2017年6月4日日曜日

聖霊が希望を生み出す(下関教会)

日本基督教団下関教会(山口県下関市)
使徒言行録1章6~11節

関口 康(日本基督教団教師)

「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた。イエスは言われた。『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。』こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見つめて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。』」

下関教会の皆さま、おはようございます。イースター礼拝で説教させていただきました関口康です。ペンテコステ礼拝にもお招きいただき、ありがとうございます。今日もよろしくお願いいたします。

自分で言わないほうがよさそうなことですが、イースター礼拝とペンテコステ礼拝が同じ説教者であることは、神学的に正しいことです。2つの出来事にはつながりがあるということを鮮やかに示すことができるからです。

事実、2つの出来事は密接に関連し合っています。いわば続きものの話です。どちらか一方の出来事だけでは完結しません。ですからペンテコステ礼拝でも説教をさせていただけることになったときには腕が鳴るものがありました。

しかし、問題はそこから先です。イースターとペンテコステとの間に何回日曜日があるでしょうか。6回です。つまり、2つの出来事は7週離れています。1週は7日、7週は49日。その翌日の50日目がペンテコステです。ユダヤ教の「過越祭」の安息日の翌日、それがイエス・キリストが復活されたイースターの日曜日です。その日から数えて50日目に行う「五旬祭」がペンテコステというヘンテコなカタカナ言葉の意味です。ペンテコステとは「50」という数字を意味しています。

その50日間を私もこのたび強く意識しながら過ごしてみて分かったのは「50日はけっこう長い」ということでした。その間に6回の日曜日がめぐってきました。その間私は何をしていたかといえば、ほとんどすべての日曜日はいろんな教会で説教していました。

そうなるとどうなるかお分かりでしょうか。1回1回が新しい出会いの連続で、とても緊張します。しかも、説教させていただくときはその教会の方々だけを愛し、その教会の方々のことだけを考えながら説教します。別の教会に行けばその教会の方々を愛します。そういうことをしていますと、過去の記憶は加速度的に薄れていきます。

いま私は自分のことを話しているだけのようですが、そうではありません。今日の箇所に登場するイエス・キリストの弟子たちも、私が味わったのと同じ気持ちを味わったのではないかと思うのです。

当時の状況を想像してみるに、イエスさまの弟子たちはイースターとペンテコステの間に何をしていたのかといえば、毎週日曜日に集まって礼拝していたと考えられます。当時も今も同じように7日ごとに日曜日がめぐってきたし、そのたびに礼拝し、説教を語り、聴き、祈りをささげていました。

たとえそのようにはっきりと聖書に書かれていなくても、事実そうなのです。彼らが日曜日に礼拝をしなかったことはありえないのです。聖書に書かれていないことは彼らがしていなかったかというと、その理屈がおかしいわけです。それが彼らの「生活の座」(Sitz im Leben)だったのです。

ですから、今日の箇所の最初の「使徒たちは集まって」の「集まって」は、単なる集まりではなく、ほとんどそれは「教会」を意味すると考えるべきです。わたしたちが今、この教会に集まって礼拝をささげているのとほとんど同じ状況に弟子たちが立っていた様子を想像すべきです。ただし、それは日曜日ではなかったと思われます。その理由はあとで述べます。

しかも、1章3節以下には「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」と記されています。

これで分かるのは、イエスさまがその復活された姿を現わしてくださったのは40日だけだったということです。ペンテコステまで、あと10日足りません。しかも40は7で割り切れません。イースターから40日目は日曜日ではなく木曜日です。

それはつまりこういうことです。イエスさまは今日のペンテコステ礼拝の先々週の礼拝にはお見えになりましたが、先週の礼拝にはお見えにならなかったということです。弟子たちは、せっかく復活してくださったイエスさまの姿がどこにも見当たらない、寂しくて不安な10日間を過ごしたのです。

それで今日の箇所に記されているのがイースターから40日目の出来事です。ここに記されていることをひとことでいえば、イエスさまのお別れの挨拶です。寂しい言い方はしたくないのですが、そうとしか言いようがありません。

弟子たちがイエスさまに尋ねました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(6節)。

原文に基づいて私なりに訳してみました。「主よ、イスラエル王国をあなたがこの時代に取り戻してくださいますか」。

どこかで聞いたことがある言葉にしてみました。「取り戻す」。それは、今は自分たちの国や社会の本来の形を失っている状態なので一刻も早く本来の形を取り戻したいと願っている人々の言葉です。

それはきわめて《後ろ向き》の考え方です。過去の栄光にしがみついています。「我々はこんなはずではない」と嘆いています。現実を受け入れることができずにいます。「我々は一生懸命がんばってきた。それでも今の状態なのだから、我々の責任ではない」と言いたがっています。

そして、「今の状態が我々の本来の姿を失っているのは、強くて悪い敵がいるからだ。これまでのリーダーが弱すぎたのだ。政治が悪い、社会が悪い」と責任を転嫁したがっています。だから我々の本来の姿を「取り戻す」ための強いリーダーが必要なのだ。「それはあなたですか。それはいつですか。今ですか」と、イエスさまに食い下がっています。

