2004年12月26日日曜日

人類の希望とは何か

ルカによる福音書2・22〜38

先週までにクリスマスのすべての行事が、無事に終了しました。ほっと一安心、というところでしょうか。

マリアとヨセフも、イエスさまがお産まれになった後、このような、安心した気持ちになったのではないでしょうか。出産には、喜びだけではなく、苦しみが伴います。当事者たちは、たいへんです。

マリアとヨセフは、イエスさまがお生まれになってまもなくして、「その子を主に献げるため」エルサレムに連れて行った、と書かれています。

出エジプト記13・2に「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」とあります。彼らは、聖書の御言どおりに、生まれたばかりのイエスさまをエルサレム神殿に連れて行き、主なる神さまにささげました。

そのとき、彼らに近づいてきた二人の人物がいた、ということが今日の個所に書かれています。いずれも高齢の人々でした。一人は男性、一人は女性。男性の名前はシメオン、女性の名前はアンナといいました。

「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。」

シメオンは、ある特別なお告げを、神さまから与えられていました。

「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」というお告げであった、と訳されています。原文から訳し直しますと、「主なるキリストを見るまでは、決して死なない」となります。

とても興味深い内容のお告げであると思います。いろいろと考えさせられるものがあります。

考えさせられることの第一は、「主なるキリストを見るまでは」という言葉の意味は何か、ということです。

新共同訳聖書で「会う」と訳されている「見る」の意味は、実際に目で見えるものを、直接、自分の目で見ることです。

この地上における歴史的出来事として具現化された事物を、体験的に、肉眼で把握し、知覚し、確認することです。

それは、いわば、「信じること」以上です。それが存在すること、あるいは、存在するであろうことを信じているけれども、まだ見たことがないという段階が終わり、次の段階に進んでいるのが「見る」という行為です。

外国旅行のことを考えてみるとよいかもしれません。

わたしには行ってみたい国がありますが、まだ行ったことがありません。その国が存在することは知っていますし、そこにはどのようなものがあるかを学んでもいます。

しかし、行ったことも、見たこともない。致命的とまでは言えませんが、決定的に足りないものを感じます。

わたしは、昨年の今頃、松戸小金原教会の牧師になる準備を始めていました。

以前に一度、特別伝道集会の講師として奉仕させていただきましたので、皆さんはわたしの顔を見てくださっていました。しかし、わたしは、申し訳ないことに、皆さんのお顔をぼんやりとしか覚えておりませんでした。

ですから、わたしは、皆さんを「見に」来ました。遠くで思い出す、というだけでは、限界があるのです。

「主なるキリストを見る」とは、信じること以上です。シメオンは、主なるキリストのお姿を、自分の目で見ることができる、という光栄に与るという約束を与えられていたのです。

考えさせられることの第二は、「決して死なない」という言葉の意味は何か、ということです。

キリストのお姿を見たら必ず死ぬ、という意味ではありません。「見るまでは死なない」とは、少なくともその日までは生きながらえることができる、という意味です。

これは、残念ながら、というべきでしょうか、誰にでも当てはまるという意味での一般的で普遍的な内容のお告げではありません。シメオンだけに特別に与えられた約束です。

ですから、残念ながら、主なるキリストを自分の目で見ることができない人々が、大勢います。わたしたちの場合は、聖書を通してキリストと出会うことができるだけです。

しかし、シメオンは違いました。キリストを見るまでは、決して死なない。生きている間に、主のお姿を見ることができる。このような素晴らしい約束を与えられていたのです。

ところが、そのシメオンに、一抹の不安がありました。彼の年令の問題です。命あるうちに間に合わないかもしれない、という不安であった、と言えるでしょう。

「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。』」

「安らかに去らせる」とは、この地上の人生が終わる、という意味です。

シメオンは、彼に与えられた約束を信じて、主なるキリストのご降誕を、今か今かと、心待ちにしていました。

ところが、待てど暮らせど、救い主は来てくださらない。約束は与えられているにもかかわらず、です。彼には、その約束を信じる信仰があったにもかかわらず、です。

それはちょうど、婚約式が終わっているのに、なかなか結婚できない男女の関係のようなものです。余計にせつなく、焦る気持ちばかりが募り、みじめな思いを味わいます。

時間ばかりどんどん過ぎていく。いっそ最初から、約束など無いほうが良かったのに、と後悔する思いさえ、浮かんでくる。

しかし、その約束を最期まで信じ続けることができたのは、シメオンの勝利であると思います。神のお告げである、というその一点ゆえに、信じることができたに違いない。信仰の勝利です。

