2008年8月10日日曜日

生きぬけ


使徒言行録27・27~4

先週の個所に記されていましたのは、恐ろしい出来事でした。囚人としてローマ皇帝のもとに護送されることになった使徒パウロを乗せた船が、地中海の上で激しい暴風に遭い、漂流しはじめたというのです。「幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていた」(27・20)と書かれていました。

その船に乗っていた人の数は276人であったと、今日の個所の37節に記されています。これだけの数の人々が、暗闇の海の上でほとんど絶望してしまったのです。

しかし、そのような状況とその人々のなかで、パウロは、非常に毅然とした態度を貫きました。それは、ある意味で不思議なことでもあります。そもそもパウロは囚人でした。一人の囚人に過ぎない存在でした。その船のなかでパウロは、いかなる意味でも指導的な立場にはありませんでした。指導的な立場にあったのは、ローマの百人隊長であり、軍人たちであり、船長であり、船主でした。

もしその人々がその船に乗っている人々を励まし助けたというならば、よく分かる話になるわけです。しかし、彼らはおろおろするばかりでした。その中で一人、パウロが語りはじめました。護送中の囚人の一人にすぎなかったパウロが、とにかく一生懸命になってみんなを励まし、力づける言葉を語ったのです。そしておそらくはパウロの言葉が、絶望していた人々を勇気づけるものとなったのです。

「十四日目の夜になったとき、わたしたちはアドリア海を漂流していた。真夜中ごろ船員たちは、どこかの陸地に近づいているように感じた。そこで、水の深さを測ってみると、二十オルギィアあることが分かった。もう少し進んでまた測ってみると、十五オルギィアであった。船が暗礁に乗り上げることを恐れて、船員たちは船尾から錨を四つ投げ込み、夜の明けるのを待ちわびた。ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った。そこで、兵士たちは綱を断ち切って、小舟を流れるにまかせた。」

27節以下に描かれていますのは、航海についての専門的な知識をもっていた船員たちが、どこかの陸地に近づいていることを察知したとき、船が暗礁に乗り上げて難破することを恐れ、自分たちだけがその船から逃げ出そうとした様子です。しかし、その怪しい動きにパウロが気づきました。そして、そのパウロが即座に取った行動は、百人隊長と兵士たちに船員たちの逃亡計画を知らせ、それを阻止してもらうことでした。

このパウロの行動の意味は、次のように説明できると思います。専門的な知識をもっている人が自分たちの命を守るために逃げ出し、彼ら以外の人々、つまり、専門的な知識をもっていない人々の命を犠牲にすることは重大な犯罪であるということです。そのことをパウロが「百人隊長と兵士たち」に知らせたことの意味は、その人々の軍事力、あるいは警察力に訴えることであるということです。

ここで皆さんにお考えいただきたい点は、わたしたちが何らかの専門的な知識をもつとは、まさにそのようなことであるということです。話は飛躍しているかもしれませんが、いわゆるインサイダー取引がなぜ犯罪なのかを考えていただくと、私が申し上げたいことをすぐご理解いただけるに違いありません。これから株価が上がることを事前に知りうる少数の専門的な知識をもった人々が、値上がりする直前に株を買い、値上がりした直後に売り抜けて一儲けする。これは重大な犯罪なのです。

他にも例を挙げて行くと、きりがありません。わたしたちが考えなければならないことは専門的な知識をもつとはどういうことなのかということです。そこにどのような責任が伴い、果たすべき役割が伴うのかです。もちろんわたしたちが専門的な知識をもつためには一生懸命に勉強する必要があるでしょう。つまりその問いは、わたしたちが一生懸命に勉強することの目的は何なのかという問いでもあるでしょう。

自分自身や家族や友人たちだけを助けるためだけでしょうか。そうではないでしょう。わたしたちは、多くの人々のために、公共の福祉のために、自分の専門的知識が用いられるようになるために一生懸命に勉強すべきなのです。そして多くの人々と共に力を合わせて危機的な状況を乗り越えていくために真剣に働くべきなのです。そうでなければわたしたちの勉強にも仕事にも意味がないでしょう。いかにもケチくさい、自分のことしか考えないような生き方は、明らかにまずいでしょう。

もちろんその中に自分自身や家族や親しい友人たちが含まれていることは許されてよいことでしょう。しかし、自分たちだけが逃げ延びて、他の多くの人々が犠牲になっていく様子を、まるで対岸の火事でも見るように、遠くから眺めているというのでは、何のための専門的知識なのか、何のための勉強なのかが真剣に問われなければならないでしょう。

先週も申し上げましたように、パウロには、航海に関する専門的な知識はなかったかもしれません。しかし、そのパウロが、彼の全力を尽くして危機的状況の中にあった人々を助けることができたのです。その意味をよく考える必要があるように思われます。

「夜が明けかけたころ、パウロは一同に食事をするように勧めた。『今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません。』こう言ってパウロは、一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めた。そこで、一同も元気づいて食事をした。船にいたわたしたちは、全部で二百七十六人であった。十分に食べてから、穀物を海に投げ捨てて船を軽くした。」

