息日(土曜日)ごとに、カファルナウムの会堂で行われる礼拝の中で、聖書の御言を解説する仕事(説教)をされました。そのことについて、次のように書かれています。
「イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。」
ところが、その会堂に、おそらく毎週通ってきていた一人の男が、イエスさまに向かって、大声で、次のように叫んだのです。
「ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。『ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。』」
腹を立てているようです。イエスさまがなさった説教の内容が、気に食わなかったのでしょうか。イエスさまが語られた説教の内容がどのようなものであったかは、紹介されていません。
この男性以外の人々の反応については「非常に驚いた」とだけ書かれています。大いに喜んだとは書かれていません。
しかし、「その言葉には権威があった」と書かれています。マルコは、さらに、もう一つのことを付け加えています。「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」(マルコ1・22)。
とくに気になるのは「律法学者のようにではなく」という点です。これは明らかに、イエスさまの説教に対する一つの評価です。律法学者の説教との比較があります。
イエスさまの説教には、権威があった。しかし、律法学者の説教には、権威がなかった、ということです。
カファルナウムに「会堂」がありました。それは当然、その会堂で働く律法学者たちも、同じ町の中に住んでいた、ということです。建物だけがあったわけではありません。
そして、その律法学者たちも、イエスさまがカファルナウムに来られる前からずっと、その会堂で、安息日ごとに、説教をしてきたはずです。
イエスさまの説教を聴いて騒いでいた人は「汚れた悪霊に取りつかれた男」と呼ばれています。この人は、その日だけの出席者ではなく、以前から出席していたはずです。
しかし、律法学者たちの説教は、この人から「汚れた悪霊」を追い出すことができなかった、ということです。彼らの説教は、そのような権威を持っていなかったのです。
もっと突っ込んで言うならば、彼らの説教には、人の心の中にあるものを、善きものに変える力がなかったのです。人の心の中に、悪霊に代わる聖なる霊を注ぎ込むことができなかったのです。
「イエスが、『黙れ。この人から出て行け』とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。人々は皆驚いて、互いに言った。『この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。』こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。」
イエスさまの説教は、人の心を変える力を持っていた、ということです。汚れた悪霊は、追い出されました。その人の心は、イエスさまの御言を耳にしたその日から、変えられたのです。
「イエスは会堂を立ち去り、シモンの家にお入りになった。シモンのしゅうとめが高い熱に苦しんでいたので、人びとは彼女のことをイエスに頼んだ。イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
「シモンの家」が、カファルナウムでのイエスさまの滞在場所であったと考えられるということは、先ほど申し上げたとおりです。ただし、その家に住んでいたのは、「シモンのしゅうとめ」であった、と書かれています。
「しゅうとめ」の意味は、もちろん、夫ないし妻の母親のことです。つまり、シモンは、そのときすでに結婚していて、おくさんがいたのです。子どもがいたかどうかは、分かりません。
また、その家がシモンの妻の実家だったのか、それとも、シモンの家でおしゅうとめさんも生活していたのかも、分かりません。アンデレも一緒に住んでいるようですので、シモンの家なのかもしれません。
それはともかく、シモンのおくさんのお母さんが、高い熱に苦しんでいたので、イエスさまが「枕もとに立って、熱を叱りつけられた」ところ、熱が下がり、彼女はすぐに元気になって、一同をもてなした、というのです。
興味深いですが、ややぎょっとさせられる点は、イエスさまが「熱を叱りつけられた」というところでしょう。
先ほどの「汚れた悪霊」の場合も、そうでした。「この人から出て行け」とイエスさまが命ぜられた相手は「悪霊」でした。悪霊に取りつかれている本人ではないかのようです。
現代のわたしたちには、奇異に感じられるところです。「熱、出て行け!」とでも言うのでしょうか。
しかし、いろいろと考えさせられる内容もあります。少し大げさに聞こえるかもしれませんが、ここには間違いなく、イエスさまの、また聖書全体の、基本的な人間理解がある、と言いうるのです。
たとえば、わたしたちが何かの病気にかかっているとき、かかっているあなたが悪い、と言われると、非常につらいものがあります。
あなたの不注意だ、と言われるのは、ある意味で仕方がないところもあります。
しかし、“天罰”だとか“神の審き”だとか“罪への報い”だとか、そのあたりのことが言われはじめると、だんだんと嫌な気持ちになってきます。結局わたしが悪いのか、と感じます。
実際には、そうではないわけです。イエスさまは、そのことをよく知っておられるのです。悪霊と呼ばれる何かにせよ、病気にせよ、それが取り除かれたら、その人は健康になり、元気になるのです。
人間自身は、本来的に善きものなのです。悪いのは病気なのです。この理解が非常に大切です。
ですから、わたしたちも、「病気よ、出て行け」と言ってよいのです。苦しんでいる人々に向かって、追い討ちをかけるべきではないのです。
「日が暮れると、いろいろな病気で苦しむ者を抱えている人が皆、病人たちをイエスのもとに連れて来た。イエスはその一人一人に手を置いていやされた。悪霊もわめき立て、『お前は神の子だ』と言いながら、多くの人々から出て行った。イエスは悪霊を戒めて、ものを言うことをお許しにならなかった。悪霊は、イエスをメシアだと知っていたからである。 」
カファルナウムで、イエスさまは、多くの人々の病気をいやされました。そのようにして、多くの苦しむ者たちを助けてくださいました。
今日の個所に記されている、イエス・キリストが“苦しむ者をお助けになる”方法には、大きく分けて、二つの要素があると言えます。
第一の要素は、御言(みことば)を語られることです。権威ある御言によって、悪霊や病気を、その人の中から追い出されるのです。
第二の要素は、「一人一人に手を置くこと」です。その人の体に直接御自身の手で触ってくださるのです。
わたしたちも、「病気の手当てをする」と言います。「手を当てること」こそが、手当てである、ということは何となく分かります。
シモンのしゅうとめの場合も、イエスさまが彼女にさわっておられます。
ルカは書いていませんが、マタイは、「イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした」(マタイ8・15)と書いています。
マルコも、「イエスがそばに行き、手をとって起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」(マルコ1・31)と書いています。
少しずつ違っています。しかし、大切な点は、イエスさまの体が、シモンのしゅうとめの体のどこかに触れていることです。
これから先、わたしたちは、ルカによる福音書をずっと学んでいきますが、お気づきになるであろうことは、この「ふれあい」の場面が何度も出てくる、ということです。
ルカだけではなく、マタイにも、マルコにも、たくさん出てきます。じつは、この「ふれあい」が、イエスさまのみわざの性質を正しく理解するために非常に重要なキーワードである、と語ることができます。
それは何なのかを、今ここでズバリと語ることは、難しいのでやめておきます。時間をかけて少しずつお話ししていきます。
しかし、この「ふれあい」こそが、イエス・キリストというお方を正しく理解するために、また聖書の福音そのものを正しく理解するために、間違いなく重要な点であるということを指摘しておきたいと思います。
ただ、一つの点だけ語っておきます。
ここには、明らかに、物理的・精神的な“距離”の問題がある、ということです。“距離感覚”の問題、と言ってもよいかもしれません。
もしイエスさまが用いられる手段が、本当にただ「御言」(みことば)だけであるというならば、その御言を書き記した手紙ないし書物、たとえば聖書を読んでもらうだけで、とりあえず用が済んでしまうのです。
今では、ラジオとかテレビとかインターネット、電話やファックスなどを使えば、どんなに物理的な距離が離れている人であっても、言葉の内容を正しく伝えることができます。
テレビ電話などを使えば、その言葉を語っている表情まで、リアルタイムで伝えることができます。
しかし、本当にそれだけでよいのでしょうか。決定的に足りないものがあるのではないでしょうか。
一緒にいること、近づいていること。
手と手をつなぎ、体と体がふれあうこと。
現実のこの世界における現実の救いには、必ず、そのような要素が求められるのです。
このあたりのことを考えることができるのが、イエスさまが実践された「ふれあい」という問題です。
これは、非常に興味深い、またある意味で、非常に深刻な問題であると思います。
「朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群集はイエスを探し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。しかし、イエスは言われた。『ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。』そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。」
カファルナウムの人々は、イエスさまには、いつまでも一緒にいてもらいたい、と願いました。当然の気持ちであると思います。
イエスさまに触れていただけば、病気でも何でも治ってしまうというのですから。こんなに有難いことは、他にないわけです。
しかし、イエスさまは、「ほかの町にも」神の国の福音を告げ知らせなければなりませんでした。じつは、ここにも、物理的な“距離”の問題があります。
他の町にも行かなければならないとイエスさまがおっしゃるのは、そこに行かなければ、その町の人々に“触れる”ことができないからです。
そのため、イエスさまのおっしゃる「神の国の福音を告げ知らせる」は、ただ言葉だけによるものではない、ということが確認される必要があります。
言葉の大切さについては、どれだけ強調しても足りないくらいです。しかし、繰り返すようですが、言葉だけならば、書物を配布すればよいのです。
メールを書いて送れば済むのです。
しかし、あれほどまでに手紙をたくさん書いたパウロでさえ、「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるようにと、願っています」(ローマ1・10)と書きました。
物理的な移動の必要性を訴えたのです。
言葉だけでは、どうしても伝わらないものがあるからです。
言葉だけでは、じつは、“救い”も起こらないのです。
(2005年1月30日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年1月30日日曜日
2005年1月23日日曜日
故郷に帰る
ルカによる福音書4・16〜30
関口 康
イエスさまは、伝道のみわざを始められた後、御自身が生まれ育った故郷であるナザレの町にお帰りになりました。今日の個所に記されているのは、そのときの話です。
「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。」
ナザレがどこにあるかは、新共同訳聖書の巻末付録の地図「6 新約時代のパレスチナ」をご覧ください。ガリラヤ湖の西南西あたりに位置する、小さな町です。
今はイエスさまゆかりの地として、観光地になっています。受胎告知教会(1969年完成)があります。わたしも一度だけ、連れて行ってもらったことがあります。
そのナザレで、イエスさまが「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。
「会堂」とは、ユダヤ教の礼拝堂、シナゴーグです。ユダヤ教の安息日は土曜日です。彼らは、土曜日ごとに会堂に集まり、今わたしたちがしているのと同じような礼拝を行います。土曜礼拝です。
その礼拝の中で、イエスさまが、聖書の御言を朗読され、その御言についての説教を行われたのです。
当時のシナゴーグでの礼拝の内容は、次のようなものだったと伝えられています。
まず最初に、信仰告白です。
告白される内容は、申命記6・4〜5です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。
最初の「聞け」がヘブライ語でシェマーと言います。シェマー・イスラエル〔聞け、イスラエルよ〕です。それでこの告白はシェマーと呼ばれます。
次に、お祈りがささげられます。
そして、その次に、聖書の御言が朗読されます。しかし、聖書と言っても、もちろん、わたしたちの言う「旧約聖書」です。
当時の聖書は、大きな巻物の形をしていました。「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになった」(17節)と書いてあるとおりです。
このとき、イエスさまは、預言者イザヤの書をお読みになりました。
旧約聖書には三つの部分があると、昔から考えられてきました。第一部が律法(トーラー)、第二部が預言者(ネビーム)、第三部が諸書(ケスビーム)です。
この場合の「律法」は、旧約聖書の最初の五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を指します。これらが「モーセ五書」と呼ばれてきました。
シナゴーグでの礼拝では、律法と預言者の両方から御言が選ばれて朗読されました。おそらくこの日も、イザヤ書の朗読が行われる前に、律法の部分も朗読されたのです。
そして、その後、その聖書の御言についての説教、あるいは自由なお話が行われました。それらが、礼拝の最も基本的な要素でした。
ちなみに、当時、律法と預言者の朗読に続いて、聖書の御言の解説としての「説教」を行う“権利”を持っているのは、ユダヤ人の男性だけでした。
わたしが調べた注解書に、そのように書かれていました。説教を行うことは、わたしたちの権利なのです。
こういうことを、わたしは今まで、あまり真剣に考えたことがありませんでしたが、権利という言葉に、とても感銘を受けました。
説教は、義務だからとか、責任だからとか、嫌々ながら、というようなものではないのです。
しかし、それ以外の人々、つまり、すべての女性とすべての異邦人には、その権利が与えられていなかったことも、事実です。
また、説教の方法は、聖書の御言を前から少しずつ読みながら、順々に説き明かしていく、“連続講解説教”(lectio continua)という方法でした。
今日の個所で、イエスさまが会堂の中でしておられることは、まさに当時の礼拝の順序に沿っていることであると、理解できるのです。
イエスさまが、その日、どのような説教を行われたのかについても、非常に興味深いものがありますので、ぜひ見ておきたいと思います。しかし、その前に一つ、とても気になることがありますので、そこに戻ります。
それは、ごく小さなことです。はたして、イエスさまは、ナザレに来られたその足で、まっすぐに会堂に向かわれたのだろうか、ということです。
イエスさまがナザレの会堂に入られたのは「安息日」であったことについては、ルカが明記しています。ですから、問題は、イエスさまのナザレ到着日も、シナゴーグでの礼拝が行われたのと同じ「安息日」であったかどうか、です。
わたしは、イエスさまがナザレに到着されたのは安息日の当日ではなく、その数日前ではなかっただろうかと考えております。
それがどうしたのか、と言いますと、イエスさまがナザレに来られた目的は、シナゴーグで説教される、ということも含まれていたとは思いますが、おそらくもう一つの目的があったはずだ、と思われてならないのです。
単純に、イエスさまが幼少時代を過ごされた故郷に帰られること、つまり、御自身の実家に帰省されることも、ナザレ行きの目的だったのではないでしょうか。ここが、わたしには、非常に気になる点なのです。
イエスさまは当時、三〇才前後で、独身であられました。父はヨセフ、母はマリアです。もしかしたら、当時、父ヨセフは、すでに亡くなっていたかもしれない、という話があります。
マルコによる福音書6章の平行記事の中で、イエスさまが「この人は、大工ではないか。マリアの息子ではないか」(マルコ6・3)と呼ばれています。
その理由は、父親ヨセフが、そのときすでに亡くなっていて、長男のイエスさまが大工の跡継ぎをすることになっていたからだ、というのです。
だから、「この人(イエスさま)は、大工の子ではないか」ではなく、「(すでに)大工ではないか」なのです。
マルコは、イエスさまの兄弟の名前も紹介しています。ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、また妹たちもいました。
その家にお帰りになることも、このときのイエスさまのナザレ行きの目的に加えてよいと思われるのです。
「『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』」
ここで明らかなことは、イザヤ書61・1、42・7、29・18などが織り交ぜられた仕方で朗読されているということです。
そして、イザヤ書の中で「主の霊がわたしの上におられる」とか「主がわたしに油を注がれた」とか「主がわたしを遣わされたのは」と語られている中の、この「わたし」とは、もちろん、預言者イザヤ自身のことです。
ところが、イエスさまは、このイザヤの言葉に基づいて、次のように語られました。
「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」
「この聖書の言葉」とは、預言者イザヤの言葉です。そして、「今日、あなたがたが耳にしたとき」とは、もちろん、イエスさまが説教しておられるシナゴーグでの礼拝のときです。
まさにそのとき、この御言が実現したのです。イエスさまが、この御言を語られたときに、実現したのです。捕らわれている人に解放が、目の見えない人に視力の回復が、圧迫されている人に自由が、現実として与えられたのです。
このように語られる説教は、いいなあ、と思います。「そうかもしれませんねえ」とか、「そうなるといいですねえ」というような、ぼんやりした説教は、元気がありません。聴いていて、だんだん寂しくなります。
イエスさまのように断言的に語られる御言は、たいへん力強く、神の栄光と権威に満ちたものとして、そこにいた人々の心に響き渡ったのです。ナザレの人々は、イエスさまを「ほめた」のです。
ところが、そこで問題が起こりました。
「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この子はヨセフの子ではないか。』 」
先ほどわたしは、イエスさまのナザレ行きの目的には、ご実家に帰省されることが含まれていたはずだ、と申し上げました。その点がかかわってきます。
「この子はヨセフの子ではないか」。大工のせがれではないか、ということです。
父ヨセフは亡くなっていたかもしれないということも、すでに申しました。長男なら、亡くなった父親の仕事の跡継ぎをしなければならないはずだという気持ちも、この言葉に含まれていた可能性があるのです。
また、ナザレの人々は、イエスさまのことを、赤ちゃんだった頃から知っていました。
「あの可愛かったイエスちゃん、よくぞご立派になられました。どうぞ、ゆっくりして行ってくださいな」というような思いで、目を細めながら、イエスさまのことを見ていたに違いないのです。
わたしも、以前働いていたある教会で、夏休みをいただいて、実家に帰省するとき、年配の方々から「お母さんのオッパイを、たくさん吸ってきてくださいね」と言われて、とても恥ずかしい思いをしたことがあります。
全く何の悪気もない言葉であるとは思いましたが、何とも言えない気持ちになりました。
また、もちろん、ナザレには、子どもの頃一緒に遊んだ友人たちもいたでしょう。おれたちは、お前の過去を知っているぞと。泣きべそ、弱虫、悪ふざけ、など。
一般的に言って、今日でも、宗教の仕事に携わる者たちは、必ずと言ってよいほど、この種の反応を受けることを覚悟しておかなければならないと思います。
その人々には、少しも悪気はないのです。親愛の情の表れであると思います。
しかし、実際に、そのような目で見られて、また、そのような言葉を聞かされてしまうとき、神の御言を語る者たちの多くは、語るべき言葉を失ってしまうのです。
その場を支配している空気は、要するに、緊張感が全く無い、ということです。いわば“甘え”です。
そのような場においては、神の御言を語る者が、神御自身から遣わされている、ということが意識されるのが、非常に難しいのです。
そして、そこで起こる最大の問題は、その意味での“緊張感”が全くないような場所では、“信仰”が成り立たない、ということです。そこで語られる御言が「神の御言」として聴かれる、ということが起こらないからです。
「イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、「医者よ、自分自身を治せ」ということわざを引いて、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うにちがいない。』そして、言われた。『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』」。
イエスさまは、やはり、とても嫌な気持ちになられたのだと思います。ナザレの人々に向かって、たいへん厳しい言葉を語られました。
「預言者」とは、神の御言を語る者たちの総称です。説教者、教師、牧師も広い意味での「預言者」です。
ここでイエスが語られている言葉の要点は、神の御言を語る者たちは、自分の故郷だけをひいきするようなことは、決してしない、ということです。
私どもの教会の長老たちが、主日礼拝の牧会祈祷の中で、「牧師は、ひとによく語るのではなく、御言に忠実に語ることができるように」と毎回祈ってくださいます。
この祈りの言葉を聞くたびに、本当に感謝しつつ、いろいろと考えさせられます。「ひとによく語る」とは、どういうことだろうかと。
牧師なら誰でも、できるだけ多くの人々に喜んでもらえるような話をしたいと願うわけです。しかし、そのような人を喜ばせるような説教をしてはならない、と言われているわけです。
地元の利益を追求するだけとか、特定の人々の利益を優先するだけの説教などは、おそらく、そういうものに該当するわけです。説教者に求められていることは、「御言に忠実に語ること」なのです。
ところが、それを聞いたナザレの人々は、たいへん怒りました。ある意味で、当然予想される反応でした。イエスさまを殺そうとまでしました。
イエスさまは、ナザレから「立ち去られました」。そして、その後、二度と、ナザレにはお帰りになりませんでした。マタイによる福音書19・29の御言が思い起こされます。
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」
イエスさま御自身が歩まれ、イエスさまに従う者たちにも歩むように命ぜられている道は、家族や故郷の人々を軽んじることでは、決してありません。
むしろ、逆です。家族や故郷が“救われる”ために、なしうることを行うことです。
わたしたちの愛する人々が救われるために、神の御言が必要なのです。そのために必要なことは、神の御言が“神の”御言として語られ、聞かれることです。
そのために、御言葉を語る者たちは、誰よりも先に、“甘えの構造”の中から抜け出る必要があるのです。
(2005年1月23日、松戸小金原教会主日礼拝)
関口 康
イエスさまは、伝道のみわざを始められた後、御自身が生まれ育った故郷であるナザレの町にお帰りになりました。今日の個所に記されているのは、そのときの話です。
「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。」
ナザレがどこにあるかは、新共同訳聖書の巻末付録の地図「6 新約時代のパレスチナ」をご覧ください。ガリラヤ湖の西南西あたりに位置する、小さな町です。
今はイエスさまゆかりの地として、観光地になっています。受胎告知教会(1969年完成)があります。わたしも一度だけ、連れて行ってもらったことがあります。
そのナザレで、イエスさまが「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。
「会堂」とは、ユダヤ教の礼拝堂、シナゴーグです。ユダヤ教の安息日は土曜日です。彼らは、土曜日ごとに会堂に集まり、今わたしたちがしているのと同じような礼拝を行います。土曜礼拝です。
その礼拝の中で、イエスさまが、聖書の御言を朗読され、その御言についての説教を行われたのです。
当時のシナゴーグでの礼拝の内容は、次のようなものだったと伝えられています。
まず最初に、信仰告白です。
告白される内容は、申命記6・4〜5です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。
最初の「聞け」がヘブライ語でシェマーと言います。シェマー・イスラエル〔聞け、イスラエルよ〕です。それでこの告白はシェマーと呼ばれます。
次に、お祈りがささげられます。
そして、その次に、聖書の御言が朗読されます。しかし、聖書と言っても、もちろん、わたしたちの言う「旧約聖書」です。
当時の聖書は、大きな巻物の形をしていました。「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになった」(17節)と書いてあるとおりです。
このとき、イエスさまは、預言者イザヤの書をお読みになりました。
旧約聖書には三つの部分があると、昔から考えられてきました。第一部が律法(トーラー)、第二部が預言者(ネビーム)、第三部が諸書(ケスビーム)です。
