2018年12月16日日曜日

主があなたと共におられる(アドベント説教)


ルカによる福音書1章26~38節

関口 康

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」

先ほど朗読していただきましたのは、毎年クリスマスが近づくたびに世界中の教会の礼拝で開かれ読まれる聖書の箇所です。先週の礼拝で学んだ個所もそうです。

そのときイエス・キリストが何をお語りになったかが記されている箇所ではありません。普通に考えてそれは無理です。イエス・キリストは生まれたばかりの赤ちゃんだったわけですから。

それでは何が記されているのかといえば、二つの言い方ができます。一つの言い方は、イエス・キリストの父なる神が天使を用いて、イエス・キリストの母となり父となる人たちにお伝えになった言葉が記されています。しかし、そんなふうに言われるだけでは全く理解できないと感じる人々は少なくないでしょう。

そういう方々のためにもう一つの言い方を用意する必要があります。それは、とにかくイエス・キリストの母となり父となった人たちが、イエス・キリストが生まれる前に何を考えたのか、その具体的な内容が記されているとも言えるということです。

その中に天使が登場します。その天使がイエス・キリストの父なる神の言葉を彼らに伝えています。そのようなことが起こったのだと言えば、さっぱり理解できない話であるとまでは言えないようだとお感じいただけるはずです。

今日の箇所には書かれていないことですが、先週学んだマタイによる福音書には、マリアの夫(正確にはいいなずけ)ヨセフに天使は「夢に現れた」(マタイ1章20節)と記されています。

ああ、そうかヨセフは眠っていたのか。天使は夢の話だったのか。言われてみれば、わたしたちも夢は見る。夢の中で空を飛んだことがあるし、谷底に落ちたこともある。しかし、目が覚めたら元に戻れた。それと同じかと考えていただけば、全く理解できないことではないとお感じいただけるでしょう。

それともう一つの言い方もあるといえばあります。神を信じているか信じていないかにかかわらず、かなり多くの人々が、自分の子どもが生まれるときになにかしらの宗教心を抱くことが十分ありうるということです。

皆さんの中にご自分の名前を親が決めたのは姓名判断の占いだったという方がおられませんでしょうか。それは良いことだとか悪いことだとか言いたくてお尋ねしているのではありません。

子どもの親になる人に共通しているのは、たとえ自分の子どもであっても親の願いどおりにはならないことを必ず体験するということです。男の子が欲しい、女の子が欲しいと、いくら願っても、その通りにならないし、こういう顔の、こういう形の、こういう能力のと、いくら期待しても、その通りにはならない。

その通りにならなくてよいのです。親は子どもの創造者(クリエイター)ではないからです。その現実を突きつけられるほうがよいのです。だれの思い通りにもならないで、わたしたちは生まれてきたのです。そうであるなら、わたしたちの子どもたちも、わたしたちの思い通りになるわけがないし、させようとすること自体が傲慢です。

しかし、だからこそ、みんながみんな同じではないかもしれませんが、かなり多くの人々が、自分に子どもが生まれるというときに、なにかしらの宗教心を持つことがありうると先ほど申し上げたことが当てはまります。

それが聖書の神への信仰と直接結びつくとは限りません。人間としての自分自身の限界を自覚することと神を信じることの間には大きな断絶があります。その断絶を越えるために強い決心と勇気が必要です。

しかし、どこかで気づいているはずですし、気づくべきです。自分の思い通りにならない存在が生まれるとは何を意味するのかを。最初の命を創造(クリエイト)し、わたしたちの命を生み出し支えている存在がどこかにおられることを。

いま申し上げたのはわたしたちの誕生に関することです。しかし、イエス・キリストの誕生は話が別だと言わなくてはなりません。

先週学んだマタイによる福音書1章に記されていたのはイエス・キリストの父となるヨセフの側に起こった出来事でしたが、今日開いていただいているルカによる福音書1章に記されているのはイエス・キリストの母となるマリアの側に起こった出来事です。

