2019年7月21日日曜日

生命の回復


使徒言行録20章7~12節

関口 康

「人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

こういうことは本当はすべて黙っていたい人間ではありますが、行きがかり上と言いますか責任上、何人かの方々にお知らせする必要があり、ご心配いただいていることでもあります。

先週木曜日に学校の今学期の私の仕事が終わりましたが、その翌日の金曜日の朝から激しい頭痛と全身の筋肉痛が始まり、熱まで出てきました。それで一昨日と昨日の2日間、牧師館でずっと寝込んでおりました。

今まで体験したことがないような強い頭痛でしたし、熱が出るのは10年ぶりくらいか、もっと前以来でしたので、いろいろ驚きました。

原因ははっきり分かります。私が担当している中高生の期末試験と提出されたレポート類の採点を、成績処理の締め切りに間に合うように一気にしました。それの反動が出たのだと思います。

前に働かせていただいた高校でも同じようなことをしなかったわけではありません。しかし、そのときの私は常勤講師でした。教会の責任は持っていませんでした。今年の私は非常勤講師です。教会の仕事が私の本業です。

駅前のドラッグストアでアイスノンを買ってきて、頭を冷やしてぐっすり休みましたので、今日はかなり大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません。

最初に私の話になってしまって、ごめんなさい。今日の聖書の箇所も、日本キリスト教団の聖書日課『日毎の糧』に従って選びました。説教題の「生命の回復」も『日毎の糧』どおりです。

『日毎の糧』をどういう人たちが作っているのかを私は知りませんが、今日のこの聖書箇所と説教題で何を言わせようとしているのだろうと、つい考えてしまいました。

今日の箇所に書かれていることを、ざっとまとめます。このときわたしたちと同じように日曜日にみんなで集まって礼拝が行われていました。説教者は使徒パウロでした。パウロの伝道旅行の途中に立ち寄った地での礼拝でもあり、翌朝にはお別れすることになっていました。

それでおそらくパウロのほうも去りがたい思いを持ち、集まった人々のほうもパウロの言葉に熱心に耳を傾けていましたが、パウロの説教がどんどん長くなり、夜遅くなってしまい、それでもまだ続くものだから、つい寝込んでしまったエウティコという青年が、みんなが集まっていた建物の3階の窓から転落して死んでしまったというのです。

わっと騒ぎになったのでしょう。パウロもいったん説教を中断して、エウティコのところまで駆け寄り、抱きかかえて「騒ぐな。まだ生きている」とみんなをなだめました。

しかし、ここでわたしたちにとっては驚くべきことが起こります。それは、パウロがまた元の位置に戻り、今のわたしたちがいわゆる「聖餐式」として受け継いでいるパン裂きの儀式を行い、夜が明けるまで説教を続けたことです。

パウロだからできたことでしょうか、二千年前だからできたことでしょうか。いずれにせよ、わたしたちにはいろんな意味で驚かされる話だと思います。

教会の礼拝だから特別扱いであるという面が全くないとは言えないかもしれません。しかし、大勢の人が集まっている場所で、ひとりの人が死んだというのです。それでもその集会をその時点で解散せずに、予定したプログラムが終了するまで続けるのは、いろんな意味で難しいことだと思います。

よほど動かしがたい行事の場合は、生き返ったのだから大丈夫なのだ、集会を続けましょうという話になるでしょうか。パウロ先生にお会いできるのは今日が最後だから、死んだ人のことなどどうでもいいという話になっていないことには安心します。とにかくパウロは説教を途中で中断して青年のもとに駆けつけ、抱き上げたと書かれているのですから。

ここで再び私の話になって申し訳ありません。皆さんにはまだお話ししていないことです。

2007年2月17日ですので12年前ですが、当時私が牧師をしていた教会の礼拝中に、私が救急車で運ばれたことがあります。当時41歳でした。

その教会では、説教者が聖書朗読をしてすぐに説教を始める方式をとっていましたが、私が講壇に立って聖書朗読を始めようとしたときに気を失い、聖書朗読も説教も続行不可能になりました。妻が救急車を呼んでくれて、教会の礼拝はそこで中断されました。

私の気持ちとしては説教原稿をどなたかに読んでいただきたかったし、礼拝を続けていただきたかったですが、そういう状況でなくなりました。申し訳ないことをしました。

そのときの原因も過労といえば過労ですが、直接的には脱水症状でした。12年前は、私の娘がまだ小学生でしたが、自分の目の前で、日曜日の礼拝中に、自分の父親が死んだと、一時本気で受け取ったようで、大きな声で泣いたようです。その声が聞こえないくらい、私は気を失っていました。