この場合の「律法」は、旧約聖書の最初の五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を指します。これらが「モーセ五書」と呼ばれてきました。
シナゴーグでの礼拝では、律法と預言者の両方から御言が選ばれて朗読されました。おそらくこの日も、イザヤ書の朗読が行われる前に、律法の部分も朗読されたのです。
そして、その後、その聖書の御言についての説教、あるいは自由なお話が行われました。それらが、礼拝の最も基本的な要素でした。
ちなみに、当時、律法と預言者の朗読に続いて、聖書の御言の解説としての「説教」を行う“権利”を持っているのは、ユダヤ人の男性だけでした。
わたしが調べた注解書に、そのように書かれていました。説教を行うことは、わたしたちの権利なのです。
こういうことを、わたしは今まで、あまり真剣に考えたことがありませんでしたが、権利という言葉に、とても感銘を受けました。
説教は、義務だからとか、責任だからとか、嫌々ながら、というようなものではないのです。
しかし、それ以外の人々、つまり、すべての女性とすべての異邦人には、その権利が与えられていなかったことも、事実です。
また、説教の方法は、聖書の御言を前から少しずつ読みながら、順々に説き明かしていく、“連続講解説教”(lectio continua)という方法でした。
今日の個所で、イエスさまが会堂の中でしておられることは、まさに当時の礼拝の順序に沿っていることであると、理解できるのです。
イエスさまが、その日、どのような説教を行われたのかについても、非常に興味深いものがありますので、ぜひ見ておきたいと思います。しかし、その前に一つ、とても気になることがありますので、そこに戻ります。
それは、ごく小さなことです。はたして、イエスさまは、ナザレに来られたその足で、まっすぐに会堂に向かわれたのだろうか、ということです。
イエスさまがナザレの会堂に入られたのは「安息日」であったことについては、ルカが明記しています。ですから、問題は、イエスさまのナザレ到着日も、シナゴーグでの礼拝が行われたのと同じ「安息日」であったかどうか、です。
わたしは、イエスさまがナザレに到着されたのは安息日の当日ではなく、その数日前ではなかっただろうかと考えております。
それがどうしたのか、と言いますと、イエスさまがナザレに来られた目的は、シナゴーグで説教される、ということも含まれていたとは思いますが、おそらくもう一つの目的があったはずだ、と思われてならないのです。
単純に、イエスさまが幼少時代を過ごされた故郷に帰られること、つまり、御自身の実家に帰省されることも、ナザレ行きの目的だったのではないでしょうか。ここが、わたしには、非常に気になる点なのです。
イエスさまは当時、三〇才前後で、独身であられました。父はヨセフ、母はマリアです。もしかしたら、当時、父ヨセフは、すでに亡くなっていたかもしれない、という話があります。
マルコによる福音書6章の平行記事の中で、イエスさまが「この人は、大工ではないか。マリアの息子ではないか」(マルコ6・3)と呼ばれています。
その理由は、父親ヨセフが、そのときすでに亡くなっていて、長男のイエスさまが大工の跡継ぎをすることになっていたからだ、というのです。
だから、「この人(イエスさま)は、大工の子ではないか」ではなく、「(すでに)大工ではないか」なのです。
マルコは、イエスさまの兄弟の名前も紹介しています。ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、また妹たちもいました。
その家にお帰りになることも、このときのイエスさまのナザレ行きの目的に加えてよいと思われるのです。
「『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』」
ここで明らかなことは、イザヤ書61・1、42・7、29・18などが織り交ぜられた仕方で朗読されているということです。
そして、イザヤ書の中で「主の霊がわたしの上におられる」とか「主がわたしに油を注がれた」とか「主がわたしを遣わされたのは」と語られている中の、この「わたし」とは、もちろん、預言者イザヤ自身のことです。
ところが、イエスさまは、このイザヤの言葉に基づいて、次のように語られました。
「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」
「この聖書の言葉」とは、預言者イザヤの言葉です。そして、「今日、あなたがたが耳にしたとき」とは、もちろん、イエスさまが説教しておられるシナゴーグでの礼拝のときです。
まさにそのとき、この御言が実現したのです。イエスさまが、この御言を語られたときに、実現したのです。捕らわれている人に解放が、目の見えない人に視力の回復が、圧迫されている人に自由が、現実として与えられたのです。
このように語られる説教は、いいなあ、と思います。「そうかもしれませんねえ」とか、「そうなるといいですねえ」というような、ぼんやりした説教は、元気がありません。聴いていて、だんだん寂しくなります。
イエスさまのように断言的に語られる御言は、たいへん力強く、神の栄光と権威に満ちたものとして、そこにいた人々の心に響き渡ったのです。ナザレの人々は、イエスさまを「ほめた」のです。
ところが、そこで問題が起こりました。
「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この子はヨセフの子ではないか。』 」
先ほどわたしは、イエスさまのナザレ行きの目的には、ご実家に帰省されることが含まれていたはずだ、と申し上げました。その点がかかわってきます。
「この子はヨセフの子ではないか」。大工のせがれではないか、ということです。
父ヨセフは亡くなっていたかもしれないということも、すでに申しました。長男なら、亡くなった父親の仕事の跡継ぎをしなければならないはずだという気持ちも、この言葉に含まれていた可能性があるのです。
また、ナザレの人々は、イエスさまのことを、赤ちゃんだった頃から知っていました。
「あの可愛かったイエスちゃん、よくぞご立派になられました。どうぞ、ゆっくりして行ってくださいな」というような思いで、目を細めながら、イエスさまのことを見ていたに違いないのです。
わたしも、以前働いていたある教会で、夏休みをいただいて、実家に帰省するとき、年配の方々から「お母さんのオッパイを、たくさん吸ってきてくださいね」と言われて、とても恥ずかしい思いをしたことがあります。
全く何の悪気もない言葉であるとは思いましたが、何とも言えない気持ちになりました。
また、もちろん、ナザレには、子どもの頃一緒に遊んだ友人たちもいたでしょう。おれたちは、お前の過去を知っているぞと。泣きべそ、弱虫、悪ふざけ、など。
一般的に言って、今日でも、宗教の仕事に携わる者たちは、必ずと言ってよいほど、この種の反応を受けることを覚悟しておかなければならないと思います。
その人々には、少しも悪気はないのです。親愛の情の表れであると思います。
しかし、実際に、そのような目で見られて、また、そのような言葉を聞かされてしまうとき、神の御言を語る者たちの多くは、語るべき言葉を失ってしまうのです。
その場を支配している空気は、要するに、緊張感が全く無い、ということです。いわば“甘え”です。
そのような場においては、神の御言を語る者が、神御自身から遣わされている、ということが意識されるのが、非常に難しいのです。
そして、そこで起こる最大の問題は、その意味での“緊張感”が全くないような場所では、“信仰”が成り立たない、ということです。そこで語られる御言が「神の御言」として聴かれる、ということが起こらないからです。
「イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、「医者よ、自分自身を治せ」ということわざを引いて、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うにちがいない。』そして、言われた。『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』」。
イエスさまは、やはり、とても嫌な気持ちになられたのだと思います。ナザレの人々に向かって、たいへん厳しい言葉を語られました。
「預言者」とは、神の御言を語る者たちの総称です。説教者、教師、牧師も広い意味での「預言者」です。
ここでイエスが語られている言葉の要点は、神の御言を語る者たちは、自分の故郷だけをひいきするようなことは、決してしない、ということです。
私どもの教会の長老たちが、主日礼拝の牧会祈祷の中で、「牧師は、ひとによく語るのではなく、御言に忠実に語ることができるように」と毎回祈ってくださいます。
この祈りの言葉を聞くたびに、本当に感謝しつつ、いろいろと考えさせられます。「ひとによく語る」とは、どういうことだろうかと。
牧師なら誰でも、できるだけ多くの人々に喜んでもらえるような話をしたいと願うわけです。しかし、そのような人を喜ばせるような説教をしてはならない、と言われているわけです。
地元の利益を追求するだけとか、特定の人々の利益を優先するだけの説教などは、おそらく、そういうものに該当するわけです。説教者に求められていることは、「御言に忠実に語ること」なのです。
ところが、それを聞いたナザレの人々は、たいへん怒りました。ある意味で、当然予想される反応でした。イエスさまを殺そうとまでしました。
イエスさまは、ナザレから「立ち去られました」。そして、その後、二度と、ナザレにはお帰りになりませんでした。マタイによる福音書19・29の御言が思い起こされます。
「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」
イエスさま御自身が歩まれ、イエスさまに従う者たちにも歩むように命ぜられている道は、家族や故郷の人々を軽んじることでは、決してありません。
むしろ、逆です。家族や故郷が“救われる”ために、なしうることを行うことです。
わたしたちの愛する人々が救われるために、神の御言が必要なのです。そのために必要なことは、神の御言が“神の”御言として語られ、聞かれることです。
そのために、御言葉を語る者たちは、誰よりも先に、“甘えの構造”の中から抜け出る必要があるのです。
(2005年1月23日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年1月16日日曜日
荒野の誘惑
ルカによる福音書4・1〜15
関口 康
本日、これから学びますのは、イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けられた"後"、そして、ガリラヤ地方で伝道を開始される"前"の出来事です。
それは、イエス・キリストが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた、という出来事です。
「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」
「"霊"によって引き回され」とあります。"霊"とは、聖霊なる神の意味です。つまり、イエスさまが荒れ野に行かれたことも、そこで悪魔から誘惑を受けられたことも、すべては、神御自身の意図されるところであった、ということです。
なぜ、そんなことを、神がなさるのでしょうか。この問題には、触れないでおきます。これを話すには、多くの時間が必要です。
しかし、一点だけ、申し上げておきます。父なる神が、聖霊によって、イエス・キリストに試験を受けさせたのです。そう考えるしかありません。
イエスさまが受けられた試験の方法は、こうです。
最初に、いわゆる断食修行のようなことをします。四十日の間、何も食べずに生活します。すると当然、お腹がすいてきます。そのとき、悪魔から誘惑の言葉が聞こえてくる。それにどう答えるか、という問題です。
「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』 」
これが第一の試験問題です。
「神の子なら」とは、もちろん「もしあなたが神の子ならば」です。仮定の表現であると、当然、感じられます。
しかし、ここでの悪魔の意図は、あなたは、もしかしたら、神の子でないかもしれない、ということではありません。
その意味ならば、悪魔の意図は、お前が神の子かどうかの証拠を見せよ。それはお前が不思議な力を持っているかどうかで分かるのだが、という話になります。
しかし、そういう話ではないのです。なぜなら、悪魔は、イエスさまが神の子であることを、初めから知っているからです。
悪魔が問題にしているのは、その点ではなく、むしろ、イエスさまが“神の子”であることの真の意味は何か、ということです。つまり、父なる神に従順な“子ども”であるとは、どのようなことにおいてか、ということです。
もう少し説明が必要でしょう。悪魔の問いかけの核心は、神の子が従うべき"父なる神の御心"とは何なのか、ということです。
聖書の解説書を読むと、いろいろと興味深いことが書いてあります。わたしが読んだのを一つ紹介しますと、ここでルカは「石」を単数形で書いている。しかし、マタイは複数形である、というのです。
「何だろう?」と思って、もう少し先を読むと、その単数形の意味として考えられるのは、ルカはイエスさまの目の前にある具体的な一つの「この石」の具体性を強調しているのだ、などというのです。なるほど、と思いました。
この線で考えると、問題は、より明確になります。
自分の目の前にある「この石」を、自分自身の空腹を満たすために用いることが、神の子のなすべきことなのか、ということです。
自己満足になることだけをして、それで事足れりとすることが、父なる神の御心なのか、ということです。
あらら、なんとなく、わたしたちにとって耳の痛い話になってきました。
神がお喜びになるのは、そのようなことなのか。自分さえよければ、それでよいのか、ということです。
「自分さえよければ、それでいいんだよねえ」と、悪魔はイエスさまに、誘いの言葉をかけてきたのです。
「 イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった。」
イエスさまは、聖書の御言を引用されました。旧約聖書の申命記8・3の御言です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
これはモーセの言葉です。エジプトから脱出し、荒れ野の四十年の旅を経て、約束の地カナンを目前に見ているイスラエルの民に向かって、モーセが語った言葉です。
マタイによる福音書4章の平行記事ではこの御言のすべてが引用されていますが、ルカは前半部分だけを引用しています。
それは、ルカがこの個所で、イエス・キリストとはどのようなお方であるのか、ということについて語ろうとしている意図と関係していると思われます。
「人はパンだけで生きるものではない」というこの点には明らかに、パンも大切であるという意図が込められています。
パンは要らない、という話には、決してなりません。神の御子は、パンの大切さを否定するために地上に来られた、という話にも、決してなりません。
パンの大切さとは、わたしたちの日常生活の大切さです。毎日の食べ物を得るために、わたしたちは、汗水たらして働くのです。
牧師にはそんな話をしてもらいたくない、と言われたことがあります。武士は食わねど高楊枝。牧師も食わねど高楊枝だ、と。宗教家が世間的な話をするな、と言われました。そういう考えもありうるかもしれません。
でも、ここはどうかご理解いただきたいのです。イエス・キリストは、わたしたちが毎日食べるパンの意味と価値を、一度も否定されたことがありません。ただの一度もないのです。
しかし、です。その次に言いうることとして、たしかに、わたしたちは「パン"だけで"生きるものではない」のです。そのことも事実であり、真実です。
この申命記の御言は、モーセが語ったものであると、先ほど申しました。モーセの意図は、非常にはっきりしたものです。
わたしたちは、荒れ野で何をし、何を見てきたのか。パンだけを食べ、パンだけを見てきたのか。
そうではないはずだ。荒れ野の中でこそ、神さまの御言が、いかに信頼できるものであるかを見てきたではないか、ということです。
イエスさまは、悪魔に心を売り渡すつもりは、全くありませんでした。
自分自身の欲望や利益のためだけにあなたの力を使ったらどうだい、という悪魔の挑発に乗ることは、神のお喜びになることではないことを、お示しになりました。
パンも大切であるが、パンより大切なものがある。神の御言に従うことである。そして、神の御言こそが、人と世界に真の生命を与える真の力であるということを、イエスさまは示されたのです。
「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。』 」
これが、第二の試験問題です。この問題の落とし穴は、二つほどあります。
第一の落とし穴は、ここで悪魔自身が、世界のすべての国々の一切の権力と繁栄を支配しているのは、このわたしである、と語っている点にあります。
なぜ、この点に落とし穴がありうるか、と言いますと、わたしたちが日常的に体験しているこの世界の現実は、ほとんど確実に、まさにこのとき悪魔自身が語ったとおりであるかのように感じられるものだからです。
暴力があり、殺人があり、戦争がある。そのような邪悪で・不気味な力が、この世界には、満ち満ちているではないか、と。これは、ごく普通の人が誰でも感じることです。この感覚にどう応えるのか、が問題なのです。
第二の落とし穴は、ここで悪魔が「だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と誘っていることにあります。
もちろん、こんなのウソに決まっています。しかし、悪魔が世界の支配者であるという点には、現実の世界がそのように感じられるときには、ある独特の説得力が生まれてしまうのです。
だからこそ、その悪魔を尊敬し、崇拝し、手を結ぶことこそが、世界を支配するための唯一の道であるかもしれない、という思いも生じうる。この点が、ごく普通の感覚を持つ人々にとって落とし穴になりうるのです。
実際、当時のユダヤを支配していたのは、ローマ皇帝を中心に形成されたローマ帝国でした。彼らの圧倒的な軍事力が、今の全ヨーロッパを、政治的に支配していました。
彼らに抵抗し、自国の独立を求めることなど、まさに無駄な抵抗にすぎない。無力感と失望が、ユダヤ社会全体を支配していた時代だったのです。
「イエスはお答えになった。『「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』」
イエスさまの答えは、毅然としたものでした。ただし、相手の議論の土俵に乗ってやりあうのではなく、ここでも、ただ、聖書の御言を引用されただけでした。
「拝む」とは、礼拝することです。礼拝の対象は真の神のみであって、まさか、悪魔ではありえない。神の子であり、救い主であるものが悪魔と手を結ぶことをしてよいわけがない。
そのことを、ただ聖書の御言によって、語っておられるだけです。
「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」また、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」』」
これが第三の、そして最後の試験問題です。「エルサレム神殿の屋根の端」から飛び降りてみろ、というのです。天使が守ってくれますよ、というのです。
「エルサレム神殿の屋根の端」の場所はどこかについては、いくつかの意見があります。
神殿の周りを囲む塀の上ではないかと考える人もいますし、エルサレム神殿の南東に位置するキデロンの谷のことではないかと考える人もいます。
西暦三世紀に活躍した神学者エウセビウスが書いた『教会史』は、日本語に翻訳されています。
それによると、イエスさまの兄弟ヤコブは、ユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々によって、エルサレム神殿の塔から突き落とされ、縮絨工(しゅくじゅこう)の棒〔毛織物を叩いて圧縮する道具〕でめった打ちされて死んだ」とされています(エウセビウス『教会史?T』、秦剛平訳、山本書店、1986年、79ページ)。
エルサレム神殿には、そのような「塔」があったのです。
この誘惑の意図は、もしあなたが「神の子」と呼ばれたいならば、魔術師のように何か人を驚かせることをしなければならないでしょう、ということです。
高いところから飛び降りても大丈夫。天使が助けてくれました、というアクロバット演技を見せつければ、誰もが「この方こそ神の子メシアである」と認めるだろう。
それくらいのスゴイことをしなければ、誰も納得しませんよ、と言いたいのです。
しかし、これに対しても、イエスさまは、聖書の御言をもってお応えになりました。
「イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている』とお答えになった。」
神の子は、魔術師ではありません。人を驚かせるようなことをする必要は、全くありません。
神の子に求められるのは、まさに父なる神の子どもとして、子どものように従順に神の御心にかなった歩みをすることだけです。
わたしたちも、そうです。教会も、そうです。神の御心は、ひとを救うことです。
教会の目的は、ひとをびっくりさせることではありません。神は、教会を通して、わたしたちが喜んで感謝して毎日を生きていくことができるように、恵みと助けを豊かに与えてくださるのです。
また、「あなたの神である主を試す」とは、神さまに試験を受けさせることを意味します。
しかし、これは逆さまでしょう。わたしたちに試験を受けさせるのは、神です。試験を受けるのは、わたしたちです。勘違いしてはなりません。
イエスさまは、すべての試験に合格しました。そして、伝道者としての歩みを始められました。
(2004年1月16日、松戸小金原教会主日礼拝)
関口 康
本日、これから学びますのは、イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けられた"後"、そして、ガリラヤ地方で伝道を開始される"前"の出来事です。
それは、イエス・キリストが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた、という出来事です。
「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」
「"霊"によって引き回され」とあります。"霊"とは、聖霊なる神の意味です。つまり、イエスさまが荒れ野に行かれたことも、そこで悪魔から誘惑を受けられたことも、すべては、神御自身の意図されるところであった、ということです。
なぜ、そんなことを、神がなさるのでしょうか。この問題には、触れないでおきます。これを話すには、多くの時間が必要です。
しかし、一点だけ、申し上げておきます。父なる神が、聖霊によって、イエス・キリストに試験を受けさせたのです。そう考えるしかありません。
イエスさまが受けられた試験の方法は、こうです。
最初に、いわゆる断食修行のようなことをします。四十日の間、何も食べずに生活します。すると当然、お腹がすいてきます。そのとき、悪魔から誘惑の言葉が聞こえてくる。それにどう答えるか、という問題です。
「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』 」
これが第一の試験問題です。
「神の子なら」とは、もちろん「もしあなたが神の子ならば」です。仮定の表現であると、当然、感じられます。
しかし、ここでの悪魔の意図は、あなたは、もしかしたら、神の子でないかもしれない、ということではありません。
その意味ならば、悪魔の意図は、お前が神の子かどうかの証拠を見せよ。それはお前が不思議な力を持っているかどうかで分かるのだが、という話になります。
しかし、そういう話ではないのです。なぜなら、悪魔は、イエスさまが神の子であることを、初めから知っているからです。
悪魔が問題にしているのは、その点ではなく、むしろ、イエスさまが“神の子”であることの真の意味は何か、ということです。つまり、父なる神に従順な“子ども”であるとは、どのようなことにおいてか、ということです。
もう少し説明が必要でしょう。悪魔の問いかけの核心は、神の子が従うべき"父なる神の御心"とは何なのか、ということです。
聖書の解説書を読むと、いろいろと興味深いことが書いてあります。わたしが読んだのを一つ紹介しますと、ここでルカは「石」を単数形で書いている。しかし、マタイは複数形である、というのです。
「何だろう?」と思って、もう少し先を読むと、その単数形の意味として考えられるのは、ルカはイエスさまの目の前にある具体的な一つの「この石」の具体性を強調しているのだ、などというのです。なるほど、と思いました。
この線で考えると、問題は、より明確になります。
自分の目の前にある「この石」を、自分自身の空腹を満たすために用いることが、神の子のなすべきことなのか、ということです。
自己満足になることだけをして、それで事足れりとすることが、父なる神の御心なのか、ということです。
あらら、なんとなく、わたしたちにとって耳の痛い話になってきました。
神がお喜びになるのは、そのようなことなのか。自分さえよければ、それでよいのか、ということです。
「自分さえよければ、それでいいんだよねえ」と、悪魔はイエスさまに、誘いの言葉をかけてきたのです。
「 イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった。」
イエスさまは、聖書の御言を引用されました。旧約聖書の申命記8・3の御言です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
これはモーセの言葉です。エジプトから脱出し、荒れ野の四十年の旅を経て、約束の地カナンを目前に見ているイスラエルの民に向かって、モーセが語った言葉です。
マタイによる福音書4章の平行記事ではこの御言のすべてが引用されていますが、ルカは前半部分だけを引用しています。
それは、ルカがこの個所で、イエス・キリストとはどのようなお方であるのか、ということについて語ろうとしている意図と関係していると思われます。
「人はパンだけで生きるものではない」というこの点には明らかに、パンも大切であるという意図が込められています。
