2018年12月30日日曜日

将来の輝きを待ち望む(2018年歳末礼拝)


ローマの信徒への手紙8章18~28節

関口 康

「わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」

今日は2018年最後の礼拝です。今年の教会活動をふりかえって総括するようなことは、私は全く考えていません。そういうのは主任牧師の仕事です。

私にできるのはせいぜい自分自身の1年をふりかえることです。しかし、それはあくまでも個人的なことですので、礼拝の中で申し上げるようなことではありません。

そうではなく、今日お話しするのは神学の話です。聖書と教会の伝統に基づくモノの考え方です。難しい話ではありません。

神学に終末論と呼ばれる教科があります。耳で聞くと同じになるウィークエンドの「週末」ではありません。事物の終わりを意味する「終末」です。

恐ろしい話ではありません。神に造られたものが、造られたスタート時点から出発してゴールをめざす。そのゴール(目標)が終末です。

その終末論が扱う議論は大別すると二つあります。その二つは、いろんな呼び方がありますが、比較的分かりやすいのは「個人的終末」と「一般的終末」という呼び方です。

「個人的終末」とは、個人としてのわたしたち人間の命の終わりとしての死です。そして死後に与えられる永遠の命です。他方、「一般的終末」は世界の終わり、または宇宙の終わりです。一般的終末は「宇宙的終末」とも呼ばれます。

なぜ「一般的」なのかというと「個人的でない」という意味です。そして個人の死と世界の終わりが全く無関係であるということはありません。しかし両者をとにかく区別しなければならないというのが神学の共通理解です。

しかし、この区別は、わたしたちにとてつもない落胆や失望を与える可能性があります。考えれば考えるほど、とりあえず一度、あるいは何度も繰り返し、わたしたちを打ちのめします。しかしまた、しばらく忍耐してもう少し先まで考えると急に安心感に満たされます。それでいいのだと思えるようになります。

何の話をしているのか。「個人的終末」と「一般的終末」の区別、その意味は「個人の死と世界の終わりは区別されなければならない」ということです。

別の言葉で言い直せば、私が死んでも世界が終わるわけではない、ということです。私がいなくなっても世界は相も変わらず存続し続ける、ということです。世界の存立にとって私の存在に必然性はない、ということです。私がいてもいなくてもこの世界に大差はない、ということです。

最後に申し上げたことまで言うと、腹が立つ方がおられるかもしれません。先ほど申し上げた、とてつもない落胆や失望が襲いかかる可能性があるのはこのあたりです。「そうか、私はいなくてもいいのか」と気づかされる瞬間です。しかし問題になっている事柄をはっきりさせるためには、そこまで言う必要があります。

それは世界が個人を犠牲にしてもよいとか、個人は世界のために犠牲になれという意味ではありません。とくに近代社会は個人の集合体が世界であるという基本思想の上に立っています。それに反することを神学が考えているわけではありません。

それでは何を考えているのかというと、まさに個人の集合体が世界であるならば、世界を構成する一個人の死が世界の終わりを意味するとしたら、恐怖以外の何ものでもない、ということです。

一国の政治を強権的に支配する独裁者のような人が、自分の命が終わった後に世界が存続するようなことがあってはならないと妄想を抱き、世界を終わらせるスイッチを押すようなことがあってはならない、ということです。どれほど偉大な個人であれ、世界の存続を終わらせる責任を負っていないし、負うべきではない、ということです。

そして、個人の集合体が世界であるならば、世界は個人が地味に地道に積み上げてきた努力の上に立っている汗と涙の結晶ですから、圧倒的な力を持つ一個人の暴力的な力で破壊してよいようなものではありえない、ということです。

みんなの汗と涙の結晶としての世界を次の世代に遺し、これから何百年、何千年先の歴史に遺すためにどうするかを考える必要があります。そのためならば個人が犠牲になってもよいという意味ではありません。しかし、エゴイスティックな個人が自分の死と共に世界を巻き添えにする権利はない、と語ることはできます。

「自分がいなくても世界は存続する」という事実は、考えるとやっぱり寂しくなるようなことではあるのです。先ほど「個人の死と世界の終わりは全く無関係ではない」と申し上げたのは、その寂しさを無視できないからです。少なくとも個人の主体性においては、自分の死と共に自分の世界は確かに終わるのです。その気持ちは、すべての人に理解できることです。

しかし、冷静に考えれば、自分が生まれる前にも世界は存続してきたことに気づきます。そもそも自分は世界の初めに対しても終わりに対しても責任を持っていないし、持つ必要がないことを認識できるようになりますので、それが慰めになるはずです。

先週、久しぶりに家族で食事をしました。品川で豪勢に。子どもたちがそれぞれの学業を卒えて就職して頼もしくなってくれました。親の責任が終わったとはまだ言えない状態ですが、親の助けがなくても生きて行ってくれるであろうと期待できる状態まで何とか漕ぎつけたと感じました。

たとえて言えば、「個人的終末」と「一般的終末」の区別の意味は、まさにそのようなことです。その程度のことです。

自分の人生の終わりと世界の終わりが同一であるような人生は、恐怖と絶望以外の何ものでもありません。何のために努力し、苦労してきたかが分かりません。次の世代、将来の世界を担う人々の成長を、目を細めて喜び、愛で、祝うためにこそ、わたしたちは日々努力しているのではないでしょうか。

「自分のいない将来の世界に責任を持てない。そんなものの責任は負えない」と、どうか言わないでください。同じことを昔の人々が全く考えなかったとは思いません。しかし、本気で世界を終わらせることを実行に移していたら、わたしたちもいません。

今わたしたちが生きているのは、将来の世界の輝きを待ち望みつつ努力し、個人の汗と涙の結晶としての世界を我々の世代に託してくれた先人たちのおかげです。だとしたら、わたしたちも次の世代の人々の輝きを待ち望み、わたしたちの汗と涙の結晶を将来の人々のために遺すべきです。

今日開いていただいた聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙の8章18節以下です。私が今年1年かけて取り上げると最初に約束して、途中で放棄したままになっているローマの信徒への手紙です。

今日の箇所に記されているのは、三つの存在が世界の将来を待ち望んでいるという話です。

第一の存在は「被造物」(19節)です。

第二は「霊の初穂をいただいているわたしたち」(23節)です。これは、イエス・キリストを信じる信仰をもって生きているわたしたち信者であり、同時に教会を指していると考えることができます。

第三は「霊」(26節)、すなわち聖霊です。教会の信仰によれば、聖霊は父・子・聖霊なる三位一体の神の霊です。聖霊は端的に神です。

パウロが書いている順でいえば「被造物とわたしたちと神」、逆の順でいえば「神とわたしたちと被造物」が世界の将来を待ち望んでいるとパウロは信じています。

旧約聖書と新約聖書は区別されなければなりませんが、無関係ではありません。旧約聖書は時間の次元としての歴史を重んじます。それは新約聖書にも当てはまります。

世界に将来があると信じている人は、自分の世代で世界が終わると思っていません。人が死んでも、自分が死んでも、世界が滅びても、永遠の次元において存続する霊の人がおり、霊の世界がありさえすれば、それでよいとも思っていません。

