2014年5月4日日曜日

恐れるな、語り続けよ

日本キリスト改革派草加松原教会 礼拝堂

日本キリスト改革派草加松原教会 主日礼拝説教(2014年5月4日)

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使徒言行録18・1~11

「その後、パウロはアテネを去ってコリントへ行った。ここで、ポントス州出身のアキラというユダヤ人とその妻プリスキラに出会った。クラウディウス帝が全ユダヤ人をローマから退去させるようにと命令したので、最近イタリアから来たのである。パウロはこの二人を訪ね、職業が同じであったので、彼らの家に住み込んで、一緒に仕事をした。その職業はテント造りであった。パウロは安息日ごとに会堂で論じ、ユダヤ人やギリシア人の説得に努めていた。シラスとテモテがマケドニア州からやって来ると、パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシアはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしったので、パウロは服の塵を振り払って言った。『あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く。』パウロはそこを去り、神をあがめるティティオ・ユストという人の家に移った。彼の家は会堂の隣にあった。会堂長のクリスポは、一家をあげて主を信じるようになった。また、コリントの多くの人々も、パウロの言葉を聞いて信じ、洗礼を受けた。ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。』パウロは一年六か月の間ここにとどまって、人々に神の言葉を教えた。」

今日、私が草加松原教会で説教させていただくことになりましたのは、代理牧師の櫻井良一先生に私から無理に頼み込んだからです。私のほうから櫻井先生に直接お電話して説教者のローテーションに加えていただきました。そのことを皆様にお許しいただきたく願っています。

私は、ちょうど10年前の2004年4月に松戸小金原教会に転任しました。その前は山梨栄光教会の牧師でした。私は草加松原教会と同じ東部中会に属していました。松戸小金原教会も、10年前は東部中会の教会でした。しかしその2年後の2006年に東部中会から東関東中会が分離しました。それ以降は、草加松原教会と松戸小金原教会は別の中会の所属になりました。

しかし私は、今でも東部中会に心を残しています。私にとっては当然のことだと思っているのですが、東部中会の教会のことが心配で心配でたまりません。

しかし、このことは実際に体験してみなければ分からないことだったのですが、中会が分かれるということは、私にとっては情報が全く入らなくなることを意味していました。東関東中会の私には、東部中会の教会のことが本当に何も分からなくなりました。

私にとって草加松原教会は、10年以上前から特別な思いを抱いてきた教会です。この教会の会員のOさんは山梨栄光教会のご出身の方です。Oさんは仕事の休みで山梨のご実家にお帰りになるときには必ず山梨栄光教会に出席してくださり、草加松原教会のことを教えてくださいました。

また、これもやはり山梨栄光教会に関係する話なのですが、私が山梨栄光教会にいた頃の日曜学校の生徒の一人がこの教会の出身教師になったK先生です。独協大の学生時代のK先生からこの教会のことをいろいろと教えていただいたことをよく覚えています。

また、S長老をはじめこの教会の何人かの方々には東部中会の定期会や臨時会、また夏期信徒修養会など、あるいは定期大会といった場所でお会いする機会があり、とても親しくしていただきました。草加松原教会の皆様にお会いするたびに、私は励まされてきたのです。

しかし、中会が別になり、ほとんど全く東部中会の情報が私の耳に入らなくなりました。そして、ある日突然、草加松原教会が今は牧師がいない状態だというような話を、風の便りのような形で知らされ、ただただ驚くばかりでした。

しかし、中会の違いが大きな壁のようにも感じられ、草加松原教会のお話をうかがっても、驚くことしかできず、心配することしかできず、どうしたらいいのか分からない状態がずっと続きました。何かお手伝いできることはないだろうかと、ずっと考えていましたが、ただ考えているだけでした。

昨年の夏に一週間の夏期休暇を教会からいただいたとき、平日でしたが、車を飛ばしてこの教会の前まで来たことがあります。

外環道を使えば、松戸から草加までは一時間弱です。今日は日曜日で、出勤ラッシュがありませんので40分ほどで着きました。松戸と草加は、すぐ近くです。日本キリスト改革派教会としては、三郷教会を挟んで、草加松原教会と松戸小金原教会は「隣の隣」の教会です。