パンは要らない、という話には、決してなりません。神の御子は、パンの大切さを否定するために地上に来られた、という話にも、決してなりません。
パンの大切さとは、わたしたちの日常生活の大切さです。毎日の食べ物を得るために、わたしたちは、汗水たらして働くのです。
牧師にはそんな話をしてもらいたくない、と言われたことがあります。武士は食わねど高楊枝。牧師も食わねど高楊枝だ、と。宗教家が世間的な話をするな、と言われました。そういう考えもありうるかもしれません。
でも、ここはどうかご理解いただきたいのです。イエス・キリストは、わたしたちが毎日食べるパンの意味と価値を、一度も否定されたことがありません。ただの一度もないのです。
しかし、です。その次に言いうることとして、たしかに、わたしたちは「パン"だけで"生きるものではない」のです。そのことも事実であり、真実です。
この申命記の御言は、モーセが語ったものであると、先ほど申しました。モーセの意図は、非常にはっきりしたものです。
わたしたちは、荒れ野で何をし、何を見てきたのか。パンだけを食べ、パンだけを見てきたのか。
そうではないはずだ。荒れ野の中でこそ、神さまの御言が、いかに信頼できるものであるかを見てきたではないか、ということです。
イエスさまは、悪魔に心を売り渡すつもりは、全くありませんでした。
自分自身の欲望や利益のためだけにあなたの力を使ったらどうだい、という悪魔の挑発に乗ることは、神のお喜びになることではないことを、お示しになりました。
パンも大切であるが、パンより大切なものがある。神の御言に従うことである。そして、神の御言こそが、人と世界に真の生命を与える真の力であるということを、イエスさまは示されたのです。
「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。』 」
これが、第二の試験問題です。この問題の落とし穴は、二つほどあります。
第一の落とし穴は、ここで悪魔自身が、世界のすべての国々の一切の権力と繁栄を支配しているのは、このわたしである、と語っている点にあります。
なぜ、この点に落とし穴がありうるか、と言いますと、わたしたちが日常的に体験しているこの世界の現実は、ほとんど確実に、まさにこのとき悪魔自身が語ったとおりであるかのように感じられるものだからです。
暴力があり、殺人があり、戦争がある。そのような邪悪で・不気味な力が、この世界には、満ち満ちているではないか、と。これは、ごく普通の人が誰でも感じることです。この感覚にどう応えるのか、が問題なのです。
第二の落とし穴は、ここで悪魔が「だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と誘っていることにあります。
もちろん、こんなのウソに決まっています。しかし、悪魔が世界の支配者であるという点には、現実の世界がそのように感じられるときには、ある独特の説得力が生まれてしまうのです。
だからこそ、その悪魔を尊敬し、崇拝し、手を結ぶことこそが、世界を支配するための唯一の道であるかもしれない、という思いも生じうる。この点が、ごく普通の感覚を持つ人々にとって落とし穴になりうるのです。
実際、当時のユダヤを支配していたのは、ローマ皇帝を中心に形成されたローマ帝国でした。彼らの圧倒的な軍事力が、今の全ヨーロッパを、政治的に支配していました。
彼らに抵抗し、自国の独立を求めることなど、まさに無駄な抵抗にすぎない。無力感と失望が、ユダヤ社会全体を支配していた時代だったのです。
「イエスはお答えになった。『「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』」
イエスさまの答えは、毅然としたものでした。ただし、相手の議論の土俵に乗ってやりあうのではなく、ここでも、ただ、聖書の御言を引用されただけでした。
「拝む」とは、礼拝することです。礼拝の対象は真の神のみであって、まさか、悪魔ではありえない。神の子であり、救い主であるものが悪魔と手を結ぶことをしてよいわけがない。
そのことを、ただ聖書の御言によって、語っておられるだけです。
「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」また、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」』」
これが第三の、そして最後の試験問題です。「エルサレム神殿の屋根の端」から飛び降りてみろ、というのです。天使が守ってくれますよ、というのです。
「エルサレム神殿の屋根の端」の場所はどこかについては、いくつかの意見があります。
神殿の周りを囲む塀の上ではないかと考える人もいますし、エルサレム神殿の南東に位置するキデロンの谷のことではないかと考える人もいます。
西暦三世紀に活躍した神学者エウセビウスが書いた『教会史』は、日本語に翻訳されています。
それによると、イエスさまの兄弟ヤコブは、ユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々によって、エルサレム神殿の塔から突き落とされ、縮絨工(しゅくじゅこう)の棒〔毛織物を叩いて圧縮する道具〕でめった打ちされて死んだ」とされています(エウセビウス『教会史?T』、秦剛平訳、山本書店、1986年、79ページ)。
エルサレム神殿には、そのような「塔」があったのです。
この誘惑の意図は、もしあなたが「神の子」と呼ばれたいならば、魔術師のように何か人を驚かせることをしなければならないでしょう、ということです。
高いところから飛び降りても大丈夫。天使が助けてくれました、というアクロバット演技を見せつければ、誰もが「この方こそ神の子メシアである」と認めるだろう。
それくらいのスゴイことをしなければ、誰も納得しませんよ、と言いたいのです。
しかし、これに対しても、イエスさまは、聖書の御言をもってお応えになりました。
「イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている』とお答えになった。」
神の子は、魔術師ではありません。人を驚かせるようなことをする必要は、全くありません。
神の子に求められるのは、まさに父なる神の子どもとして、子どものように従順に神の御心にかなった歩みをすることだけです。
わたしたちも、そうです。教会も、そうです。神の御心は、ひとを救うことです。
教会の目的は、ひとをびっくりさせることではありません。神は、教会を通して、わたしたちが喜んで感謝して毎日を生きていくことができるように、恵みと助けを豊かに与えてくださるのです。
また、「あなたの神である主を試す」とは、神さまに試験を受けさせることを意味します。
しかし、これは逆さまでしょう。わたしたちに試験を受けさせるのは、神です。試験を受けるのは、わたしたちです。勘違いしてはなりません。
イエスさまは、すべての試験に合格しました。そして、伝道者としての歩みを始められました。
(2004年1月16日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年1月10日月曜日
時代の分岐点 東部中会青年会講演
| 日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂 |
PDF版はここをクリックしてください
(2005年1月10日、東部中会青年会一日修養会講演、於松戸小金原教会)
はじめに
本日、東部中会青年会一日修養会を松戸小金原教会で開いていただき、また講演をさせていただくことになりましたことを感謝しております。
題名は主催者が考えてくれたものです。非常に良いと思いましたが、私には刺激が強すぎて、かなり度肝を抜かれました。優れたコピーライターに感謝いたします。
主催者からの依頼内容をより具体的に言えば、来年2006年に東部中会が予定する新中会設立に伴う動きにおいて東部中会青年会のメンバーが考えるべきことは何かということについて、みんなで話し合いたいので、新中会に参加する牧師の観点から見た現状と将来展望を示しつつ、青年会の今後についての具体的提案をしてほしいということでした。
新中会の名称は、昨年2004年11月3日に行われた東関東伝道協議会の臨時総会で「東関東中会」にすることを満場一致で決定しました。今後は「新中会」や「(仮称)」などの表現は抽象的と判断されます。その段階はすでに越えていますので、ご注意ください。
「東関東中会」に参加する予定の教会は、予定であって、未定です。現時点で12の群れ(6教会・6伝道所)が参加に向けて準備を続けています。これより減ることはなかろうと信じていますが、門戸は開かれています。「東関東中会」に参加を申し出ていただける教会・伝道所がありましたら、ぜひご検討くださいますよう、お願いいたします。
ただし、誤解を避けるため、あらかじめ申し上げておきたいことがあります。われわれの目指しているのは、いかなる意味でも“縄張り争い”のようなものではありえません。そのような打算的で・自己目的的で・結局無意味な動機や空気が全体を支配しているような計画ならば、必ず崩壊し、水泡に帰すでしょう。そのようなことのために、われわれが、東奔西走“させられている”のだとしたら、いずれ本当に嫌な気分を味わうでしょう。
今や、わたしたち(少なくとも私個人)を突き動かしているものは、ただひたすら、中会に属する各個教会の伝道への熱意が、「東関東中会」の設立によってこそ促されるに違いない、という期待と確信です。もちろんそのことは反面において、現東部中会の体制では各個教会の伝道が必ずしもうまく行ったとは言えない、という反省や批判が含まれていると言わざるをえません。
しかし、その批判とは現東部中会みずからの自己反省であり、自己批判であるということが今こそ認められなければなりません。もとより、「東関東中会」設立の動機と目的は「東部中会の現体制に対する東関東中会参加予定者による批判」というようなことではありえません。ここで確認しておきたいのは、そもそも新中会の設立主体は「現東部中会」であるということです。新中会設立は、まさか、旧いものから新しいものが“離脱”することではないし、“絶縁”するわけでもないし、まして“分裂”や“対立”などではありえないのです。
個人的・私的な場で、いつ・誰が・何を言ったかは知る由もありません。しかし、「東関東中会」設立の動機と目的は、前向きで・肯定的で・未来志向で・建徳的なものです。いずれにせよこれからお話ししようとしていることは、すでに語られてきた何かや、それを語った誰かへの批判ではありません。論争的な意図は全くありません。ただ、自分自身の意見と構想を全く自由に語らせていただきたいだけです。
新中会設立に関する資料はほとんど読みましたし、自分なりに把握しているつもりです。しかし、今日はそれらを“踏まえずに”語ります。結果として誰かが・どこかで語ったり書いたりした言葉と同じであったり異なっていたりする場合にも、その方の弁護なり批判なりを、いささかも意図していないということを、ぜひご理解いただきたいのです。
Ⅰ 小中会主義の新しい定義
今日お話ししたいと願っている第一の点は、「東関東中会」設立の理念として語られてきたいわゆる“小中会主義”についての定義は何かということです。現時点において、私はおおむね次のように考えております。
「東関東中会設立に際して語られる“小中会主義”の理念とは、いずれにせよ将来的に“大規模中会”へと成長・発展していくまでのプロセスにおける過渡的・臨時的な一形態としての“地域性密着型中会”(a locality-oriented presbytery)を形成するために必要な一切の事柄を導く理念である。」
この定義において申し上げたいことは、きわめて単純なことであり、ほとんど自明のことです。大切な点は、大きく分けて二つあります。
1)小中会主義の目標は小規模中会ではない
とくに最も重要であると私が考える第一の点は、「小中会主義」の意味することは、必ずしも、その中会への所属教会の「数」の問題ではないと思われるし、「数」の問題であってはならないはずだということです。
これは、後ほどお話しすることと関連しています。最近よく考えていることは、「東関東中会」の10周年、20周年、30周年の頃にはどうなっているだろうかということです。
私は現在39才です。日本キリスト改革派教会の規定によると、あと31年、牧師を続けることができます。その日まで元気で働けるなら「東関東中会30周年記念信徒大会」(2036年予定)には“現役牧師”として出席させていただけるでしょう。
そのとき、はたして、「東関東中会」は、現在参加を予定している12の群れ(6教会・6伝道所)のままでしょうか。もしそうなら、がっかりです。想像するだけでうんざりします。イエス・キリストが最もお嫌いになり厳しく批判された、主人から預かった一タラントンを地の中に隠しておく、あの“怠け者の悪い僕”(マタイ25章、ルカ19章)と同じです。「小中会主義」という言葉が悪く働くとこの種の怠慢に言質を与える可能性と罠があると、私は感じてきました。
また、この点で、「東関東中会」への参加を(今のところ)予定していない、いわゆる「(新々)東部中会」の将来には、何の問題もないのでしょうか。「東関東中会設立30周年記念信徒大会」の年、(新々)東部中会は「設立90周年」を迎えます。そのとき、(新々)東部中会は、現東部中会に所属する教会・伝道所の数の中から東関東分を差し引いた数のままでしょうか。そうであってはならないでしょう。
参考までに、他の教団・教派と規模を比較してみると、「東関東中会」(スタート時点で12の群れの予定)がカバーしようとしているのと同じ地域に該当する日本基督教団に所属する教会数は約90です。30年後の「東関東中会」を盛り立てている群れの数が、現在の2倍くらいにはなっていることを期待するのは、高望みが過ぎるでしょうか。
小中会主義の「小」は、所属する教会数の意味ではないし、そうであってはなりません。現実的には、数の面で、東関東中会も(新々)東部中会も一時的に減少します。しかし、その減少は、新しく生まれる二つの中会が、2006年以降、さらなる成長と発展を遂げていく中で、再び増加していくまでの過渡的・臨時的な形態をとっている証しなのです。
2)小中会主義の目標は地域性密着型の追求にある
第一の点を踏まえつつ「小中会主義」の新しい定義において主張したい第二の点は、「小中会主義」の眼目はひたすら「地域性密着型中会の形成」にあるということです。
ですから、小中会主義の「小」とは、当該中会が伝道対象とする地域範囲をあまりにも大きく広げすぎないという意味でなければなりません。ただし、これも誤解が起こりうることを容易に予測できます。絶対に避けなければならない誤解の一つは、「地域性密着型」を「地域限定型」と理解されてしまうことです。具体例を申し上げれば、私が何を言いたいかを、すぐにご理解いただけるはずです。
「東関東中会」は、たとえば、今後一切東京都内に伝道することはありえないということはありえないということです。また、「(新々)東部中会」は、千葉県内や茨城県内に中会立の伝道所を立てることがありえないということもありえません。全くの仮定の話ですが、もし「東関東中会」は今後一切東京都内に伝道してはならないという話の運びになるなら、それこそ“縄張り争い”という謗りを免れないでしょう。
この点で私自身は、「東関東中会」という名称に少しだけ不満を感じていた時期があります。関東地方の「東」の外には一歩も出ることができないというような意味で理解されることが決してあってはならないと感じたからです。たとえば三鷹や吉祥寺や世田谷、あるいはお台場や銀座や浅草などに「東関東中会」の伝道所が誕生することがあってはならないでしょうか。そんなことはないはずです。
今日は青年会の集いですので、うんと夢を膨らませた話をすることが許されるだろうと考えてきました。生前の澤谷実先生と笑いながら語り合っていたことは「新浦安伝道所の次は“お台場伝道所”だねえ」ということでした。今の現実だけを見ている人々には愚かに聞こえるでしょう。しかし私はまだ30才代ですが、皆さんはもっと若い。私より、たくさん夢を見ることができるはずです。その中には、今はまだ「改革派教会」の影も形も無い場所に立派な教会が立っているという夢があってよいはずです。そのような夢を見てほしいのです。
そして、ここでこそ、そもそも「中会」(presbytery)は、「地域」に限定されたり、束縛されたりするものではないことが、確認されなくてはなりません。実際、わたしたち日本キリスト改革派教会の歴史の中で、「中会」という概念は地域的な“限定性”を意味しないということを公に印象づけた例がいくつかあります。一つは長野県諏訪市の上諏訪湖畔伝道所の例です。ここは西部中会の灘教会の伝道所になったことがあり、西部中会に属していたことがあります。
もう一つの例は、岡山教会が今でも四国中会に所属していることです。いずれも、各教会・伝道所の事情や設立状況によることですので、第三者的で無責任な論評は慎まなければなりません。しかし、岡山教会の場合について一言申し上げるなら、(私の両親は岡山教会の会員です)、私のような岡山県出身者の感覚からすれば、非常に奇妙なことのように感じられます。端的に言って「岡山県は四国ではない」のです。「だから何なのか」と問われても答えられませんが、一般の岡山県人は、中国地方と四国地方とが一緒くたに語られることをあまり好まないと思います。しかし、「中会」は「教区」ではありませんので、こういうことが十分に起こりえます。
日本国が定めた県境や市境のルールに、われわれ教会が必ず従わなければならないわけではありません。教会が従わなければならないのは、信仰的良心のルールです。岡山教会が四国中会に属していることは、一般の岡山県人の目で見ると、非常に奇妙なことですが、信仰の目で見れば、当然の成り行きであり、神の摂理である、と言わなければなりません。むしろ、教会が真剣に問題にすべきことは、県境や市境ではなく、日本の歴史や文化などを古くさかのぼったところに根ざす“意識”や“感情”や“感覚”などに関する事柄ではないかと私は考えています。
もし教会の主たる関心が、そこにおいてこそ「救い」が起こる“人間の心”にあるのであれば、人間が持ちうる“意識”や“感情”など、いずれにせよ人間存在の感覚的要素に対して深い関心を持つべきです。たとえば、教会の中で、意識レベルの事柄に対する配慮に欠いた説教や牧会で激しく心を傷つけられたことがあるという方がおられませんか。私も反省しきりです。「地域性」(locality)というものに根を生やすことが少ない“流浪の”牧師たちはそういうことをしばしばやらかしてしまうのです。
問題は、人間存在の感覚的要素に対する配慮や関心は、教会の中でも、いえ、教会の中でこそ必要であるに違いない、ということです。この中に「県民意識」なども含まれます。「地域性密着型中会」ということで最も申し上げたいことは、教会(とくに牧師館の住人!)が、その地域の人々(当然ながら“教会員”を含みます)の心に関わる事柄に不断に配慮することができるよう、中会が配慮し、助けるという意味で、「人と人との心のふれあいを重視する中会」ということです。
「そんなのは、どうでもよいことだ。教会において重要なのは、聖書が正しく読まれ、イエス・キリストにおいて神が正しく理解され、福音が正しく語られることである。人間の意識や感情などではありえない。中会がなにゆえそのようなことにかかわる必要があろうか」とお考えの方がおられるでしょうか。そのようなご意見にむきになって反論するつもりはありません。ただ、ちょっと違うのではないかと感じるばかりです。
Ⅱ 小中会主義の甘美な果実としての説教と牧会の回復
次の話題は「小中会主義の甘美な果実としての説教と牧会の回復」ということです。「甘美な果実」のところは「美味しいごちそう」とするか、もっと短く「目玉」とするかで迷いましたが、いくらか見栄えの良い表現にしました。舌がとろけるほど美味しい、極上の甘いくだものという意味の「甘美な果実」です。
その意味は、大体ご理解いただけるのではないでしょうか。教会と中会が「小中会主義」の理念に基づいて形成されていくことでもたらされる“良い結果”は、何でしょうか。それは“善い説教”と“善い牧会”が回復されることです。また、それによってわたしたちの教会が“善い教会”に生まれ変わることです、と言いたいのです。
多くの説明が必要でしょうか。申し上げたいことは単純です。牧師たちが、本来十分な時間と全力を傾けるべき「説教と牧会」よりも中会活動のほうに時間や労力をとられてしまうような事態が発生しないように、中会全体が配慮し、規制するならば、教会の礼拝や諸活動の全体がもっと光り輝いたものになっていく可能性が高いということです。
このことを私は、身を切る思いで語っております。また、あくまでも可能性の話です。牧師に自由な時間を与えさえすれば、自動的に“善い説教”が生まれ、“善い牧会”ができるようになるという保証はどこにもありません。また「適度な中会活動」(?)は、牧師の説教や牧会に善い刺激と訓練を与えます。そして、牧師たちにはそれに取り組む責任と義務があります。いずれにせよ「私の説教や牧会が悪いのは中会の仕事が忙しいからである」という言い逃れは成り立ちませんし、恥ずかしいだけです。
そのような言い逃れはできないことを、多くの牧師たちは、百も承知の上で中会の仕事を引き受けています。実際、多くの牧師たちは、そのような言い逃れは(口が裂けても)しませんし、「してはならない」と自分に言い聞かせ、パウロが書いているように、「自分の体を打ちたたいて服従させて」(コリント一9・27)います。しかし、そのうち体力の限界を越えてしまう。やがて怒涛の仕事に巻き込まれ、あっという間に命を失ってしまうのです。
「説教」はもちろん神の言葉です。しかし、人間の手で書かれ、読まれる原稿でもあります。原稿を書くことは、けっこうたいへんな仕事です。私の場合、一回の説教原稿は約6000字前後です。400字詰め原稿用紙で15枚分です。年末・年始は、クリスマス礼拝、イブ礼拝、水曜礼拝、新年礼拝と続き、400字の原稿用紙にすれば100枚近くの原稿を書きました。加えて、この原稿も書きました。もちろん、これは、私だけの話ではなく、すべての牧師たちが、このたび味わったことです。苦労話をしたいのではありません。単純に「説教」の準備には時間と体力が必要であると言いたいだけです。
しかし、牧師の仕事は、まさか「説教のみ」ではありえません。少なくとも「牧会」があります。とくに政治規準第46条(牧師・協力教師・宣教教師の任務)7項が明記する「教会員、特に、貧しい者・病める者・悩める者・臨終の床にある者を訪問すること」が重要です。これが政治規準に明記されている意味は、牧会とくに信徒の家庭を訪問しない牧師は戒規を受けなければならないということです。
しかし、そのような苦労ならばまだよいのです。牧師の喜びであり、本望です。問題は、その上に中会や大会の仕事が重なってくることです。それも改革派教会の牧師としての義務であり責任であるゆえに感謝して取り組まなければならないことについては、よく分かっているし、心も燃えている。しかし、「肉体が弱い」(マタイ26・41)という事態が起こってくる。このようなことは、誰がどう考えても「本末転倒」というしかない事態であることはご理解いただけるはずです。
「小中会主義」の眼目に、せめて中会の会議や委員会に参加するために要する物理的な移動の距離や労力を少なくしたいということがあります。説教と牧会に専念する時間と体力を確保するためです。山梨栄光教会の牧師は、東京で行われる会議や委員会への出席自体が、文字通り「一日がかりの仕事」です。3時間程度の委員会に出席するために、バスや電車を乗り継いで往復6時間近い道のりを日帰りしなければなりません。
同じことが教会の信徒や青年たちにも当てはまるはずです。東京の中心部から物理的な距離が遠い教会にとって「中会に参加する」とは、もっぱら「東京に行くこと」です。そのほとんどが「牧師が東京に行くこと」です。ところが、「それが何であるかはよく分からないし、わたしたちの教会の現実にとってどれほどの意味があるかも分かりません」というような否定的な反応が返ってくるばかりです。
教会のみんなが喜びとすることができないことに取り組んでいる牧師は、一体、何をしているというのでしょうか。また、それらの教会にとって「中会主催」の集会(中会青年会含む)への参加は、現実には不可能な場合が多く、チラシや案内が届いても関心を持つことができないと感じている人々が、少なくありません。
「小中会主義」の理念の背景には、このような現東部中会の現状に対する危機感や打開を求める声があります。かなりの部分が牧師の問題です。私も今、グズグズ独り言を言っているような気分です。しかし、牧師の時間と体力が回復されるとき、説教と牧会が少しはマシになる(かもしれない)ことを、ぜひ期待していただきたいのです。
Ⅲ 中会分割によって起こりうる現象と課題
さて、以上の考察によって本日申し上げたいもう一つのことは、二つの中会への分割によって必然的に起こるであろう現象と課題は何か、ということです。
1)現象
そのとき起こる現象の第一は「牧師が教会に戻ってくる」ということです。その恩恵は、おそらく「サンタが街にやってくる」こと以上です。それぞれの教会が神の栄光の輝きを取り戻すでしょう。牧師が教会に“張り付く”ことができる余裕が増し、説教や牧会が活気を取り戻し、教会の諸集会や諸活動にも活気が戻るでしょう。
第二の現象は、「(新々)東部中会」に関することですが、現東部中会の諸集会の主な会場であったという意味での“中心的な”教会が“非中心化”されうる、ということです。
奥歯に物がはさまったような言い方は不要かもしれません。「小中会主義」の眼目の中に物理的距離の問題があることは、すでにお話ししました。そうであるならば、「東関東中会」分離後の「(新々)東部中会」の物理的な中心地は、従来と全く同じではないはずです。新しい中心はどのあたりになるかが課題になるでしょう。もちろん、交通路の問題が考慮されなくてはなりません。たとえば、同じ「甲信地区」の教会でも、長野伝道所は長野新幹線を利用できるので、都心に出かけるほうが便利と言います。しかし山梨栄光教会や上諏訪湖畔伝道所は全く事情が異なります。
第三の現象は、第二の現象の必然的帰結ですが、従来の“中心的”教会の“非中心化”に伴い、中会主催の諸集会や諸活動が、地域的により分散化されうる、ということです。現在すでに、東京地区・埼玉地区・神奈川地区・甲信地区などの単位で諸集会・諸活動が行われていますが、それがますます活発化していくでしょうし、そうなっていくべきでしょう。もしかしたら、現在の地区単位の活動が、やがては新しい「中会」になっていくことが十分にありうるし、期待されていることでもあるのです。
