ルカによる福音書2・8~20
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。』すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださたその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に留めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」
クリスマスの当日、あるいはアドベントの日曜日には、だいたい毎年、いまお読みしました個所を開いて説教してきました。私がこの教会の牧師として参りましてから来年3月で丸9年になりますので、この個所で9回目の説教になると思います。
ただし、この10時半からの朝の礼拝で毎年必ずこの個所で、ということではなく、9時半からの日曜学校の礼拝でおこなった年もありますので、この礼拝で正確に9回目ということではありません。
しかし私は、この個所の説教をするたびに、本当に難しい個所だと感じてきました。何が難しいのでしょうか。昨年も同じようなことを申し上げたかもしれませんが、いったい私はどのような顔をしながら、この個所に書かれていることを皆さんにお話しすればいいのかが分からないのです。
また、いま言ったのと同じことを反対から言い直しただけのことを申します。私が説教するときは皆さんの顔がよく見える位置にいます。この個所の話をしているときの皆さんが、難しそうな顔をしておられるのがよく見えるのです。
どうしてそうなってしまうのか、その理由はいくつか思い当たることがあります。
そのなかで私が最も申し上げたいことは、とにかくこの個所には「天使」が登場するということです。それがこの個所を難しくしている一番の原因ではないかと、私は考えています。しかも、天使が登場しなければ決して話が成り立たないほど、彼らは非常に重要な役割を果たしているのです。
しかし、天使とは何でしょうか。これが分からないのです。どのような顔をして話せばいいのかが分かりません。
聖書に出てくるので、私は天使の話をします。しかし、教会を一歩離れて、たとえば、すぐそこのマルエツのスーパーとかでお会いするご近所の方々に天使の話をできるかといえば、私にはできません。ふだんなら決してしない話を、私は、教会の中で、礼拝の中で、聖書に基づいてしています。
皆さんはどうでしょうか。今日それぞれご家庭にお帰りになって「今日は天使の話を聞いてきた」とお話しになると「大丈夫?」と心配されてしまうのではないでしょうか。
これを私はふざけて言っているわけではなくて、大真面目に言っています。真剣に言っています。くれぐれも誤解が無いように申し上げておきますが、私は、聖書に書かれていることを信じることができないというようなことを言っているのではないのです。天使の存在を信じることができないとも言っていません。
言い方はおかしいかもしれませんが、天使がいても、私は全然構いません。「いるか、いないか」と問われれば、「いるでしょうね」と答えたい人間です。しかし、「それはどのような存在なのかを説明してください」と言われても、それは答えられません。そのことが私には難しいのです。もしかしたら、私の性格が少し真面目すぎるのかもしれません。
このように考えるのは私だけはないと思うのですが、何かの話をすることを求められている者たちがその話を聞いてくださる方々に願っているのは「今日の話はよく分かった」と思っていただけることです。その内容に納得も理解もできないとしても、この人は何を言いたいのかとりあえず分かったと感じていただくことができればそれでよいと思っています。
しかし私は、天使の話をどのようにすれば、皆さんにそう感じていただけるのかが分かりません。頭を抱えてしまいます。
その点においては、先週お話ししましたマタイによる福音書に出てくる東の国の占星術の学者たちの話のほうが、まだ簡単にできるものがあります。
彼らが見たのは天使ではありませんでした。彼らは星の動きを研究しました。当時の高等な数学や天文学を駆使して、世界の運命であるユダヤ人の王の誕生を言い当てました。彼らなりの理論があり、彼らなりの合理的な結論に基づいて、イエスさまのもとにやってきたのです。
しかし、今日の個所に出てくる羊飼いたちには、学問も理論もありませんでした。彼らが見たのは彼らの前に突然現われた「主の栄光」であり、「天使」であり、「天の大軍」でした。そして、彼らは天使の声を聞き、その中で語られた救い主の誕生についてのお告げを聞いて信じたのです。
星の動きを天文学的に観察して、理論的な結論を出してきた占星術の学者たちと、全く違う方法でイエスさまのもとにたどり着いた羊飼いたちとは、大違いなのです。
私も心から尊敬している改革派教会の先輩牧師である榊原康夫先生が、今から40年も前の1972年に出版されたルカによる福音書の解説書(『ルカの福音書』いのちのことば社、1972年)の中で、今日の個所について重要な言葉を書いておられます。「羊飼いは、野宿のため神殿儀式などに参加できないので、ユダヤ教から破門され、裁判の証言も許されませんでした」(43ページ)。
