2008年8月3日日曜日

わたしは神を信じています


使徒言行録27・1~26

使徒言行録の学びも、大詰めを迎えています。今日の個所から始まりますのは、言ってみるならば、パウロの第四回目の伝道旅行の様子です。ただし、第四回目という数え方が正しいかどうかは微妙です。

これより前に行われました三回の伝道旅行は、パウロ自身の祈りと計画に基づくものでした。しかし、今回は違います。今やパウロは囚人です。彼は囚人として、ローマ帝国の軍隊に引き連れられて、新しい旅行を始めることになったのです。

目的地は、イタリアの首都ローマでした。パウロがカイサリアで行われた裁判の結果を不服としてローマ皇帝に上訴したのを受けて、ローマに護送されることになったのです。それは、この(事実上の)第四回伝道旅行は、パウロの祈りと計画に基づくものではなかったことを意味しています。

とはいえ、今申し上げた事実にもかかわらず、これはパウロにとって事実上の第四回目の伝道旅行であったとみなすことができます。なぜなら、ローマに行くことそれ自体は、すでに十分な意味でパウロ自身の祈りと計画の中にあったことだからです。そのことは、ローマの信徒への手紙の中に記されています。「わたしは、祈るときにはいつもあなたがた〔ローマの教会の信徒たち〕のことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(ローマ1・9~10)。

ところが、パウロはその続きに「何回もそちら〔ローマ〕に行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」とも書いています。つまりパウロにとってローマは、何とかしてそこに行きたいと願いつつ、いろんな要素に妨げられて、なかなか行くことができなかった場所だったのです。

そのためわたしたちは、事情は何であれ、パウロの願いはかなったのだと信じてよいのではないでしょうか。生きておられる神御自身が全く不思議な仕方で、パウロをローマへと導いてくださった。そのように見ることができると思います。

「わたしたちがイタリアへ向かって船出することに決まったとき、パウロと他の数名の囚人は、皇帝直属部隊の百人隊長ユリウスという者に引き渡された。わたしたちは、アジア州沿岸の各地に寄港することになっている、アドラミティオン港の船に乗って出港した。テサロニケ出身のマケドニア人アリスタルコも一緒であった。翌日シドンに着いたが、ユリウスはパウロを親切に扱い、友人のところへ行ってもてなしを受けることを許してくれた。そこから船出したが、向かい風のためキプロス島の陰を航行し、キリキア州とパンフィリア州の沖を過ぎて、リキア州のミラに着いた。ここで百人隊長は、イタリアに行くアレクサンドリアの船を見つけて、わたしたちをそれに乗り込ませた。」

船を用いて海をわたってパウロと何人かの囚人をローマへと護送する責任を負うたのは、ローマの百人隊長ユリウスでした。

このユリウスがパウロを「親切に」扱ったと言われていますが、「親切に」は「人道的に」または「人に優しい仕方で」と訳すこともできる言葉です。その意味として考えられるのは、パウロは確かに囚人でしたが、非人道的な仕方で拘束されておらず、かなり自由に行動できる状態にしてもらっていたということでしょう。当時のローマ人たちの寛大さや見識を垣間見ることができるエピソードと言えるでしょう。

「幾日もの間、船足ははかどらず、ようやくクニドス港に近づいた。ところが、風に行く手を阻まれたので、サルモネ岬を回ってクレタ島の陰を航行し、ようやく島の岸に沿って進み、ラサヤの町に近い『良い港』と呼ばれる所に着いた。かなりの時がたって、既に断食日も過ぎていたので、航海はもう危険であった。それで、パウロは人々に忠告した。『皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります。』しかし、百人隊長は、パウロの言ったことよりも、船長や船主の方を信用した。」

今日の個所から分かることは、パウロの時代の海の旅は決して順調なものではなかったということです。当時のローマ軍の船の大きさや性能がどれほどであったかは知りません。しかし、向かい風が吹けば進むことができず、陸や島を見ながら針路を決めたりしていることを見るかぎり、いかにも危なっかしい古代の原始的な船を想像すべきでしょう。

そして、もたもたしている間に冬が訪れました。すると、この時期の航海は危険であるとパウロは判断し、そのように人々に忠告したと記されています。ここで問題になることは、はたしてパウロに航海についての専門的な知識があったのかということです。書物や勉強によって得た知識くらいは持っていたと考えてよいかもしれません。また、これまで三回の伝道旅行の中には船に乗る場面もありましたので、そのたびに船長たちから教えられた知識があったのかもしれません。しかし、これとてあくまでも想像にすぎません。

むしろ事実に近いと思われることは、パウロの判断は、彼自身が「わたしの見るところでは」と言っている点を重く受けとめるとしたら、一種の直感あるいは霊感のようなものに基づくものであったということです。別の言い方をすれば、パウロはこの件に関しては素人(しろうと)であると見られても仕方がない人であったということです。

だからこそ、というべきでしょう、百人隊長はパウロの判断を受け入れず、船長や船主の判断のほうを信用しました。これはある意味で仕方がないことです。専門分野を越えて口を出すと、いろんな反発が返って来ます。「素人である」と批判されます。

ところが、です。パウロの判断が的中しました。彼らの船は、その時期に発生する暴風の直撃に遭い、太陽も星も見えない闇の中で、行く先も分からぬ状態になり、漂流することになったのです。