2)課題
このように想定されうる現象を踏まえつつ、今後東部中会青年会が課題とすべきことは何でしょうか。考えられることを以下列記しておきます。
第一の課題は、これまで以上に一人一人が「改革派信仰」を真剣に学ぶ機会を増やしていくためにはどうしたらよいのかということです。牧師たちが教会に戻ってくるということは、青年たちとの距離が物理的にも・精神的にも近づくことを意味します。牧師たちを自分の「家庭教師」だと思っていただき、遠慮なく質問してください。そういうことをするために牧師は神に召されたのです。
第二の課題は、中会青年会の地域的分散化の促進と相互の連携は、どのようにして実現するのか、ということです。これは、ぜひ皆さんで考えてください。
第三の課題は、新たなる開拓伝道の場を見出していくことです。これは、最初のほうで申し上げた「小中会主義の目標は小規模中会ではない」という点に関わります。青年たちにこそ考えてほしいことです。今はまだ「改革派教会」の影も形も無いような場所に立派な教会が立っている夢を見ていただきたいのです。たとえば、“お台場”のような地域で青年たちの定期的な集会が10年、20年と続けられていくうちに、もしかしたら「お台場伝道所」が生み出されるかもしれません。それとも皆さんは“ありそうもない夢は見ない主義”でしょうか。
Ⅳ 私の夢
最後に、「東関東中会設立10周年記念信徒大会」(2016年)についての私の夢を描いておきます。私は50才、妻は47才、長男21才、長女は17才です。子どもたちは青年会や高校生会のメンバーです。もちろん予定は未定です。しかし、許されるならば、そのときも松戸小金原教会の牧師です。現在の松戸小金原教会には青年が少ないのですが、2016年には今の小学生たちが「東関東中会」の青年会を盛り立てているでしょう。
そのとき、「東関東中会」は、いくつの教会・伝道所を擁しているでしょうか。少しも変わっていないでしょうか。「(新々)東部中会」はどうでしょうか。「改革派信仰」に養われた信徒は、何人いるでしょうか。
恐るべき事態も発生しているかもしれません。「東関東中会10周年記念信徒大会」には、宮崎彌男先生も、高瀬一夫先生も、横田隆先生も、李康憲先生も“引退教師”として参加していただくことになります。後任の教師は、備えられているでしょうか。
ここで第四の課題をあげておく必要がありそうです。「牧師」として献身する人が起こされることを祈らなくてはなりません。女性教師・女性長老の可能性も真剣に考えていくべきでしょう。牧師と結婚していただける方も起こされることを期待したいところです。
質問
1)「教会や中会でしたいこと、できそうなことは何か(できるだけ具体的に)」
2)「教会や中会に、これからもっと積極的に取り組んでもらいたいことは何か」
3)「通っている教会が遠すぎるので、もっと近くに改革派教会ができると有難いのだが、と願っている人に、ズバリ聞きたい。候補地はどこですか」
2005年1月9日日曜日
イエスの受洗
ルカによる福音書3・15〜22
関口 康
今日学びますのは、イエスさまが洗礼を受けられたときの話です。イエスさまも、洗礼を受けられたのです。
イエスさまに洗礼を授けたのは、ヨハネという人物でした。洗礼ヨハネと呼ばれます。このヨハネについて、ルカは、次のように紹介しています。
「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビネレの領主、アンナスとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(3・1〜2)
たくさんの名前が出てきます。しかし、これは、単に、その時代についての歴史的背景の説明というようなことではありません。
詳しくお話しする時間がありませんが、ここに書かれている一人一人の人物の素性を調べていく必要があります。じつに問題のある人々です。「揃いも揃って」という感じです。
こんなにも問題に満ちた人々が、それぞれ非常に責任ある指導的な立場についている、ということが、問題です。
こんなひどい人々の時代に、イエスさまはヨハネから洗礼を受けられたのだ、という気持ちが、ルカにはある、ということが理解されなければなりません。
ところで、ヨハネが人々に授けていた洗礼について、あらかじめ申し上げておきたいことがあります。
それは、今お読みしましたところに書かれてあるとおり、「罪の赦しを得させるために」という目的のために授けられる「悔い改めの洗礼」と呼ばれるものであった、ということです。
イエスさまは、この意味での洗礼を、たしかに、お受けになりました。しかし、それは、奇妙に聞こえるかもしれませんが、本来ならば受ける必要のない洗礼でした。
なぜなら、そもそも、イエスさまというお方は、「罪の赦し」というようなものを得る必要のないお方であり、また「悔い改め」というようなことをする必要のないお方だからです。
そのことを、じつは、ヨハネ自身も知っていました。ルカは、そのことを何も書いていませんが、マタイが書いています(マタイ3・13以下)。
イエスさまが洗礼を受けるためにヨハネのところに行かれたとき、ヨハネは「思いとどまらせようとした」と、マタイが書いています。そのとき、ヨハネは言いました。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか。」
それに対するイエスさまのお答えは、このようなものでした。
「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
イエスさまご自身が語られた、洗礼を受けられた理由は、これだけでした。これ以上のことは、明らかにされていません。
そこでヨハネは、イエスさまの言われるとおりにした、とあります。やや謎めいていると言わざるをえません。
ともかく、ここで明らかなことは、イエスさまは、御自身のお考えで、洗礼を受けられたのだ、ということです。
このヨハネからのイエスさまの受洗について、現代の教会において、定説とまでは言えませんが、有力な解釈があります。
それは、イエスさまは、全人類の代表者として、みんなの代わりに洗礼を受けられたのだ、という解釈です。「代表洗礼」と呼ばれます。
しかし、それは、イエスさまが全人類の代表者として、みんなの代わりに洗礼を受けてくださったのだから、もはや、誰も洗礼を受ける必要はない、という意味ではありません。
全く正反対です。
御自身は全く罪のない、永遠の神の御子であられるイエスさまでさえ、洗礼をお受けになったのだから、すべての人が洗礼を受けるべきである、ということです。
ですから、イエスさまの受洗には、模範の意味があると言えます。「代表洗礼」とは、全人類の模範として、全人類を代表して、イエスさまが受けられた洗礼のことである、と理解できるのです。
さて、イエスさまに洗礼を授けたヨハネについて、ルカが書いていないことでマタイが書いていることが、もう一つあります。それは、ヨハネの着ていた服や食べ物のことです。
「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」
これは当時のユダヤ人たちの一般的な姿である、ということを、マタイが紹介しているわけではありません。
全く正反対です。
むしろ、少しも一般的ではない、きわめて奇怪で特異な風貌で、ヨハネは、人々に洗礼を授ける運動(洗礼運動)をしていたのだ、ということを、明らかにしているのです。
いわゆる禁欲主義者、という表現が当てはまります。悪く言えば、世捨て人のようだ、と思われても仕方がないような、きわめて世間離れした姿です。
このような姿で、ヨハネは「罪の赦しを得させるための、悔い改めの洗礼」を授けていました。
そのヨハネの動機や目的は何であったかについて、ルカは、次のように書いています。
「これは、預言者イザヤの書に書いているとおりである。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」』」
この中で、おそらく最も注目すべき言葉は、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」です。ヨハネが人々に洗礼を授けた動機と目的は、これです。
つまり、ヨハネの後に来る真の救い主キリストのために、道を整え、その道筋をまっすぐにすることです。
ヨハネ自身は、救い主ではありませんでした。しかし、ヨハネの周りの人々は、ヨハネこそが救い主であると誤解していました。
「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」
当時の一般的な人々の目から見ると「変わっている」と思われても仕方のない特異な格好で、何事かを一生懸命に教え、「悔い改めの洗礼」というような何か新しいことを始めたヨハネが、非常に特別な存在に見えたのではないでしょうか。
しかし、ヨハネは、言いました。
「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。』」
「わたしよりも優れた方が来られる」。その方のために、わたしは、道を整え、その道筋をまっすぐにするだけである。これがヨハネの言い分でした。「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」。
他の人よりも先に、自分のなすべきことを見つけて熱心に取り組み、そのことで有名になり、多くの人に慕われるようになった人々は、いろんな時代のいろんな社会に見出すことができます。
ヨハネもその一人であった、と見ることができるでしょう。
ところが、このヨハネに限っては、このわたしのしていることは、ただひたすら、次に来るお方のためである、ということを、本当に信じていました。
このわたし自身が有名になりたい、とか、このわたしを慕ってくる人を多く集めたい、というような、自己目的的・自己実現的な動機の部分は、少しもありませんでした。
そのように、彼自身が語ったし、実際に彼の言うとおりであった、と言わなければなりません。
わたしのしていることは、ただ、準備にすぎないのだと。
真の救い主の到来に備えて、できるだけ多くの人々を集め、その人々に悔い改めの洗礼を授けることが、わたしの務めであるのだと。ヨハネは、自分自身の使命を、そのように理解し、実践したのです。
ここで、わたしたち自身のことを考えてみることができるかもしれません。
わたしたちは、ヨハネほど純粋ではないかもしれません。しかし、ある面では、ヨハネと同じ心をもって生きているように思います。
教会の存在とわざは、まさにこのヨハネ的なものでありうるし、そうでなければならないとさえ思います。
それはどういう意味でかと申しますと、教会は、人々をキリストへと導き、キリスト御自身の救いのみわざによって人々が救われるための準備を行うにすぎないのだ、という意味に他なりません。
わたしたちを救うのは、キリストであって、教会ではない、という言い方も、成り立ちます。
わたしは教会の中で救われた、ということは語ってよいことですが、教会がわたしを救うのではなく、キリストがわたしを救うのだ、と語らなければならないのです。
もっとも、これを、なんだかまるで、教会が責任逃れをしているような意味や含みがあるかのように受けとられるならば、それは誤解です。
「わたしたち教会は、誰一人救うことも、助けることもできません。だから、どうぞ、キリストに救ってもらってください。わたしたちは知りません。」
そのような、まるで投げやりで、冷たく人を突き放すような態度をとることが、教会に許されているわけではありません。
そんなことではないはずです。ヨハネも、そのようなことは言いませんでしたし、そのような冷たい態度を、人に向けたこともありません。
むしろ、逆です。できるかぎりのことを、教会は、しなければなりません。人の助けになるようなことならば、何でも、です。
それは、究極的・決定的な意味での「救い」とは、言えないかもしれません。しかし、可能なかぎりよいものを提供すること、惜しみなく与えることは、教会にできることです。
救いを求めている人々にとって、まさに「救い」と感じられるような、励ましや慰めを語ること、あるいは、その人々にとって益となるようなものを差し上げることならば、教会にはできますし、しなければならないのです。
ただがっかりさせるだけ。何一つよいものを提供することもない。その上で、「どうぞご勝手に!」というような冷たい言葉を投げつけて済ませるようなことが、教会に許されているわけではないのです。
しかし、しかし、です。
教会の存在とわざは、究極的に言えば、キリストを指し示すことができるだけです。
人々をキリストへと連れて行くことができるだけです。
わたしたち自身がキリストであるわけではないし、教会がキリスト御自身であるわけでもないのです。
これは、わたしたち教会の者たちが語りうる「謙遜」の表現であると思います。
「教会に行くと、キリスト、キリストばかりだ。教会には、いつもニコニコしている素晴らしい人が集まっているようだ。また、時々、美味しいごちそうも出るらしい。キリストさえ出てこなければ、教会は、とても良いところなのに。キリストならば、要りません。どうか、別のものをください」
このように言われると、ちょっと困ります。いえ、かなり困ります。困る理由は、はっきりしています。
キリストが出てこないような教会は、単純に言って、教会ではないからです。「教会」の看板を、おろさなくてはならなくなります。それでは、困るのです。
教会に来ると、たしかに、キリスト、キリストです。「キリストさえ出てこなければ、もっとたくさん人が集まると思いますよ」と、真面目な顔でアドバイスしてくださる方さえいます。
しかし、この方こそが、わたしたちの救い主なのです。
我慢して聞いてください、とは言いません。でも、キリストが、わたしたちを救ってくださるのです。
そのことを、何とかして、一人でも多くの人々に、分かっていただきたいし、信じていただきたいと、教会は、願っているのです。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」
ここには、イエスさまが洗礼を受けられたときに起こった出来事が、記されています。もはやどのような言葉を尽くしても説明しきれない、と感ぜざるをえない、非常に不思議な出来事であったと言えるでしょう。
その不思議さゆえに、その洗礼は、やはり、単なる普通の洗礼ではない、と理解することができます。
天から聞こえてきた声は、父なる神の声です。また、聖霊がイエスさまの上に降ってきました。
父・子・聖霊なる三位一体の神の栄光が、そこに全く現われました。
そのような輝かしい出来事が、イエスさまの洗礼の場面で、起こったのです!
(2005年1月9日、松戸小金原教会主日礼拝)
関口 康
今日学びますのは、イエスさまが洗礼を受けられたときの話です。イエスさまも、洗礼を受けられたのです。
イエスさまに洗礼を授けたのは、ヨハネという人物でした。洗礼ヨハネと呼ばれます。このヨハネについて、ルカは、次のように紹介しています。
「皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビネレの領主、アンナスとカイアファが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。」(3・1〜2)
たくさんの名前が出てきます。しかし、これは、単に、その時代についての歴史的背景の説明というようなことではありません。
詳しくお話しする時間がありませんが、ここに書かれている一人一人の人物の素性を調べていく必要があります。じつに問題のある人々です。「揃いも揃って」という感じです。
こんなにも問題に満ちた人々が、それぞれ非常に責任ある指導的な立場についている、ということが、問題です。
こんなひどい人々の時代に、イエスさまはヨハネから洗礼を受けられたのだ、という気持ちが、ルカにはある、ということが理解されなければなりません。
ところで、ヨハネが人々に授けていた洗礼について、あらかじめ申し上げておきたいことがあります。
それは、今お読みしましたところに書かれてあるとおり、「罪の赦しを得させるために」という目的のために授けられる「悔い改めの洗礼」と呼ばれるものであった、ということです。
イエスさまは、この意味での洗礼を、たしかに、お受けになりました。しかし、それは、奇妙に聞こえるかもしれませんが、本来ならば受ける必要のない洗礼でした。
なぜなら、そもそも、イエスさまというお方は、「罪の赦し」というようなものを得る必要のないお方であり、また「悔い改め」というようなことをする必要のないお方だからです。
そのことを、じつは、ヨハネ自身も知っていました。ルカは、そのことを何も書いていませんが、マタイが書いています(マタイ3・13以下)。
イエスさまが洗礼を受けるためにヨハネのところに行かれたとき、ヨハネは「思いとどまらせようとした」と、マタイが書いています。そのとき、ヨハネは言いました。
「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところに来られたのですか。」
それに対するイエスさまのお答えは、このようなものでした。
「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」
イエスさまご自身が語られた、洗礼を受けられた理由は、これだけでした。これ以上のことは、明らかにされていません。
そこでヨハネは、イエスさまの言われるとおりにした、とあります。やや謎めいていると言わざるをえません。
ともかく、ここで明らかなことは、イエスさまは、御自身のお考えで、洗礼を受けられたのだ、ということです。
このヨハネからのイエスさまの受洗について、現代の教会において、定説とまでは言えませんが、有力な解釈があります。
それは、イエスさまは、全人類の代表者として、みんなの代わりに洗礼を受けられたのだ、という解釈です。「代表洗礼」と呼ばれます。
しかし、それは、イエスさまが全人類の代表者として、みんなの代わりに洗礼を受けてくださったのだから、もはや、誰も洗礼を受ける必要はない、という意味ではありません。
全く正反対です。
御自身は全く罪のない、永遠の神の御子であられるイエスさまでさえ、洗礼をお受けになったのだから、すべての人が洗礼を受けるべきである、ということです。
ですから、イエスさまの受洗には、模範の意味があると言えます。「代表洗礼」とは、全人類の模範として、全人類を代表して、イエスさまが受けられた洗礼のことである、と理解できるのです。
さて、イエスさまに洗礼を授けたヨハネについて、ルカが書いていないことでマタイが書いていることが、もう一つあります。それは、ヨハネの着ていた服や食べ物のことです。
「ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。」
これは当時のユダヤ人たちの一般的な姿である、ということを、マタイが紹介しているわけではありません。
全く正反対です。
むしろ、少しも一般的ではない、きわめて奇怪で特異な風貌で、ヨハネは、人々に洗礼を授ける運動(洗礼運動)をしていたのだ、ということを、明らかにしているのです。
いわゆる禁欲主義者、という表現が当てはまります。悪く言えば、世捨て人のようだ、と思われても仕方がないような、きわめて世間離れした姿です。
このような姿で、ヨハネは「罪の赦しを得させるための、悔い改めの洗礼」を授けていました。
そのヨハネの動機や目的は何であったかについて、ルカは、次のように書いています。
「これは、預言者イザヤの書に書いているとおりである。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。」』」
この中で、おそらく最も注目すべき言葉は、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」です。ヨハネが人々に洗礼を授けた動機と目的は、これです。
つまり、ヨハネの後に来る真の救い主キリストのために、道を整え、その道筋をまっすぐにすることです。
ヨハネ自身は、救い主ではありませんでした。しかし、ヨハネの周りの人々は、ヨハネこそが救い主であると誤解していました。
「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた。」
当時の一般的な人々の目から見ると「変わっている」と思われても仕方のない特異な格好で、何事かを一生懸命に教え、「悔い改めの洗礼」というような何か新しいことを始めたヨハネが、非常に特別な存在に見えたのではないでしょうか。
しかし、ヨハネは、言いました。
「そこで、ヨハネは皆に向かって言った。『わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。』」
「わたしよりも優れた方が来られる」。その方のために、わたしは、道を整え、その道筋をまっすぐにするだけである。これがヨハネの言い分でした。「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」。
他の人よりも先に、自分のなすべきことを見つけて熱心に取り組み、そのことで有名になり、多くの人に慕われるようになった人々は、いろんな時代のいろんな社会に見出すことができます。
ヨハネもその一人であった、と見ることができるでしょう。
ところが、このヨハネに限っては、このわたしのしていることは、ただひたすら、次に来るお方のためである、ということを、本当に信じていました。
このわたし自身が有名になりたい、とか、このわたしを慕ってくる人を多く集めたい、というような、自己目的的・自己実現的な動機の部分は、少しもありませんでした。
そのように、彼自身が語ったし、実際に彼の言うとおりであった、と言わなければなりません。
わたしのしていることは、ただ、準備にすぎないのだと。
真の救い主の到来に備えて、できるだけ多くの人々を集め、その人々に悔い改めの洗礼を授けることが、わたしの務めであるのだと。ヨハネは、自分自身の使命を、そのように理解し、実践したのです。
ここで、わたしたち自身のことを考えてみることができるかもしれません。
わたしたちは、ヨハネほど純粋ではないかもしれません。しかし、ある面では、ヨハネと同じ心をもって生きているように思います。
教会の存在とわざは、まさにこのヨハネ的なものでありうるし、そうでなければならないとさえ思います。
それはどういう意味でかと申しますと、教会は、人々をキリストへと導き、キリスト御自身の救いのみわざによって人々が救われるための準備を行うにすぎないのだ、という意味に他なりません。
わたしたちを救うのは、キリストであって、教会ではない、という言い方も、成り立ちます。
わたしは教会の中で救われた、ということは語ってよいことですが、教会がわたしを救うのではなく、キリストがわたしを救うのだ、と語らなければならないのです。
もっとも、これを、なんだかまるで、教会が責任逃れをしているような意味や含みがあるかのように受けとられるならば、それは誤解です。
「わたしたち教会は、誰一人救うことも、助けることもできません。だから、どうぞ、キリストに救ってもらってください。わたしたちは知りません。」
そのような、まるで投げやりで、冷たく人を突き放すような態度をとることが、教会に許されているわけではありません。
そんなことではないはずです。ヨハネも、そのようなことは言いませんでしたし、そのような冷たい態度を、人に向けたこともありません。
むしろ、逆です。できるかぎりのことを、教会は、しなければなりません。人の助けになるようなことならば、何でも、です。
それは、究極的・決定的な意味での「救い」とは、言えないかもしれません。しかし、可能なかぎりよいものを提供すること、惜しみなく与えることは、教会にできることです。
救いを求めている人々にとって、まさに「救い」と感じられるような、励ましや慰めを語ること、あるいは、その人々にとって益となるようなものを差し上げることならば、教会にはできますし、しなければならないのです。
ただがっかりさせるだけ。何一つよいものを提供することもない。その上で、「どうぞご勝手に!」というような冷たい言葉を投げつけて済ませるようなことが、教会に許されているわけではないのです。
しかし、しかし、です。
教会の存在とわざは、究極的に言えば、キリストを指し示すことができるだけです。
人々をキリストへと連れて行くことができるだけです。
わたしたち自身がキリストであるわけではないし、教会がキリスト御自身であるわけでもないのです。
これは、わたしたち教会の者たちが語りうる「謙遜」の表現であると思います。
「教会に行くと、キリスト、キリストばかりだ。教会には、いつもニコニコしている素晴らしい人が集まっているようだ。また、時々、美味しいごちそうも出るらしい。キリストさえ出てこなければ、教会は、とても良いところなのに。キリストならば、要りません。どうか、別のものをください」
このように言われると、ちょっと困ります。いえ、かなり困ります。困る理由は、はっきりしています。
キリストが出てこないような教会は、単純に言って、教会ではないからです。「教会」の看板を、おろさなくてはならなくなります。それでは、困るのです。
教会に来ると、たしかに、キリスト、キリストです。「キリストさえ出てこなければ、もっとたくさん人が集まると思いますよ」と、真面目な顔でアドバイスしてくださる方さえいます。
しかし、この方こそが、わたしたちの救い主なのです。
我慢して聞いてください、とは言いません。でも、キリストが、わたしたちを救ってくださるのです。
そのことを、何とかして、一人でも多くの人々に、分かっていただきたいし、信じていただきたいと、教会は、願っているのです。
「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」
ここには、イエスさまが洗礼を受けられたときに起こった出来事が、記されています。もはやどのような言葉を尽くしても説明しきれない、と感ぜざるをえない、非常に不思議な出来事であったと言えるでしょう。
その不思議さゆえに、その洗礼は、やはり、単なる普通の洗礼ではない、と理解することができます。
天から聞こえてきた声は、父なる神の声です。また、聖霊がイエスさまの上に降ってきました。
父・子・聖霊なる三位一体の神の栄光が、そこに全く現われました。
そのような輝かしい出来事が、イエスさまの洗礼の場面で、起こったのです!
