2008年8月31日日曜日

やっと夢がかなった


使徒言行録28・17~31

今日で使徒言行録の学びを終わります。約一年半かかりました。最初の説教のときに私が申し上げたことを、たぶん皆さんはお忘れになっているでしょう。「使徒言行録の学びが終わるまで、皆さん元気でいてください」。冗談で言ったわけではなく本気で言いました。しかしこの間、一人の姉を天におくりました。一人の兄、一人の姉が、遠くに引っ越して行かれるのを見送りました。一人の姉は長期入院中です。仕事が変わった方、身辺が急に忙しくなった方々がおられます。年々体力が落ちていると感じている方は多いでしょう。私も今年前半は、体調不良に苦しみました。すべてこの一年半の間に起こったことです。

「願いがかなう」というのは簡単なことではない。そんなふうに感じます。使徒言行録に紹介されているのは最初の教会の様子、とりわけ伝道者たちの戦う姿でした。しかし、ここで言わせていただきたくなることは、最初の教会の人々やペトロやパウロだけが苦労したわけではないということです。わたしたち自身も苦労しています。わたしたち自身も、ペトロやパウロと同じか彼ら以上に、一日一日、足と体を引きずりながら、いろんなものにぶつかり傷つきながら生きています。しかしそれでもわたしたちが絶望してしまわないで立っていることができるのは、苦しみの日々の中でほっと一息つくことができる瞬間があるからであり、それを神の恵みとして受けとることができるからではないでしょうか。

日曜日の礼拝が皆さんにとってそのような時間でありうるようにするために、私なりに努力させていただいているつもりです。わたしたちの月曜日から土曜日までがつらくて、そのうえ日曜日までつらかったら、わたしたちは、もはや立っていることができません。教会の礼拝は、現実から逃避するための場所ではありません。しかし、現実の戦いのなかで傷ついた人々の安息の場ではあります。今日、日曜日はわたしたちの安息日なのです!ですから、皆さんどうぞここで休んでください。エウティコのように説教の途中で居眠りしてくださっても構いません(ただし、三階から落っこちないように。松戸小金原教会に三階はありませんが)。教会にはどうぞ休みに来てください。遊びに来てください。私にはそれ以外の表現ができません。ここは、お説教に苦しめられる拷問部屋ではないからです。

パウロの夢は、ついにかないました。念願のローマに着きました。パウロはこれまで、いくら祈っても計画を立ててもローマに行くことはできませんでした。ところが、その彼が囚人となってローマ人の兵隊に護送されるという格好で彼の夢がかないました。しかし、過程がどうあれ、パウロにとって重要だったのはローマに行くことでした。なぜパウロはローマに行きたかったのでしょうか。その理由が今日の個所に記されています。

「三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。『兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。』すると、ユダヤ人たちが言った。『私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。』そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。」

パウロの発言の趣旨をまとめておきます。キリスト教信仰を宣べ伝えるパウロの活動をユダヤ人たちが理解してくれない。実際のキリスト教信仰はユダヤ人たちが信じる聖書の教えと反するものではない。ところが、ユダヤ人たちはそれが聖書の教えに反するものであると言い張り、パウロを捕まえて殺そうとした。裁判でローマ人は、パウロのしていることは死刑に当たるようなものではないことを理解してくれた。それでも、ユダヤ人たちが彼の有罪を言い張るので、ローマ皇帝に上訴しなくてはならなくなったというわけです。パウロは、キリスト教信仰を宣べ伝えることは、それによってだれかから責められたり殺されたりするようなものではないことを、ローマ皇帝に認めてもらいたいのです。

もう少し短く言い直します。パウロが「ローマに行かなくてはならない」という確信をもった理由は、キリスト教信仰とそれを宣べ伝えるキリスト教会の“市民権”を保障してもらうためであったということです。これを信じているから逮捕されるとか、これを宣べ伝えているから殺されるというような不当な扱いを今後一切受けることがないように法的に認めてもらうためであったということです。その法の番人がローマにいる。そこでこの問題についてはローマに行ってその人に直接かけあって話してみたいという動機をパウロが持っていたということです。

しかし、この理由は、私にとっては、分かりにくいものです。なぜ「分かりにくい」と言わなければならないのでしょうか。

第一は、わたしたち(念頭にあるのは、21世紀の日本のキリスト者)は、パウロと同じような意味で、キリスト教信仰とキリスト教会の“市民権”を獲得するための戦いをしなければならないような状況にあるとは思えないからです。わたしたちがこの信仰をもって生きることを決心し、そのような人生を歩んだからといって、それによってただちに迫害されたり殺されたりするような状況にあるわけではありません。

