2007年12月16日日曜日

栄光と平和の満ちる世界


ルカによる福音書2・13~14

「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」

今日を含めて三回、救い主イエス・キリストがお生まれになったときに、ベツレヘムの羊飼いたちに起こった不思議な出来事を学んできました。羊飼いたちは、野宿をしながら夜通し羊の群れの番をしていました。そこに主の天使が近づいて来て、主の栄光が周りを照らしました。そして、天使が「民全体に与えられる大きな喜び」を羊飼いたちに告げたのです。

その喜びの内容は、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」ということでした。その意味は、救い主という仕事をする人が来ました、で終わるものではありません。その救い主によってあなたがた自身が救われる、ということです。その救い主は、あなたがたを、あなたを救うお方である、ということです。

そして、その喜びの知らせは「民全体」に与えられたものであると言われている以上、救われるのは羊飼いたちだけではなくまさに「民全体」であると言わなければなりません。そして、この「民全体」の意味は全人類であると理解すべきであると、先週申しました。そうです、救い主イエス・キリストが持っておられる救いの力は、わたしたち自身を含む、全人類にとって有効なのです。

しかし、このように言うだけでは、まだ足りません。加えて申し上げねばならないことがあります。それは、たとえ救い主の持っておられる救いの力が“全人類にとって有効”であるとしても、それは一方的に押しつけられるようなものではない、ということです。

イエス・キリストの救いの力は、いわば、美味しいごちそうです。しかし、それを本当に美味しいと感じるのは、それを食べたことがある人だけです。あるいはまた、そのときにお腹がすいていた人だけです。食べたことがないし、食べるつもりもないし、今は別のものを食べて満腹しているという人にとっては、「これは美味しいものだ」と言われても、その味を知ることはできませんし、美味しいと思うこともありえません。

イエス・キリストを食べる、あるいは、キリストの救いの力を食べるとは、もちろん、すなわち、信じることです。信じたことがないし、信じるつもりもないし、今は別のものを信じて生きているという人には、イエス・キリストの救いの力が及ぶこともありえないのです。

その意味で、教会はレストランです。「ここで、美味しいごちそうを食べてください」と勧める務めがあります。店構えを整えたり、部屋の掃除をしたり、チラシを配ったり看板を立てたりすることは、わたしたちの仕事です。しかし、「要らない」という人の口を無理やりこじ開けて食べさせることはできませんし、そのようなことをすべきでもないのです。

しかし、わたしたちにできることもあります。実際食べた者たちが、「これ美味しいよ」と多くの人に教えてあげることです。レストランの評判を伝える最も有効な方法は口コミです。

また、実際にそれをいつも食べているわたしたちが、美味しそうな顔をすることです。楽しそうに店に通うことです。そうすれば行列ができる店になる。「あそこに行けば何かがある」と思うのです。

イエス・キリストの救いの力が「全人類」に及ぶために必要なことは、その救いの力によって実際に救われた人々が本当に心から喜んで生きていることです。わたしたちの喜ぶ姿が、わたしたちの笑顔が、世界に救いをもたらすのです。

主の天使に天の大軍が加わった、とあります。どういう意味でしょうか。考えられることを申し上げておきます。理解の鍵と思われるのは、羊飼いたちの前に現れた「主の天使」は単数であるということです。ここにいる天使は、ひとりです。ひとりの天使が、羊飼いたちに向かって福音の説教をしたのです。

しかし、そこに天の大軍が加わりました。もちろん、それは複数の存在です。説教は、基本的に一人でするものです。ある意味で孤独な仕事でもあります。しかし、もし複数の説教者が思い思いに同時に説教しはじめたら、聴く側の人にとっては、たぶんそれを聞き取ることができません。言葉が重なり合って、何を言っているのか分かりません。

しかし、そのとき説教者が本当に「わたしは孤独だ」と考えるとしたら、大きな間違いです。その説教者の背後に、天の大軍がいます!それは賛美する存在です。聖歌隊を思い浮かべるべきでしょうか。選び抜かれ、特別な訓練を受けた人々。おそらくそれだけではありません。

むしろ、それは、神を賛美する存在のすべてです。福音の喜びを賛美奉仕という仕方で表現する存在、それこそが「天の大軍」の姿なのです。

もちろん、神賛美の歌声も聴きとることができます。何を言っているのか分からないということはありません。しかし、賛美と説教は明らかに異なります。説教そのものは歌ではありません。私は今、ここで歌っているわけではありません。説教は論理的な言葉です。論理を用いて語ることができるだけです。

しかし、賛美は論理を超えた言葉です。メロディーがあり、リズムがあり、ハーモニーがあります。説教と賛美。これは礼拝の基本的な要素です。この点から言えば、説教者はなんら孤独ではありません。ベツレヘムで行われた世界で最初のキリスト教礼拝は、天使と天の大軍のコラボレーション(共同作業!)によって行われたのです!