(2005年1月9日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年1月2日日曜日
少年イエス
ルカによる福音書2・41〜52
関口 康
今日、新しい年の最初の主の日より、これから、イエス・キリストの生涯について、新約聖書のルカによる福音書に基づいて、学んで行きたいと願っております。
昨年中は、7ヶ月にわたり、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙を学びました。
その中に「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(2・16)と書かれていました。
これは信仰義認の教理といいます。「義とされる」とは、わたしたち人間が罪人であるにもかかわらず神の御前で正しい者であると認めていただけることです。罪を赦していただけることです。
信仰義認の教理とは、救い主イエス・キリストを信じる人の罪を、父なる神が赦してくださり、永遠の命を与えてくださるという、とてもありがたい教えです。これは、ガラテヤの信徒への手紙全体のテーマ、と言ってもよいものです。
それでは、次なる問題は何か、と考えてみたわけです。
使徒パウロが「人が義とされるのはイエス・キリストへの信仰による」と言っている。
それでは、わたしたちが、そのお方を、ただ信じるだけで、このわたしの罪を赦していただくことができ、また、このわたしに永遠の命を与えていただくことができるという、それほどまでにありがたい、イエス・キリストというお方とは、いったい、どのようなご存在であられるのか。
この問題を次に考えてみたいと思ったわけです。
わたしたちが、その方を信じるだけで、わたしたちが神の前で正しい者と認めていただける、という、救い主イエス・キリストとは、どのようなお方か、です。
その最初に取り上げますのは、イエスさまの少年時代に起こった一つの驚くべき出来事です。
それは、十二歳のイエスさまが旅行先で、なんと三日間も両親からはぐれてしまい、行方不明者になってしまわれる、という出来事です。
「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。」
その出来事が起こったのは、エルサレムでした。両親が真面目なユダヤ教徒で、毎年の過越祭にはエルサレム神殿に詣でることにしていましたので、十二才のイエスさまも両親について行かれたのです。
ところが、祭りが終わってガリラヤのナザレの村に帰る道の途中で、両親がはっと気づいたことが、自分の息子がいない、ということでした。
そのことに気づかないままで、一日分の道のりを歩いてしまった、というのですから、いくらなんでも、ちょっと鈍すぎるのではないか、と思われても仕方がありません。
しかし、考慮しなければならないことは、その場面は、お祭りの帰り道であった、ということです。
道一杯に人がいる。自分で歩いているのか、人に押されて歩かされているのかも、分からないような状態。そう、ちょうど、あの歩行者天国のような状態を思い浮かべることができます。
そして、まさか、十二才の男の子(今の小学六年生に当たります)が、公衆の面前で、お父さんやお母さんと手をつないで歩いたりはしないでしょう。
息子はたぶん一緒にいるのだろう、と思いながらも、実際にいるかどうかを確認できなかったのです。
親の過失もあると言えば、そのとおりです。しかし、十分に同情に値する状態であったと思われるのです。
それでは、イエスさまは、そのとき、どこで、何をしておられたのか、と言いますと、エルサレム神殿の中に、最初からずっと残っておられました。
そこで何をしておられたかについては、この続きに書かれています。
「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」
なんと、イエスさまは、大人たちの真ん中に座って、聖書の御言についての議論をしておられました。
「学者たち」とは、ユダヤ教の律法学者たちのことです。律法学者たちが研究していたのは、わたしたちが持っているのと同じこの聖書であり、旧約聖書です。ですから、彼らのことを、わたしたちは、聖書学者と呼ぶこともできるのです。
また、そこにはおそらく、これから律法学者になるために聖書の研究をしていた神学生たちもいたのではないか、と考えられます。
当時のエルサレム神殿は、イスラエルの人々が集まって礼拝する場所であると同時に、律法学者を養成するための律法学校、ないし、われわれの言う「神学校」の役割を果たしていたことが知られています。
この点から言えば、イエスさまは、神学教授や神学生たちの中に紛れ込んで、三日間の“体験入学”をしていた、と語ることさえできるのです。
これを「早熟」と呼ぶならば、間違いなく早熟な子どもであった、と言えるでしょう。しかし、もう少しよく考えてみれば、このようなことは、わたしたち教会の中では、決して珍しいことではないと思われます。
今日は、浅野正紀神学生が帰ってきておられます。神学生は、神学校で高度な専門教育を受けています。しかし、その神学教育は、何のためにあるでしょうか。ひとえに、教会に仕えるためです。
そして、神学生や牧師たちは、教会の日曜学校で、子どもたちにも語ります。神学を学ぶ目的は、難しい話をするためではありません。子どもたちに理解できるほどに分かりやすく、聖書の御言を語れるようになるために、神学を学ぶのです。
山梨栄光教会で、特別伝道礼拝の講師として、神戸改革派神学校の牧田吉和校長に来ていただいたことがあります。
そのとき牧田先生には、日曜学校の礼拝の説教もしていただきました。非常に分かりやすく噛み砕いた言葉で丁寧に教えてくださいましたので、子どもたちは、本当に喜びながら牧田先生の語る御言に耳を傾けていました。
今年10月に計画している松戸小金原教会の特別伝道集会に、牧田先生をお招きすることになっています。日曜学校でもお話ししていただくかどうかは、まだ相談していませんが、ぜひお願いしたらよいと思います。
優れた神学者こそが、優れた児童説教者である。その良い模範を示していただけると思います。
子どもたちに分かるほどに丁寧に話を噛み砕くことができるのは、それだけよく聖書の内容を思想的・構造的に理解していることの証しなのです。
少し脱線してしまったかもしれません。わたしが申し上げたいことは、十二才のイエスさまがエルサレム神殿の律法学者たちを相手に議論しておられた、というのは、ただ単に早熟という言葉だけで片付けてしまうことはできないだろう、ということです。
子どもたちに聖書の御言など理解できるはずがない、と思わないほうがよいのです。それどころか、子どもたちのほうが、われわれ大人たちよりも、はるかに優れたセンスや関心を持っている場合があるのです。
脱線ついでに、もう一つのことを申し上げておきます。
幼稚園から高校まで一緒だったわたしの岡山の友人は、現在医者をしておりますが、小学六年生のとき(十二才!)、すでにアインシュタインの相対性理論を理解しておりました。
天才肌の人だったことは、間違いありません。しかし、ぜひご理解いただきたいのは、十二才の少年少女が持っている能力や可能性は、決して低いものではない、ということです。
わたしたちの教会の日曜学校でも、先生たちのほうが、たじたじする場面もあるくらいに、先生たちの話に真剣に耳を傾け、質問などもどんどんしてくれます。
イエスさまがエルサレム神殿でしておられたことも、まさにそのようなことです。聖書の御言を真剣に学び、また、そのことを心から楽しんでおられたのです。そのように理解することができるのです。
ところが、そのイエスさまを、三日経って、やっと見つけた両親は、イエスさまの姿を見つけるや否や、頭ごなしに叱りつけてしまいました。
「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』」
イエスさまのほうも、悪いと言えば悪いかもしれません。理由は何であれ、大切な両親を心配させてしまったのですから。
しかし、イエスさまは、わるびれるところが全くありませんでした。「お父さん、お母さん、心配かけて、ごめんなさい」と謝ったりもされませんでした。その代わり、次のように言われました。
「すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」
非常に興味深い返答であると思います。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」というこの言葉には、次の二つの側面がある、と思われます。
第一の側面は、イエスさまは、エルサレム神殿のことを、そこがまるで自分の実家であるかのように、安心して楽しむことができる場所であると見ておられる、ということです。
御言の学びや議論は、楽しいものです。イエスさまは、そのことを楽しんでおられました。
実家にいて、そこで楽しんでいて、何が悪いのか。わたしは当たり前のことをしていたのに、それを叱られるのは不条理ではないか、と反論しておられるのです。
この面について言えば、わたしたちにとって教会は、まさにそういう場所であると言えるでしょう。
わたしが教会に行くのは、当たり前である。教会に行かないことのほうが、不自然である。
このような気持ちを、おそらく、わたしたちは、すでに持っています。この点で、わたしたちは、イエスさまの言い分に、十分な意味で同意することができるはずです。
第二の側面は、イエスさまは、エルサレム神殿のことを、まさに文字通り「自分の父の家」であると語っておられる、ということです。
これは、第一の面とは根本的に異なる意味を持っています。父なる神の家にいる、このわたしは父なる神の御子である、ということです。
イエスさまは、母マリアから産まれました。しかし、この方こそ、神の永遠の御子であり、救い主キリストなのです。
そのことを、イエスさまはすでに十二才のときに自覚しておられたのです。
「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」
両親はイエスさまの言葉の意味、また行動の意味を、すぐに理解することはできませんでした。それが理解できたのは、おそらくずっと後です。
イエスさまが十字架につけられて全人類の罪の贖いのみわざを行われ、そして三日目に甦って、神の御子としてのお姿を現されたときです。
マリアとヨセフは、なんとたいへんな子どもを、神さまから預かったことでしょうか。苦労も多かったでしょう。
しかし、それは、本当に光栄なことでした。
全人類の救い主を育てる光栄に与ったのです!
(2005年1月2日、松戸小金原教会主日礼拝)
関口 康
今日、新しい年の最初の主の日より、これから、イエス・キリストの生涯について、新約聖書のルカによる福音書に基づいて、学んで行きたいと願っております。
昨年中は、7ヶ月にわたり、使徒パウロのガラテヤの信徒への手紙を学びました。
その中に「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました」(2・16)と書かれていました。
これは信仰義認の教理といいます。「義とされる」とは、わたしたち人間が罪人であるにもかかわらず神の御前で正しい者であると認めていただけることです。罪を赦していただけることです。
信仰義認の教理とは、救い主イエス・キリストを信じる人の罪を、父なる神が赦してくださり、永遠の命を与えてくださるという、とてもありがたい教えです。これは、ガラテヤの信徒への手紙全体のテーマ、と言ってもよいものです。
それでは、次なる問題は何か、と考えてみたわけです。
使徒パウロが「人が義とされるのはイエス・キリストへの信仰による」と言っている。
それでは、わたしたちが、そのお方を、ただ信じるだけで、このわたしの罪を赦していただくことができ、また、このわたしに永遠の命を与えていただくことができるという、それほどまでにありがたい、イエス・キリストというお方とは、いったい、どのようなご存在であられるのか。
この問題を次に考えてみたいと思ったわけです。
わたしたちが、その方を信じるだけで、わたしたちが神の前で正しい者と認めていただける、という、救い主イエス・キリストとは、どのようなお方か、です。
その最初に取り上げますのは、イエスさまの少年時代に起こった一つの驚くべき出来事です。
それは、十二歳のイエスさまが旅行先で、なんと三日間も両親からはぐれてしまい、行方不明者になってしまわれる、という出来事です。
「さて、両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。」
その出来事が起こったのは、エルサレムでした。両親が真面目なユダヤ教徒で、毎年の過越祭にはエルサレム神殿に詣でることにしていましたので、十二才のイエスさまも両親について行かれたのです。
ところが、祭りが終わってガリラヤのナザレの村に帰る道の途中で、両親がはっと気づいたことが、自分の息子がいない、ということでした。
そのことに気づかないままで、一日分の道のりを歩いてしまった、というのですから、いくらなんでも、ちょっと鈍すぎるのではないか、と思われても仕方がありません。
しかし、考慮しなければならないことは、その場面は、お祭りの帰り道であった、ということです。
道一杯に人がいる。自分で歩いているのか、人に押されて歩かされているのかも、分からないような状態。そう、ちょうど、あの歩行者天国のような状態を思い浮かべることができます。
そして、まさか、十二才の男の子(今の小学六年生に当たります)が、公衆の面前で、お父さんやお母さんと手をつないで歩いたりはしないでしょう。
息子はたぶん一緒にいるのだろう、と思いながらも、実際にいるかどうかを確認できなかったのです。
親の過失もあると言えば、そのとおりです。しかし、十分に同情に値する状態であったと思われるのです。
それでは、イエスさまは、そのとき、どこで、何をしておられたのか、と言いますと、エルサレム神殿の中に、最初からずっと残っておられました。
そこで何をしておられたかについては、この続きに書かれています。
「三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。」
なんと、イエスさまは、大人たちの真ん中に座って、聖書の御言についての議論をしておられました。
「学者たち」とは、ユダヤ教の律法学者たちのことです。律法学者たちが研究していたのは、わたしたちが持っているのと同じこの聖書であり、旧約聖書です。ですから、彼らのことを、わたしたちは、聖書学者と呼ぶこともできるのです。
また、そこにはおそらく、これから律法学者になるために聖書の研究をしていた神学生たちもいたのではないか、と考えられます。
当時のエルサレム神殿は、イスラエルの人々が集まって礼拝する場所であると同時に、律法学者を養成するための律法学校、ないし、われわれの言う「神学校」の役割を果たしていたことが知られています。
この点から言えば、イエスさまは、神学教授や神学生たちの中に紛れ込んで、三日間の“体験入学”をしていた、と語ることさえできるのです。
これを「早熟」と呼ぶならば、間違いなく早熟な子どもであった、と言えるでしょう。しかし、もう少しよく考えてみれば、このようなことは、わたしたち教会の中では、決して珍しいことではないと思われます。
今日は、浅野正紀神学生が帰ってきておられます。神学生は、神学校で高度な専門教育を受けています。しかし、その神学教育は、何のためにあるでしょうか。ひとえに、教会に仕えるためです。
そして、神学生や牧師たちは、教会の日曜学校で、子どもたちにも語ります。神学を学ぶ目的は、難しい話をするためではありません。子どもたちに理解できるほどに分かりやすく、聖書の御言を語れるようになるために、神学を学ぶのです。
山梨栄光教会で、特別伝道礼拝の講師として、神戸改革派神学校の牧田吉和校長に来ていただいたことがあります。
そのとき牧田先生には、日曜学校の礼拝の説教もしていただきました。非常に分かりやすく噛み砕いた言葉で丁寧に教えてくださいましたので、子どもたちは、本当に喜びながら牧田先生の語る御言に耳を傾けていました。
今年10月に計画している松戸小金原教会の特別伝道集会に、牧田先生をお招きすることになっています。日曜学校でもお話ししていただくかどうかは、まだ相談していませんが、ぜひお願いしたらよいと思います。
優れた神学者こそが、優れた児童説教者である。その良い模範を示していただけると思います。
子どもたちに分かるほどに丁寧に話を噛み砕くことができるのは、それだけよく聖書の内容を思想的・構造的に理解していることの証しなのです。
少し脱線してしまったかもしれません。わたしが申し上げたいことは、十二才のイエスさまがエルサレム神殿の律法学者たちを相手に議論しておられた、というのは、ただ単に早熟という言葉だけで片付けてしまうことはできないだろう、ということです。
子どもたちに聖書の御言など理解できるはずがない、と思わないほうがよいのです。それどころか、子どもたちのほうが、われわれ大人たちよりも、はるかに優れたセンスや関心を持っている場合があるのです。
脱線ついでに、もう一つのことを申し上げておきます。
幼稚園から高校まで一緒だったわたしの岡山の友人は、現在医者をしておりますが、小学六年生のとき(十二才!)、すでにアインシュタインの相対性理論を理解しておりました。
天才肌の人だったことは、間違いありません。しかし、ぜひご理解いただきたいのは、十二才の少年少女が持っている能力や可能性は、決して低いものではない、ということです。
わたしたちの教会の日曜学校でも、先生たちのほうが、たじたじする場面もあるくらいに、先生たちの話に真剣に耳を傾け、質問などもどんどんしてくれます。
イエスさまがエルサレム神殿でしておられたことも、まさにそのようなことです。聖書の御言を真剣に学び、また、そのことを心から楽しんでおられたのです。そのように理解することができるのです。
ところが、そのイエスさまを、三日経って、やっと見つけた両親は、イエスさまの姿を見つけるや否や、頭ごなしに叱りつけてしまいました。
「両親はイエスを見て驚き、母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』」
イエスさまのほうも、悪いと言えば悪いかもしれません。理由は何であれ、大切な両親を心配させてしまったのですから。
しかし、イエスさまは、わるびれるところが全くありませんでした。「お父さん、お母さん、心配かけて、ごめんなさい」と謝ったりもされませんでした。その代わり、次のように言われました。
「すると、イエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』」
非常に興味深い返答であると思います。「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」というこの言葉には、次の二つの側面がある、と思われます。
第一の側面は、イエスさまは、エルサレム神殿のことを、そこがまるで自分の実家であるかのように、安心して楽しむことができる場所であると見ておられる、ということです。
御言の学びや議論は、楽しいものです。イエスさまは、そのことを楽しんでおられました。
実家にいて、そこで楽しんでいて、何が悪いのか。わたしは当たり前のことをしていたのに、それを叱られるのは不条理ではないか、と反論しておられるのです。
この面について言えば、わたしたちにとって教会は、まさにそういう場所であると言えるでしょう。
わたしが教会に行くのは、当たり前である。教会に行かないことのほうが、不自然である。
このような気持ちを、おそらく、わたしたちは、すでに持っています。この点で、わたしたちは、イエスさまの言い分に、十分な意味で同意することができるはずです。
第二の側面は、イエスさまは、エルサレム神殿のことを、まさに文字通り「自分の父の家」であると語っておられる、ということです。
これは、第一の面とは根本的に異なる意味を持っています。父なる神の家にいる、このわたしは父なる神の御子である、ということです。
イエスさまは、母マリアから産まれました。しかし、この方こそ、神の永遠の御子であり、救い主キリストなのです。
そのことを、イエスさまはすでに十二才のときに自覚しておられたのです。
「しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」
両親はイエスさまの言葉の意味、また行動の意味を、すぐに理解することはできませんでした。それが理解できたのは、おそらくずっと後です。
イエスさまが十字架につけられて全人類の罪の贖いのみわざを行われ、そして三日目に甦って、神の御子としてのお姿を現されたときです。
マリアとヨセフは、なんとたいへんな子どもを、神さまから預かったことでしょうか。苦労も多かったでしょう。
しかし、それは、本当に光栄なことでした。
全人類の救い主を育てる光栄に与ったのです!