「この港は冬を越すのに適していなかった。それで、大多数の者の意見により、ここから船出し、できるならばクレタ島で南西と北西に面しているフェニクス港に行き、そこで冬を過ごすことになった。ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ。しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き降ろして来た。船はそれに巻き込まれ、風に逆らって進むことができなかったので、わたしたちは流されるにまかせた。やがて、カウダという小島の陰に来たので、やっとのことで小舟をしっかりと引き寄せることができた。小舟を船に引き上げてから、船体には綱を巻きつけ、シルティスの浅瀬に乗り上げるのを恐れて海錨を降ろし、流されるにまかせた。しかし、ひどい暴風に悩まされたので、翌日には人々は積み荷を海に捨て始め、三日目には自分たちの手で船具を投げ捨ててしまった。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消えうせようとしていた。人々は長い間、食事をとっていなかった。」

私自身は、暴風のなか海の上を漂流するというようなことを経験したことはありません。強いて挙げるとしたら、一度だけ少し似ている状況に遭遇したのは、ギリシア発エジプト行きの飛行機に乗っているときでした。積乱雲に突入し、機体が激しく揺れたり、垂直に落ちたりして、私の目の前に座っていた客室乗務員の女性たちが乗客より大きな声で悲鳴を上げているのを見て、こちらが不安になってしまったことくらいです。

しかしまた、もう少し視野を広げて考えてみるとしたら、パウロが実際に遭遇した嵐の中のこの漂流体験は、わたしたちが人生のなかで何度となく味わう生活上の苦労の体験になぞらえることができるように思われます。

ここで二回繰り返されている印象的な表現は「流されるにまかせた」です。わたしたちも「流されるにまかせる」という体験をしたことがあるのではないでしょうか。

また彼らは「積み荷」(!)を捨て、ついには「船具」(?!)までも捨てました。こういう体験も、わたしたちは何度となく味わったことがあるのではないでしょうか。決して捨ててはならない大切なもの、それを捨てると先の人生を生きていくことさえも(精神的・肉体的に)困難になるほどのものまでも、仕方なく、涙を流しながら、捨てなければならない場面が、何度となくあるのではないでしょうか。

わたしたちの人生も、そして教会も同じです。教会も様々な困難、経済的な行き詰まりなどまで味わいます。あらゆることを切り詰めながら難しい局面を必死で乗り切っていかねばならないときがあります。

パウロが知っていたのは、おそらくその面なのです。彼には、船や海についての専門的な知識はなかったかもしれません。しかしパウロは、教会という船の船長を務めてきた人です。伝道の嵐と戦ってきた人です。海よりも恐ろしい反対者や迫害者に囲まれて、その中で死ぬほどの苦しみを味わってきた人です。

興味深いことは、そのパウロこそが、この嵐の中の恐ろしい漂流体験の中で、その面での専門家であったはずの船長よりも船主よりも、さらにローマ軍の兵隊たちよりも力強い言葉を語って、みんなを励ましたのだということです。パウロの強さは、明らかに、教会と伝道の戦いの中で身につけてきたものなのです。

「そのときパウロは彼らの中に立って言った。『皆さん、わたしの言ったとおりに、クレタ島から船出していなければ、こんな危険や損失を避けられたにちがいありません。しかし今、あなたがたに勧めます。元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです。わたしが仕え、礼拝している神からの天使が昨夜わたしのそばに立って、こう言われました。「パウロ、恐れるな。あなたは皇帝の前に出頭しなければならない。神は、一緒に航海しているすべての者を、あなたに任せてくださったのだ。」ですから、皆さん、元気を出しなさい。わたしは神を信じています。わたしに告げられたことは、そのとおりになります。わたしたちは、必ずどこかの島に打ち上げられるはずです。』」

パウロには一言多いところがありました。言わなくてもいいことを、つい言ってしまう。「わたしの言ったとおりにしていれば、このような目に遭うことはなかったのに」。

これは、苦しんでいる人をますます追い詰める言葉です。語られなければならない言葉かもしれませんが、これを聞く人の心は必ず傷つくでしょう。

パウロとしては、つい出てきた言葉だったかもしれません。しかし、それ以上は続けていません。実際に苦しんでいる人々を前にして、「その苦しみを招いたのは、あなたがたの責任である。そもそもあなたがたの最初の判断が間違っていたのである」というようなことをいくら言っても、彼らを助けることにならないことくらい、パウロにも分かっていたのです。

原因や責任の追究は、後回しでよい。今必要なことは、現実となったこの苦しい状況をみんなで乗り越えていくことである。そのことをパウロはよく分かっていたのです。

むしろこの場面でパウロが語ったことは「元気を出しなさい」でした。そして「わたしは神を信じています」という言葉でした。

「わたしは」にも「神を」にも「信じています」にも、それぞれ重い意味が込められていると感じる非常に味わい深い言葉です。もちろんその意味は、「神がこの絶望的な状況を切り開いてくださる。そのことをわたしは信じています」ということでしょう。

しかしパウロが「神を信じてください」とは言っていない点も重要です。この場面でパウロは、押しつけがましいことを少しも言っていないのです。

今、苦しみの中にいる方々へ。わたしたちもパウロと同じ言葉を送ります。

「わたしは神を信じています」。神がわたしたちを必ず助けてくださるでしょう。

(2008年8月3日、松戸小金原教会主日礼拝)