これがどういうことを意味するのかといえば、羊飼いたちはふだんから聖書の言葉を学ぶことさえ許されていなかったということです。ですから、たとえばの話ですが、彼らが聞いた天使の声の内容は、彼らがふだんからユダヤ教の会堂や神殿に足を運び、ユダヤ教の祭司や律法学者たちから聖書に基づく説教を聞いていたので、その言葉を思い出したのだというような合理的な説明は成り立たないということです。
彼らは天使の夢を見たのでしょうか。つまり、彼らは野宿しながら居眠りをしていたのでしょうか。もしかしたら、そのような説明のほうがまだ成り立つかもしれません。マタイによる福音書の最初のほうに出てくる、イエスさまの母マリアの夫ヨセフについて書かれている個所には、「主の天使が夢に現れて言った」(マタイ1・20)と記されています。これで分かるのは、天使は夢の中にも現れる存在であるということです。
もしそうなら、羊飼いたちが見た天使についても、「実をいえば彼らは仕事中に居眠りしていました。それで天使が出てくる夢を見たのです」と説明したとしても、それは絶対に間違っていると責められることまでは無いはずです。天使は夢にも出てくる存在だからです。しかし、今日の個所に羊飼いたちは眠っていたとか、夢の中に天使が現れたとは、どこにも書かれていません。
しかし、このことについて、私は今日、ああでもない、こうでもないとしつこく言うのはやめます。一つのことだけに絞ってお話しします。それは、先ほど少し触れました、先週学んだ個所に出てくる東の国の占星術の学者たちと、今日の個所の羊飼いたちとの違いという問題です。
はっきり言いますが、「占星術」は、わたしたちには全く受け容れられない異教の立場です。たとえそれがどのような学問の研究に基づいていようとも、太陽や月や星の動きによってわたしたち人間と世界の運命が決定されているということはありえません。わたしたちは、そのようなことを信じることができません。それは運命論です。わたしたちが受け容れている信仰はそのようなものではないのです。
それに対して、羊飼いが見たのは「天使」でした。彼らが聞いたのは、天使の声であり、天の大軍の歌声でした。天使の存在、またその姿やその声には科学的な根拠があるのかと問われるなら、そんなものは無いと答えざるをえない。そんなのは神話だと言われればおっしゃるとおりだと答えざるをえない。そんなものを当てにして、ベツレヘムの羊飼いたちはイエスさまのもとへとやってきたのです。
今日私が申し上げたいことは、わたしたちが受け容れている信仰とはそのようなものだということです。わたしたちの信仰に科学的な根拠などはありません。
そして、今日も思い起こしていただきたいことは、わたしたちが最初に教会の門をくぐり、礼拝に出席し、説教を聞いた日のことです。
私から皆さんにお尋ねしたいことは、皆さんが初めて教会に来られたときの理由やきっかけは、太陽や月や星の動きのようなものによって決定づけられた動かしがたい運命だったのでしょうかということです。科学的理論に裏打ちされた不動の真理が、皆さんを教会の中まで運びこんだのでしょうか。そんなことはありえないと思うのです。わたしたちは、そういうふうな信じ方はしていません。
羊飼いたちが聞いた天使の声は「恐れるな」というものでした。その続きはこうです。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそメシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」。
これは運命論ではありません。夜通し野宿をして羊の番をすることでユダヤ教から破門されていた、過酷な労働や社会的な差別に苦しんでいた名もなき人たちへの励ましの言葉でした。そのあなたがたのために救い主が来てくださったのだという慰めの言葉でした。あなたがたは価値なき人間ではない。あなたがたのために救い主が生まれてくださったゆえに、という喜びの知らせでした。
そのしるしは「飼い葉桶に寝ている乳飲み子」である。羊飼いたちが生きている彼らの現実に近い場所で、救い主がお生まれになったのです。
イエス・キリストが生まれた場所はどこでしょうか。この質問にはいろんな答え方が考えられます。「ユダヤのベツレヘムです」という答え方もあれば、「地球です」という答え方もあります。今日の私の答えは「苦しんでいるあなたのところ」です。あなたのためにキリストが来てくださったのです。
わたしたちが教会に来て、神を礼拝することは、わたしたちの運命なのでしょうか。こうするしかない、他にどうすることもできない抗いがたい運命だから教会に来ているのでしょうか。そんなことはないのです。わたしたちには自分の意志があります。運命のリモコンに遠隔操作されているわけではないのです。
人生の苦境に立たされ、嫌な思いを味わい、逃げ場を求めていたそのとき、夢なのか現実なのか、どこからともなく、このわたしを慰め、励ましてくれる声が聞こえた。ような気がした。それでいいのです。
科学的根拠などはない。とにかく教会に来ました。このわたしのために救い主が生まれてくださった。それを信じる。
それがわたしたちの信仰なのです。
(2012年12月9日、松戸小金原教会主日礼拝)