(2005年1月2日、松戸小金原教会主日礼拝)
2005年1月1日土曜日
希望と勇気
使徒言行録22・17〜21
2005年 松戸小金原教会新年礼拝
関口 康
今日、新年礼拝において思いを至らせたいと願っておりますことは、松戸小金原教会に連なるわたしたちが、新しい年になすべきこと、果たすべき使命は何か、ということです。
この教会の昨年一年間の歩みにおいておそらく最も大きかった出来事は、やはり、牧師の交代ではなかったかと思います。
わたしは東関東伝道協議会の機関紙『東関東伝道』に掲載された「新任教師の挨拶」の中で、教会がなすべき伝道のわざを「仲間集め」と表現させていただきました。
「伝道とは仲間集めである」。これは、もちろん、牧師だけの話ではありません。教会の皆さんにとってこそ、この表現が当てはまるし、ふさわしいのではないかと感じます。
伝道とは、文字通り、信仰の友達を増やしていくことです。教会の仲間、礼拝の仲間を集めていくことです。そのようにして、新しい人間関係を一から築いていくことです。
昨年は2人の方が洗礼を受け、全く新しくキリスト者としての歩みを始められました。その他にも、牧師家族を含めて9名の他教会からの転入者・加入者が与えられました。信仰の友達が増えた、と実感していただけたのではないでしょうか。
新しい年はどうでしょうか。わたしたちは何をなすべきでしょうか。もちろん、引き続き伝道です。一に伝道、二に伝道です。
しかしまた、このことを、より厳密に言いますならば、わたしたちがなす「仲間集め」とは、ただ単に、わたしたちの仲間を集めることではない、とも言わなければなりません。
より正確に言うならば、救い主イエス・キリストの仲間を集めることです。イエス・キリストは、今も生きておられます。そのキリストと共に生きる仲間、キリストの救いの恵みに共に与り、喜びと感謝を分かち合う仲間を集めるのです。
ここで、先ほどお読みしました聖書の御言にご注目いただきたいと思います。
この個所は、前後に鉤括弧が付けられていることで分かりますとおり、ある人が語った言葉の一部です。西暦1世紀に活躍した偉大なるキリスト教伝道者、使徒パウロの言葉です。
この言葉をパウロはどのような場所や状況で語っているかについては、使徒言行録21・17以下の一連の記事を読んでいただきますと、お分かりいただけます。
それは要するに、たいへん危険な状況であった、と語ることができます。
パウロは、キリスト教伝道者としての生涯において、三回の伝道旅行を行いましたが、第二回目の伝道旅行が終了し、エルサレムに帰ってきた、というのが、使徒言行録21・17以下に紹介されている、最も前提となる状況です。
第二回伝道旅行において、パウロは、非常に大きな成果を収めることができました。ところが、そのことを知って非常に腹を立て、怒り狂った人々がいました。エルサレムのユダヤ人たちでした。
パウロは、ユダヤ人たちが快く思っていないことを知っていましたので、エルサレムに滞在することになったときも、教会の長老たちと相談して、できるだけ慎重な態度を取っていました。
ところが、パウロがエルサレム神殿の境内にいるところが、ユダヤ人たちに見つかり、彼らは大いに怒り狂い、エルサレム中の群集が加わって暴徒と化し、パウロを捕まえて神殿の境内から引きずり出し、寄ってたかって、文字通りなぶり殺しにしようとしたのです。
その騒ぎがあまりに大きかったため、当時のエルサレムに駐留していたローマ帝国の軍隊が出動しなければならなかったほどでした。
そのような、ものすごく危険な状況の中で、パウロは、ユダヤ人たちに向かって、堂々とした態度で、今日の個所の言葉を語っているのです。
「『さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである」』」。
ここでパウロが語っているのは、彼がまだ、洗礼を受けて、キリスト者になったばかりの頃の話です。そのときパウロは、祈りの中で、我を忘れた状態になり、救い主イエス・キリストにお会いしました。
そして、その中で、イエス・キリスト御自身が、パウロに向かって「急げ。すぐエルサレムから出て行け」と命令されたのです。
なぜパウロがエルサレムから出て行かなければならないかというと、エルサレムのユダヤ人たちが、わたしについてのあなたの証しを受け入れないからである、とイエス・キリスト御自身が語られたからです。
ここでイエス・キリストがパウロに対しておっしゃっていることは、つまり、こういうことです。
イエス・キリスト御自身にとって、パウロが行くべき先は、パウロの証しを受け入れる人々のところであって、受け入れない人々のところではない、ということです。
ですから、これは、パウロ自身にとっては、ある意味で、おそらく非常に有難い話でもあったはずです。
「イエス・キリストについてのパウロの証し」は「イエス・キリストについてのパウロの説教」と言いなおしても、内容は同じです。
御言を語る者にとって、自分の語る説教を喜んで聞いていただけること以上の光栄も喜びもありません。日曜学校の先生たちにとって、一生懸命に準備したお話を、子どもたちが一生懸命に聞いてくれること以上の喜びはないでしょう。
全く拒絶されるとか、反発されるとか、非難されることが分かっている相手に向かって、何かを語り続けなければならないというのは辛いことです。
ですから、まさにこの点で、パウロの証しを受け入れない人々のところからは出て行きなさい、と言っていただけるならば、パウロにとっては、有難い話であるはずなのです。
ところが、です。ここで、パウロは、ちょっと変なことを言い出します。
「わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』」
ここでパウロは、自分自身はかつて、熱心なユダヤ教徒として、熱心なキリスト教迫害者であった、という前歴を持っています、ということを語ろうとしています。
問題は、パウロはなぜ、このようなことを、イエス・キリストに対して述べているのか、です。
これには定説があります。このように語ることにおいて、パウロは、エルサレムで伝道すべきである、という自分の思いを告白しているのだ、と言われています。
要するに、これは、イエスさまに対するパウロの反論である、と考えられているのです。
わたしは熱心なユダヤ教徒として、熱心なキリスト教迫害者であった。しかし、そのようなわたしが回心し、キリスト者になった。そのことを彼らは知っている。
そのことを知っている彼らにこそ、このわたしが伝道すべきである。このようにパウロは言おうとしているのだ、と理解されています。
ところが、イエス・キリストのお答えは、パウロの考えとは、異なるものでした。
「すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」。
パウロの考えは退けられました。そして「行け」と主は言われました。「わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」。
原文を見ますと「わたしが」〔エゴー〕という言葉が明らかに強調されています。とても強い強調です。
このイエス・キリストのお語りになる「わたし」の強調において明らかなことは、以下の点です。
第一点は、ひとを伝道へと遣わすのは、イエス・キリスト御自身であるということです。だれか人によってではなく、自分自身からでもなく、イエス・キリストがひとを伝道へと遣わすのです。
第二点は、ひとが伝道のために遣わされる先も、自分勝手に決めるのではなく、イエス・キリストがお決めになる、ということです。場合によっては、行きたくない場所に遣わされることもありうる、ということです。
第三点は、しかしながら、と加えるべきでしょう。イエス・キリストがひとを伝道のために遣わす先は、「わたしについてのあなたの証しを受け入れない人々」のところではなく、「喜んで受け入れる人々」のところである、ということです。伝道の喜びが溢れているところに、遣わしていただけるのです。
このようなことを、パウロは今や堂々と、怒り狂うユダヤ人たちの目の前で語っています。
パウロは「わたしがあなたを遣わす」とお語りになるイエス・キリストと共に語っているという確信を持っているゆえに、ちっとも怖くないのです。
新年礼拝の説教のタイトルに「希望と勇気」と付けさせていただきました。
パウロがもっていたのは、危険な状況の中にあっても真実を語る勇気であり、新しい出会いの中で信仰の仲間を集めてくる勇気です。
これらの勇気をパウロはイエスさまからいただきました。イエスさまは、わたしたちにも、勇気を与えてくださいます。
そして、わたしたちが、まさにこの勇気をもって伝道に励むとき、そこに教会の希望があり、伝道の活路が切り開かれていくのです。
(2005年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)
2005年 松戸小金原教会新年礼拝
関口 康
今日、新年礼拝において思いを至らせたいと願っておりますことは、松戸小金原教会に連なるわたしたちが、新しい年になすべきこと、果たすべき使命は何か、ということです。
この教会の昨年一年間の歩みにおいておそらく最も大きかった出来事は、やはり、牧師の交代ではなかったかと思います。
わたしは東関東伝道協議会の機関紙『東関東伝道』に掲載された「新任教師の挨拶」の中で、教会がなすべき伝道のわざを「仲間集め」と表現させていただきました。
「伝道とは仲間集めである」。これは、もちろん、牧師だけの話ではありません。教会の皆さんにとってこそ、この表現が当てはまるし、ふさわしいのではないかと感じます。
伝道とは、文字通り、信仰の友達を増やしていくことです。教会の仲間、礼拝の仲間を集めていくことです。そのようにして、新しい人間関係を一から築いていくことです。
昨年は2人の方が洗礼を受け、全く新しくキリスト者としての歩みを始められました。その他にも、牧師家族を含めて9名の他教会からの転入者・加入者が与えられました。信仰の友達が増えた、と実感していただけたのではないでしょうか。
新しい年はどうでしょうか。わたしたちは何をなすべきでしょうか。もちろん、引き続き伝道です。一に伝道、二に伝道です。
しかしまた、このことを、より厳密に言いますならば、わたしたちがなす「仲間集め」とは、ただ単に、わたしたちの仲間を集めることではない、とも言わなければなりません。
より正確に言うならば、救い主イエス・キリストの仲間を集めることです。イエス・キリストは、今も生きておられます。そのキリストと共に生きる仲間、キリストの救いの恵みに共に与り、喜びと感謝を分かち合う仲間を集めるのです。
ここで、先ほどお読みしました聖書の御言にご注目いただきたいと思います。
この個所は、前後に鉤括弧が付けられていることで分かりますとおり、ある人が語った言葉の一部です。西暦1世紀に活躍した偉大なるキリスト教伝道者、使徒パウロの言葉です。
この言葉をパウロはどのような場所や状況で語っているかについては、使徒言行録21・17以下の一連の記事を読んでいただきますと、お分かりいただけます。
それは要するに、たいへん危険な状況であった、と語ることができます。
パウロは、キリスト教伝道者としての生涯において、三回の伝道旅行を行いましたが、第二回目の伝道旅行が終了し、エルサレムに帰ってきた、というのが、使徒言行録21・17以下に紹介されている、最も前提となる状況です。
第二回伝道旅行において、パウロは、非常に大きな成果を収めることができました。ところが、そのことを知って非常に腹を立て、怒り狂った人々がいました。エルサレムのユダヤ人たちでした。
パウロは、ユダヤ人たちが快く思っていないことを知っていましたので、エルサレムに滞在することになったときも、教会の長老たちと相談して、できるだけ慎重な態度を取っていました。
ところが、パウロがエルサレム神殿の境内にいるところが、ユダヤ人たちに見つかり、彼らは大いに怒り狂い、エルサレム中の群集が加わって暴徒と化し、パウロを捕まえて神殿の境内から引きずり出し、寄ってたかって、文字通りなぶり殺しにしようとしたのです。
その騒ぎがあまりに大きかったため、当時のエルサレムに駐留していたローマ帝国の軍隊が出動しなければならなかったほどでした。
そのような、ものすごく危険な状況の中で、パウロは、ユダヤ人たちに向かって、堂々とした態度で、今日の個所の言葉を語っているのです。
「『さて、わたしはエルサレムに帰って来て、神殿で祈っていたとき、我を忘れた状態になり、主にお会いしたのです。主は言われました。「急げ。すぐエルサレムから出て行け。わたしについてあなたが証しすることを、人々が受け入れないからである」』」。
ここでパウロが語っているのは、彼がまだ、洗礼を受けて、キリスト者になったばかりの頃の話です。そのときパウロは、祈りの中で、我を忘れた状態になり、救い主イエス・キリストにお会いしました。
そして、その中で、イエス・キリスト御自身が、パウロに向かって「急げ。すぐエルサレムから出て行け」と命令されたのです。
なぜパウロがエルサレムから出て行かなければならないかというと、エルサレムのユダヤ人たちが、わたしについてのあなたの証しを受け入れないからである、とイエス・キリスト御自身が語られたからです。
ここでイエス・キリストがパウロに対しておっしゃっていることは、つまり、こういうことです。
イエス・キリスト御自身にとって、パウロが行くべき先は、パウロの証しを受け入れる人々のところであって、受け入れない人々のところではない、ということです。
ですから、これは、パウロ自身にとっては、ある意味で、おそらく非常に有難い話でもあったはずです。
「イエス・キリストについてのパウロの証し」は「イエス・キリストについてのパウロの説教」と言いなおしても、内容は同じです。
御言を語る者にとって、自分の語る説教を喜んで聞いていただけること以上の光栄も喜びもありません。日曜学校の先生たちにとって、一生懸命に準備したお話を、子どもたちが一生懸命に聞いてくれること以上の喜びはないでしょう。
全く拒絶されるとか、反発されるとか、非難されることが分かっている相手に向かって、何かを語り続けなければならないというのは辛いことです。
ですから、まさにこの点で、パウロの証しを受け入れない人々のところからは出て行きなさい、と言っていただけるならば、パウロにとっては、有難い話であるはずなのです。
ところが、です。ここで、パウロは、ちょっと変なことを言い出します。
「わたしは申しました。『主よ、わたしが会堂から会堂へと回って、あなたを信じる者を投獄したり、鞭で打ちたたいたりしていたことを、この人々は知っています。また、あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もしたのです。』」
ここでパウロは、自分自身はかつて、熱心なユダヤ教徒として、熱心なキリスト教迫害者であった、という前歴を持っています、ということを語ろうとしています。
問題は、パウロはなぜ、このようなことを、イエス・キリストに対して述べているのか、です。
これには定説があります。このように語ることにおいて、パウロは、エルサレムで伝道すべきである、という自分の思いを告白しているのだ、と言われています。
要するに、これは、イエスさまに対するパウロの反論である、と考えられているのです。
わたしは熱心なユダヤ教徒として、熱心なキリスト教迫害者であった。しかし、そのようなわたしが回心し、キリスト者になった。そのことを彼らは知っている。
そのことを知っている彼らにこそ、このわたしが伝道すべきである。このようにパウロは言おうとしているのだ、と理解されています。
ところが、イエス・キリストのお答えは、パウロの考えとは、異なるものでした。
「すると、主は言われました。『行け。わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ。』」。
パウロの考えは退けられました。そして「行け」と主は言われました。「わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ」。
原文を見ますと「わたしが」〔エゴー〕という言葉が明らかに強調されています。とても強い強調です。
このイエス・キリストのお語りになる「わたし」の強調において明らかなことは、以下の点です。
第一点は、ひとを伝道へと遣わすのは、イエス・キリスト御自身であるということです。だれか人によってではなく、自分自身からでもなく、イエス・キリストがひとを伝道へと遣わすのです。
第二点は、ひとが伝道のために遣わされる先も、自分勝手に決めるのではなく、イエス・キリストがお決めになる、ということです。場合によっては、行きたくない場所に遣わされることもありうる、ということです。
第三点は、しかしながら、と加えるべきでしょう。イエス・キリストがひとを伝道のために遣わす先は、「わたしについてのあなたの証しを受け入れない人々」のところではなく、「喜んで受け入れる人々」のところである、ということです。伝道の喜びが溢れているところに、遣わしていただけるのです。
このようなことを、パウロは今や堂々と、怒り狂うユダヤ人たちの目の前で語っています。
パウロは「わたしがあなたを遣わす」とお語りになるイエス・キリストと共に語っているという確信を持っているゆえに、ちっとも怖くないのです。
新年礼拝の説教のタイトルに「希望と勇気」と付けさせていただきました。
パウロがもっていたのは、危険な状況の中にあっても真実を語る勇気であり、新しい出会いの中で信仰の仲間を集めてくる勇気です。
これらの勇気をパウロはイエスさまからいただきました。イエスさまは、わたしたちにも、勇気を与えてくださいます。
そして、わたしたちが、まさにこの勇気をもって伝道に励むとき、そこに教会の希望があり、伝道の活路が切り開かれていくのです。
(2005年1月1日、松戸小金原教会新年礼拝)
2004年12月26日日曜日
人類の希望とは何か
ルカによる福音書2・22〜38
先週までにクリスマスのすべての行事が、無事に終了しました。ほっと一安心、というところでしょうか。
マリアとヨセフも、イエスさまがお産まれになった後、このような、安心した気持ちになったのではないでしょうか。出産には、喜びだけではなく、苦しみが伴います。当事者たちは、たいへんです。
マリアとヨセフは、イエスさまがお生まれになってまもなくして、「その子を主に献げるため」エルサレムに連れて行った、と書かれています。
出エジプト記13・2に「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」とあります。彼らは、聖書の御言どおりに、生まれたばかりのイエスさまをエルサレム神殿に連れて行き、主なる神さまにささげました。
そのとき、彼らに近づいてきた二人の人物がいた、ということが今日の個所に書かれています。いずれも高齢の人々でした。一人は男性、一人は女性。男性の名前はシメオン、女性の名前はアンナといいました。
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」
シメオンは、ある特別なお告げを、神さまから与えられていました。
「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げであった、と訳されています。原文から訳し直しますと、「主なるキリストを見るまでは、決して死なない」となります。
とても興味深い内容のお告げであると思います。いろいろと考えさせられるものがあります。
考えさせられることの第一は、「主なるキリストを見るまでは」という言葉の意味は何か、ということです。
新共同訳聖書で「会う」と訳されている「見る」の意味は、実際に目で見えるものを、直接、自分の目で見ることです。
この地上における歴史的出来事として具現化された事物を、体験的に、肉眼で把握し、知覚し、確認することです。
それは、いわば、「信じること」以上です。それが存在すること、あるいは、存在するであろうことを信じているけれども、まだ見たことがないという段階が終わり、次の段階に進んでいるのが「見る」という行為です。
外国旅行のことを考えてみるとよいかもしれません。
わたしには行ってみたい国がありますが、まだ行ったことがありません。その国が存在することは知っていますし、そこにはどのようなものがあるかを学んでもいます。
しかし、行ったことも、見たこともない。致命的とまでは言えませんが、決定的に足りないものを感じます。
わたしは、昨年の今頃、松戸小金原教会の牧師になる準備を始めていました。
以前に一度、特別伝道集会の講師として奉仕させていただきましたので、皆さんはわたしの顔を見てくださっていました。しかし、わたしは、申し訳ないことに、皆さんのお顔をぼんやりとしか覚えておりませんでした。
ですから、わたしは、皆さんを「見に」来ました。遠くで思い出す、というだけでは、限界があるのです。
「主なるキリストを見る」とは、信じること以上です。シメオンは、主なるキリストのお姿を、自分の目で見ることができる、という光栄に与るという約束を与えられていたのです。
考えさせられることの第二は、「決して死なない」という言葉の意味は何か、ということです。
キリストのお姿を見たら必ず死ぬ、という意味ではありません。「見るまでは死なない」とは、少なくともその日までは生きながらえることができる、という意味です。
これは、残念ながら、というべきでしょうか、誰にでも当てはまるという意味での一般的で普遍的な内容のお告げではありません。シメオンだけに特別に与えられた約束です。
ですから、残念ながら、主なるキリストを自分の目で見ることができない人々が、大勢います。わたしたちの場合は、聖書を通してキリストと出会うことができるだけです。
しかし、シメオンは違いました。キリストを見るまでは、決して死なない。生きている間に、主のお姿を見ることができる。このような素晴らしい約束を与えられていたのです。
ところが、そのシメオンに、一抹の不安がありました。彼の年令の問題です。命あるうちに間に合わないかもしれない、という不安であった、と言えるでしょう。
「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。』」
「安らかに去らせる」とは、この地上の人生が終わる、という意味です。
シメオンは、彼に与えられた約束を信じて、主なるキリストのご降誕を、今か今かと、心待ちにしていました。
ところが、待てど暮らせど、救い主は来てくださらない。約束は与えられているにもかかわらず、です。彼には、その約束を信じる信仰があったにもかかわらず、です。
それはちょうど、婚約式が終わっているのに、なかなか結婚できない男女の関係のようなものです。余計にせつなく、焦る気持ちばかりが募り、みじめな思いを味わいます。
時間ばかりどんどん過ぎていく。いっそ最初から、約束など無いほうが良かったのに、と後悔する思いさえ、浮かんでくる。
しかし、その約束を最期まで信じ続けることができたのは、シメオンの勝利であると思います。神のお告げである、というその一点ゆえに、信じることができたに違いない。信仰の勝利です。
ところが、シメオンは、もはや、生きていくのも辛いほど、体力的な限界を感じていたのです。
ですから、やっと、です。「安らかに」人生を終えることができる。救い主に出会うことができた。この目で見ることができた。何とか間に合った、ということです。
神さまは、意地悪な方ではありません。しかし、時々、このような切なく苦しい気持ちを、わたしたち人間が味わってしまうようなことをなさいます。わたしたちの信仰の強さを、試しておられるのかもしれません。
「『わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』」
シメオンは、彼の目の前に現われた救い主を、「あなたの救い」、「万民のために整えてくださった救い」、「異邦人を照らす啓示の光」、「あなたの民イスラエルの誉れ」と呼んでいます。
救い主が来てくださることが、救いそのものです。そして、その救いは、異邦人にも、イスラエルの民にも、示されました。異邦人も、イスラエルの民も、その救いに与ることができます。その意味での「万民のための救い」です。すべての民のための救いです。
このように、シメオンは、イエス・キリストを通して示された神の救いは、民族的枠組みを越えた普遍的な広がりを持っていることを告白しました。これが、救い主イエス・キリストについてシメオンが告白した第一の点です。
「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し抜かれます――多くの人の心の中にある思いがあらわにされるためです。』」
イエス・キリストについてのシメオンの告白の第二の点は、救い主が苦しみを受ける、ということです。
「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり」とあります。「立ち上がらせたり」ともありますが、ここでの問題は「倒す」のほうです。「反対を受けるしるし」ともあり、「あなた(マリア)自身も剣で心を刺し貫かれます」とあります。
キリストが、現実のイスラエルの行き方を倒す。倒されまいと、反対もされる。抵抗勢力が生じる。その姿を見て、お腹を痛めてこの子を産んだ母マリアも、辛い立場に立たされる。剣で心を刺し貫かれる。
十字架の上に張りつけにされたイエス・キリストの姿、そしてまた十字架の前で苦しむ母マリアの姿を、シメオンが、心の目で見ていました。
シメオンは、キリストの降誕された姿を見ることには間に合いましたが、十字架と復活、その後のキリスト教会の誕生には、間に合いませんでした。
しかし、それは、一人一人の人間には、それぞれの時代にあって、それぞれに異なる、それぞれの役割がある、ということを示している、と語ることが許されるでしょう。
そのような例を聖書の中に探しはじめるならば、枚挙にいとまがありません。
たとえば、モーセは、イスラエルの民を引き連れてエジプトから脱出しましたが、約束の地カナンの地が見えるほどの距離にまで近づいたにもかかわらず、カナンに入ることができぬまま、亡くなりました。
モーセは決定的に重要な役割を担いましたが、彼の祈りには、適わなかったこともあったのです。
しかし、それでも、モーセは満足しました。シメオンも満足しました。
彼らは、満足な人生を送りました。安らかに去ることができました。なぜでしょうか。
わたしは、まだ年若き者ですので、こんなことを言うと、馬鹿だと思われるかもしれません。しかし、真面目な話、最近しょっちゅう考えさせられていることは、あと何年牧師ができるか、ということです。
日本キリスト改革派教会が定める70才定年引退の日まで、残り31年です。たった31年しか残っていない、と感じるのです。
なぜそう思うのでしょうか。わたしたちに神さまが与えてくださっている仕事の規模が、あまりに大きすぎる、と感じるからです。たったの31年くらいでは、わずかなことしかできそうにないからです。
これは、牧師だけの話ではありません。
すべてのキリスト者に委ねられている仕事は、30年、50年、100年という単位で、成し遂げられていきます。その中で、一人一人は、ほんのわずかなことを成しうるのみです。なすべきことは、山のようにあるのです。
シメオンも、あるいはモーセも、われわれと同じ思いを持っていたに違いありません。
シメオンは、イエス・キリストを自分の目で見ることができて満足しました。神の壮大で遠大なご計画の中で、このわたしもまた何か一つでも役割を果たすことができた、ということに満足したのです。
そのようなことにこそ、ひとは、喜びを見出し、希望を見出すのです。
わたしたちは、松戸小金原教会と日本キリスト改革派教会の成長と発展を見て、心から満足するでしょう。これこそが、わたしたちの希望です。
まだ見ていないのだが、と思わないでください。今、ここで、神のご計画が進められています。わたしたちは、今、ここで、それを見ているのです。
(2004年12月26日、松戸小金原教会主日礼拝)
先週までにクリスマスのすべての行事が、無事に終了しました。ほっと一安心、というところでしょうか。
マリアとヨセフも、イエスさまがお産まれになった後、このような、安心した気持ちになったのではないでしょうか。出産には、喜びだけではなく、苦しみが伴います。当事者たちは、たいへんです。
マリアとヨセフは、イエスさまがお生まれになってまもなくして、「その子を主に献げるため」エルサレムに連れて行った、と書かれています。
出エジプト記13・2に「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」とあります。彼らは、聖書の御言どおりに、生まれたばかりのイエスさまをエルサレム神殿に連れて行き、主なる神さまにささげました。
そのとき、彼らに近づいてきた二人の人物がいた、ということが今日の個所に書かれています。いずれも高齢の人々でした。一人は男性、一人は女性。男性の名前はシメオン、女性の名前はアンナといいました。