少なくともパウロはそういう考えを持っていません。もし持っていたなら世界伝道旅行などする必要はありません。

パウロが多くの人に福音を宣べ伝え、世界中に教会を作ったのは、自分の世代で世界が終わるのでそのための葬儀場を作りたかったからではありません。時間の次元としての将来の世界において、信仰と忍耐をもって生き延び続ける人々をひとりでも多く得るために、パウロは伝道したのです。

この教会が幼稚園と共に歩んでこられたことを、本当に素晴らしいことだと思っています。教会学校が重んじられてきた教会であるのも素晴らしいことです。

子どもたちはいつまでも子どもではありません。必ず大人になります。世界の歴史の担い手になります。それは永遠の次元だけではとらえることができません。

わたしたちの新しい年が希望に満ちたものとなりますよう、お祈りしましょう。

(2018年12月30日)

2018年12月20日木曜日

見よ、飼い葉桶に救い主がおられる(2018年12月20日 中学校クリスマス賛美礼拝)


ルカによる福音書2章1~7節

関口 康

「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」

私に与えられた時間は限られています。先ほど朗読された聖書の中で、ひとつの点を取り上げて、考えを深め、思いを集中したいと願っています。

それは、最初に朗読されたルカによる福音書2章1節から7節までに記されていることです。ローマ皇帝アウグストゥスから全領土の住民に登録せよとの勅令が出たので、ヨセフとマリアがベツレヘムまで旅をしなければならなくなり、そのベツレヘムに滞在中にイエスを出産したことが記されている箇所です。

特に注目していただきたいのは、ヨセフとマリアが、生まれたばかりの赤ちゃんを「飼い葉桶に寝かせた」とあり、その続きに「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(6~7節)と記されているところです。

ここに書かれているのは二つのことです。一つは、イエス・キリストが寝かされた場所が「飼い葉桶」だったということです。飼い葉桶は家畜小屋にあります。その意味は、イエス・キリストは家畜小屋の中で生まれたということです。もう一つは、イエス・キリストを含めた三人家族に「泊まる場所がなかった」ということです。

二つのことを聖書は関係づけています。しかし、勘が良い方はこの関係づけに必然性があるかどうかに疑問を感じるかもしれません。「宿屋に泊まる場所がなかった。だからイエス・キリストは家畜小屋で生まれた。なぜそうつながるのか。他にも選択肢があるのではないか」と思われる方がおられませんか。

そもそもなぜ「宿屋に彼らの泊まる場所がなかった」のか。よくなされる説明は、アウグストゥスの勅令は全領土の住民が対象だったので、同じ目的で旅をしていた人々が大勢いた。だからどの宿屋も満室だったので泊まる場所がなかったということです。

しかし、それはひとつの説明です。他の可能性があります。「宿屋に彼らの泊まる場所がない」と書かれている以上、宿屋そのものがベツレヘムになかったわけではありません。しかし、すべての部屋が満室だったとも書かれていません。もしかしたら空室だらけだったかもしれません。確証はありませんが、「どこの宿も満室だった」とも書かれていませんので引き分けです。

しかし、問題はその先です。もし仮に実際の宿屋は空室だらけだったのに「彼らの泊まる場所がなかった」ということがありえたとしたら、その意味は何かということです。答えは簡単です。宿屋に支払うお金がなかったということです。宿屋はあり、部屋はあっても、それが「彼らの泊まる場所」になるとは限りません。

しかし、もしそうだとしたら、この話はどうなるのでしょうか。いつ生まれるかが分からない子どもを身ごもった状態で、大したお金も持たずに遠い町への旅に出て、旅の途中で破水して、宿屋に入れてもらえず、挙句の果てに家畜小屋での出産を余儀なくされた。

もしそうなら、政治のせいなんかではない。自分の準備不足、無計画、行き当たりばったり、成り行き任せ、その場限りの生き方をしてきた結果ではないか。無責任すぎないか。子どもが迷惑する。

というふうにお感じになる方が皆さんの中におられませんでしょうか、とお尋ねしたい気持ちです。いま申し上げたように私が言いたいわけではありません。しかし、尊重されるべき意見かもしれないと思うところがあります。

私は二人の子どもの親です。ひとりは明治学院大学の卒業生です。それ以上のことは言いません。彼らの個人情報ですから。私が言いたいのは、私にも子どもを育てた経験があるので、もし皆さんの中にヨセフとマリアは無責任な親の代表者だとお感じになる方がおられるとしたら、ヨセフとマリアに代わって「おっしゃるとおりです。ごめんなさい」と謝りたい気持ちになる、ということです。

しかし、謝るだけで終わりにしません。だから嫌われるのですが。そして私はこう言いたくなります。「それはそうかもしれない。しかし、状況が整わないからといってヨセフとマリアにイエスを生まないという選択肢がありえただろうか」と。その答えはノーです。その選択肢はありませんでした。だからこそイエス・キリストは「飼い葉桶」に寝かされたのです。

中学生の皆さんに妊娠や出産の話をこれ以上続けるのは荷が重いです。代わりに、皆さんが強い関心を持っておられるに違いない受験や就職、目の前のテストや成績、部活動のことに話題を向けます。

皆さんの中に、良い結果が出ることが見込めそうにないとあらかじめ予測できることについては、初めから関わらない、努力しない、見向きもしないという方がおられませんか。そういうのを悪い意味の完璧主義(パーフェクショニズム)というのです。完璧にならないことはしない。その結果、何もしない。百点でなければ零点と同じ。だから初めからテストを受けない、受けたくない。

初対面の皆さんにケンカを売りに来たのではありません。しかし、身に覚えのある方は耳を貸してほしいです。そして聞きたいです。親と学校が環境を整備し、状況がすべて整えば勉強するのですか。努力しないのは、環境を整えてくれない親と学校のせいですか。こんな家に生まれて、こんな学校に来て、お先真っ暗だと、そう思っている方がおられませんか。

ここでちょっと開き直らせてもらいたいです。もし仮に、あなたの人生があなたの親の見切り発車から始まり、その後もすべて準備不足、無計画、行き当たりばったり、成り行き任せ、その場限りの家庭で過ごしたとしても、だからなんなんだ。

ヨセフとマリアが子どもを「飼い葉桶」に寝かせたのは、見切り発車であろうと、状況が整わなかろうと、何がどうだろうと「この子を生まない」という選択肢だけはありえなかったことの証拠かもしれないのです。新しい命の誕生を最優先した結果であると言えるかもしれません。

イエス・キリストが「飼い葉桶」に寝かされたことは、聖書の普及と共に世界中の人に知らされてきました。それは、見方によれば恥ずかしいこと、隠したいことかもしれません。しかし、けらけら笑ってばかにする人は、いるかもしれませんが、その人は自分のしていることの意味が分かっていないのです。

その人の人生のどのページかに、その人自身の「飼い葉桶」が登場する人々と共にイエス・キリストはおられます。「おお、きみとぼく、おんなじだね」と言ってくださいます。その人の気持ちを、その人が置かれている状況を、イエス・キリストは理解してくださいます。

あなたのためにイエス・キリストはお生まれになりました。そのことを今日お伝えしに来ました。クリスマスおめでとうございます。

(2018年12月20日、明治学院中学校クリスマス賛美礼拝説教)

2018年12月16日日曜日

主があなたと共におられる(アドベント説教)


