2019年6月25日火曜日
自分で自分を治めよ(2019年6月25日、高等学校礼拝)
ルカによる福音書18章9~17節
関口 康
みなさん、おはようございます。
「6月は読書月間なので、礼拝の中で本の紹介をしていただけると幸いです」と書かれたプリントを見たことを昨日思い出し、今日がまだ6月であることに気づきました。それで昨日、大急ぎで一冊の本を読みました。
「この本です」とお見せしたいところですが、アマゾンのキンドル版で読みました。自分のパソコンにダウンロードしました。パソコンをチャペルに持ってくるわけには行きませんので、著者とタイトルをご紹介することでお許しください。
著者は三浦綾子さんです。タイトルは『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』(三浦綾子電子全集、小学館、2013年)。単行本が1999年に出版されています。図書館にありますので、ぜひ読んでみてください。
本書の主人公である矢嶋楫子(やじまかじこ)さんは、今の熊本県に当たる肥後国に、まだ江戸時代だった1833年に生まれ、1925年に92歳の生涯を閉じるまで活躍した教育者です。
矢嶋先生の存在を有名にしたのは、東京都千代田区の女子学院(現在の女子学院中学校・高等学校)の初代院長になられたことと、日本キリスト教婦人矯風会という社会活動団体の初代会頭になられたことです。
三浦綾子さんが描いているのは、矢嶋先生が生まれたときから亡くなるまでの生涯全体ですが、三浦さん自身があとがきに書いているように、伝記のようで伝記でない、小説のようで小説でない、評伝のようで評伝でない、不思議な内容を私も感じました。
悪い意味ではありません。これほど数奇な生涯をリアルに送る人が本当に存在したことを知ることができて、激しく心を揺さぶられました。「事実は小説より奇なり」という言葉通りの人生を送った矢嶋先生の人となりが、よく分かりました。
どこに最も感動したかといえば、これも三浦綾子さんがあとがきで、本書で伝えたかったことの要点を書いておられましたので、私の読み間違いでないことが分かって安心しました。
それは、矢嶋楫子先生の言葉として紹介されている「あなたがたには聖書がある。自分で自分を治めよ」という教えです。矢嶋先生は、プロテスタントの教会で洗礼を受けたクリスチャンの方です。学校では聖書を教える先生でした。
女子学院の前身の桜井女学校時代のころ、矢嶋先生ご自身のお考えで、学校に校則がなく、定期試験のときに試験監督を置かなかったそうです。それでも校風を乱す生徒はいなかったし、カンニングする生徒もいなかったそうです。
私が感動したのは、これと同じことを今の時代でもすべきであると思った、というような、そんな単純な理由ではありません。しかしとても反省させられました。
私もこの学校で4月から聖書の授業を担当させていただいていますが、矢嶋先生ほど強い確信をもって「あなたがたには聖書がある」と言えるような授業ができていないことを反省しました。申し訳ない気持ちでいっぱいです。
矢嶋先生が次のようにおっしゃっています。三浦綾子さんがお書きになった文章の中から引用します。
「人間という者は、規則がたった一つしかなくても、いったん誘惑に遭えば、たちまち規則違反をしてしまうものなのです。一つの規則さえ守れぬ者が、どうして二十も三十もの規則を守ることができますか。(中略)わたしは、罪の問題は、神の力に、神の愛にすがるより、しかたのないことだと思います。わたしたちの罪を代わりに負ってくださったキリストの十字架を、しっかりと見上げる以外に、守られる道はないと思います。わたしたちは生徒たちに、『あなたがたは聖書を持っています。だから自分で自分を治めなさい』と、口を開くたびに申しているわけです。」
今朝朗読していただいた聖書の箇所に出てくる、自分は聖書の戒めを守っているので正しい人間であるということを理由にして他人を見下している人々にイエスさまがおっしゃった言葉を、重く受けとめましょう。
その自分は聖書の御言葉を守っているので正しい生き方ができていると思い込んでいる人のほうが、「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、貫通を犯す者でなく、この徴税人のような者でもないことを感謝します」とお祈りしました。
他方、自分の罪を自覚している人が「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と、神さまの前にへりくだってお祈りしました。
どちらの祈りが、神の前にふさわしいでしょうか。そして、どちらの祈りの言葉が、人を慰め、励ますことができるでしょうか。
聖書は人を謙遜にするためにあります。そしてそのうえで聖書は、矢嶋楫子先生がおっしゃったとおり「自分で自分を治める」ためにあります。
三浦綾子さんの『われ弱ければ 矢嶋楫子伝』をぜひ読んでみてください。心からお勧めいたします。
(2019年6月25日、高等学校礼拝)