「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」
シメオンは、ある特別なお告げを、神さまから与えられていました。
「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げであった、と訳されています。原文から訳し直しますと、「主なるキリストを見るまでは、決して死なない」となります。
とても興味深い内容のお告げであると思います。いろいろと考えさせられるものがあります。
考えさせられることの第一は、「主なるキリストを見るまでは」という言葉の意味は何か、ということです。
新共同訳聖書で「会う」と訳されている「見る」の意味は、実際に目で見えるものを、直接、自分の目で見ることです。
この地上における歴史的出来事として具現化された事物を、体験的に、肉眼で把握し、知覚し、確認することです。
それは、いわば、「信じること」以上です。それが存在すること、あるいは、存在するであろうことを信じているけれども、まだ見たことがないという段階が終わり、次の段階に進んでいるのが「見る」という行為です。
外国旅行のことを考えてみるとよいかもしれません。
わたしには行ってみたい国がありますが、まだ行ったことがありません。その国が存在することは知っていますし、そこにはどのようなものがあるかを学んでもいます。
しかし、行ったことも、見たこともない。致命的とまでは言えませんが、決定的に足りないものを感じます。
わたしは、昨年の今頃、松戸小金原教会の牧師になる準備を始めていました。
以前に一度、特別伝道集会の講師として奉仕させていただきましたので、皆さんはわたしの顔を見てくださっていました。しかし、わたしは、申し訳ないことに、皆さんのお顔をぼんやりとしか覚えておりませんでした。
ですから、わたしは、皆さんを「見に」来ました。遠くで思い出す、というだけでは、限界があるのです。
「主なるキリストを見る」とは、信じること以上です。シメオンは、主なるキリストのお姿を、自分の目で見ることができる、という光栄に与るという約束を与えられていたのです。
考えさせられることの第二は、「決して死なない」という言葉の意味は何か、ということです。
キリストのお姿を見たら必ず死ぬ、という意味ではありません。「見るまでは死なない」とは、少なくともその日までは生きながらえることができる、という意味です。
これは、残念ながら、というべきでしょうか、誰にでも当てはまるという意味での一般的で普遍的な内容のお告げではありません。シメオンだけに特別に与えられた約束です。
ですから、残念ながら、主なるキリストを自分の目で見ることができない人々が、大勢います。わたしたちの場合は、聖書を通してキリストと出会うことができるだけです。
しかし、シメオンは違いました。キリストを見るまでは、決して死なない。生きている間に、主のお姿を見ることができる。このような素晴らしい約束を与えられていたのです。
ところが、そのシメオンに、一抹の不安がありました。彼の年令の問題です。命あるうちに間に合わないかもしれない、という不安であった、と言えるでしょう。
「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。』」
「安らかに去らせる」とは、この地上の人生が終わる、という意味です。
シメオンは、彼に与えられた約束を信じて、主なるキリストのご降誕を、今か今かと、心待ちにしていました。
ところが、待てど暮らせど、救い主は来てくださらない。約束は与えられているにもかかわらず、です。彼には、その約束を信じる信仰があったにもかかわらず、です。
それはちょうど、婚約式が終わっているのに、なかなか結婚できない男女の関係のようなものです。余計にせつなく、焦る気持ちばかりが募り、みじめな思いを味わいます。
時間ばかりどんどん過ぎていく。いっそ最初から、約束など無いほうが良かったのに、と後悔する思いさえ、浮かんでくる。
しかし、その約束を最期まで信じ続けることができたのは、シメオンの勝利であると思います。神のお告げである、というその一点ゆえに、信じることができたに違いない。信仰の勝利です。
ところが、シメオンは、もはや、生きていくのも辛いほど、体力的な限界を感じていたのです。
ですから、やっと、です。「安らかに」人生を終えることができる。救い主に出会うことができた。この目で見ることができた。何とか間に合った、ということです。
神さまは、意地悪な方ではありません。しかし、時々、このような切なく苦しい気持ちを、わたしたち人間が味わってしまうようなことをなさいます。わたしたちの信仰の強さを、試しておられるのかもしれません。
「『わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』」
シメオンは、彼の目の前に現われた救い主を、「あなたの救い」、「万民のために整えてくださった救い」、「異邦人を照らす啓示の光」、「あなたの民イスラエルの誉れ」と呼んでいます。
救い主が来てくださることが、救いそのものです。そして、その救いは、異邦人にも、イスラエルの民にも、示されました。異邦人も、イスラエルの民も、その救いに与ることができます。その意味での「万民のための救い」です。すべての民のための救いです。
このように、シメオンは、イエス・キリストを通して示された神の救いは、民族的枠組みを越えた普遍的な広がりを持っていることを告白しました。これが、救い主イエス・キリストについてシメオンが告白した第一の点です。
「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し抜かれます――多くの人の心の中にある思いがあらわにされるためです。』」
イエス・キリストについてのシメオンの告白の第二の点は、救い主が苦しみを受ける、ということです。
「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり」とあります。「立ち上がらせたり」ともありますが、ここでの問題は「倒す」のほうです。「反対を受けるしるし」ともあり、「あなた(マリア)自身も剣で心を刺し貫かれます」とあります。
キリストが、現実のイスラエルの行き方を倒す。倒されまいと、反対もされる。抵抗勢力が生じる。その姿を見て、お腹を痛めてこの子を産んだ母マリアも、辛い立場に立たされる。剣で心を刺し貫かれる。
十字架の上に張りつけにされたイエス・キリストの姿、そしてまた十字架の前で苦しむ母マリアの姿を、シメオンが、心の目で見ていました。
シメオンは、キリストの降誕された姿を見ることには間に合いましたが、十字架と復活、その後のキリスト教会の誕生には、間に合いませんでした。
しかし、それは、一人一人の人間には、それぞれの時代にあって、それぞれに異なる、それぞれの役割がある、ということを示している、と語ることが許されるでしょう。
そのような例を聖書の中に探しはじめるならば、枚挙にいとまがありません。
たとえば、モーセは、イスラエルの民を引き連れてエジプトから脱出しましたが、約束の地カナンの地が見えるほどの距離にまで近づいたにもかかわらず、カナンに入ることができぬまま、亡くなりました。
モーセは決定的に重要な役割を担いましたが、彼の祈りには、適わなかったこともあったのです。
しかし、それでも、モーセは満足しました。シメオンも満足しました。
彼らは、満足な人生を送りました。安らかに去ることができました。なぜでしょうか。
わたしは、まだ年若き者ですので、こんなことを言うと、馬鹿だと思われるかもしれません。しかし、真面目な話、最近しょっちゅう考えさせられていることは、あと何年牧師ができるか、ということです。
日本キリスト改革派教会が定める70才定年引退の日まで、残り31年です。たった31年しか残っていない、と感じるのです。
なぜそう思うのでしょうか。わたしたちに神さまが与えてくださっている仕事の規模が、あまりに大きすぎる、と感じるからです。たったの31年くらいでは、わずかなことしかできそうにないからです。
これは、牧師だけの話ではありません。
すべてのキリスト者に委ねられている仕事は、30年、50年、100年という単位で、成し遂げられていきます。その中で、一人一人は、ほんのわずかなことを成しうるのみです。なすべきことは、山のようにあるのです。
シメオンも、あるいはモーセも、われわれと同じ思いを持っていたに違いありません。
シメオンは、イエス・キリストを自分の目で見ることができて満足しました。神の壮大で遠大なご計画の中で、このわたしもまた何か一つでも役割を果たすことができた、ということに満足したのです。
そのようなことにこそ、ひとは、喜びを見出し、希望を見出すのです。
わたしたちは、松戸小金原教会と日本キリスト改革派教会の成長と発展を見て、心から満足するでしょう。これこそが、わたしたちの希望です。
まだ見ていないのだが、と思わないでください。今、ここで、神のご計画が進められています。わたしたちは、今、ここで、それを見ているのです。
(2004年12月26日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年12月24日金曜日
すべての人々を救うために
テトスへの手紙2・11~15
「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。」
わたしたちは今、クリスマスイヴの礼拝をささげております。たくさんの讃美、聖歌隊の讃美、ヴァイオリンとピアノによる讃美、そして小学生たちによる聖書朗読など、豊かな恵みをいただくことができ、感謝です。
今お読みいたしましたのは、使徒パウロが伝道者仲間であるテトスに宛てて書いたとされる手紙の一節です。
テトスは、クレタ島にいました。世界で最も美しい海として知られるエーゲ海にある、最も美しい島です。そこで、テトスは大切な仕事をしていました。まだそこにキリスト教の教会が存在していない地域、という意味での「伝道未開拓」の地域に新しく教会を生み出す仕事です。開拓伝道と呼ばれます。
そのことが分かるように書いているのが、1・5の御言葉です。「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。」
どこかの町に教会が新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。
教会が新しく生まれると聞いて、多くの人々が思い浮かべることは、新しい教会の建物が立つことでしょう。新しい教会の建物ができる、ということも、大切なことです。しかし、いわばもっと大切なことがある、とわたしたちは考えてきました。
そこに少なくとも二人以上の「長老」が選ばれる必要があるのだ、と。牧師を加えた少なくとも三名以上の議員による「小会」が形成される必要があるのだ、と。
もちろん、長老たちが選ばれ、小会が形成されれば、それで終わりというわけではなく、さらに教会が組織化され、制度化され、現実的・実際的に運営されていく、という必要があるのだ、と。
なぜなら、教会とは建物ではなく、人(ひと)だからです。救い主イエス・キリストを信じる信仰によって心から喜びつつ、礼拝と奉仕をささげている人々が、集まっている。それこそが教会なのです。
当時のクレタ島は、ほとんどの島民にとってはキリスト教の「キ」の字も無かった頃です。それでも、その中の一握りの人々が、新しく宣べ伝えられた信仰を受け入れ、パウロたちが主宰する諸集会に定期的に出席してくれるようになったのでしょう。
しかも、いくつかの町ごとに分かれた複数の集会が生まれていました。そこで、パウロが去ったあと、テトスに残された仕事は、複数の集会の中から長老となるべき人を選び出すこと、そしてその長老たちを中心とした教会組織を作り上げて行くことだったのです。
そのような状況の中で、パウロは、テトスにこの手紙を書き送りました。そして、この手紙の中で特に強調していることは、新しい信仰としてのキリスト教信仰を受け入れた人々は、やはり、それまでとはいくらか違った「生き方」をしなければならない、ということです。
「教会」というところに通いはじめた。最初は、おそるおそる近づいてきた。何となく敷居が高いとも感じていた。しかし、そこで教えられている信仰に、次第に目が開かされてきた。そして、やがて信仰を受け入れ、キリスト教の洗礼を受け、ついに「キリスト者」と公に名乗って生きるようになった。
そのような変化が、人生の中にもたらされた。
そのときに起こらなければならないことは何か。考え方、物の見方、価値観などが変わるにすぎないのか。それとも、生き方そのもの、生活態度にも変化が起こるのか。そこで起こるのは、"頭の中だけの変化"にすぎないのか。"体全体の変化"も伴うのか。
パウロが書いている勧めの内容は、それほど特殊なことではないと思います。見方にもよりますが、ごく普通のテーブルマナーや、一般常識程度のことです。あまりお酒を飲みすぎてはなりませんとか、思慮深く振る舞いなさいとか、良い行いの模範になりなさい、など。
「そんなの、どうでもよいことではないか。たとえそれが教会であっても、たとえそれが聖書に基づいている言葉であるといっても、このわたしの個人の生き方や立ち居振る舞いについて、こうしろ、ああしろと、とやかく言われることなど、真っ平です」と思われてしまうかもしれません。
あるいは、もう少し生真面目な人々からは、「わたしは大酒を飲むのをやめられないし、思慮深い人間にもなれない。まして、誰かの模範になることなど絶対にできません。こんなふうに言われてしまうならば、わたしはキリスト教に入ることができません」と言われてしまう理由になるかもしれません。
そのようないろいろな反応を、わたしたちは、いろんな機会に何度も聞いてきましたので、よく知っています。しかし、だからといって、わたしたちは、その先の言葉を語ることができないわけではありません。
パウロも書いています。「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません」(2・15)。
キリスト教の信仰をもって生きるようになった人々には、体全体の変化、存在そのものの変化がそこに必ず伴うのだ、ということを語ることにおいて、わたしたちは、だれにも侮られてはならないのです。
その意味での「わたしたちの人生における変化」を、パウロは「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」という言葉で表現しています。そこで起こるのは、神の恵みによって救われた人々の人生が、そのことにふさわしいものへと作りかえられるという出来事です。
そして、もう一つ言えることは、生活の変化ということでわたしたちが思い描いてよいことは、この手紙の文脈を考えてみると明らかに、教会の組織とか制度というような次元の事柄と、決して無関係ではありえない、ということです。
パウロが書いているのは、教会の「長老」や「執事」や「監督」(この文脈では「牧師」の意味です)としてふさわしいのはどういう人々であるかとか、教会の交わりを大切にしていくためには、どのような生き方をすべきか、ということです。
ここで問われていることは、地上の教会に集まる人々の姿です。毎週の礼拝や諸集会に定期的に出席するようになるとか、役員として奉仕することなど、です。
このような、教会の具体的・実際的な活動に参加していく中で、わたしたちの生活が、だんだんと作りかえられて行くのです。
もっとはっきり言えば、教会の行事に、わたしたちの生活を重ね合わせていこうとするときに、それが起こるのです。
日曜日は朝早く出かけ、教会の礼拝に出席する。それでは、土曜日のお酒は少し控え目にしましょうとか、できるだけ早く眠りましょう、といった感じのことです。
言ってみれば、その程度のことにすぎません。しかし、そのようなことが、場合によっては、人生の大問題にもなりうるのです。
「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」という意味は、キリストが十字架の上で御自身の命をささげてくださったことだけではありません。
加えて、フィリピの信徒への手紙2・6〜7に書かれているように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」というクリスマスの出来事を含んでいます。
神の御子が人間となられたこと自体が、わたしたちのために御自身をささげてくださることなのです。
それは、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだった」とパウロは言います。「良い行いに熱心な民」、これが教会です。
神の御子が地上の人間としてお生まれになったのは、キリストの体なる教会をこの地上にお立てになるためです。
クリスマスの出来事の目的は、地上に教会を生み出すためです。それは、教会に連なる人々が「良い行いに熱心な民」となり、教会の中で、良い行いを行い、良い人生を生きることができるようになるためです。
クリスマスイブに、このように、みんなで教会に集まって礼拝をささげることも、そうです。クリスマスに最もふさわしいことは、教会に集まることです。
教会には、高級ホテルのようなディナーも、豪華な飾りも、美味しいお酒もありません。しかし、ここにはわたしたちの心を満たしてくれるものがあります。神の恵みがあります。
今夜初めて教会の礼拝に来てくださったという方は、ぜひメールで感想を寄せてください。プレゼントを差し上げたいと思います。
「よかった」でも「つまらなかった」でも構いません。わたしたちはこれがクリスマスの本当の祝い方であると信じています。そのことを、すべての人々に分かっていただきたいのです。
(2004年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイヴ礼拝)
「実に、すべての人々に救いをもたらす神の恵みが現れました。その恵みは、わたしたちが不信心と現世的な欲望を捨てて、この世で、思慮深く、正しく、信心深く生活するように教え、また、祝福に満ちた希望、すなわち偉大なる神であり、わたしたちの救い主であるイエス・キリストの栄光の現れを待ち望むように教えています。キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません。」
わたしたちは今、クリスマスイヴの礼拝をささげております。たくさんの讃美、聖歌隊の讃美、ヴァイオリンとピアノによる讃美、そして小学生たちによる聖書朗読など、豊かな恵みをいただくことができ、感謝です。
今お読みいたしましたのは、使徒パウロが伝道者仲間であるテトスに宛てて書いたとされる手紙の一節です。
テトスは、クレタ島にいました。世界で最も美しい海として知られるエーゲ海にある、最も美しい島です。そこで、テトスは大切な仕事をしていました。まだそこにキリスト教の教会が存在していない地域、という意味での「伝道未開拓」の地域に新しく教会を生み出す仕事です。開拓伝道と呼ばれます。
そのことが分かるように書いているのが、1・5の御言葉です。「あなたをクレタに残してきたのは、わたしが指示しておいたように、残っている仕事を整理し、町ごとに長老たちを立ててもらうためです。」
どこかの町に教会が新しく生まれるとは、どういうことでしょうか。
教会が新しく生まれると聞いて、多くの人々が思い浮かべることは、新しい教会の建物が立つことでしょう。新しい教会の建物ができる、ということも、大切なことです。しかし、いわばもっと大切なことがある、とわたしたちは考えてきました。
そこに少なくとも二人以上の「長老」が選ばれる必要があるのだ、と。牧師を加えた少なくとも三名以上の議員による「小会」が形成される必要があるのだ、と。
もちろん、長老たちが選ばれ、小会が形成されれば、それで終わりというわけではなく、さらに教会が組織化され、制度化され、現実的・実際的に運営されていく、という必要があるのだ、と。
なぜなら、教会とは建物ではなく、人(ひと)だからです。救い主イエス・キリストを信じる信仰によって心から喜びつつ、礼拝と奉仕をささげている人々が、集まっている。それこそが教会なのです。
当時のクレタ島は、ほとんどの島民にとってはキリスト教の「キ」の字も無かった頃です。それでも、その中の一握りの人々が、新しく宣べ伝えられた信仰を受け入れ、パウロたちが主宰する諸集会に定期的に出席してくれるようになったのでしょう。
しかも、いくつかの町ごとに分かれた複数の集会が生まれていました。そこで、パウロが去ったあと、テトスに残された仕事は、複数の集会の中から長老となるべき人を選び出すこと、そしてその長老たちを中心とした教会組織を作り上げて行くことだったのです。
そのような状況の中で、パウロは、テトスにこの手紙を書き送りました。そして、この手紙の中で特に強調していることは、新しい信仰としてのキリスト教信仰を受け入れた人々は、やはり、それまでとはいくらか違った「生き方」をしなければならない、ということです。
「教会」というところに通いはじめた。最初は、おそるおそる近づいてきた。何となく敷居が高いとも感じていた。しかし、そこで教えられている信仰に、次第に目が開かされてきた。そして、やがて信仰を受け入れ、キリスト教の洗礼を受け、ついに「キリスト者」と公に名乗って生きるようになった。
そのような変化が、人生の中にもたらされた。
そのときに起こらなければならないことは何か。考え方、物の見方、価値観などが変わるにすぎないのか。それとも、生き方そのもの、生活態度にも変化が起こるのか。そこで起こるのは、"頭の中だけの変化"にすぎないのか。"体全体の変化"も伴うのか。
パウロが書いている勧めの内容は、それほど特殊なことではないと思います。見方にもよりますが、ごく普通のテーブルマナーや、一般常識程度のことです。あまりお酒を飲みすぎてはなりませんとか、思慮深く振る舞いなさいとか、良い行いの模範になりなさい、など。
「そんなの、どうでもよいことではないか。たとえそれが教会であっても、たとえそれが聖書に基づいている言葉であるといっても、このわたしの個人の生き方や立ち居振る舞いについて、こうしろ、ああしろと、とやかく言われることなど、真っ平です」と思われてしまうかもしれません。
あるいは、もう少し生真面目な人々からは、「わたしは大酒を飲むのをやめられないし、思慮深い人間にもなれない。まして、誰かの模範になることなど絶対にできません。こんなふうに言われてしまうならば、わたしはキリスト教に入ることができません」と言われてしまう理由になるかもしれません。
そのようないろいろな反応を、わたしたちは、いろんな機会に何度も聞いてきましたので、よく知っています。しかし、だからといって、わたしたちは、その先の言葉を語ることができないわけではありません。
パウロも書いています。「十分な権威をもってこれらのことを語り、勧め、戒めなさい。だれにも侮られてはなりません」(2・15)。
キリスト教の信仰をもって生きるようになった人々には、体全体の変化、存在そのものの変化がそこに必ず伴うのだ、ということを語ることにおいて、わたしたちは、だれにも侮られてはならないのです。
その意味での「わたしたちの人生における変化」を、パウロは「すべての人々に救いをもたらす神の恵み」という言葉で表現しています。そこで起こるのは、神の恵みによって救われた人々の人生が、そのことにふさわしいものへと作りかえられるという出来事です。
そして、もう一つ言えることは、生活の変化ということでわたしたちが思い描いてよいことは、この手紙の文脈を考えてみると明らかに、教会の組織とか制度というような次元の事柄と、決して無関係ではありえない、ということです。
パウロが書いているのは、教会の「長老」や「執事」や「監督」(この文脈では「牧師」の意味です)としてふさわしいのはどういう人々であるかとか、教会の交わりを大切にしていくためには、どのような生き方をすべきか、ということです。
ここで問われていることは、地上の教会に集まる人々の姿です。毎週の礼拝や諸集会に定期的に出席するようになるとか、役員として奉仕することなど、です。
このような、教会の具体的・実際的な活動に参加していく中で、わたしたちの生活が、だんだんと作りかえられて行くのです。
もっとはっきり言えば、教会の行事に、わたしたちの生活を重ね合わせていこうとするときに、それが起こるのです。
日曜日は朝早く出かけ、教会の礼拝に出席する。それでは、土曜日のお酒は少し控え目にしましょうとか、できるだけ早く眠りましょう、といった感じのことです。
言ってみれば、その程度のことにすぎません。しかし、そのようなことが、場合によっては、人生の大問題にもなりうるのです。
「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは」という意味は、キリストが十字架の上で御自身の命をささげてくださったことだけではありません。
加えて、フィリピの信徒への手紙2・6〜7に書かれているように、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」というクリスマスの出来事を含んでいます。
神の御子が人間となられたこと自体が、わたしたちのために御自身をささげてくださることなのです。
それは、「わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだった」とパウロは言います。「良い行いに熱心な民」、これが教会です。
神の御子が地上の人間としてお生まれになったのは、キリストの体なる教会をこの地上にお立てになるためです。
クリスマスの出来事の目的は、地上に教会を生み出すためです。それは、教会に連なる人々が「良い行いに熱心な民」となり、教会の中で、良い行いを行い、良い人生を生きることができるようになるためです。
クリスマスイブに、このように、みんなで教会に集まって礼拝をささげることも、そうです。クリスマスに最もふさわしいことは、教会に集まることです。
教会には、高級ホテルのようなディナーも、豪華な飾りも、美味しいお酒もありません。しかし、ここにはわたしたちの心を満たしてくれるものがあります。神の恵みがあります。
今夜初めて教会の礼拝に来てくださったという方は、ぜひメールで感想を寄せてください。プレゼントを差し上げたいと思います。
「よかった」でも「つまらなかった」でも構いません。わたしたちはこれがクリスマスの本当の祝い方であると信じています。そのことを、すべての人々に分かっていただきたいのです。
(2004年12月24日、松戸小金原教会クリスマスイヴ礼拝)
2004年12月19日日曜日
この喜びの日を祝おう クリスマス礼拝
ルカによる福音書2・8~20
2004年度 松戸小金原教会クリスマス礼拝
関口 康
今日は、クリスマス礼拝です。わたしたちは、今日、救い主イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするために集まってきました。
また今日、三名の方々が新しく松戸小金原教会の会員になりました。本当に素晴らしいことであり、大いに喜ぶべきことです。
この喜びの日を、みんなで心からお祝いしたいと思います。
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」
「主の栄光」とは、そこに主なる神御自身がおられることを示す、天の光です。その光が彼らの周りを照らしました。
そのとき、何が起こったのでしょうか。天におられる神が、彼らに近づいてこられた、ということです。しかし、それだけではありません。神のおられる天そのものが、彼らのいる地上の世界へと、近づいてきたのです。
「天」と申しました。これを「天国」と呼ぼうと、「神の国」と呼ぼうと、同じことです。それぞれに別の場所があるわけではありません。
「天」とは神がおられる場所のことです。それはどこなのか、ということについては、説明しがたいものがあります。神がおられる場所が「天」なのです。
そして、この天が地上の世界に近づいてきた、ということは、天とは動くものである、ということです。
そのように考えるのでなければ、わたしたちキリスト者がいつも祈っている「御国を来たらせたまえ」という主の祈りの言葉の意味を理解することはできません。
「御国を来たらせたまえ」とは「御国が来ますように」、つまり、神のおられる天そのものが、わたしたちのいる地上の世界へと近づいてきますように、という意味です。
わたしたち夫婦が、事あるごとに二人の子どもたちに言い聞かせていることは、こうです。一般的には理解されないことかもしれません。
「ぼくたちは、『死んだら天国に行く』のではないよ。天国のほうから、ぼくたちのほうに来てくれるんだよ。天国は『行くところ』ではなくて、『来てくれるところ』なんだよ。そんなふうに、いつも祈っているじゃないか」。
救い主イエス・キリストがお生まれになったとき、ベツレヘムの羊飼いたちのいる場所で起こった出来事も、まさにそのことでした。「主の栄光が周りを照らした」。天国が、彼らに近づいてきたのです!