しかし、中会が違うゆえに何もできない。手をこまねいているしかない。そのような歯がゆい思いをずっと持ちながら、今日まで過ごしてきました。

それでとうとう我慢できなくなり、櫻井先生に頼みこんで説教をさせていただくことにしたのです。これは私の本当の気持ちです。

先ほどお読みしました聖書の個所、使徒言行録18・1~11は、たいへん僭越な言い方ではありますが、草加松原教会の皆様をなんとかしてお励まししたいその一心で選ばせていただきました。

イエスさまが幻の中で使徒パウロの前にお姿を現わしてくださいました。そして、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(9~10節)という力強い励ましの言葉を、パウロに語りかけてくださいました。

これと全く同じ御言葉を、イエスさまは今日、草加松原教会の皆様おひとりおひとりに語りかけてくださっています。

しかしこのように申し上げますと、疑問を感じる方がおられるかもしれません。もちろんいろんな疑問が考えられるわけですが、私自身も考えさせられたことがあります。それは次のような疑問です。

パウロのようなきわめて突出して英雄的な個人が経験したイエス・キリストとの出会いの出来事を、他の誰にでも当てはめることができるのだろうかという疑問です。

たしかにパウロは英雄的な伝道者でした。いかなる迫害をも恐れず、孤立を恐れず、主のご命令とあれば、どこにでも行く、何でもする。そのようなことができた人です。そのパウロのような生き方や働き方は、他のだれでも真似できるようなものではありません。

パウロのような人だったからこそ、イエスさまは彼自身の幻の中に現れてくださって「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる」と語りかけてくださったのであって、それと全く同じ言葉をイエスさまがわたしたちにも語りかけてくださっていると考えるのは間違っているのではないか、という疑問です。

しかし、私の結論は、そのように考えることは間違っていないというものです。パウロが経験したイエスさまとの出会いの出来事について、この個所の前後に書かれていることをよく読めば分かることは、このときパウロは実際にはかなり追い詰められていて、ある意味どうしようもない苦境にあり、もう伝道をやめてしまおう、伝道者であることをやめてしまおうという決心に至る一歩手前のところに立たされていたのではないかと考えられる、ということです。

「パウロはアテネを去ってコリントへ行った」(1節)と書かれていますが、パウロのアテネ伝道は事実上失敗だったと、多くの人が否定的に評価しています。詳しい説明をするいとまはありませんが、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った。それでパウロはその場を立ち去った」(17・32)と記されている点は重要です。パウロのアテネ伝道は、町の人からあざ笑われ、あしらわれたものでした。

その次に「しかし、彼について行って、信仰に入った者も、何人かいた」(17・33)とも書かれていますので、パウロのアテネ伝道は失敗だったと断定的に評価することまではできないのではないかと主張する人もいます。しかし、いずれにせよ、アテネを去りコリントへ行ったときのパウロは相当がっかりした気持ちを抱き、残念な思いをかかえていました。聞く耳を持たないアテネの人々の前から逃げるような格好で立ち去ったのです。

しかも、コリントに到着したパウロは、今日の個所に書かれているとおり、アキラとプリスキラというユダヤ人夫婦の家に住まわせてもらい、この夫婦がしていたテント造りの仕事を一緒にしながら伝道することになりました。この個所に基づいて、伝道者パウロは教会からはお金を一切受け取らず、もっぱらテント造りの収入だけで伝道したのだと説明する人がいますが、本当にそうでしょうか。

たしかにパウロはコリントの信徒への手紙一9章に「わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか」(6節)と書いていますし、その後の個所に「しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした」(12節)と書いています。しかし、これはある意味でコリント教会に対する一種の批判として書いていることです。実際のパウロは、どの教会からも経済的な支援を全く受けなかったわけではありません。他の手紙には、教会の人々の献金と彼自身に対する経済的支援への感謝の言葉が書かれています。

そのことを考えますと、パウロのコリント伝道がテント造りの副業収入だけで続けられたということについても、それは彼にとっては必ずしも喜ばしいことではなかったとも考えられます。むしろ、経済的に追い詰められて、他にどうしようもなくなって、そうせざるをえなかったということのほうが近いのではないかと思われるのです。

そして、そのパウロの重苦しい状況に追い打ちをかけたのが、コリントのユダヤ人たちからの迫害です。「彼らが反抗し、口汚くののしった」(6節)と書いてあるとおりです。そのユダヤ人たちの態度にパウロは激怒しました。服の塵を振り払って、「あなたたちの血は、あなたたちの頭に降りかかれ。わたしには責任がない。今後、わたしは異邦人の方へ行く」(6節)と言い放ちました。