それどころか!つい最近ある先輩牧師の口から聞いた言葉をお借りすると、今日の状況は「糠に釘、のれんに腕押し」です。わたしたちが何を信じようと、何を宣べ伝えようと、「どうぞご自由に」という空気に包まれます。全く無関心です!迫害されたり殺されたりするような状況に戻るほうがよいなどと、まさか考えているわけではありません。しかし、いわばその代わりに、無関心の牢獄、無反応・不感症の泥沼の中にいるような感覚があります。これがパウロの時代とわたしたちの時代の決定的な違いであると思われるのです。

もう一つ。第二に申し上げることは、第一に申し上げたこととはいくらか違う次元から見たことです。しかし内容的には重なります。

パウロのローマ行きの理由は、ローマ皇帝に上訴することによって、キリスト教信仰とキリスト教会の市民権を保障してもらうためでした。しかしそこで私がどうしても抱いてしまう疑問は、はたして本当にそのようなことがパウロひとりの力で可能なのだろうかということです。相手はローマ帝国の最高権力者です。歴史が伝えるところによると、歴代の皇帝たちは、人を人とも思わない、凶悪な独裁者でした。そのような人のところまで、まるでネズミ一匹のようなパウロが、単身でのこのこ乗り込んだからといって、何がどう変わるというのでしょうか。あまりにも無謀すぎるのではないか。危険すぎるのではないか。そのように感じられてしまいます。

もっとも、パウロは、これまでの間にすでに、ユダヤの最高法院を相手し、ユダヤの王アグリッパに対しても戦いを挑んできました。だからこそローマにも行き、ローマ皇帝の前にも立つ。そのような勢いを得、自信を抱くことができたのかもしれません。

しかし、ここでわたしたちがどうしても考えなければならないことは、ユダヤとローマは違うということです。ユダヤの王とローマ皇帝は違うのです。ユダヤの王アグリッパの前でパウロがそれを根拠にして語り、しきりと訴えていたのは聖書です。「アグリッパ王よ、預言者たちを信じておられますか。信じておられることと思います」(26・27)。ユダヤの国は、たとえどれほど堕落していたとしても、聖書を土台にして立つ国家でした。彼らの思想や文化の中に聖書の教えが生きていました。だからこそ、パウロが聖書の言葉を引き合いに出して論じることに対して、ユダヤ人たちは大いに反応し、また多くの場合、激怒したのです。両者の対話は、いちおう成り立っていたのです。

しかし、ローマ皇帝の場合はそうは行きません。聖書の御言葉を根拠にして語ったからといって、それを理解してくれるような相手ではありませんでした。どう考えても。それは全く異なる思想、全く異なる文化のうえに立っている相手でした。

聖書の教えが全く通用しない相手と語り合う。言葉の通じない、通じそうもない相手と話す。この点においてはパウロの状況とわたしたちの状況とが重なりあってくるところがあります。私は時々、家族の者から「内弁慶である」と批判されることがあります。そうであることを正直に認めざるをえません。すべての牧師が私と同じであるとは限りません。しかし、牧師たちの多くは、聖書を用いての議論ならば、得意としているはずです。私もそうです。もしそれが聖書に基づく議論であるならば、夜を徹して語り合うことができる用意と自信があります。

しかしです。聖書の教えが通用しない相手には苦手意識をもってしまいます。何をどう話してよいかが分からなくなってしまいます。黙ってやりすごすしかないと考えてしまいます。“引きこもり”になってしまいます。

そのような私であるゆえに、パウロの姿を見ると、大いに反省させられます。相手からネズミ一匹と思われようとも、聖書の教えが全く通用しない相手であろうとも、この信仰、この教会を守るために勇気をもって立ち向かう。このパウロの姿に学ばなければならないことがたくさんあると思います。聖書を知らない人々に、聖書を教えること。この信仰の真の価値を知らない人々に、この価値を分かってもらうこと。これこそが伝道であることは、間違いないことだからです。

「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。『聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました。「この民のところへ行って言え。あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、立ち帰らない。わたしは彼らをいやさない。」だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。』パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。」

使徒言行録の最後の部分は、いくらかコミカルでユーモラスな調子で書かれています。念願かなってローマにたどり着いたパウロの前に、またしても(!)無理解なユダヤ人が現われ、苦労するのです。「あーあ。まったくもう!」というパウロのため息が、ここまで聞こえてくるようです!

ローマの町はパウロにとって天国ではありませんでした。地獄でもありませんでした。そこでも引き続き、彼の日常生活が坦々と続けられました。彼の日常生活とは、御言葉を宣べ伝えること、すなわち伝道でした。パウロから伝道を取り去ると、彼のあとには全く何も残らなかったでしょう。パウロの人生は、神とキリスト、そして教会のためにすべて献げられたのです。

(2008年8月31日、松戸小金原教会主日礼拝)