ルカによる福音書1章26~38節

関口 康

「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように。』」

先ほど朗読していただきましたのは、毎年クリスマスが近づくたびに世界中の教会の礼拝で開かれ読まれる聖書の箇所です。先週の礼拝で学んだ個所もそうです。

そのときイエス・キリストが何をお語りになったかが記されている箇所ではありません。普通に考えてそれは無理です。イエス・キリストは生まれたばかりの赤ちゃんだったわけですから。

それでは何が記されているのかといえば、二つの言い方ができます。一つの言い方は、イエス・キリストの父なる神が天使を用いて、イエス・キリストの母となり父となる人たちにお伝えになった言葉が記されています。しかし、そんなふうに言われるだけでは全く理解できないと感じる人々は少なくないでしょう。

そういう方々のためにもう一つの言い方を用意する必要があります。それは、とにかくイエス・キリストの母となり父となった人たちが、イエス・キリストが生まれる前に何を考えたのか、その具体的な内容が記されているとも言えるということです。

その中に天使が登場します。その天使がイエス・キリストの父なる神の言葉を彼らに伝えています。そのようなことが起こったのだと言えば、さっぱり理解できない話であるとまでは言えないようだとお感じいただけるはずです。

今日の箇所には書かれていないことですが、先週学んだマタイによる福音書には、マリアの夫(正確にはいいなずけ)ヨセフに天使は「夢に現れた」(マタイ1章20節)と記されています。

ああ、そうかヨセフは眠っていたのか。天使は夢の話だったのか。言われてみれば、わたしたちも夢は見る。夢の中で空を飛んだことがあるし、谷底に落ちたこともある。しかし、目が覚めたら元に戻れた。それと同じかと考えていただけば、全く理解できないことではないとお感じいただけるでしょう。

それともう一つの言い方もあるといえばあります。神を信じているか信じていないかにかかわらず、かなり多くの人々が、自分の子どもが生まれるときになにかしらの宗教心を抱くことが十分ありうるということです。

皆さんの中にご自分の名前を親が決めたのは姓名判断の占いだったという方がおられませんでしょうか。それは良いことだとか悪いことだとか言いたくてお尋ねしているのではありません。

子どもの親になる人に共通しているのは、たとえ自分の子どもであっても親の願いどおりにはならないことを必ず体験するということです。男の子が欲しい、女の子が欲しいと、いくら願っても、その通りにならないし、こういう顔の、こういう形の、こういう能力のと、いくら期待しても、その通りにはならない。

その通りにならなくてよいのです。親は子どもの創造者(クリエイター)ではないからです。その現実を突きつけられるほうがよいのです。だれの思い通りにもならないで、わたしたちは生まれてきたのです。そうであるなら、わたしたちの子どもたちも、わたしたちの思い通りになるわけがないし、させようとすること自体が傲慢です。

しかし、だからこそ、みんながみんな同じではないかもしれませんが、かなり多くの人々が、自分に子どもが生まれるというときに、なにかしらの宗教心を持つことがありうると先ほど申し上げたことが当てはまります。

それが聖書の神への信仰と直接結びつくとは限りません。人間としての自分自身の限界を自覚することと神を信じることの間には大きな断絶があります。その断絶を越えるために強い決心と勇気が必要です。

しかし、どこかで気づいているはずですし、気づくべきです。自分の思い通りにならない存在が生まれるとは何を意味するのかを。最初の命を創造(クリエイト)し、わたしたちの命を生み出し支えている存在がどこかにおられることを。

いま申し上げたのはわたしたちの誕生に関することです。しかし、イエス・キリストの誕生は話が別だと言わなくてはなりません。

先週学んだマタイによる福音書1章に記されていたのはイエス・キリストの父となるヨセフの側に起こった出来事でしたが、今日開いていただいているルカによる福音書1章に記されているのはイエス・キリストの母となるマリアの側に起こった出来事です。

内容は共通しています。どちらにも天使が現れました。それは「夢」の話だとマタイによる福音書に記されていましたので、今日の箇所の出来事も同じであると言ってよいかもしれません。わたしたちが夢の中で空を飛んだり崖から落ちたりするように、マリアとヨセフは夢の中で天使に出会い、神の言葉を聞いたのです。そのように言えば納得していただけるのではないでしょうか。

そしてその天使がマリアに告げたのが「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」という言葉でした。それが最初の言葉だったことは、いろんな意味で興味深いです。そのすぐ後に「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ」(29節)と記されています。

マリアが戸惑ったのは、天使が先に用件を言わないで、いきなり「おめでとう」と言ったからです。電話でも電子メールでも、用件を先に言ってから「おめでとう」と言わないと驚かれます。「何がめでたいのかを先に言ってください」と叱られますので、気をつけてください。

しかし、先に用件を言わずに「おめでとう」だけを言った天使が続けて告げた言葉にマリアはさらに驚きます。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」(30~33節)。

このお告げはマリアにとって驚きでしたが、それ以上に不安を感じることでもあったはずです。マリアは結婚していなかったからです。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」(34節)とすぐに反論しているとおりです。

しかし、それだけではありません。あなたは王の母になると言われたからです。何を言われているのかが分からなかったに違いありません。なんでもすぐにわたしたちの話にしてしまうのは私の悪い癖で申し訳ないですが、もしわたしたちが同じことを言われたらどのように感じるだろうかと考えてみるほうがよいと思いました。

あなたは王の母になると言われた人は、子どもを王として育てる責任が生じます。まさに帝王教育です。

子どもは親の思い通りになりませんので、親の教育とは無関係に勝手に王になってくれる子どもがいないとは限りません。しかし、自分の子どもが王になってくれたとき、その親である人が必ず脚光を浴び、クローズアップされますので、その日に備えて、王の親にふさわしい人間にならなくてはなりません。

しかし、いま申し上げたことは、特に重要なことではないかもしれません。子どもが生まれるときに親が見る夢は、大なり小なり大げさな要素があるし、それはやむをえないと思います。

「そんなことを言われても、私は子どもを産んだことがないので分かりません」と、どうか言わないでください。あなたが生まれたとき、あなたの親は、夢を見たのです。

少なくとも自分の夢を託せる人になってほしいと、自分の子どもに期待しない親はいません。「たぶんいません」と誤魔化さないでおきます。あなたは王の母になると言われたマリアが、これから生まれる子どもが将来王になることを期待し、がんばってほしいという願いを持つことはありえたし、それが悪いわけではありません。

しかしマリアの場合、それだけでもありません。天使は続けます。

「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(35~37節)。

天使のこの言葉で、マリアはいよいよ驚いたはずです。あなたから生まれる子どもは、将来王になるだけでなく、神の子であると言われたからです。何を言われているのか分からない状態が極まっていると言わざるをえません。

もういいのです、それ以上のことは考えなくても。考えても分からないことです。自分の子どもが将来どうなるかが分からないことと、世界の将来がどうなるかが分からないことは通じ合っています。

分からないことは分からなくていいのです。自分の願い通りにならないことがあることを正直に認めればよいのです。自分自身はこの世界の中のひとつのことでさえ創り出すこと(クリエイト)ができないことを、ただ受け容れればよいのです。

マリアにはそれができました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」(38節)と天使に応えました。これは、「神の言葉が私の存在においても実現しますように」という祈りです。