内容は共通しています。どちらにも天使が現れました。それは「夢」の話だとマタイによる福音書に記されていましたので、今日の箇所の出来事も同じであると言ってよいかもしれません。わたしたちが夢の中で空を飛んだり崖から落ちたりするように、マリアとヨセフは夢の中で天使に出会い、神の言葉を聞いたのです。そのように言えば納得していただけるのではないでしょうか。

そしてその天使がマリアに告げたのが「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉でした。それが最初の言葉だったことは、いろんな意味で興味深いです。そのすぐ後に「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)と記されています。

マリアが戸惑ったのは、天使が先に用件を言わないで、いきなり「おめでとう」と言ったからです。電話でも電子メールでも、用件を先に言ってから「おめでとう」と言わないと驚かれます。「何がめでたいのかを先に言ってください」と叱られますので、気をつけてください。

しかし、先に用件を言わずに「おめでとう」だけを言った天使が続けて告げた言葉にマリアはさらに驚きます。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(30~33節)。

このお告げはマリアにとって驚きでしたが、それ以上に不安を感じることでもあったはずです。マリアは結婚していなかったからです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)とすぐに反論しているとおりです。

しかし、それだけではありません。あなたは王の母になると言われたからです。何を言われているのかが分からなかったに違いありません。なんでもすぐにわたしたちの話にしてしまうのは私の悪い癖で申し訳ないですが、もしわたしたちが同じことを言われたらどのように感じるだろうかと考えてみるほうがよいと思いました。

あなたは王の母になると言われた人は、子どもを王として育てる責任が生じます。まさに帝王教育です。

子どもは親の思い通りになりませんので、親の教育とは無関係に勝手に王になってくれる子どもがいないとは限りません。しかし、自分の子どもが王になってくれたとき、その親である人が必ず脚光を浴び、クローズアップされますので、その日に備えて、王の親にふさわしい人間にならなくてはなりません。

しかし、いま申し上げたことは、特に重要なことではないかもしれません。子どもが生まれるときに親が見る夢は、大なり小なり大げさな要素があるし、それはやむをえないと思います。

「そんなことを言われても、私は子どもを産んだことがないので分かりません」と、どうか言わないでください。あなたが生まれたとき、あなたの親は、夢を見たのです。

少なくとも自分の夢を託せる人になってほしいと、自分の子どもに期待しない親はいません。「たぶんいません」と誤魔化さないでおきます。あなたは王の母になると言われたマリアが、これから生まれる子どもが将来王になることを期待し、がんばってほしいという願いを持つことはありえたし、それが悪いわけではありません。

しかしマリアの場合、それだけでもありません。天使は続けます。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(35~37節)。

天使のこの言葉で、マリアはいよいよ驚いたはずです。あなたから生まれる子どもは、将来王になるだけでなく、神の子であると言われたからです。何を言われているのか分からない状態が極まっていると言わざるをえません。

もういいのです、それ以上のことは考えなくても。考えても分からないことです。自分の子どもが将来どうなるかが分からないことと、世界の将来がどうなるかが分からないことは通じ合っています。

分からないことは分からなくていいのです。自分の願い通りにならないことがあることを正直に認めればよいのです。自分自身はこの世界の中のひとつのことでさえ創り出すこと(クリエイト)ができないことを、ただ受け容れればよいのです。

マリアにはそれができました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と天使に応えました。これは、「神の言葉が私の存在においても実現しますように」という祈りです。

自分自身の願いを持つことが悪いわけではありません。むしろ持つべきですし、持たないのは無責任に通じます。しかし大人になればなるほど、どれほど願っても叶わないことがあることを知ります。胸が張り裂けるほど。

そのときに、自分の願いをはるかに超えた、もっと大きく広い次元で、神が何かを実現しようとしておられることを、私は信じます。

その内容は私には分からないけれどもとにかく神が実現しようとしておられることが、この私の存在においても現れますようにと、私は信じます。

神の大きな計画の中で、この私の存在が用いられますように、という信仰に基づく祈りです。

このマリアからイエス・キリストが生まれました。これが、聖書が教えるクリスマスの知らせです。

(2018年12月16日)