ルカによる福音書4・1〜15
関口 康
本日、これから学びますのは、イエス・キリストがヨハネから洗礼を受けられた"後"、そして、ガリラヤ地方で伝道を開始される"前"の出来事です。
それは、イエス・キリストが荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた、という出来事です。
「さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中を"霊"によって引き回され、四十日間、悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。」
「"霊"によって引き回され」とあります。"霊"とは、聖霊なる神の意味です。つまり、イエスさまが荒れ野に行かれたことも、そこで悪魔から誘惑を受けられたことも、すべては、神御自身の意図されるところであった、ということです。
なぜ、そんなことを、神がなさるのでしょうか。この問題には、触れないでおきます。これを話すには、多くの時間が必要です。
しかし、一点だけ、申し上げておきます。父なる神が、聖霊によって、イエス・キリストに試験を受けさせたのです。そう考えるしかありません。
イエスさまが受けられた試験の方法は、こうです。
最初に、いわゆる断食修行のようなことをします。四十日の間、何も食べずに生活します。すると当然、お腹がすいてきます。そのとき、悪魔から誘惑の言葉が聞こえてくる。それにどう答えるか、という問題です。
「そこで、悪魔はイエスに言った。『神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。』 」
これが第一の試験問題です。
「神の子なら」とは、もちろん「もしあなたが神の子ならば」です。仮定の表現であると、当然、感じられます。
しかし、ここでの悪魔の意図は、あなたは、もしかしたら、神の子でないかもしれない、ということではありません。
その意味ならば、悪魔の意図は、お前が神の子かどうかの証拠を見せよ。それはお前が不思議な力を持っているかどうかで分かるのだが、という話になります。
しかし、そういう話ではないのです。なぜなら、悪魔は、イエスさまが神の子であることを、初めから知っているからです。
悪魔が問題にしているのは、その点ではなく、むしろ、イエスさまが“神の子”であることの真の意味は何か、ということです。つまり、父なる神に従順な“子ども”であるとは、どのようなことにおいてか、ということです。
もう少し説明が必要でしょう。悪魔の問いかけの核心は、神の子が従うべき"父なる神の御心"とは何なのか、ということです。
聖書の解説書を読むと、いろいろと興味深いことが書いてあります。わたしが読んだのを一つ紹介しますと、ここでルカは「石」を単数形で書いている。しかし、マタイは複数形である、というのです。
「何だろう?」と思って、もう少し先を読むと、その単数形の意味として考えられるのは、ルカはイエスさまの目の前にある具体的な一つの「この石」の具体性を強調しているのだ、などというのです。なるほど、と思いました。
この線で考えると、問題は、より明確になります。
自分の目の前にある「この石」を、自分自身の空腹を満たすために用いることが、神の子のなすべきことなのか、ということです。
自己満足になることだけをして、それで事足れりとすることが、父なる神の御心なのか、ということです。
あらら、なんとなく、わたしたちにとって耳の痛い話になってきました。
神がお喜びになるのは、そのようなことなのか。自分さえよければ、それでよいのか、ということです。
「自分さえよければ、それでいいんだよねえ」と、悪魔はイエスさまに、誘いの言葉をかけてきたのです。
「 イエスは、『「人はパンだけで生きるものではない」と書いてある』とお答えになった。」
イエスさまは、聖書の御言を引用されました。旧約聖書の申命記8・3の御言です。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。」
これはモーセの言葉です。エジプトから脱出し、荒れ野の四十年の旅を経て、約束の地カナンを目前に見ているイスラエルの民に向かって、モーセが語った言葉です。
マタイによる福音書4章の平行記事ではこの御言のすべてが引用されていますが、ルカは前半部分だけを引用しています。
それは、ルカがこの個所で、イエス・キリストとはどのようなお方であるのか、ということについて語ろうとしている意図と関係していると思われます。
「人はパンだけで生きるものではない」というこの点には明らかに、パンも大切であるという意図が込められています。
パンは要らない、という話には、決してなりません。神の御子は、パンの大切さを否定するために地上に来られた、という話にも、決してなりません。
パンの大切さとは、わたしたちの日常生活の大切さです。毎日の食べ物を得るために、わたしたちは、汗水たらして働くのです。
牧師にはそんな話をしてもらいたくない、と言われたことがあります。武士は食わねど高楊枝。牧師も食わねど高楊枝だ、と。宗教家が世間的な話をするな、と言われました。そういう考えもありうるかもしれません。
でも、ここはどうかご理解いただきたいのです。イエス・キリストは、わたしたちが毎日食べるパンの意味と価値を、一度も否定されたことがありません。ただの一度もないのです。
しかし、です。その次に言いうることとして、たしかに、わたしたちは「パン"だけで"生きるものではない」のです。そのことも事実であり、真実です。
この申命記の御言は、モーセが語ったものであると、先ほど申しました。モーセの意図は、非常にはっきりしたものです。
わたしたちは、荒れ野で何をし、何を見てきたのか。パンだけを食べ、パンだけを見てきたのか。
そうではないはずだ。荒れ野の中でこそ、神さまの御言が、いかに信頼できるものであるかを見てきたではないか、ということです。
イエスさまは、悪魔に心を売り渡すつもりは、全くありませんでした。