自分自身の願いを持つことが悪いわけではありません。むしろ持つべきですし、持たないのは無責任に通じます。しかし大人になればなるほど、どれほど願っても叶わないことがあることを知ります。胸が張り裂けるほど。

そのときに、自分の願いをはるかに超えた、もっと大きく広い次元で、神が何かを実現しようとしておられることを、私は信じます。

その内容は私には分からないけれどもとにかく神が実現しようとしておられることが、この私の存在においても現れますようにと、私は信じます。

神の大きな計画の中で、この私の存在が用いられますように、という信仰に基づく祈りです。

このマリアからイエス・キリストが生まれました。これが、聖書が教えるクリスマスの知らせです。

(2018年12月16日)

2018年11月25日日曜日

イエスの弟子になる

収穫感謝日礼拝

マタイによる福音書19章16~30節

関口 康

「弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言った。」

先週の説教でかなり強い調子で申し上げたのは、もし今、洗礼を受けることを考えているという方がおられるなら、ぜひ受けていただきたい、ということでした。

実を言いますと、私はこれまで働かせていただいた教会では、そういうことについて強く言うのは意識的に避けてきたところがあります。洗礼というのは自分の意志で受けるものであって、だれかに勧められて受けるものではないという思いのほうが強かったからです。

牧師になってほしいということも、私はいまだかつて誰にも言ったことがありません。この話は以前、教会学校でしたことがあります。もっとも、うちの息子にはちょっとだけ言ったことがありますが、無視されました。私もあまり本気ではありませんでした。

なぜ言わないのかといえば、やはり理由は同じです。牧師になるかどうかは自分の意志で決めることであって、だれかに勧められてなるものではないという思いのほうが強かったからです。

もうひとつ理由があります。これも以前、教会学校でお話ししました。いま申し上げたことと関係していることですが、だれかに勧められて牧師になった人はいつまでも勧められた人に依存し続ける傾向があることを私の経験で知っているからです。「あの先生に、あの人に、勧められたから、しました、なりました」と、いつまでも言い続けるのです。まるでその人に責任があるかのように。

しかし、今の私はこれまでとは違うところが出てきました。責任逃れの言葉のように響いてしまうかもしれませんが、今の私は主任牧師ではありません。主任牧師をお助けする立場です。おそらくはそれが理由です。今は躊躇なく「洗礼を受けてください」「牧師になってください」とお勧めしたい気持ちです。

だれかれ構わずというわけではありません。そして、もちろん、よくよく考えてもらいたいです。しかし、あまり考えすぎないでください。洗礼を受けることについて、受けない理由を言い出せば、きりがないからです。

そちらの理由ならいくらでも思いつくでしょう。特にこの日本で、現代社会で、洗礼を受けていない人のほうが受けている人よりはるかに多い環境で、受けていない側に立って受けない理由を考えれば、いくらでも味方になってくれる人が出てきます。

洗礼式で用いる水そのものに特殊な効果があるわけではありません。水は水です。魔法の水ではありません。普通の水です。その水をかけると特殊な力が湧いて来るということはありません。そこのところは期待しないでください。

しかし何も変わらないわけではありません。洗礼は一生に一回限りであるところがポイントです。二度と繰り返すことができません。「あれはなかったことにしてくれ」とは言えません。

また、先週申し上げたことですが、必ずしも本人の意志でない、親の信仰に基づいて嬰児のうちに授けられた洗礼を「幼児洗礼」と言いますが、その幼児洗礼も洗礼です。偽の洗礼であるとか、仮の洗礼であるとか、半分の洗礼であるとか、そういうことは一切ありません。だから、幼児洗礼をすでに授けられている方は、二度と洗礼を受ける必要はないし、受けることができません。

自分の意志でないことの責任はとれないと思われる方がきっとおられるでしょう。そうなのです。語弊を恐れず言えば、自分に授けられた洗礼について、自分で責任を感じる必要はないのです。

それは、幼児洗礼ではない、大人になってから自分の意志で受けた洗礼も同じです。「自分で願い出て授けてもらった洗礼だから、それを自分で反故にするのは無責任に当たる」というような感覚を持つ必要はありません。

もしそうであるなら義務や責任というような次元でつながっている関係になります。しかし、洗礼を受けることの意味は、そういうものではありません。わたしたちが自由になることです。あらゆる束縛から解放されることです。しかし、ここから先はどう言えばよいか分かりません。実際に洗礼を受けてみなければ分からない次元のことです。

私が2年前に1年間常勤講師として聖書を教えた高校で生徒たちに、年度の最初にアンケートをとりました。「教会や宗教や聖書に対して今抱いているイメージを教えてください」というアンケートです。多くの高校生が「束縛されるイメージ」や「強制されるイメージ」を抱いていました。

そして年度の授業が終わるころに、もう一度同じアンケートをとりました。すると、みんながみんなではありませんが、多くの生徒が「イメージが変わった」と答えてくれました。「自由になった」と答えてくれました。

学校は教会ではありません。しかし、学校でもそういう変化が起こります。教会はもっとそうだと申し上げたいです。

しかし、私はまだ最も大事なことを言っていません。洗礼を受けることは束縛されることではないと言いました。義務や責任というような次元で事柄をとらえる必要はないと言いました。しかし問題は、なぜそのように言えるのかです。

これは私なりの考えであることをあらかじめお断りしておきます。それは、もしわたしたちに義務や責任という次元で真剣に考えなければならないことがあるとすれば、それは、わたしたち自身の人生そのものに対してであり、またわたしたちの家族や友人、社会や世界の人々に対してであるということです。

そちらのほうには義務と責任があります。逃げることは許されません。しかし、それはしばしば、わたしたちにとってあまりにも重すぎるものです。逃げられるものなら逃げたくなるようなことです。だからこそ助けが必要です。自分ひとりではとても負いきれないからこそ助けが必要です。その助けになるのが教会だと申し上げたいのです。

洗礼を受けることは教会のメンバーに加わることです。教会というのはある意味で自助グループというのに近いところがあります。厳しい現実から逃げ出すために集まるのではなく、むしろ、厳しい現実の中にとどまり、勇気をもって不条理に立ち向かうために集まるのです。

今日開いていただいた聖書の箇所で、イエスさまが、金持ちの青年に対しても、弟子たちに対しても、非常に厳しいことをおっしゃっています。

金持ちの青年に対しては「もし完全になりたいのなら行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」(21節)とおっしゃっています。弟子たちに対しては「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ」(29節)とおっしゃっています。

これを聞いた金持ちの青年も弟子たちも、驚くやら悲しいやら、激しくショックを受けています。それはそうだと思います。自分がいちばん大切なものだと思ってきたものを「売れ」とか「捨てろ」と言われ、まるでそれがイエスさまの弟子になれる条件であると言われたような気がしたからです。

こういうことを言うこと自体が不謹慎に当たるかもしれませんが、イエスさまもまさか冗談でこのようなことをおっしゃっているわけではありません。本気の本気です。しかしわたしたちが理解しておくべきことは、イエスさまがこれで本当のところ何をおっしゃろうとしているのかです。

それが分かるのが、弟子のひとりのペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(27節)とイエスさまに言っているところです。あるいはその前に、金持ちの青年が、イエスさまのお話の途中で「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」(20節)と言っているところです。

