2005年1月23日日曜日

故郷に帰る

ルカによる福音書4・16〜30


関口 康


イエスさまは、伝道のみわざを始められた後、御自身が生まれ育った故郷であるナザレの町にお帰りになりました。今日の個所に記されているのは、そのときの話です。


「イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。」


ナザレがどこにあるかは、新共同訳聖書の巻末付録の地図「6 新約時代のパレスチナ」をご覧ください。ガリラヤ湖の西南西あたりに位置する、小さな町です。


今はイエスさまゆかりの地として、観光地になっています。受胎告知教会(1969年完成)があります。わたしも一度だけ、連れて行ってもらったことがあります。


そのナザレで、イエスさまが「いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった」とあります。


「会堂」とは、ユダヤ教の礼拝堂、シナゴーグです。ユダヤ教の安息日は土曜日です。彼らは、土曜日ごとに会堂に集まり、今わたしたちがしているのと同じような礼拝を行います。土曜礼拝です。


その礼拝の中で、イエスさまが、聖書の御言を朗読され、その御言についての説教を行われたのです。


当時のシナゴーグでの礼拝の内容は、次のようなものだったと伝えられています。


まず最初に、信仰告白です。


告白される内容は、申命記6・4〜5です。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。


最初の「聞け」がヘブライ語でシェマーと言います。シェマー・イスラエル〔聞け、イスラエルよ〕です。それでこの告白はシェマーと呼ばれます。


次に、お祈りがささげられます。


そして、その次に、聖書の御言が朗読されます。しかし、聖書と言っても、もちろん、わたしたちの言う「旧約聖書」です。


当時の聖書は、大きな巻物の形をしていました。「預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになった」(17節)と書いてあるとおりです。


このとき、イエスさまは、預言者イザヤの書をお読みになりました。


旧約聖書には三つの部分があると、昔から考えられてきました。第一部が律法(トーラー)、第二部が預言者(ネビーム)、第三部が諸書(ケスビーム)です。


この場合の「律法」は、旧約聖書の最初の五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)を指します。これらが「モーセ五書」と呼ばれてきました。


シナゴーグでの礼拝では、律法と預言者の両方から御言が選ばれて朗読されました。おそらくこの日も、イザヤ書の朗読が行われる前に、律法の部分も朗読されたのです。


そして、その後、その聖書の御言についての説教、あるいは自由なお話が行われました。それらが、礼拝の最も基本的な要素でした。


ちなみに、当時、律法と預言者の朗読に続いて、聖書の御言の解説としての「説教」を行う“権利”を持っているのは、ユダヤ人の男性だけでした。


わたしが調べた注解書に、そのように書かれていました。説教を行うことは、わたしたちの権利なのです。


こういうことを、わたしは今まで、あまり真剣に考えたことがありませんでしたが、権利という言葉に、とても感銘を受けました。


説教は、義務だからとか、責任だからとか、嫌々ながら、というようなものではないのです。


しかし、それ以外の人々、つまり、すべての女性とすべての異邦人には、その権利が与えられていなかったことも、事実です。


また、説教の方法は、聖書の御言を前から少しずつ読みながら、順々に説き明かしていく、“連続講解説教”(lectio continua)という方法でした。


今日の個所で、イエスさまが会堂の中でしておられることは、まさに当時の礼拝の順序に沿っていることであると、理解できるのです。


イエスさまが、その日、どのような説教を行われたのかについても、非常に興味深いものがありますので、ぜひ見ておきたいと思います。しかし、その前に一つ、とても気になることがありますので、そこに戻ります。


それは、ごく小さなことです。はたして、イエスさまは、ナザレに来られたその足で、まっすぐに会堂に向かわれたのだろうか、ということです。


イエスさまがナザレの会堂に入られたのは「安息日」であったことについては、ルカが明記しています。ですから、問題は、イエスさまのナザレ到着日も、シナゴーグでの礼拝が行われたのと同じ「安息日」であったかどうか、です。


わたしは、イエスさまがナザレに到着されたのは安息日の当日ではなく、その数日前ではなかっただろうかと考えております。


それがどうしたのか、と言いますと、イエスさまがナザレに来られた目的は、シナゴーグで説教される、ということも含まれていたとは思いますが、おそらくもう一つの目的があったはずだ、と思われてならないのです。


単純に、イエスさまが幼少時代を過ごされた故郷に帰られること、つまり、御自身の実家に帰省されることも、ナザレ行きの目的だったのではないでしょうか。ここが、わたしには、非常に気になる点なのです。


イエスさまは当時、三〇才前後で、独身であられました。父はヨセフ、母はマリアです。もしかしたら、当時、父ヨセフは、すでに亡くなっていたかもしれない、という話があります。


マルコによる福音書6章の平行記事の中で、イエスさまが「この人は、大工ではないか。マリアの息子ではないか」(マルコ6・3)と呼ばれています。


その理由は、父親ヨセフが、そのときすでに亡くなっていて、長男のイエスさまが大工の跡継ぎをすることになっていたからだ、というのです。


だから、「この人(イエスさま)は、大工の子ではないか」ではなく、「(すでに)大工ではないか」なのです。


マルコは、イエスさまの兄弟の名前も紹介しています。ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモン、また妹たちもいました。


その家にお帰りになることも、このときのイエスさまのナザレ行きの目的に加えてよいと思われるのです。


「『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。』」


ここで明らかなことは、イザヤ書61・1、42・7、29・18などが織り交ぜられた仕方で朗読されているということです。


そして、イザヤ書の中で「主の霊がわたしの上におられる」とか「主がわたしに油を注がれた」とか「主がわたしを遣わされたのは」と語られている中の、この「わたし」とは、もちろん、預言者イザヤ自身のことです。


