関口 康
「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」
おはようございます。今日の礼拝はペンテコステ礼拝としてささげています。「ペンテコステおめでとうございます」という挨拶を私は聞いたことがありません。しかし、今日がおめでたい日であることは確かです。
ペンテコステは、最も単純にいえば全世界のキリスト教会の誕生日です。教会は「団体」ですから「設立記念日」と言っても構いません。ペンテコステは、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスに匹敵するほど大切な記念日です。また、イエス・キリストの復活をお祝いするイースターと同等の価値を持つ祝祭日です。
しかし、これはあくまでも私個人の印象であるとお断りしたうえで申し上げますが、もしかしたら日本の教会に、そうであることの認識が欠けているかもしれないと感じることがあります。全世界の教会の誕生日だからおめでたいと言われてもピンとこないと思われる方がおられませんでしょうか。
たとえば、各個教会に設立記念日があります。日本キリスト教団にも創立記念日があります。それらについても同じことが当てはまるのではないかと思います。「だから何なのか」と感じてしまう。「それが私の人生と何のかかわりがあるのか」と。
「私にとって重要な意味を持つのは、この私の誕生日であり、この私が洗礼を受けてキリスト者としての歩みを始めたことを記念する受洗記念日である。それをお祝いするならまだ分かる。教会の誕生日なんかどうでもいい。私とは関係ない」と。
かなり穿った見方が混ざっていますので、そのようなことは一度も考えたことがありませんとおっしゃる方がおられるようでしたらお許しください。どうか怒らないでください。
そして私は、もしこういう感覚をお持ちになる方がおられても責めるような気持ちは全くありません。私自身もこういうことをしょっちゅう考えているからです。もしかしたら皆さんの中に私と同じ感覚を持っておられる方がおられるのではないかと想像して、あえてお尋ねしています。
ひと言でいえば個人主義なのだと思います。「神は好きです。イエス・キリストも好きです。しかし教会は嫌いです」とおっしゃる方がおられます。私の知るかぎりでも少なくありません。「教会などなくても自分の信仰は維持できます。神と自分の一対一の関係が重要なのであって、教会は邪魔になるだけです。面倒くさいものに巻き込まれたくありません」と。
そういう感覚をお持ちの方々を私が責めるつもりがないのは、教会はそういう存在であると私自身が考えているからです。「お邪魔してすみません」と謝りたくなります。「皆様の人生と生活を支配しようなどとは全く考えておりません。もしお役に立てることがあるようでしたら、何なりとお申し付けください」という気持ちがあるだけです。
この気持ちは私が牧師の仕事を始めた最初の日から全く変わっていませんので、かつて牧師をした教会の方々からよくお叱りを受けました。「弱腰すぎる」「頼りない」「もっと権威をもってください」と。「はいはい分かりました」とお答えすると「はいは一回」と言われたり。のれんに腕押し、ぬかに釘。
どの教会もどの牧師も、みんなそうだと思いません。強い権威をもって立とうとする教会もあります。しかし、そのほうがいいと私にはどうしても思えません。私の個人的感想としてではなく、聖書と神学に基づく結論として。教会は個人に「弱く優しく」寄り添う存在以上であるべきでない。
今日開いていただいたのは使徒言行録2章です。最初のペンテコステの日に起こった聖霊降臨の出来事が描かれている箇所です。しかし、今日の箇所に入る前に見ておきたいのは使徒言行録1章6節以下に記されているイエス・キリストの昇天の出来事です。
昇天は、使徒言行録1章3節によると、イエス・キリストの復活から40日目に起こったことです。そのとき何が起こったのかといえば「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(1章9~10節)ということです。
これを文字通り受けとるべきかどうかに疑問を持つ方がおられるかもしれません。イエス・キリストの背中に羽根が生えて、鳥か飛行機のように飛んで行かれたのでしょうか。そのようにとらえるべきなのか、それともこれはある意味での比喩としてとらえてよいかの判断は、わたしたちに任せられています。
この箇所で重要な点は、ひとつです。イエスが「彼らの目から見えなくなった」ことであり、「離れ去って行かれた」ことです。つまり、このときからイエス・キリストは地上において不在になられたのです。