共通しているのは、わたしはしている、できている、十分がんばっている、まだ足りないと言われなければならないのか、文句あるのかと気色ばんでいるところです。そして、そう言っている言葉の端に、していない人々、できていない人々、足りていない人々を見下げて軽蔑する思いを隠せないでいることです。

イエスさまは、その厳しいお言葉によって、そのことに自分たち自身で気づくように仕向けられたのではないでしょうか。自分の傲慢に自分で気づき、自分の視野に入っていない人々の存在に気づくように。

もし金持ちの人が財産のすべてを売り払えば、その人自身が貧しい人になります。もし家族を捨てれば、身内からも社会からも非難されます。社会的信頼を完全に失ってしまうでしょう。

自分自身が実際にそうなったときのことを考えてみなさい。その苦しさを。その痛みを。そのとき、あなたは今の自分がいかに幸せな暮らしをし、かついかに傲慢な思いを抱いているかに気づくでしょうと、イエスさまはおっしゃっているのではないでしょうか。

イエスさまがおっしゃるとおりに実際にやってみるべきかどうかは、私には分かりません。すべての財産を売り払うとか、家族を捨てるというようなことは、試しにやってみればいいと言えるような次元のことではありません。

また、もし仮に実際にそれを試しにやってみたところで、この金持ちの青年や弟子たちがイエスさまに言ったのと同じような傲慢なことを言い出すだけでしょうし、イエスさまから同じように注意されるのが関の山です。

聖書を学ぶことの意味は、自分がそれをしてみる前に、もしそれをしたらどうなるか、そのシミュレーションができることにあります。小説を読むことにある意味で似ています。実際にそんなことはしないけれども殺人犯の気持ちになってみるためにそういう小説を読んでみるというようなことはありえます。

イエスさまの言葉を聴いて自分に当てはめて喜んだり悲しんだりすることが大切です。とても受け入れられないと反発することも許されます。それがイエスさまの弟子になることです。イエスさまと共に生き、対話しながら生きることです。

それが束縛であるはずがありません。自由な生き方です。イエスさまは「あなたがたを弟子とは呼ばない。友と呼ぶ」(ヨハネ15章15節)とおっしゃる方でもあります。

ぜひ決心してください。

(2018年11月25日)

2018年10月28日日曜日

栄光は主にあれ(永眠者記念礼拝)


マタイによる福音書18章21~35節

関口 康

「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」

わたしたちは今日、この教会の永眠会員をおぼえての永眠者記念礼拝をささげています。しかし、狭く考える必要はありません。それぞれの方々のかけがえのないすべての方々をおぼえていただく日でもあります。

私事で恐縮ですが、この教会での永眠者記念礼拝は、私にとって今日が初めてです。私が今この場に立っていること自体がふさわしくないのではないかという気持ちがあります。なぜなら私は、こののち読み上げさせていただく永眠者名簿の方々をひとりも存じ上げないからです。私に何を語ることができるでしょうか。一般的な話をすることにとどめるしかありません。

この教会はプロテスタントの教会です。旧教か新教かという言い方でいえば、新教の教会です。だからといって私はキリスト教の教会を分断したいわけではありません。新教の教会と旧教の教会を区別すること自体は、大雑把なことです。区別したからといって、一方が他方を必ず批判しなければならないわけでもありません。

今なぜこのことを言うのかといえば、さかのぼっていえば葬式と、その後の永眠者記念礼拝についてのわたしたちの教会の立場を申し上げたいからです。それは、今日のこの日の礼拝は何のために、あるいはだれのために行うのかという問いの答えです。

それははっきりしています。新教の教会の葬式も、そして永眠者記念礼拝も、地上に残された人々の慰めと平安を祈るために行います。天に召された永眠者自身のためではありませんと、はっきり言いすぎるとぎょっとされるかもしれません。しかし、この点がとても大切です。

旧教の教会はそうではないと今でも言えるかどうかは、本当のところは内部の人々にしか分かりませんし、外部の者が言う必要がないことです。しかし、この問題こそが新教の教会と旧教の教会が分断されることになった原因そのものです。もう500年も前のことです。

細かい話になっていくのは避けたいと願うばかりですが、ごく大雑把な話として、天に召された方々は地上の世界から天の父なる神のみもとへとまさに召されるのであって、その途中は「ない」というのが、わたしたち新教の教会の共通理解です。しかし、その途中が「ある」と500年前の旧教の教会で教えられていたことで、その点が問題になりました。

途中とは何のことかというと、地上から天国へと向かう道の途中です。「道の駅」のようなものがあるということです。もっとシビアなたとえを持ち出すとすれば、何か悪いことをして警察に逮捕される。しばらく警察の留置所にいて、裁判所の拘置所に移送されて、法廷に引きだされる。裁判が始まり検察側と弁護側がやりあって、最後に裁判長が有罪か無罪の判決を下す。こういった一連のことが、わたしたちが地上の命を終えた日から天国へと迎え入れられるまでの途中で行われるということです。

だからこそ、地上に残された人々は、天に召されつつある人々のために祈らなければならないし、その人々のための支援をしなければならないというのが、少なくとも500年前の旧教の教会で教えられていました。またこれは、今のわたしたちが仏教等の他の宗教の中で似たような考え方に接する機会が多い思想でもあります。

途中があるかどうかだなんてどうでもいいことだと言えば言えなくもありません。しかしそれは、途中は「ない」と信じているわたしたち新教の者たちの感覚かもしれません。途中が「ある」と本気で信じている人々にとっては、天に召されつつあるがまだたどり着いていない方々のための祈りと支援が必要であると本気で信じることになりますので、それはもう必死です。「途中の安全が守られますように」と祈ってあげなくてはならないし、自分がその日を迎えたときも同じように祈ってもらわなくてはなりません。

そのほうが納得できる、自分の考えに合う、心が落ち着くという方々がおられるかもしれませんので、批判する意図で申し上げているのではありません。そうではなく、ただ安心していただきたいだけです。途中は「ない」という新教の教会の教えの趣旨も同じです。わたしたちは安心してよい、ということです。

天に召された方々は、まさにその瞬間に天に召されたのであって、それ以後さらに多くの厳しく苦しい難関が待ち受けていて、試験に合格するかどうか分からないので、必死で祈って支援してあげるようなことは、もう必要ないということです。

だからこそ、わたしたちが行う葬式も、永眠者記念礼拝も、天に召された方々の行く末を地上から応援するために行うのではないという話にもなります。

十分すぎるほどがんばった人に「がんばれ」と言うのは、失礼なことでもあります。今さら何をがんばればいいのかが分からないと叱られるでしょう。「もう十分にがんばったのだから、ゆっくりお休みください」と言うのも、考えてみれば失礼な気がします。そのように言いたくなる気持ちは分かりますが。

天に召された方々は、もう天の父なる神のもとにおられるのです。救いの神が共におられるのです。救いはもう十分に実現しているのです。だから、わたしたちはもう、その方々の心配をする必要は全くないのです。ですからわたしたちは今日この永眠者記念礼拝を、亡くなった方々のために行っているのではありません。このように申し上げるのは冷たい意味では決してありません。