要は、パウロはキレたのです。「伝道者はキレてはいけない。牧師はキレてはいけない」と、よく言われます。私も最近だんだん怒りっぽくなり、キレやすくなっていることを深く反省しています。伝道が思うように行かず、経済的にも追い詰められる。それに追い打ちをかけるように、容赦ない批判を浴びせられ、攻撃される。こういうことが続きますと、人はキレやすくなります。

しかし、キレた牧師はそのことだけで失格者と言われてしまう。「伝道者としても、キリスト者としても、人間としても失格者である」というような負の烙印を押されてしまうのです。

しかし、このようなことは、パウロでなくても、狭い意味での伝道者あるいは教会の牧師でなくても、多くの人が体験することではないでしょうか。そして、そのような場面に実際に出くわし、自分自身がそのようなことを体験するとき、わたしたちは、それでも伝道を続けていこう、聖書に基づく神の御言葉を語り続けよう、説教をしようという思いを強く維持し続けることができるでしょうか。それは不可能であるとまでは言いませんが、非常に難しいことではないかと思うのです。

ですから、幻の中でパウロがイエスさまの御言葉を聞いたこの出来事には一つの背景があると考えられます。それはどういう背景なのか。このイエスさまの御言葉を聞く直前までパウロが抱いていた思いは、すべてこの御言葉の正反対だったのではないか、ということです。

彼は恐れていました。語り続けることは不可能だと確信しそうになっていました。もう黙ろう、と思いはじめていました。書くのもやめだ、断筆宣言だ、というようなことまで考えていたかもしれません。孤立感を深めていました。経済的にもじり貧でした。誰も助けてくれない。主は本当にわたしと共にいてくださるのだろうかと、疑いの思いが去来するほどでした。この町には、自分に敵対する人しかいない。伝道者の言葉を受け容れ、イエスさまへの信仰を受け容れる人などほとんどいないと、絶望しかかっていました。

そのパウロの、逆の意味での確信、悪いほうの確信を打ち砕く言葉を幻の中でイエスさまが語ってくださったのです。そのように理解することが可能です。

先ほどから幻、幻と言っていますが、パウロが眠っている間に夢でも見たのでしょうか。その夢の中にイエスさまがご登場なさったのでしょうか。ある意味そのとおりかもしれません。しかし他方で、わたしたちは「伝道のヴィジョン」という言葉をよく使います。この意味でのヴィジョンも幻です。

わたしたちが「伝道のヴィジョン」という言葉を使うときにだいたい考えていることは、実際はまだそのことは目に見える現実になっていないけれども、将来そのようになっていくことを望み、希望をもって計画を立て、その計画を実行に移すことです。

パウロにも、わたしたちと同じ意味での伝道の計画、伝道のヴィジョンがなかったわけではありません。彼は、その場限り、思いつき、行き当たりばったり、成り行き任せ、無軌道、無計画の伝道をしていたわけではありません。結果的に自分の思うように行かなかったこと、計画どおりに事が進まなかったことはいくらでもあるのですが、だからといって無計画だったということではありません。

それでは、わたしたちの伝道のヴィジョンのほうは、それは単なる計画であって、それはつまり、予定は未定であって決定ではないというようなことを言えば済まされるようなことなのでしょうか。あるいはまた、それは自分たちの人間の思いで立てた計画だから実現しなかったのだ、計画など最初から立てなければよかったのだ、というような総括で済まされるようなことなのでしょうか。

そうではないはずです。わたしたちの「伝道のヴィジョン」は、多くの人の熱心な祈りの中で立てられたものであり、聖書の教えに基づき、神の御心に従って立てられた主の計画であり、そのようにして与えられた希望であるはずです。もしそうであるならば、わたしたちの教会にかつて与えられた「伝道のヴィジョン」の中で、その幻の中で、イエスさまは、今でも強く語りかけてくださり続けていることを信じることができるはずです。

「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」。

このイエスさまの言葉が、わたしたちの「伝道のヴィジョン」の中でも強く響き渡り続けています。この言葉は、パウロという突出した英雄的な個人だけに語られているものではなく、すべての教会に語りかけられています。

しかもそれは、わたしたちでいえば、中会とか大会という単位へと語りかけられているのではありません。この御言葉は、一つ一つの教会、各個教会、この教会、そして、わたしたち一人一人に語りかけられているのです。