2022年8月14日日曜日

子どもを守る(2022年8月14日 聖日礼拝)

日本キリスト教団昭島教会(東京都昭島市中神町1232-13)


讃美歌 主われを愛す(1、4節)
奏楽・長井志保乃さん 字幕・富栄徳さん

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宣教要旨(下記と同じ)PDFはここをクリックするとダウンロードできます

「子どもを守る」

ルカによる福音書17章1~4節

関口 康

「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。」

お気づきの方がおられるかもしれません。今日の聖書箇所は、先週の週報で予告した箇所から変更しました。今日開いたのはルカによる福音書17章1~4節ですが、先週予告したのはマルコによる福音書9章42~50節でした。

両者は「並行記事」ですが、先週予告したマルコの箇所は読めば読むほど「逃げ道がない」ことが分かりましたので、「逃げ道がある」ルカに切り替えました。「逃げてはいけない」かもしれませんが、とにかくお許しください。

しかしわたしたちは、イエスさまの本心の内容まで、都合よく勝手に決めてよいわけではありません。マルコ(9章42~50節)の内容は、わたしたちの救い主、神の御子、イエス・キリストが、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)とおっしゃった、ということです。

さらにイエスさまは、人間の体に2つある「手、足、目」のどちらか一方があなたをつまずかせるなら、つまずきの原因になっているほうの側を「切り捨てなさい」とか「えぐり出しなさい」とおっしゃった、ということです。

もちろんこれは、いま私たち自身が聖書を開いて目で見て確認しているとおり、聖書に確かに記されている言葉です。しかもイエスさまがおっしゃった言葉として紹介されているのですから、権威ある言葉に属しますし、見て見ぬふりなど絶対できません。

しかし、だからといって、この言葉どおりに本当に実行しなくてはならないと、わたしたちが考えなければならないかどうかは別問題です。

実例があるのです。多くは「手」ないし手首です。「足」や「目」の可能性がないわけではありません。「切り捨てる」「えぐり出す」までは行かなくても、「切り刻む」方々がおられます。

今はインターネットがあります。自分で自分の体を傷つけた写真をメールで特定の相手に送信したり、ソーシャルメディアで全世界に公開したりすることができます。

私も受け取ったことがあります。インターネットを私が使い始めたのは1998年ですので24年前です。これまでに何通かそのようなメールを受け取りました。1度2度ではありません。

「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれるほうがましだ」のほうは、そういうことを本当にすれば二度と浮かび上がって来ませんので、「試してみました」というわけに行きません。しかし、それに近いこと、あるいはそれに等しいことを実行する方々が現実におられます。

そのようなことをなさる方々が、聖書の言葉、イエス・キリストの言葉、神の言葉に基づいてなさるかどうかは、その方自身しか分からないことです。しかし「そうである」と言われたことがあります。「聖書にそう書かれていたのでしました」。そういうことが現実にあるということを、わたしたちは認識する必要があります。大げさな作り話ではありません。

私がいま申し上げていることは、イエスさまに対する批判ではないし、聖書に対する批判でもありませんが、だからといって、自分の体を自分で傷つける方々を責めているのでもありません。「だれが悪い」「だれのせいだ」と言い合って解決する問題ではないと私には思えます。

しかし、たとえイエスさまであっても、言いたい放題ではまずいのではないでしょうか、いくらなんでも言い過ぎではないでしょうか、酷すぎではないでしょうか、くらいは言っておくほうがよさそうに思います。本当に実行する方々がおられるからです。実行する方々を責めているのではありません。「お願いですからやめてください。そんなことをなさらないでください」と懇願したい気持ちがあるだけです。

しかし、なぜイエスさまはこれほどまでに過激なことをおっしゃっているのでしょうか。その意図を考える必要があります。

「小さい者」(マルコ9章42節、ルカ17章2節)の意味は「子ども」です。「つまずかせる」と訳されているギリシア語は「罠(わな)」や「餌(えさ)」という意味を持つスカンダロン(σκανδαλον)という名詞の動詞形のスカンダリゾー(σκανδαλίζω)で、英語「スキャンダル(scandal)」の語源であるという話は、教会生活が長い方はお聞きになっているでしょうし、今日初めての方は、これから何度も聞かされる話ですので、ぜひ覚えてください。

「つまずかせる」というと、柔道の足払いや大外刈りのように足をひっかける技を仕掛けること、あるいは石や木の棒などを地面に置いてだれかの足を引っかける悪さをすることなどを連想するでしょう。

しかし、ギリシア語の意味はそちらのほうでなく、餌を仕掛けて動物や鳥などをおびき寄せ、餌を食べている隙を狙って上から網をかけて、捕縛することです。そのような意味だという意味のことが、岩隈直(いわくま・なおし)氏の『新約ギリシア語辞典』に記されています。

いま申し上げたことをまとめれば、「小さい者の一人をつまずかせる」の意味は、子どもに餌を与えて罠にかけるような騙し方をして、罠をかけた側の人(「子ども」と比較される存在は「大人」)の食い物にすることで、その子どもの心身をめちゃくちゃに破壊し、将来と人生から光を奪い、落胆と絶望へと陥れることです。

そのようなことが許されていいはずがないと、イエスさまが、実際に罠にかけられて食い物にされてボロボロに傷つけられ、自分の言葉で物も言えなくなってしまっているかもしれないその子どもたちの代わりに、ほとんど怒り狂うほどの勢いで激しい言葉を発しておられるのです。

「大人になるまでは誰からも傷つけられたことがなく、大人になって初めて傷つけられた」という方々が、現実の世界にどれくらいおられるかは、私には分かりません。しかし、傷を受けた年齢が低ければ低いほど、その傷を背負って生きなければならない年月が長くなります。

私は今、算数の問題のような話をしました。治る傷ならば問題ないと言えるかどうかも難しい問題です。しかし、まだ子どもであるときに、一生治ることのない傷を、大人である人から明確な悪意をもって、または悪ふざけで、心身につけられて、それを70年も80年も90年も背負って行かねばならないとなれば、だれにとっても大問題でしょう。

そのようなことを大人がしてはいけない、させてはいけない、という明確な警告をイエスさまが発しておられると考えることができるなら、最初に申し上げた自傷行為の問題とは違った次元と角度から、今日の箇所のイエスさまの言葉を理解することができるのではないかと思います。

しかし、今日マルコでなくルカを選んだ理由は、子どもを罠にかけて騙して食い物にするような悪党でさえ、子どもだけでなく大人相手の犯罪をしでかす人でさえ、もしその人が悔い改めるなら「赦してやりなさい」(3節、4節)と、イエスさまがおっしゃっているからです。

「そんな都合のいい話があるか」と私も何度も言われてきました。「キリスト教はずるい教えだ」と。たしかにそうかもしれません。しかし、今こそわたしたちは、自分の胸に手を当てて考えるべきです。「私は今までだれも傷つけたことがないだろうか。私のために苦しんでいる人がいないだろうか。赦してもらわないかぎり生きてはならないのは私自身ではないだろうか」と。

しかし、覆水盆に返らず、考えることしかできないし、考えても無駄かもしれませんが、全く考えないよりは、少しはましです。私も他人事ではありません。重い言葉であることは確実です。

(2022年8月14日 聖日礼拝)