むしろ心配しなければならないのは、地上に残されたわたしたちのことです。罪と病と死の苦しみの只中にいるわたしたちのことです。だからといって、天に召された方々のことを羨ましがるのもどうかとは思いますが、わたしたちには十分にリアルな意味で残された途中の道がまだたくさんあります。道の駅があります。多くの課題に取り組まなくてはなりません。そのために多くの先輩たちの在りし日の姿を思い起こすことには、大きな意味があります。それがわたしたちの力になり、勇気にもなります。

先ほど朗読していただきました聖書の箇所で、イエス・キリストが弟子のペトロに「七回どころか、七の七十倍までも赦しなさい」と教えておられます。地上でわたしたちは、加害者になるだけでなく被害者にもなります。被害者になった場合はどうすればよいかというペトロの疑問に対するイエス・キリストの答えが「七の七十倍までも赦しなさい」です。

491回目からは赦す必要はないという意味ではありません。とことん赦しなさい、どこまでも赦し続けなさいという意味です。あとに続くたとえ話は、どうぞそれぞれお読みくださり、その意味を考えてみてください。大事なのは「天の国は次のようにたとえられる」(23節)と言われているとおり、これは天国の話であるという点です。

わたしたちにはまだ、地上でしなければならないこと、心を残していることがたくさんあります。なかでも気になるのは罪の問題です。あの人に悪いことをした。あの人に謝っていない。あの人に借りがある。あの人と和解できていない。本当は今すぐに直接会ってお詫びしたい。しかし、事情が許さない。身動きがとれない。もう二度と立ち上がれないかもしれない。その日が近づいている。そのような思いを、最期の日まで、意識が続くまで、抱えて生きていくのがわたしたちです。

しかし、安心しましょう。安心してください。わたしたちの最期の日に待ち受けているのは、厳しい取立人ではなく、七の七十倍まで赦してくださるイエス・キリストです。神はイエス・キリストにおいてすべての人の罪を赦してくださいます。イエス・キリストはそのことを弟子たちに教えたが、ご自分は誰の罪をも赦さないというような言行不一致のおかたではありません。

私には何も思い残すところはないと言える人はひとりもいないのです。だからこそわたしたちは互いに赦し合う必要があります。天国まで追いかけてくることができる取立人はいませんし、たとえ追いかけてきても、神がその人を追い返してくださるでしょう。神のもとにある平安とは、そのようなものです。

私たちに求められているのは、イエス・キリストにおける神の根源的な赦しの恵みの前に謙遜な思いで立つことです。そして、人から罪を赦されるのも、人の赦すのも、神の助けなしにはなしえないことを認めて、すべての栄光を神にお返しすることです。

神が私の罪を赦してくださったのだから、私もまた、だれかが私に犯した罪を赦さなければならない。そのことを決心し、約束する機会として、毎年の永眠者記念礼拝が行われることを願ってやみません。

(2018年10月28日、永眠者記念礼拝)

2018年9月23日日曜日

鍵を探して扉を開ける(立川からしだね伝道所)

日本キリスト教団立川からしだね教会(東京都立川市高松町3-2-1)

使徒言行録9章26~31節

関口 康

「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」

立川からしだね伝道所のみなさま、こんにちは。関口康(せきぐちやすし)と申します。よろしくお願いいたします。

4月から西東京教区の教会の担任教師になりました。先月発行された『教区だより』の「新着任教師紹介」の中に私の文章もあります。1990年に日本キリスト教団の教師になりましたが、途中19年間は日本キリスト改革派教会に移籍し、2年前の2016年に日本キリスト教団に戻ってきました。

今日は私のほうから道家紀一(どうけのりかず)先生にお願いして説教させていただくことになりました。道家先生は、最初は嫌がっておられましたが、私がしつこくお願いしたので仕方なく受け入れてくださいました。

しつこくお願いしたのは、道家先生の前でどうしても言いたいことがあったからです。ひとことでいえば、道家先生は素晴らしい伝道者であるということです。

お世辞を言いに来たのではありません。道家先生を昔からよく知る者のひとりとして、お人柄の一端をご紹介したいと思いました。初対面のみなさまですし、夕礼拝でもありますので、聖書の言葉を厳密に解釈するような硬い話ではなく、私の個人的な証しをするのをお許しいただきたく願います。

私と道家先生の初めての出会いは1985年4月です。今から33年前です。私が東京神学大学の1年生から2年生に進級したとき、道家先生は茨城大学を卒業されて3年に学士編入されました。年齢は道家先生のほうが私より5歳も年上の大先輩ですが、東京神学大学の学生寮の住民としては私のほうが1年先輩でしたので、何を言われてもいつもタメ口で返していました。

学生寮時代の道家先生との最大の思い出は、私が学部4年のとき中古で買って2年ほど乗った赤いスポーツカー「日産シルビア」を売ることになったときに買ってくださったのが道家先生だったことです。当時の東京神学大学を覚えている人たちは「赤い車の関口」のことばかりを悪く言うのですが、それを言うなら道家先生も赤い車に乗っておられました。

道家先生は1989年3月に大学院を修了されました。そして最初に赴任されたのが徳島県の小松島教会でした。1年後の1990年3月には私も大学院を修了し、高知県の南国教会に赴任しました。つまり道家先生と私は、同じ四国教区の教会で伝道者としての歩みを始めた関係です。

そして、教区や分区での関係だけでなく、いわば有志の集まりとして、高知県、徳島県、愛媛県の牧師と教会をつなぐグループがありました。そして、そのグループ主催の「説教セミナー」があり、そこでも私と道家先生が同席する機会が何度かありました。

そのグループのことも「説教セミナー」のことも話し始めると長くなりますので、割愛します。しかし、私の人生において決定的な意味を持ちました。

ある年の「説教セミナー」の席上、私は当時のリーダー格の先輩牧師たちを、面と向かって非常に強い言葉で批判しました。そして、その翌年、私は南国教会を辞めて九州教区の教会に転任しました。さらにその教会も1年足らずで辞任し、とうとう日本キリスト教団そのものも辞めて、日本キリスト改革派教会に移籍しました。それが1997年です。

なぜ私は教団を辞めたのか、なぜ改革派教会に移籍したのかについても、長くなりますので割愛します。しかし、ひとつだけ申し上げたいのは、私が教団離脱を決断した決定的な瞬間は、その道家先生も参加しておられた、あの「説教セミナー」の最中だったということです。

ところがその後、神さまがいたずらを始めました。そして、私の身に大きな変化が起こるたびに、なぜかいつもそこに道家先生が登場しました。

道家先生との再会の最初は、2009年に宗教改革者カルヴァンの生誕500年を迎えるにあたり、2007年にアジア・カルヴァン学会の日本大会が行われることになり、その前年の2006年にカルヴァン研究者の久米あつみ氏を中心に日本側のスタッフチームを作ることになったときです。

スタッフになってほしいと日本キリスト改革派教会の私にも呼びかけがあり、久米あつみ長老がおられる井草教会に集まることになったとき、当時の井草教会の牧師が道家先生でした。

まさか無視するわけには行かないだろうと道家先生がおられる牧師室をお訪ねしました。そして私が「ご無沙汰しています」と言うなり、道家先生から返ってきたのは「裏切り者め」という言葉でした。いかにも道家先生らしい言葉を聞くことができて安心しました。

