2018年12月20日木曜日
見よ、飼い葉桶に救い主がおられる(2018年12月20日 中学校クリスマス賛美礼拝)
ルカによる福音書2章1~7節
関口 康
「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」
私に与えられた時間は限られています。先ほど朗読された聖書の中で、ひとつの点を取り上げて、考えを深め、思いを集中したいと願っています。
それは、最初に朗読されたルカによる福音書2章1節から7節までに記されていることです。ローマ皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出たので、ヨセフとマリアがベツレヘムまで旅をしなければならなくなり、そのベツレヘムに滞在中にイエスを出産したことが記されている箇所です。
特に注目していただきたいのは、ヨセフとマリアが、生まれたばかりの赤ちゃんを「飼い葉桶に寝かせた」とあり、その続きに「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6~7節)と記されているところです。
ここに書かれているのは二つのことです。一つは、イエス・キリストが寝かされた場所が「飼い葉桶」だったということです。飼い葉桶は家畜小屋にあります。その意味は、イエス・キリストは家畜小屋の中で生まれたということです。もう一つは、イエス・キリストを含めた三人家族に「泊まる場所がなかった」ということです。
二つのことを聖書は関係づけています。しかし、勘が良い方はこの関係づけに必然性があるかどうかに疑問を感じるかもしれません。「宿屋に泊まる場所がなかった。だからイエス・キリストは家畜小屋で生まれた。なぜそうつながるのか。他にも選択肢があるのではないか」と思われる方がおられませんか。
そもそもなぜ「宿屋に彼らの泊まる場所がなかった」のか。よくなされる説明は、アウグストゥスの勅令は全領土の住民が対象だったので、同じ目的で旅をしていた人々が大勢いた。だからどの宿屋も満室だったので泊まる場所がなかったということです。
しかし、それはひとつの説明です。他の可能性があります。「宿屋に彼らの泊まる場所がない」と書かれている以上、宿屋そのものがベツレヘムになかったわけではありません。しかし、すべての部屋が満室だったとも書かれていません。もしかしたら空室だらけだったかもしれません。確証はありませんが、「どこの宿も満室だった」とも書かれていませんので引き分けです。
しかし、問題はその先です。もし仮に実際の宿屋は空室だらけだったのに「彼らの泊まる場所がなかった」ということがありえたとしたら、その意味は何かということです。答えは簡単です。宿屋に支払うお金がなかったということです。宿屋はあり、部屋はあっても、それが「彼らの泊まる場所」になるとは限りません。
しかし、もしそうだとしたら、この話はどうなるのでしょうか。いつ生まれるかが分からない子どもを身ごもった状態で、大したお金も持たずに遠い町への旅に出て、旅の途中で破水して、宿屋に入れてもらえず、挙句の果てに家畜小屋での出産を余儀なくされた。
もしそうなら、政治のせいなんかではない。自分の準備不足、無計画、行き当たりばったり、成り行き任せ、その場限りの生き方をしてきた結果ではないか。無責任すぎないか。子どもが迷惑する。
というふうにお感じになる方が皆さんの中におられませんでしょうか、とお尋ねしたい気持ちです。いま申し上げたように私が言いたいわけではありません。しかし、尊重されるべき意見かもしれないと思うところがあります。
私は二人の子どもの親です。ひとりは明治学院大学の卒業生です。それ以上のことは言いません。彼らの個人情報ですから。私が言いたいのは、私にも子どもを育てた経験があるので、もし皆さんの中にヨセフとマリアは無責任な親の代表者だとお感じになる方がおられるとしたら、ヨセフとマリアに代わって「おっしゃるとおりです。ごめんなさい」と謝りたい気持ちになる、ということです。
しかし、謝るだけで終わりにしません。だから嫌われるのですが。そして私はこう言いたくなります。「それはそうかもしれない。しかし、状況が整わないからといってヨセフとマリアにイエスを生まないという選択肢がありえただろうか」と。その答えはノーです。その選択肢はありませんでした。だからこそイエス・キリストは「飼い葉桶」に寝かされたのです。
中学生の皆さんに妊娠や出産の話をこれ以上続けるのは荷が重いです。代わりに、皆さんが強い関心を持っておられるに違いない受験や就職、目の前のテストや成績、部活動のことに話題を向けます。
皆さんの中に、良い結果が出ることが見込めそうにないとあらかじめ予測できることについては、初めから関わらない、努力しない、見向きもしないという方がおられませんか。そういうのを悪い意味の完璧主義(パーフェクショニズム)というのです。完璧にならないことはしない。その結果、何もしない。百点でなければ零点と同じ。だから初めからテストを受けない、受けたくない。
初対面の皆さんにケンカを売りに来たのではありません。しかし、身に覚えのある方は耳を貸してほしいです。そして聞きたいです。親と学校が環境を整備し、状況がすべて整えば勉強するのですか。努力しないのは、環境を整えてくれない親と学校のせいですか。こんな家に生まれて、こんな学校に来て、お先真っ暗だと、そう思っている方がおられませんか。
ここでちょっと開き直らせてもらいたいです。もし仮に、あなたの人生があなたの親の見切り発車から始まり、その後もすべて準備不足、無計画、行き当たりばったり、成り行き任せ、その場限りの家庭で過ごしたとしても、だからなんなんだ。
ヨセフとマリアが子どもを「飼い葉桶」に寝かせたのは、見切り発車であろうと、状況が整わなかろうと、何がどうだろうと「この子を生まない」という選択肢だけはありえなかったことの証拠かもしれないのです。新しい命の誕生を最優先した結果であると言えるかもしれません。
イエス・キリストが「飼い葉桶」に寝かされたことは、聖書の普及と共に世界中の人に知らされてきました。それは、見方によれば恥ずかしいこと、隠したいことかもしれません。しかし、けらけら笑ってばかにする人は、いるかもしれませんが、その人は自分のしていることの意味が分かっていないのです。
その人の人生のどのページかに、その人自身の「飼い葉桶」が登場する人々と共にイエス・キリストはおられます。「おお、きみとぼく、おんなじだね」と言ってくださいます。その人の気持ちを、その人が置かれている状況を、イエス・キリストは理解してくださいます。
あなたのためにイエス・キリストはお生まれになりました。そのことを今日お伝えしに来ました。クリスマスおめでとうございます。
(2018年12月20日、明治学院中学校クリスマス賛美礼拝説教)