私の話はもうやめます。礼拝中に説教者が死ぬ(死ぬ死ぬと不快な言葉を重ねて申し訳ありません)、またはなんらかの事故で礼拝の続行が不可能になる場合がないわけではない、ということのひとつの実例として、私の恥ずかしい過去をさらしました。

しかし、これは本当に難しい問題であると私はとらえています。話の筋がずれるかもしれませんが、東日本大震災の直後の日曜日(2011年3月13日)の礼拝中、私がいた千葉県松戸市の教会でもかなり大きな余震がありました。東京の教会のみなさんも同じ状況を体験されたに違いありません。礼拝堂の窓が割れたかと思うほど激しい音までしました。

そういうときに、それでも神にささげる礼拝なのだから、中断など一切考えずに続行すべきであると考えてよいでしょうか。今日の箇所のようにエウティコが死んだのに、まだ礼拝を続ける、まだ説教を続ける、生き返ったのだから構わないという話になるでしょうか。

話の筋はずれているかもしれませんが、いろんな意味で考えさせられるテーマを含んでいると、今日の箇所を読み直して思わされました。

こういう話もしておく必要があるでしょうか。それは、今日の聖書の箇所に記されている出来事は、キリスト教信仰の根幹にかかわる「死者の復活」とは全く異なることであるということです。

二千年前の人々にとってのいわゆる死亡判定の基準がどういうものだったかは私には分かりませんが、今のわたしたちとは違うかもしれません。今の基準を調べてみました。こういうこともすぐ分かる時代です。

「睫毛(しょうもう(まつげ))反射の消失、対光反射の消失、心音の消失、呼吸音の消失、前腕の橈骨(とうこつ)動脈および頸動脈の触診、心電図モニターで脈拍ゼロの確認」で死亡診断となるそうです。最近大切なお身内を亡くされた方々もおられる前で、このような話をずけずけして申し訳ありません。

二千年前はどうだったでしょう。息をしていないし、心臓が止まっている。それで死んだという感じではなかったかと思います。AEDでドンと刺激すれば、心臓が動き出し、息を吹き返すかもしれない。今日の箇所の出来事は、そういう話だと思っていただくほうがよいと思います。奇跡的な出来事ではありますが、「死者の復活」とは全く異なります。

今日は日本キリスト教団の聖書日課に基づく聖書箇所と「生命の回復」という説教題でお話ししています。先ほどから考えさせられているのは、私は何を話せばよいのだろうということです。今もなおそのことを考えながら話しているところがあります。

冗談のような話にするわけには行かないのですが、今日の箇所からわたしたちが教訓として学びうることは、「ひとりの人が眠り込んで転落死するほど長い説教をしてはいけない」とか、「人がひとりみんなの前で死んだのに、それでもなお礼拝を続行しようとするのはいかがなものか」とか、そのようなことばかりが思い浮かびます。不謹慎で申し訳ありません。

しかし、今申し上げていることを私は、まるで冗談のような言い方をしてはいますが、きわめて深刻に受け止めている面があります。「私の話はもうやめます」と言いましたが、最初の話に戻ります。私が2日間寝込むことになった「原因」に。「せいにする」意味ではありません。

生徒たちが書いてくれた大量のレポートを赤ペンでコメントしながらすべて読みました。かなり多く出てくる意見は「礼拝の説教が長い」「退屈過ぎて死にそうだ」ということでした。

私の説教のことではありません。私の説教は中学校と高校それぞれ月に1回ずつだけです。しかし、そうでない意見もありました。「元気になる」「励まされる」「心が落ち着く」。そのように書いてくれた生徒も大勢いました。

学校の話にしているのは、いくらか逃げの要素を含んでいます。教会ももちろん同じだと思っています。

それぞれ忙しい毎日を過ごしておられる皆さんが、まさに万難を排して日曜日ごとに礼拝に出席してくださっています。なかには遠くから電車やバスや自動車に乗ってきてくださる方々もおられます。

その皆さんにとって「今日は教会に来て本当によかった」と思っていただける礼拝と説教でなければならないと心から願う次第です。

死んでいたのに息を吹き返せるような礼拝を、生命が回復されるような説教を、祈り求めてやみません。

(2019年7月21日)