関口 康
みなさん、おはようございます。今月から3年生の聖書の授業を担当しています。日本キリスト教団昭島教会牧師の関口康です。
3年生の方々への挨拶は済んでいますが、1年生と2年生の方々は今日が初めてです。しかし、2年生の方々は一度お会いしました。昨年12月20日クリスマス礼拝で私がお話ししました。またお会いできたことに感謝しています。
今日の聖書の箇所に書かれていることをお話しします。イエスさまのもとに何人かの人が血相を変えて訪ねてきました。話の内容は、「百人隊長」と呼ばれる人の部下が重い病気で死にそうになっているので早く行ってあげてほしいということでした。
理解できる話です。しかし、そのときその人たちが余計なことを言うのです。それは次の言葉です。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(4~5節)。
「あの方」とは百人隊長です。軍隊の人です。百人の兵隊を率いるリーダーです。部下に信頼される上司です。ユダヤ人のために会堂を建ててくれた人だとも言われています。自分のお金をたくさんささげてそれを建ててくれた人だということで、多くの人々に大変尊敬されていました。
いま病気で苦しんでいて死にそうになっているのは、その百人隊長さまの部下ですというわけです。つまり、「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です」というのは、あれほど尊敬されているあの方とその部下を助けるのは、あなたにとって当然のことですと、この人々は言っているのです。
しかし、それは余計なことです。悪気などは全くなかったでしょう。しかし、言葉を選ぶセンスがありません。「あの人を助けるのは、あなたにとって当然である」と言っているように聞こえることを言っています。少なくとも二つの意味で問題です。
一つは、もしそうだというなら、助けなくてもよい人がいるのかという問題です。「尊敬されていない人は助けなくてもよい」のですか。
もう一つの問題は、今困っている人がいるからその人を助けなくてはならないと、そのように言っている人たち自身がその人を助けるのではなく、イエスさまにそれをさせようとするのは何を意味するか、です。
彼らが言っているのは、レッツ・ゴーではなく、レット・ユー・ゴーです。もっとはっきり言えばゴーです。彼らはイエスさまに「行け」と命令しているのです。何の権限でイエスさまに命令するのですか。
しかし、なんと驚くべきことに、イエスさまは、その人たちにそう言われてすぐに腰を上げて、百人隊長の家へと向かってくださったというのです。「私に命令するな」と腹を立てないで。ここに、イエスさまの謙遜な姿を見ることができます。
しかし、ここで間違えてはならないのは、このときイエスさまは多くの人から尊敬されている百人隊長だから助けようとなさったのではない、ということです。どんな人でも分け隔てなく、イエスさまは助けてくださいます。これこれの業績がある人だから助けるのは当然であるが、そうでない人は助けないというような差別を、イエスさまはなさいません。
もう一つ、これも間違えてはならないのは、そういうふうにイエスさまに言ったのは百人隊長自身ではなかったことです。百人隊長自身が私の部下を助けるのはあなたにとって当然であると、イエスさまに対して考えていたわけではありません。
実際にそうであったことが分かるように記されています。イエスさまが途中まで来られたとき、百人隊長の友人がイエスさまのもとまで来て言いました。
「主よ、ご足労に及びません。わたしはあなたを自分の家の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください」(6~7節)。
この百人隊長は、本当に謙遜な人でした。だからこそ多くの人に尊敬されたのです。逆に言えば、謙遜でない人は尊敬されません。命令して人を動かすことしか考えない人は。それと、差別する人は。
今日の結論を言います。わたしたちみんな謙遜になりましょう。先生たちも謙遜になります。私も謙遜になります。生徒の皆さんも謙遜になりましょう。今日の聖書の箇所のイエスさまの謙遜や、百人隊長の謙遜に学びましょう。
私はこの学校のみなさんにお会いできるのが、うれしくて楽しくて仕方ありません。みなさんのことが大好きです。愛しています。だからこそ、みなさんには立派な大人になってほしいと心から願って、厳しいことを言います。
今日も一日、がんばりましょう。連休の間、みなさんの健康と安全が守られるようにお祈りしています。
(2019年4月27日、中学校礼拝)