ところが、イエスさまは、このイザヤの言葉に基づいて、次のように語られました。


「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。」


「この聖書の言葉」とは、預言者イザヤの言葉です。そして、「今日、あなたがたが耳にしたとき」とは、もちろん、イエスさまが説教しておられるシナゴーグでの礼拝のときです。


まさにそのとき、この御言が実現したのです。イエスさまが、この御言を語られたときに、実現したのです。捕らわれている人に解放が、目の見えない人に視力の回復が、圧迫されている人に自由が、現実として与えられたのです。


このように語られる説教は、いいなあ、と思います。「そうかもしれませんねえ」とか、「そうなるといいですねえ」というような、ぼんやりした説教は、元気がありません。聴いていて、だんだん寂しくなります。


イエスさまのように断言的に語られる御言は、たいへん力強く、神の栄光と権威に満ちたものとして、そこにいた人々の心に響き渡ったのです。ナザレの人々は、イエスさまを「ほめた」のです。


ところが、そこで問題が起こりました。


「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この子はヨセフの子ではないか。』 」


先ほどわたしは、イエスさまのナザレ行きの目的には、ご実家に帰省されることが含まれていたはずだ、と申し上げました。その点がかかわってきます。


「この子はヨセフの子ではないか」。大工のせがれではないか、ということです。


父ヨセフは亡くなっていたかもしれないということも、すでに申しました。長男なら、亡くなった父親の仕事の跡継ぎをしなければならないはずだという気持ちも、この言葉に含まれていた可能性があるのです。


また、ナザレの人々は、イエスさまのことを、赤ちゃんだった頃から知っていました。


「あの可愛かったイエスちゃん、よくぞご立派になられました。どうぞ、ゆっくりして行ってくださいな」というような思いで、目を細めながら、イエスさまのことを見ていたに違いないのです。


わたしも、以前働いていたある教会で、夏休みをいただいて、実家に帰省するとき、年配の方々から「お母さんのオッパイを、たくさん吸ってきてくださいね」と言われて、とても恥ずかしい思いをしたことがあります。


全く何の悪気もない言葉であるとは思いましたが、何とも言えない気持ちになりました。


また、もちろん、ナザレには、子どもの頃一緒に遊んだ友人たちもいたでしょう。おれたちは、お前の過去を知っているぞと。泣きべそ、弱虫、悪ふざけ、など。


一般的に言って、今日でも、宗教の仕事に携わる者たちは、必ずと言ってよいほど、この種の反応を受けることを覚悟しておかなければならないと思います。


その人々には、少しも悪気はないのです。親愛の情の表れであると思います。


しかし、実際に、そのような目で見られて、また、そのような言葉を聞かされてしまうとき、神の御言を語る者たちの多くは、語るべき言葉を失ってしまうのです。


その場を支配している空気は、要するに、緊張感が全く無い、ということです。いわば“甘え”です。


そのような場においては、神の御言を語る者が、神御自身から遣わされている、ということが意識されるのが、非常に難しいのです。


そして、そこで起こる最大の問題は、その意味での“緊張感”が全くないような場所では、“信仰”が成り立たない、ということです。そこで語られる御言が「神の御言」として聴かれる、ということが起こらないからです。


「イエスは言われた。『きっと、あなたがたは、「医者よ、自分自身を治せ」ということわざを引いて、「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ」と言うにちがいない。』そして、言われた。『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ』」。


イエスさまは、やはり、とても嫌な気持ちになられたのだと思います。ナザレの人々に向かって、たいへん厳しい言葉を語られました。


「預言者」とは、神の御言を語る者たちの総称です。説教者、教師、牧師も広い意味での「預言者」です。


ここでイエスが語られている言葉の要点は、神の御言を語る者たちは、自分の故郷だけをひいきするようなことは、決してしない、ということです。


私どもの教会の長老たちが、主日礼拝の牧会祈祷の中で、「牧師は、ひとによく語るのではなく、御言に忠実に語ることができるように」と毎回祈ってくださいます。


この祈りの言葉を聞くたびに、本当に感謝しつつ、いろいろと考えさせられます。「ひとによく語る」とは、どういうことだろうかと。


牧師なら誰でも、できるだけ多くの人々に喜んでもらえるような話をしたいと願うわけです。しかし、そのような人を喜ばせるような説教をしてはならない、と言われているわけです。


地元の利益を追求するだけとか、特定の人々の利益を優先するだけの説教などは、おそらく、そういうものに該当するわけです。説教者に求められていることは、「御言に忠実に語ること」なのです。


ところが、それを聞いたナザレの人々は、たいへん怒りました。ある意味で、当然予想される反応でした。イエスさまを殺そうとまでしました。


イエスさまは、ナザレから「立ち去られました」。そして、その後、二度と、ナザレにはお帰りになりませんでした。マタイによる福音書19・29の御言が思い起こされます。


「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。」


イエスさま御自身が歩まれ、イエスさまに従う者たちにも歩むように命ぜられている道は、家族や故郷の人々を軽んじることでは、決してありません。


むしろ、逆です。家族や故郷が“救われる”ために、なしうることを行うことです。


わたしたちの愛する人々が救われるために、神の御言が必要なのです。そのために必要なことは、神の御言が“神の”御言として語られ、聞かれることです。


そのために、御言葉を語る者たちは、誰よりも先に、“甘えの構造”の中から抜け出る必要があるのです。


(2005年1月23日、松戸小金原教会主日礼拝)