しかし、彼らは、そのことを、非常に恐れました。当然のことかもしれません。
天国が近づいてきた、ということを、わたしたちならば、どのように考えるでしょうか。
やはり、そこでどうしても考えてしまうことは、地上の人生がついに終わる、ということではないでしょうか。「お迎えに来る」という言い方があるくらいです。
羊飼いたちが自分の死を覚悟しなければならないほどの苦境に立たされていたかどうかは分かりません。厳しい労働を強いられていたとか、生命の危険があった、というようなことは、どこにも書かれていません。
しかし、人生の終わりは、ある日突然、何の予告もなく、やってくることがある、ということも事実です。天国が向こうから突然近づいてくる、ということは、人間の恐怖の理由でもあるのです。
ところが、天使の言葉は、羊飼いたちに、安心と喜びを与えるものでした。
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」
天使が告げたのは、大きな喜びの知らせでした。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という知らせでした。
ひとまず明らかなことは、「天国が近づいてくる」という出来事の意味は「わたしの人生が終わる」ということだけではない、ということです。
「わたしたちのために救い主がお生まれになる」ということも、言葉の十分な意味で「天国が近づいてくること」なのです。
神の御子イエス・キリストは、わたしたちと同じ姿で、わたしたちのいる地上の世界にお産まれになりました。それは、わたしたちのいるこの地上に、真の救いがもたらされた、ということです。
わたしたちがイエス・キリストとの出会いを果たし、救われる場所は、この地上において、なのです。
なぜわたしは、このようなことを強調するのでしょうか。わたしたちの時代に生きている多くの人々が、地上での生活に絶望しているからです。
もちろん、それは今に始まったことではありません。
地上には救いがない。世界は邪悪な力で満ちている。暴力があり、殺人があり、戦争がある。わたしたちは、ここでどんなに長く生きていても、何の救いもないし、喜びもないし、希望もない。
そのように感じている人々、人生が嫌になっている人々が、たくさんいるのです。
しかし、そうではないのだ、と。この地上に、あなたがたのために、救い主がお産まれになったのだと、主なる神は、天使を通して、羊飼いたちに教えてくださいました。
死んだら天国に行けるのだから、早く天国からお迎えに来てもらいたい。地上の人生など一刻も早く終わりにしたい、などと考えるのは、やめなさいと、主なる神は、わたしたちにも教えてくださっているのです。
たとえ、傷だらけ、あざだらけの人生であるとしても、です。生きることが大切です。そして、この人生の中で、救い主なるキリストと現実に出会い、現実に救われることこそが大切なのです。
天使は、羊飼いたちに、今日お産まれになった乳飲み子は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている、と教えることによって、その方を探しに行くように促しました。
救い主は、あなたがたのすぐ近くにおられる。歩いて行ける距離に、同じ町の中におられる。そして、「その方だ」と、見ればすぐ分かるようなお姿をしておられる。
そのことを、天使を通して、主なる神は、彼らに教えてくださいました。
なぜ飼い葉桶なのか、なぜ家畜小屋なのかについての説明はありません。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれています。しかし、これは原因ではあっても、理由ではありません。
ただ、おそらく一つだけ、わたしたちに知らされていることがあります。
それは、ここで「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」ということこそが、羊飼いたちがその方を救い主であると識別するための「しるし」である、と語られていることです。
ここで考えさせられることは、ベツレヘムの羊飼いたちが、そのとき置かれていた境遇は、どのようなものであったか、ということです。
言い換えるなら、“彼らにとって”、その方こそが救い主であると“感じる”ことができる姿は、どのようなものであったか、ということです。
わたしたち自身のこととして考えてみると、よく分かるでしょう。“わたしたちにとって”、その方こそが救い主であると“感じる”ことができる姿は、どのようなものでしょうか。
おそらく、わたしたちの多くは、「ごく普通の生活」をしています。そういう自覚があると思います。
この、ごく普通の生活をしている、ごく普通の人間たちにとって、自分自身の生活感覚からして、あまりにもかけ離れた姿を持つ存在を「わたしの救い主」と信じて告白することができるでしょうか。
「わたしの救い主」は、少なくとも、まさか、人生のすべてを贅沢で埋め尽くしているような存在の姿ではないだろう、と思われるのです。
贅沢のすべてがいけない、という話ではありません。わたしは今、そういう話をしようとしているのではありません。
しかし、貧しさや飢えに苦しんでいる人々が現実に存在するにもかかわらず、そのようなことに関心も配慮もなく、贅沢な人生を送っているような存在を、誰が尊敬するでしょうか。そんな救い主を、誰が信じるでしょうか。
むしろ、誰よりも貧しい姿で、枕して眠る場所もないような苦境に置かれている、そのようなお方こそ、わたしたちの人生の柱とし、支えとして信じ、受け入れるべき存在なのである、ということが語られているのです。
「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」
ベツレヘムの平原に、天使の賛美の歌声が、響きわたりました。この歌の内容も、神のおられる天とわたしたち人間の住む地上の世界との関係は、どのようなものであるのか、ということに関わっています。
そして、ここでも思い起こすべきは、「御国を来たらせたまえ」という祈りの言葉です。神の御子イエス・キリストのご降誕によって、神の栄光が輝く御国が地上に近づいてきたのです。
地上で、ひとが救われるのです。現実の救いを、地上で体験できるのです。
そして、その救いは「地上の平和」という形でもたらされるのだ、と信じてよいのです。
「地上の平和」などないではないか、と叫びたくなるような現実の中にあっても、です。わたしたちは、それを熱心に祈り求める必要があります。
地上にいるかぎり、その祈りをやめることはできません。その祈りをやめるならば、まさに、真の絶望に陥るのです。
「地には平和、御心に適う人にあれ」という訳は適切なものです。しかし、ギリシア語の原文を見ますと、もっと端的で、もっと意味深い言葉が書かれていることが分かります。
「御心に適う人」〔アンスローポイス・エウドキアース〕の「御心」〔エウドキア〕とは、わたしたち改革派教会が重んじるウェストミンスター信仰告白などでグッド・プレジャー・オブ・ゴッド(Good pleasure of God)と訳されている言葉です。
グッド・プレジャー(Good pleasure)のグッド(Good)は「善い」であり、プレジャー(pleasure)は「喜び」という意味です。ですから、直訳するならば「神の善い喜び」ということになりますが、そのような日本語はありません。「善意」とか「好意」と訳すことはできるでしょう。
しかし、それこそが、ここで「御心」と訳されている言葉の真意です。そうだとすれば、せめて、「喜びに満ちあふれた神の御心」と訳したいところです。神の御心の中身は「喜び」なのです!
「御心に適う人」とは「喜びに満ちあふれた神の御心に適う人」のことであり、要するに「喜びの人」です。
それは"永遠に神を喜ぶ"人です。しかし、それだけではありません。
だれよりも先に神御自身が「喜ぶ存在」である、ということを知り、神の喜びをわたしの喜びとして受け入れ、わたし自身が喜びに満たされて生きることができる人のことです。
地上に平和が実現することを神御自身が喜んでくださるのです。その喜びをこのわたしの喜びとすることができる人。それが「御心に適う人」です。
救い主イエス・キリストのご降誕という出来事の真の意味は、父なる神が、御子をお遣わしくださったことによって、御子を信じる者たちが、この地上の人生を喜ぶことができるようにしてくださった、ということです。
救いも、平和も、喜びも、生きながらにして体験し、味わうことができるものなのだ、ということを、神御自身が示してくださったのです。
歩いて行ける距離のところに、救いが実現しているのです。
だからこそ、です。
人生に絶望してはなりません!
恐れることなく生きていきましょう!
遠慮なく喜びましょう!
わたしたちの救い主は、いつもわたしたちと共におられるのです。
(2004年12月19日、松戸小金原教会主日礼拝)
2004年度 松戸小金原教会クリスマス礼拝
関口 康
今日は、クリスマス礼拝です。わたしたちは、今日、救い主イエス・キリストがお生まれになったことをお祝いするために集まってきました。
また今日、三名の方々が新しく松戸小金原教会の会員になりました。本当に素晴らしいことであり、大いに喜ぶべきことです。
この喜びの日を、みんなで心からお祝いしたいと思います。
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。」
「主の栄光」とは、そこに主なる神御自身がおられることを示す、天の光です。その光が彼らの周りを照らしました。
そのとき、何が起こったのでしょうか。天におられる神が、彼らに近づいてこられた、ということです。しかし、それだけではありません。神のおられる天そのものが、彼らのいる地上の世界へと、近づいてきたのです。
「天」と申しました。これを「天国」と呼ぼうと、「神の国」と呼ぼうと、同じことです。それぞれに別の場所があるわけではありません。
「天」とは神がおられる場所のことです。それはどこなのか、ということについては、説明しがたいものがあります。神がおられる場所が「天」なのです。
そして、この天が地上の世界に近づいてきた、ということは、天とは動くものである、ということです。
そのように考えるのでなければ、わたしたちキリスト者がいつも祈っている「御国を来たらせたまえ」という主の祈りの言葉の意味を理解することはできません。
「御国を来たらせたまえ」とは「御国が来ますように」、つまり、神のおられる天そのものが、わたしたちのいる地上の世界へと近づいてきますように、という意味です。
わたしたち夫婦が、事あるごとに二人の子どもたちに言い聞かせていることは、こうです。一般的には理解されないことかもしれません。
「ぼくたちは、『死んだら天国に行く』のではないよ。天国のほうから、ぼくたちのほうに来てくれるんだよ。天国は『行くところ』ではなくて、『来てくれるところ』なんだよ。そんなふうに、いつも祈っているじゃないか」。
救い主イエス・キリストがお生まれになったとき、ベツレヘムの羊飼いたちのいる場所で起こった出来事も、まさにそのことでした。「主の栄光が周りを照らした」。天国が、彼らに近づいてきたのです!
しかし、彼らは、そのことを、非常に恐れました。当然のことかもしれません。
天国が近づいてきた、ということを、わたしたちならば、どのように考えるでしょうか。
やはり、そこでどうしても考えてしまうことは、地上の人生がついに終わる、ということではないでしょうか。「お迎えに来る」という言い方があるくらいです。
羊飼いたちが自分の死を覚悟しなければならないほどの苦境に立たされていたかどうかは分かりません。厳しい労働を強いられていたとか、生命の危険があった、というようなことは、どこにも書かれていません。
しかし、人生の終わりは、ある日突然、何の予告もなく、やってくることがある、ということも事実です。天国が向こうから突然近づいてくる、ということは、人間の恐怖の理由でもあるのです。
ところが、天使の言葉は、羊飼いたちに、安心と喜びを与えるものでした。
「天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』」
天使が告げたのは、大きな喜びの知らせでした。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」という知らせでした。
ひとまず明らかなことは、「天国が近づいてくる」という出来事の意味は「わたしの人生が終わる」ということだけではない、ということです。
「わたしたちのために救い主がお生まれになる」ということも、言葉の十分な意味で「天国が近づいてくること」なのです。
神の御子イエス・キリストは、わたしたちと同じ姿で、わたしたちのいる地上の世界にお産まれになりました。それは、わたしたちのいるこの地上に、真の救いがもたらされた、ということです。
わたしたちがイエス・キリストとの出会いを果たし、救われる場所は、この地上において、なのです。
なぜわたしは、このようなことを強調するのでしょうか。わたしたちの時代に生きている多くの人々が、地上での生活に絶望しているからです。
もちろん、それは今に始まったことではありません。
地上には救いがない。世界は邪悪な力で満ちている。暴力があり、殺人があり、戦争がある。わたしたちは、ここでどんなに長く生きていても、何の救いもないし、喜びもないし、希望もない。
そのように感じている人々、人生が嫌になっている人々が、たくさんいるのです。
しかし、そうではないのだ、と。この地上に、あなたがたのために、救い主がお産まれになったのだと、主なる神は、天使を通して、羊飼いたちに教えてくださいました。
死んだら天国に行けるのだから、早く天国からお迎えに来てもらいたい。地上の人生など一刻も早く終わりにしたい、などと考えるのは、やめなさいと、主なる神は、わたしたちにも教えてくださっているのです。
たとえ、傷だらけ、あざだらけの人生であるとしても、です。生きることが大切です。そして、この人生の中で、救い主なるキリストと現実に出会い、現実に救われることこそが大切なのです。
天使は、羊飼いたちに、今日お産まれになった乳飲み子は、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている、と教えることによって、その方を探しに行くように促しました。
救い主は、あなたがたのすぐ近くにおられる。歩いて行ける距離に、同じ町の中におられる。そして、「その方だ」と、見ればすぐ分かるようなお姿をしておられる。
そのことを、天使を通して、主なる神は、彼らに教えてくださいました。
なぜ飼い葉桶なのか、なぜ家畜小屋なのかについての説明はありません。「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と書かれています。しかし、これは原因ではあっても、理由ではありません。
ただ、おそらく一つだけ、わたしたちに知らされていることがあります。
それは、ここで「布にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子」ということこそが、羊飼いたちがその方を救い主であると識別するための「しるし」である、と語られていることです。
ここで考えさせられることは、ベツレヘムの羊飼いたちが、そのとき置かれていた境遇は、どのようなものであったか、ということです。
言い換えるなら、“彼らにとって”、その方こそが救い主であると“感じる”ことができる姿は、どのようなものであったか、ということです。
わたしたち自身のこととして考えてみると、よく分かるでしょう。“わたしたちにとって”、その方こそが救い主であると“感じる”ことができる姿は、どのようなものでしょうか。
おそらく、わたしたちの多くは、「ごく普通の生活」をしています。そういう自覚があると思います。
この、ごく普通の生活をしている、ごく普通の人間たちにとって、自分自身の生活感覚からして、あまりにもかけ離れた姿を持つ存在を「わたしの救い主」と信じて告白することができるでしょうか。
「わたしの救い主」は、少なくとも、まさか、人生のすべてを贅沢で埋め尽くしているような存在の姿ではないだろう、と思われるのです。
贅沢のすべてがいけない、という話ではありません。わたしは今、そういう話をしようとしているのではありません。
しかし、貧しさや飢えに苦しんでいる人々が現実に存在するにもかかわらず、そのようなことに関心も配慮もなく、贅沢な人生を送っているような存在を、誰が尊敬するでしょうか。そんな救い主を、誰が信じるでしょうか。
むしろ、誰よりも貧しい姿で、枕して眠る場所もないような苦境に置かれている、そのようなお方こそ、わたしたちの人生の柱とし、支えとして信じ、受け入れるべき存在なのである、ということが語られているのです。
「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」
ベツレヘムの平原に、天使の賛美の歌声が、響きわたりました。この歌の内容も、神のおられる天とわたしたち人間の住む地上の世界との関係は、どのようなものであるのか、ということに関わっています。
そして、ここでも思い起こすべきは、「御国を来たらせたまえ」という祈りの言葉です。神の御子イエス・キリストのご降誕によって、神の栄光が輝く御国が地上に近づいてきたのです。
地上で、ひとが救われるのです。現実の救いを、地上で体験できるのです。
そして、その救いは「地上の平和」という形でもたらされるのだ、と信じてよいのです。
「地上の平和」などないではないか、と叫びたくなるような現実の中にあっても、です。わたしたちは、それを熱心に祈り求める必要があります。
地上にいるかぎり、その祈りをやめることはできません。その祈りをやめるならば、まさに、真の絶望に陥るのです。
「地には平和、御心に適う人にあれ」という訳は適切なものです。しかし、ギリシア語の原文を見ますと、もっと端的で、もっと意味深い言葉が書かれていることが分かります。
「御心に適う人」〔アンスローポイス・エウドキアース〕の「御心」〔エウドキア〕とは、わたしたち改革派教会が重んじるウェストミンスター信仰告白などでグッド・プレジャー・オブ・ゴッド(Good pleasure of God)と訳されている言葉です。
グッド・プレジャー(Good pleasure)のグッド(Good)は「善い」であり、プレジャー(pleasure)は「喜び」という意味です。ですから、直訳するならば「神の善い喜び」ということになりますが、そのような日本語はありません。「善意」とか「好意」と訳すことはできるでしょう。
しかし、それこそが、ここで「御心」と訳されている言葉の真意です。そうだとすれば、せめて、「喜びに満ちあふれた神の御心」と訳したいところです。神の御心の中身は「喜び」なのです!
「御心に適う人」とは「喜びに満ちあふれた神の御心に適う人」のことであり、要するに「喜びの人」です。
それは"永遠に神を喜ぶ"人です。しかし、それだけではありません。
だれよりも先に神御自身が「喜ぶ存在」である、ということを知り、神の喜びをわたしの喜びとして受け入れ、わたし自身が喜びに満たされて生きることができる人のことです。
地上に平和が実現することを神御自身が喜んでくださるのです。その喜びをこのわたしの喜びとすることができる人。それが「御心に適う人」です。
救い主イエス・キリストのご降誕という出来事の真の意味は、父なる神が、御子をお遣わしくださったことによって、御子を信じる者たちが、この地上の人生を喜ぶことができるようにしてくださった、ということです。
救いも、平和も、喜びも、生きながらにして体験し、味わうことができるものなのだ、ということを、神御自身が示してくださったのです。
歩いて行ける距離のところに、救いが実現しているのです。
だからこそ、です。
人生に絶望してはなりません!
恐れることなく生きていきましょう!
遠慮なく喜びましょう!
わたしたちの救い主は、いつもわたしたちと共におられるのです。
(2004年12月19日、松戸小金原教会主日礼拝)
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