そして、天使と天の大軍の大合唱の内容は、本質的に祈りであったということも加えて申し上げておきます。説教、賛美、そして祈り。祈りも礼拝を構成する重要な要素です。

「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と言われています。「あれ」とは「あれ!」と命令しているのではなく、「ありますように」と祈っているのです。「いと高きところ」とは天です。天とは、神がおられるところです。それ以上の意味はありません。つまり、天の大軍が歌っていることは、「神のおられる天に、栄光がありますように」であり、神御自身に栄光がありますように、です。

そして、「地」とは、この世界です。神が創造された万物の生きているこの地上の世界です。この地上の世界に生きる「御心に適う人に」平和がありますように、と歌われているのです。

またここに新たな問題が生じます。「御心に適う人」とは誰のことだろうか、という問題です。しかし、これは難しい問題ではありません。先ほど申し上げたことのほとんど繰り返しであると思っていただいて構いません。

ここで歌われている「御心」の意味は、第一義的には神の意志です。神というお方は、御自身の意志を持っておられる存在です。意志とは、要するに、考えです。思想であり、計画であり、方針です。プランであり、スケジュールです。そして、それを決断すること、決定することです。その一切の意味を含んでいるのが「御心」という言葉です。

そして、その神御自身の決断と決定による計画ないし方針に「適う人」とは、もちろん、それに従う人です。神の御心を信頼し、それに従順に服従する人です。その人々のもとに平和がありますように、と言われているのです。

しかし、このようにだけ申しますと、おそらく皆さんの心の中に、ある一つのイメージが描かれてしまうのではないかと予想いたします。それは次のようなイメージです。

「御心に適う人」とは、要するに、神が決定されたことにただ忠実に従うことができる人のことである。その場合、たとえその決定された内容が納得行かないものであっても、理解できないものであっても、承服できないものであっても、いわば軍隊式に、上からの命令に対しては下の者は黙って従うしかないという仕方で、何が何でも、我慢強く、神について行く人のことである、というようなイメージです。

そして、そこに付け加わる密かな思いは「それはわたしではない」ということではないでしょうか。わたしはそんなに従順ではないし、我慢強くもない。納得の行かないことには、ついて行けない。そのようなわたしは「御心に適う人」には、なれそうもない、と。

しかし、私の願いは、どうかそういうふうに理解しないでいただきたいということです。ここで歌われている「御心に適う人」の意味は、そういうことではありません。我慢強さとか、悪い意味での禁欲的な絶対服従というようなことは、全く関係ないのです。

その事情は、むしろ、先ほどの繰り返しであると申し上げた通りです。「御心に適う人」とは、レストランで美味しいごちそうを食べて「ああ、本当に美味しい」と喜んでいる人です。美味しいものを食べて、美味しいと感じ、「美味しい」と言うだけのことです。そこには、命令だの服従だのというような強制的な要素は、微塵もありません。

実際、神の御心の本質は、喜びです。神御自身が喜びに満ちあふれた方であり、また、その喜びを何とかして地上の世界と、そこに生きるすべての者たち、とりわけわたしたち人間の中に伝えたいと、神御自身が願っておられます。神は、わたしたち神の子たちを、何とかして喜ばせたがっておられる父親なのです。

自分の子どもを何とかして嫌な思いにさせ、どうにかして苦しみを味わわせようとする親がいるとしたら、本当に困った存在です。イエスさま御自身が、次のようにおっしゃいました。「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(マタイによる福音書7・9~10)。

そういう親は一人もいない、と言いきれない現実の中にわたしたちが生きていることはどうやら事実です。しかし、それはもちろん、非常に残念なことです。実際、そのような親のもとで幼少期を過ごした人々の中には、この世界そのものを愛することも受け容れることもできないと感じ、苦しんでいる人が大勢います。

もちろん親だけのせいにするわけにはいきません。社会的環境、あるいは政治、あるいは宗教にも、大いに責任があります。

繰り返し虐待を受けてきた人々にとっては、この世界こそが地獄であると感じるものであるに違いない。そして、その人々にとっては、この世界の中から取り上げられること、地上の世界から飛び出し、別の世界へと移されることこそが真の救いである、と言いたくなる場面があるに違いない。そのような思いの中にいる人々のことを、私が全く知らずにいるわけではないのです。

しかし、です。イエス・キリストはとにかく来てくださいました。救い主はお生まれになりました。わたしたちはこのことにしっかり踏みとどまるべきです。イエス・キリストがお生まれになったことは歴史的事実です。誰も否定できません。この世界は、イエス・キリストが来てくださった世界です。キリストの救いが実現した世界であり、少なくともそれが始まった世界です。ともかくここは“救いなき絶望の世界”ではないのです!

そしてこの方の救いのみわざは、とにかく行われました。そして、この方によって現実に救われた人は大勢います。この私もそうですし、ここにいる皆さんがそうです。教会の中にいる人々は、本当に厳しく辛いところを通って来た人々ばかりです。しかし、救い主イエス・キリストへの信仰によって慰めと喜びを与えられて生きています。

わたしたちの笑顔は、世間知らずな笑顔ではありません。むしろ、わたしたちは、ごちそうを食べた者たちなのです。神の恵みを喜び楽しんでいる者たちです。その意味で、わたしたち自身が「御心に適う人」なのです!

ですから、天使が祈ってくれた「地上の平和」は、将来的にもしかしたら実現するかもしれないが、願っても祈ってもなかなか手の届かない、虚しい望みにすぎないようなものではありません。むしろ、それは、あなたの目の前にあります。救い主イエス・キリストを信じて生きる人生そのものが、わたしたちの体験しうる「地上の平和」なのです!

(2007年12月16日、松戸小金原教会主日礼拝)