そして、イエス・キリストの昇天から10日目、イエス・キリストの復活から数えれば50日目に起こったのが聖霊降臨の出来事です。そのように使徒言行録が描いています。
「五旬節の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2章1~4節)。
そこで何が起こったのかは、記されていることに基づいて想像するほかはありませんが、これも文字通り受けとるべきなのか、それともある意味での比喩なのかを考える必要がありそうです。「激しい風」や「炎のような舌」といった、大げさというと語弊がありますが、ドラマティックな形容詞や副詞が目立つ文章が続いています。
この中で重要な点は二つです。第一は、ひとつの場所に集まっていたイエス・キリストの弟子たちが「聖霊に満たされたこと」です。第二は、彼らが「ほかの国々の言葉で話しだしたこと」です。
どちらも奇跡的な出来事として描かれています。しかし、第二のほうからいえば、彼らがほかの国々のいろんな言葉で語り出したのは、いろんな国の多くの人々にイエス・キリストの福音を宣べ伝えるためでした。つまり、このときから世界伝道の準備が始まったのです。
そして第一の、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が注がれたことの意味は何かと考えるときに大事なことが、先ほど触れたイエス・キリストの昇天の出来事との関係です。昇天の出来事がイエス・キリストの「不在」の始まりだったとすれば、聖霊降臨の出来事はイエス・キリストの「代わり」としての聖霊が、弟子たちと共に働いてくださることの始まりだったと言えます。
それとも、イエス・キリストが不在になった時点で、教会は伝道をやめて解散すべきだったでしょうか。初代教会はそうしませんでした。イエス・キリストの弟子たちが、イエス・キリストの「代わり」に伝道を継続したのです。
キリスト教会の信仰において「聖霊」は、神の力(パワーやポテンシャル)であるというだけにとどまりません。「聖霊」は端的に「神」です。わたしたちの「神」は父・子・聖霊なる三位一体の神です。この点は譲ることができません。
そして「聖霊」が「神」であるとしたら、聖霊降臨の出来事において起こったことは、イエス・キリストの弟子である者たちの存在(体と心)の内部に「神」が宿ってくださることが起こったとしか言いようがない、ということです。
しかも「聖霊」が三位一体の神であるということは、わたしたちの存在(体と心)の内部には「聖霊のみ」が宿るのであって、父なる神もイエス・キリストも宿ってくださらないということではなく、「聖霊」が宿るこの私の中に、父・子・聖霊なる三位一体の神が宿ってくださることを意味します。
私が教会の方々によくお勧めしてきたのは「山のあなたの空遠くにおられるかどうか分からない方に呼びかけるような祈りではなく、自分に言い聞かせるように祈るとよいと思います」ということです。この私に神が宿っておられ、その神に祈るのですから、それでよいのです。
それはものすごく重要なことであり、驚くべきことです。なぜなら、イエス・キリストの弟子たちは、あくまでも一個人だからです。その一個人の内部(体と心)に「神」が宿ってくださるということは、その現象としての外見上は、神がたくさん増えたかのようです。なぜなら各個人は「ほかの国々の言葉で話しだした」とあるとおり、いろんな言葉で語るからです。
聖霊が注がれた人、すなわち「聖霊なる神が宿ってくださった人」は、それ以前に持っていた記憶も感情も失うのかといえば、決してそうではありません。それらを失うとすれば「洗脳」を意味しますが、各個人は元々の人間のままです。なんら変化はありません。たとえ「上書き保存」されたとしても、元々の記憶も感情も残ったままです。思い出したくないような過去の記憶も事実もすべて。
それでよいのです。元々のこの弱い人間性を持ったままの私を「神」が用いてくださるのです。神はおひとりであり、三位一体の神を信じる信仰は多神教ではありません。しかし、聖霊と共に生きる者たちは、判で押したような同じ言葉しか言わなくなるわけではありません。それぞれ違った言葉や発想で語ります。それが聖霊の働きの特徴です。
教会とはそういうところです。基本的に全く自由な団体です。自分の感情を押し殺す場所ではありません。故意に人を傷つけるようなことは言わないほうがいいに決まっていますが、思ったことを思ったとおり語ることが許されています。わたしたちは何も怯える必要がありません。
そういう場所がわたしたちの人生の中にあることを感謝したいと思います。
(2018年5月20日)