ですから、もしそこでイエスさまが「わたしが取り戻す。ただちに取り戻す」とお応えになれば、たちまち英雄です。拍手喝采です。しかしイエスさまは、それを聞くと弟子たちが必ずがっかりしたであろうことをお答えになりました。

「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(7節)。

私なりの訳は次のとおりです。「時代(クロノス)やタイミング(カイロス)は、あなたがたには分からない。それを決めるのは御父の権限である」。

そして「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。

私の訳は次のとおりです。かえって分かりにくいかもしれませんが、原文どおりです。「あなたがたの上に聖霊が臨むと力の受領が起こる。エルサレムでも、ユダヤとサマリアの全土でも、地の果てまでも、あなたがたが私の証人である」。

新共同訳聖書は「わたしの証人となる」と訳していますが、原文は英語のbecomeではなく、be動詞です。「である」です。「あながたが私の証人である」。その意味は、聖霊を受けた人は、それまでとは違う、まるでスーパーマンやウルトラマンのような特殊な存在へと変身するわけではないということです。昨日も今日も変わらない同じ人間が「主の証人である」と任命されるだけです。

イエスさまのお答えの趣旨ははっきりしています。イスラエル王国を取り戻したいなら、それは私の仕事ではなくて、あなたがたの仕事であるということです。聖霊によって力を受けるのも、わたしの証人であるのも「あなたがた」なのですから。

そして、イエスさまは「彼らが見ているうちに天に上げられ」(9節)ました。「私が一緒にいるとあなたがたはいつまでも自分の働きと責任を自覚しないから、そろそろいなくなるので後はよろしく」とおっしゃりたいかのように。

イエスさまの姿が見えなくなっても、弟子たちは「天を見つめて」(10節)いました。先ほどまでイエスさまに「あなたですか、今ですか」と食い下がっていた弟子たちは《後ろ》を向いていました。過去の栄光にしがみついていました。しかし、次は《上》を向き始めました。天を見上げ始めました。「イエスさま、行かないでください」と言いたそうに。

すると彼らは白い服を着た二人の人に叱られました。おそらく天使です。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見つめて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(11節)。

天使たちが弟子たちに言おうとしているのは、あなたがたは目を向ける方向が間違っているということです。《後ろ》ではないが、《上》でもない。《前》を向きなさいと言っています。

なぜなら、天に上げられたイエスさまが再び戻ってこられるのは、あなたがたが生きているこの地上の世界なのだから。あなたがたが目を向けるべき先は、《後ろ》すなわち過去ではなく、《上》すなわち地上を離れた天でもなく、《前》すなわち地に足をつけたままたどり着くことができる、我々の現実の世界の未来である。

今日の説教に「聖霊が希望を生み出す」と題をつけました。これはパウロの言葉に基づいて考えた題です。

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマの信徒への手紙5章4~5節)。

わたしたちは、この言葉の意味をよく考える必要があります。出発点は「聖霊」です。「聖霊」が与えられているわたしたちの心に「神の愛」が注がれています。

しかし、そのわたしたちに「苦難」が訪れます。そこで求められるのが「忍耐」です。それは我慢することです。特別な意味を考える必要はありません。そして我慢すれば、我慢した分だけの忍耐力がつきます。それが「練達」です。「練達」が身について初めて「希望」を語ることができるようになります。

その希望はわたしたちを欺きません。虚偽でも詐欺でもありません。輝かしい将来を見ることができる日が来ます。そのような意味での「希望」です。それは「苦難」と「忍耐」と「練達」を経てようやくたどり着ける希望です。

しかし、忘れてはならないのは、その最初の「苦難」を「忍耐する」のは、あくまでも「わたしたち」であるということです。イエス・キリストが「私の身代わりに」忍耐してくださるわけではありません。この文脈に「身代わり」の話を持ち出してはいけません。そういうのは聖書の教えの曲解です。

今申し上げたことは、身も蓋もないような話です。宗教の話というよりは普通の話です。そうです。聖書の教えは普通の話です。わたしたちはスーパーマンにもウルトラマンにも変身しません。人間のまま「希望」をもって、喜びをもって生きていくことができます。ただし、そのためには「苦難」と「忍耐」と「練達」を通り抜ける必要があります。

しかし、今日私がお話ししているのは、皆さんに「何かを言いに」来たというのではなく、私自身に言い聞かせていることです。《後ろ》でもなく《上》でもなく《前》を向く。過去にしがみつくのではなく、地上に絶望して天を見つめるのでもなく、地上の未来を見つめる。それは今の日本の教会と牧師に強く求められていることです。

そのとき「聖霊」がわたしたちをしっかりと支えてくださいます。「聖霊」とは端的に「神」です。聖霊なる神がわたしたちをしっかりと支えてくださいます。使徒パウロの言葉の途中を省いて言えば「聖霊が希望を生み出す」のです。

(2017年6月4日、日本基督教団下関教会 ペンテコステ礼拝)