そして、その再会の日すぐにではなくカルヴァン学会のスタッフミーティングの何回目かのときでしたが、道家先生がちょっとうれしいことも言ってくれました。ただ一言、「関口くんの言ったとおりになった」とおっしゃいました。しかし、それ以上のことは何もおっしゃいませんでした。

当時の私は日本キリスト改革派教会の教師でしたので、日本キリスト教団の内部のことは分かりませんでした。しかし、そのとき道家先生がおっしゃった「関口くんの言ったとおり」の意味が、あの「説教セミナー」のときに私が強い調子で言った批判の言葉を指していることに、私はすぐに気づきました。その道家先生の一言に深く慰められたのを忘れることができません。

聖書の話そっちのけで私の話になって申し訳ありません。しかし、どうしてもお話ししたいのです。私は、当然のことながら、日本キリスト教団に戻ることは二度とありえないという強い決心をもって離脱しました。その決心がないような教団離脱などそもそもありえません。しかし、人間が憎くなったとか、だれかにつまずいたというような理由ではありませんでした。

何が最も根本的な理由だったかといえば、日本キリスト教団において教師に対する「戒規」を行うことは「絶対に不可能」であると当時の私に思えたことでした。1997年に教団に提出した教師退任届に書いたのはそのことでした。私が書いた文面は、教団事務局に今でも保管されているはずです。

私自身も罪深いひとりの人間として生きつつ神の言葉を預かり語る者として、もし自分が罪を犯したときに、この私に免職の戒規を適用する仕組みが機能しえないような教団にとどまることに、当時の私は良心の呵責を覚えました。

逆に言えば、理由はそれだけでした。私にとって問題だったのは「戒規」の問題だけでした。

だからこそ私は、移籍先の日本キリスト改革派教会の中で親しくなった人々に例外なく打ち明けてきたのは、「もし日本キリスト教団でたったの一度でも教師への戒規を行うことができたら、私は日本キリスト教団に戻るであろう」という自分の考えでした。その意味は、日本キリスト教団にそれを行うことは「絶対に不可能」であるということでした。

ところがその後、2010年に日本キリスト教団史上初めて教師に対する免職の戒規が行われたことをキリスト新聞の報道で知り、天地が逆転するほど驚きました。そしてなんと、免職された当該教師への言い渡しの場に道家先生が担当幹事として立ち会っておられたことを最近知り、これまた驚きました。

それで困ったのが私です。その2010年の戒規と共に、私に「日本キリスト教団に戻らない理由」がなくなってしまいました。それで日本キリスト教団に戻ることを決心しました。

一昨年の2016年の春に受けた教団の転入試験の提出論文にも、そのことしか書いていません。教師検定委員会の面接のとき、委員全員が「こんなのは理由にならない」と文句を言いましたが、私は「いけませんか」と気色ばんだだけで、それ以上のことは言いませんでした。それで通してもらいました。

日本キリスト教団で任地を求めていたとき、当時教団の総務幹事だった道家先生にも何度かお会いしましたが、その答えがいちいち冷たい。「戻ってくるな」と言われました。そういう人だということは昔から知っていますので、笑いましたが。

そして今や、道家先生と私は、西東京教区の「隣の隣」の教会の牧師になりました。道家先生は私のこれまでの人生の中で随所随所に突如として姿を現わし、何ごとか決定的なことを告げて去っていく、天使なのか悪魔なのか分からない存在であり続けています。

なぜ今日、このような話をするために先ほど朗読していただいた聖書箇所を選び、このような説教のタイトルをつけたのかということを、そろそろ申し上げます。

この使徒言行録9章は、使徒パウロがまだサウロと呼ばれていたときに体験した回心の出来事と、キリスト教会の伝道者として歩み始める出発の場面が描かれている箇所です。

サウロ(後の使徒パウロ)は、キリスト教会にとっては最近まで自分たちを殺そうとしていた迫害者であり、ユダヤ教側にとってはキリスト教に寝返った裏切り者でした。両サイドのどちらの人々からも信用してもらえない孤立感の中で、伝道者としての歩みを始めました。

そのとおりのことが書かれています。「サウロはエルサレムに行き、弟子の仲間に加わろうとしたが、皆は彼を弟子だと信じないで恐れた」(26節)。当然のことです。しかし、助け舟を出してくれたのがバルナバでした(27節)。

バルナバの仲裁によって、やっと使徒たちがサウロを信用してくれて、話を聞いてくれました。そして、サウロの命を狙う人々もいたので、逃げ道を作って助け出し、伝道の旅へと送り出してもらえました。

このときのサウロの一連の動きの中に、いわゆる奇跡の要素は全くないと私には思えます。天からバリバリと稲妻がとどろき、超自然的で神秘的な奇跡が起こった形跡などは全くありません。

ここに描かれているのは、前途に立ちはだかる壁や障害物をハンマーでぶち壊して無理やり道をこじ開けるのではなく、鍵を探して扉を開けるように、壊れた人間関係を修復するための仲裁の努力を重ねることによって道を切り開いていく、そのようなサウロと支援者の姿です。

「伝道」の話になると「壁をぶっ壊せ」だの「既成概念を打ち破れ」だのと言い出す人がいますが、そのような暴力的な言葉に私が突き動かされることはありません。とことん事務屋に徹し、教憲教規と信仰告白を踏まえ、「教会論的手続き」を積み重ねていく道家先生のような方の言葉に私は全力で耳を傾けます。

手続きを無視してめちゃくちゃに人を集めても、それが「教会」になることはありません。そう思ったからこそ私は、年がら年じゅう会議と事務仕事ばかりしている、温度が低い日本キリスト改革派教会に移籍したわけですが。

たとえていえば(あくまでもたとえです)、道家先生は、太っている人に「太ってるね」、勉強が苦手な人に「勉強が苦手だね」と言ってくれるような人です。とことん冷たいですが、言葉に嘘がありません。事実を事実としてまっすぐに伝えてくれる真の伝道者です。そういう人がいなければ「教会」はできません。

立川からしだね伝道所と西東京教区の諸教会のために、心からお祈りいたします。

(2018年9月21日、日本キリスト教団立川からしだね伝道所 夕礼拝)

罪人を招く


マタイによる福音書9章9~13節

関口 康

「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。』」

もう皆さんお忘れになったかもしれませんが、4月の初めに皆さんとお約束したことをどうするかについて、いま迷っています。何の約束をしたかを私から言わなければそのままになりそうな雰囲気もあると感じているほどですが、1年間かけてローマの信徒への手紙を最初から最後まで取り上げますと私はたしかに申しました。

しかし、それを途中から変更しました。「たまにはイエスさまの御言葉を聴きたい」というご意見を、ある方からいただいたからです。そういうご意見はすぐに取り入れるのが私のポリシーであるということは、すでに申し上げました。しかし、いま悩んでいるのは、その「たまには」をいつまで続けるかということです。

イエス・キリストの御言葉は新約聖書の中にたくさんあります。しかし、その中のどの御言葉を取り上げるかについては迷いませんでした。なるべく有名な言葉で、心に深くとどまるのは、マタイによる福音書の5章から7章までに記されているいわゆる山上の説教だろうと、すぐに思い当たりました。

しかし、山上の説教すべてを細かく取り上げますと、それはそれでとても長い時間がかかることになり、「たまには」の趣旨に反すると思いましたので、山上の説教の中でも特別に印象的な言葉だけを取り上げることにしました。