ところが、シメオンは、もはや、生きていくのも辛いほど、体力的な限界を感じていたのです。

ですから、やっと、です。「安らかに」人生を終えることができる。救い主に出会うことができた。この目で見ることができた。何とか間に合った、ということです。

神さまは、意地悪な方ではありません。しかし、時々、このような切なく苦しい気持ちを、わたしたち人間が味わってしまうようなことをなさいます。わたしたちの信仰の強さを、試しておられるのかもしれません。

「『わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。』」

シメオンは、彼の目の前に現われた救い主を、「あなたの救い」、「万民のために整えてくださった救い」、「異邦人を照らす啓示の光」、「あなたの民イスラエルの誉れ」と呼んでいます。

救い主が来てくださることが、救いそのものです。そして、その救いは、異邦人にも、イスラエルの民にも、示されました。異邦人も、イスラエルの民も、その救いに与ることができます。その意味での「万民のための救い」です。すべての民のための救いです。

このように、シメオンは、イエス・キリストを通して示された神の救いは、民族的枠組みを越えた普遍的な広がりを持っていることを告白しました。これが、救い主イエス・キリストについてシメオンが告白した第一の点です。

「父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。『御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し抜かれます――多くの人の心の中にある思いがあらわにされるためです。』」

イエス・キリストについてのシメオンの告白の第二の点は、救い主が苦しみを受ける、ということです。

「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり」とあります。「立ち上がらせたり」ともありますが、ここでの問題は「倒す」のほうです。「反対を受けるしるし」ともあり、「あなた(マリア)自身も剣で心を刺し貫かれます」とあります。

キリストが、現実のイスラエルの行き方を倒す。倒されまいと、反対もされる。抵抗勢力が生じる。その姿を見て、お腹を痛めてこの子を産んだ母マリアも、辛い立場に立たされる。剣で心を刺し貫かれる。

十字架の上に張りつけにされたイエス・キリストの姿、そしてまた十字架の前で苦しむ母マリアの姿を、シメオンが、心の目で見ていました。

シメオンは、キリストの降誕された姿を見ることには間に合いましたが、十字架と復活、その後のキリスト教会の誕生には、間に合いませんでした。

しかし、それは、一人一人の人間には、それぞれの時代にあって、それぞれに異なる、それぞれの役割がある、ということを示している、と語ることが許されるでしょう。

そのような例を聖書の中に探しはじめるならば、枚挙にいとまがありません。

たとえば、モーセは、イスラエルの民を引き連れてエジプトから脱出しましたが、約束の地カナンの地が見えるほどの距離にまで近づいたにもかかわらず、カナンに入ることができぬまま、亡くなりました。

モーセは決定的に重要な役割を担いましたが、彼の祈りには、適わなかったこともあったのです。

しかし、それでも、モーセは満足しました。シメオンも満足しました。

彼らは、満足な人生を送りました。安らかに去ることができました。なぜでしょうか。

わたしは、まだ年若き者ですので、こんなことを言うと、馬鹿だと思われるかもしれません。しかし、真面目な話、最近しょっちゅう考えさせられていることは、あと何年牧師ができるか、ということです。

日本キリスト改革派教会が定める70才定年引退の日まで、残り31年です。たった31年しか残っていない、と感じるのです。

なぜそう思うのでしょうか。わたしたちに神さまが与えてくださっている仕事の規模が、あまりに大きすぎる、と感じるからです。たったの31年くらいでは、わずかなことしかできそうにないからです。

これは、牧師だけの話ではありません。

すべてのキリスト者に委ねられている仕事は、30年、50年、100年という単位で、成し遂げられていきます。その中で、一人一人は、ほんのわずかなことを成しうるのみです。なすべきことは、山のようにあるのです。

シメオンも、あるいはモーセも、われわれと同じ思いを持っていたに違いありません。

シメオンは、イエス・キリストを自分の目で見ることができて満足しました。神の壮大で遠大なご計画の中で、このわたしもまた何か一つでも役割を果たすことができた、ということに満足したのです。

そのようなことにこそ、ひとは、喜びを見出し、希望を見出すのです。

わたしたちは、松戸小金原教会と日本キリスト改革派教会の成長と発展を見て、心から満足するでしょう。これこそが、わたしたちの希望です。

まだ見ていないのだが、と思わないでください。今、ここで、神のご計画が進められています。わたしたちは、今、ここで、それを見ているのです。

(2004年12月26日、松戸小金原教会主日礼拝)