自分自身の欲望や利益のためだけにあなたの力を使ったらどうだい、という悪魔の挑発に乗ることは、神のお喜びになることではないことを、お示しになりました。
パンも大切であるが、パンより大切なものがある。神の御言に従うことである。そして、神の御言こそが、人と世界に真の生命を与える真の力であるということを、イエスさまは示されたのです。
「更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。そして悪魔は言った。『この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。』 」
これが、第二の試験問題です。この問題の落とし穴は、二つほどあります。
第一の落とし穴は、ここで悪魔自身が、世界のすべての国々の一切の権力と繁栄を支配しているのは、このわたしである、と語っている点にあります。
なぜ、この点に落とし穴がありうるか、と言いますと、わたしたちが日常的に体験しているこの世界の現実は、ほとんど確実に、まさにこのとき悪魔自身が語ったとおりであるかのように感じられるものだからです。
暴力があり、殺人があり、戦争がある。そのような邪悪で・不気味な力が、この世界には、満ち満ちているではないか、と。これは、ごく普通の人が誰でも感じることです。この感覚にどう応えるのか、が問題なのです。
第二の落とし穴は、ここで悪魔が「だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」と誘っていることにあります。
もちろん、こんなのウソに決まっています。しかし、悪魔が世界の支配者であるという点には、現実の世界がそのように感じられるときには、ある独特の説得力が生まれてしまうのです。
だからこそ、その悪魔を尊敬し、崇拝し、手を結ぶことこそが、世界を支配するための唯一の道であるかもしれない、という思いも生じうる。この点が、ごく普通の感覚を持つ人々にとって落とし穴になりうるのです。
実際、当時のユダヤを支配していたのは、ローマ皇帝を中心に形成されたローマ帝国でした。彼らの圧倒的な軍事力が、今の全ヨーロッパを、政治的に支配していました。
彼らに抵抗し、自国の独立を求めることなど、まさに無駄な抵抗にすぎない。無力感と失望が、ユダヤ社会全体を支配していた時代だったのです。
「イエスはお答えになった。『「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』」
イエスさまの答えは、毅然としたものでした。ただし、相手の議論の土俵に乗ってやりあうのではなく、ここでも、ただ、聖書の御言を引用されただけでした。
「拝む」とは、礼拝することです。礼拝の対象は真の神のみであって、まさか、悪魔ではありえない。神の子であり、救い主であるものが悪魔と手を結ぶことをしてよいわけがない。
そのことを、ただ聖書の御言によって、語っておられるだけです。
「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った。『神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。というのは、こう書いてあるからだ。「神はあなたのために天使たちに命じて、あなたをしっかり守らせる。」また、「あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える。」』」
これが第三の、そして最後の試験問題です。「エルサレム神殿の屋根の端」から飛び降りてみろ、というのです。天使が守ってくれますよ、というのです。
「エルサレム神殿の屋根の端」の場所はどこかについては、いくつかの意見があります。
神殿の周りを囲む塀の上ではないかと考える人もいますし、エルサレム神殿の南東に位置するキデロンの谷のことではないかと考える人もいます。
西暦三世紀に活躍した神学者エウセビウスが書いた『教会史』は、日本語に翻訳されています。
それによると、イエスさまの兄弟ヤコブは、ユダヤ教の律法学者やファリサイ派の人々によって、エルサレム神殿の塔から突き落とされ、縮絨工(しゅくじゅこう)の棒〔毛織物を叩いて圧縮する道具〕でめった打ちされて死んだ」とされています(エウセビウス『教会史?T』、秦剛平訳、山本書店、1986年、79ページ)。
エルサレム神殿には、そのような「塔」があったのです。
この誘惑の意図は、もしあなたが「神の子」と呼ばれたいならば、魔術師のように何か人を驚かせることをしなければならないでしょう、ということです。
高いところから飛び降りても大丈夫。天使が助けてくれました、というアクロバット演技を見せつければ、誰もが「この方こそ神の子メシアである」と認めるだろう。
それくらいのスゴイことをしなければ、誰も納得しませんよ、と言いたいのです。
しかし、これに対しても、イエスさまは、聖書の御言をもってお応えになりました。
「イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」と言われている』とお答えになった。」
神の子は、魔術師ではありません。人を驚かせるようなことをする必要は、全くありません。
神の子に求められるのは、まさに父なる神の子どもとして、子どものように従順に神の御心にかなった歩みをすることだけです。
わたしたちも、そうです。教会も、そうです。神の御心は、ひとを救うことです。
教会の目的は、ひとをびっくりさせることではありません。神は、教会を通して、わたしたちが喜んで感謝して毎日を生きていくことができるように、恵みと助けを豊かに与えてくださるのです。
また、「あなたの神である主を試す」とは、神さまに試験を受けさせることを意味します。
しかし、これは逆さまでしょう。わたしたちに試験を受けさせるのは、神です。試験を受けるのは、わたしたちです。勘違いしてはなりません。
イエスさまは、すべての試験に合格しました。そして、伝道者としての歩みを始められました。
(2004年1月16日、松戸小金原教会主日礼拝)