その船に乗っていた人々は、14日間、つまり二週間もの間、全く何も食べずに過ごしました。その中でパウロが語った言葉は「どうぞ何か食べてください」ということでした。先週の個所でパウロは、人々に「元気を出しなさい」と語り、また「わたしは神を信じています」と語りました(25節)。私が興味深く感じたことは、パウロがこの場面で口にしていない言葉がある、ということです。

それは「皆さん、どうか神を信じてください」という言葉です。また「皆さん、どうか祈ってください」という言葉です。このような場面ではそういう言葉を語るべきではないということを、私が言いたいわけではありません。事実としてパウロはそのような言葉を口にしていないということを申し上げているのです。そのようなことよりもむしろ、この場面でパウロが積極的に語った言葉は「元気を出しなさい」であり、「何か食べてください」という言葉であったという事実です。

「神を信じてください」「祈ってください」という言葉のほうを“宗教的な”言葉と呼ぶとしたら、「元気を出しなさい」「何か食べてください」という言葉はいわば“一般的な”言葉です。あるいは、前者を“精神的な”言葉と呼ぶならば、後者はいわば“肉体的な”言葉です。さらに言い換えれば、後者は“人間的な”言葉であると呼べるでしょう。

もちろんパウロは自分自身の告白として「わたしは神を信じています」と語っていますし、また彼自身の一つの態度決定として神に祈りをささげています。しかし問題は、そのパウロが自分以外の他の人々に対して何を語り、どのような態度をとったかです。今日の個所を見るかぎりパウロはきわめて積極的に“一般的”な言葉、あるいはきわめて“人間的な”言葉をもって人々を励ましました。この事実が、私にとっては大変興味深く感じられたのです。

この点は、わたしたち自身の姿と重ね合わせて見ることができるでしょう。より根本的な問いとしては、教会と牧師は“人間的な”言葉を語ってはならないだろうかということでもあるでしょう。わたしたちが苦しみの中にある人々を励ましたり慰めたりするために語るべき言葉は何なのかを考えるための、重要な材料になるでしょう。それこそ二週間も食事をとれない状態のなかで全く絶望しかかっている人々に向かって、ここぞとばかりに伝道しなければならないでしょうか。それが彼らを助けることになるでしょうか。

この場面でパウロが語っている言葉に対して私が感じることは人間的な温かさ、あるいはデリカシーです。

伝道者になりたての頃のパウロは、語る言葉の一つ一つがけんか腰のようでした。噛みつくような調子で語っていました。しかし、そのパウロも本当に苦しみ抜いてきたのではないでしょうか。人の苦しみや痛みがよく分かるようになってきたのではないでしょうか。人が生きるために、「生き延びるために」(34節)何が必要であるかを、人としての心の深い次元で知るようになってきたのではないでしょうか。ここにパウロの人格的成長を読み取ることができるように思います。

「あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」というのは、もちろん真剣そのものの言葉であるに違いないのですが、どこかしらユーモラスな響きがあります。これと似た表現は、旧約聖書のサムエル記上14・45、サムエル記下14・11、列王記上1・52、また新約聖書のマタイによる福音書10・30、ルカによる福音書12・7に出てきます。

その個所を見ると分かることは、問題は髪の毛の本数ではないということです。「主なる神があなたの命をしっかりと守ってくださる」という点を強調して語る、励ましの言葉です。人を勇気づける言葉です。

「朝になって、どこの陸地であるか分からなかったが、砂浜のある入り江を見つけたので、できることなら、そこへ船を乗り入れようということになった。そこで、錨を切り離して海に捨て、同時に舵の綱を解き、風に船首の帆を上げて、砂浜に向かって進んだ。ところが、深みに挟まれた浅瀬にぶつかって船を乗り上げてしまい、船首がめり込んで動かなくなり、船尾は激しい波で壊れだした。兵士たちは、囚人たちが泳いで逃げないように、殺そうと計ったが、百人隊長はパウロを助けたいと思ったので、この計画を思いとどまらせた。そして、泳げる者がまず飛び込んで陸に上がり、残りの者は板切れや船の乗組員につかまって泳いで行くように命令した。このようにして、全員が無事に上陸した。」

船がついに陸地にたどり着きました。しかし、船員たちが予測したとおり、浅瀬にぶつかってしまい、船が壊れてしまいました。兵士たちが、囚人たちが逃げないように殺そうとしたのは、彼らに与えられた任務を全うしようとしたからではありません。囚人に逃げられてしまうと彼らの責任を追及され罰せられることを恐れての行為です。ここにも自分が助かることしか考えない、自己保身的な人々の姿が描かれています。

しかし、彼らの計画は、百人隊長が阻止しました。「パウロを助けたいと思った」とあります。パウロを大事に思う気持ちを、百人隊長が持ってくれたのです。そのおかげで誰も殺されずに済んだのです。全員が助かったのです。

どうか言わせてください。囚人にすぎない一人のパウロが、276人全員の生命を救ったのです。他の誰よりも強く立ち、全力を尽くして、与えられた知恵と力を用いて。

その際、“自分のことしか考えないわがままな人々との戦い”という点を無視することができません。自分自身を含む(これが重要です!)全員が生き延びるために、パウロは、その頭と心をフル稼働させて、最後まで戦い抜いたのです。

(2008年8月10日、松戸小金原教会主日礼拝)