それが「心の貧しい人々は、幸いである」(5章3節)であり、「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(5章44節)であり、主の祈り(6章9~13節)であり、「思い悩むな」(6章25節)であり、「求めなさい。そうすれば、与えられる」(7章7節)でした。

本当にものすごいことをイエスさまがおっしゃっていると、私自身何度読み返してもそう思います。これらの御言葉のすべてに必ず当てはまると一概に言うことは難しいかもしれません。しかしそれでもはっきり言っておくほうがよいだろうと思うのは、わたしたちはなぜ、イエスさまの山上の説教の中の、特にこれらの御言葉のひとつひとつに心を揺さぶられ、感動するだろうかということです。

その答えははっきりしています。これらすべてはわたしたちにとって難しいことであり、ほとんど不可能なことばかりだからです。なかでも最も難しく、最も不可能だと思えるのは「敵を愛しなさい」というイエスさまの教えでしょう。絶対に愛することができない相手が「敵」なのだから、その相手を愛することは本来不可能なことなのです。しかし、これだけではありません。「思い悩むな」もそうでしょうし、「求めなさい」もそうでしょう。

たとえば、私が「思い悩むな」というイエスさまの御言葉について皆さんにお話ししたのは先々週の9月9日(日)です。二週間経ちましたが、そのあいだ、思い悩まなかった方がおられるでしょうか。皆さんにお尋ねすると、その中に私が入っていないことになってしまいます。私自身はどうだったかを問う必要があります。はっきりいえば、自分で説教しながら説教者自身が毎日思い悩んでいました。説教者失格かもしれません。

しかし、わたしたちは安心してよいのだと思います。イエスさまは、わたしたちにできそうなこと、努力次第で何とかなるようなことをおっしゃっているわけではないのだと思うからです。「こんなことは誰でもできる簡単なことでしょう。どうしてできないのですか、だらしない」とわたしたちを責めるために、イエスさまがこのようなことをおっしゃっているのだろうかということを、よく考える必要があります。

もうひとつの問いとして、イエスさまご自身はおできになったのかという疑問をわたしたちが持つことはありうるかもしれません。もし仮にイエスさまがご自分にもおできにならないことを教えておられるとしても、わたしたちにイエスさまを責める資格はないでしょう。しかし、ここははっきり、イエスさまにはおできになったと言うべきです。だからこそ、お教えになりました。

しかし、問題はここから先です。イエスさまは、御自分にはおできになることはすべての人にも必ずできることだ。できない、できないと言っているのは努力が足りない人だ。全くけしからんとお考えになったうえで、このようなことをおっしゃっているでしょうか。

さらにもう一歩踏み込んで、それではイエスさまは、ご自身がお教えになったこれらのことは、わたしたちにとって、あるいは多くの人にとって、まだできていないが、将来はできるようになる努力目標のような意味でおっしゃっているのだろうか、ということも考えてみる必要があるでしょう。

さて、ここで話を元に戻します。私は何の話をしていたかと言いますと、私はローマの信徒への手紙を1年間かけて取り上げることを約束しながらそれを途中で変更してイエス・キリスト御自身の言葉を取り上げましたが、それをいつまで続けるかで悩んでいるという話でした。結論をいえば、そろそろローマの信徒への手紙のほうに戻りたいと私自身は願っています。具体的にどうするかはまだ決めていません。

ただし、誤解されたくないと思っていることがあります。それは、このたび山上の説教を取り上げたことは、なんら脱線ではないということです。これは神学や聖書学の次元の話にもなります。イエスの教えとパウロの教えは矛盾しているとか対立していると主張する人たちがいますが、それは言い過ぎです。

パウロもイエス・キリストの教えを信じ、受け入れ、その上に立って生き、教えた人です。最近『パウロ』という岩波新書を出版なさった青野太潮(あおのたしお)先生という聖書学者が、イエスの教えとパウロの教えは「無条件の赦し」という点で一致していると主張しておられますので、参考になります。パウロの手紙を学びながら「たまには」イエスさまの御言葉を学ぶのは、なんら脱線ではありません。

ローマの信徒への手紙でパウロは何を言っていたでしょうか。わたしたちは罪人であるということです。例外はありません。例外なく罪人であるわたしたちを罪の中から救い出すために、イエス・キリストが来てくださったということです。十字架のうえでわたしたち罪人の身代わりに死んでくださることによってイエス・キリストはわたしたちを罪の中から贖い出してくださったということです。それゆえ、わたしたちが救われるのは、わたしたちの努力や行いによるのでなく、イエス・キリストを信じる信仰によるということです。

しかも、その場合の信仰は「行いなしの信仰」です。信じることもわたしたち人間の行為のひとつであるとしても、だからといって、その自分がなす行為そのものでわたしたちが救われるのではありません。それだと結局、自分で自分を救うことになります。そうではなく、わたしたちの信心の努力がわたしたちを救うのではなく、わたしたち自身は特に何もせず、いわばただ見ているだけのような「信仰」を、神がわたしたちにプレゼントしてくださり、与えられた信仰によって、イエス・キリストにおいて神がわたしたちを救ってくださるのです。

それと同じことを、わたしたちは、特に新約聖書の中の福音書と呼ばれる書物の中に記されているイエス・キリストの教えとご生涯を学ぶときにも当てはめることができます。そして、その意味では、先ほどいくつか挙げさせていただいた問いの答えが、ある程度見えてきます。

イエスさまはわたしたちにできそうなこと、可能なことをお教えになったわけではおそらくないし、努力目標でもないことをおそらくおっしゃっているということです。そして、もしそうであれば、なぜイエスさまは、わたしたちにできないことを求めておられるのかという問いの答えも見えてきます。

それは、できないことを突き付けられるときにこそ、わたしたちは自分の罪を自覚できるということです。「自分の罪を自覚する」ということは、その聖書的な意味は、「私は救われなければならない存在であること」を自覚するということです。それは「私には救いが必要であり、救い主が必要である」という自覚です。

最後になりましたが、今日朗読していただいた聖書箇所について短く触れます。イエスさまは、当時のユダヤ社会の中で嫌われたり差別されたりしていた人々、その中でも特に「罪人」と呼ばれていた人々と共に、躊躇なく食事をなさいました。それでイエスさまにつまずく弟子がいましたし、誤解する人もいましたが、イエスさまは意に介されませんでした。

それはなぜでしょうか。理由ははっきりしています。イエスさまご自身がはっきりおっしゃっています。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と。

わたしたちがよく知っている言葉に「虎穴に入らずんば虎子を得ず」という中国由来のことわざがあります。イエスさまの教えとそれは、意味することも歴史的背景も全く違います。しかし、共通する要素は「立ち位置はどこか」ということです。

イエスさまがおっしゃっているのは、「ああいう人たちも救われたほうがいいよねえ」と思っているだけで、遠巻きにして見ているだけで、自分自身は決して近づかないし、自分たちの仲間に決して加えようとしないことの反対です。

イエスさまと同じことがわたしたちにもできるでしょうか。私にはとても難しいことだと思えてなりません。なぜなら、宗教というのは人の心の深いところにかかわるものだからです。だからこそ、デリケートな感性の問題に必ずなります。生理的な「肌感覚」の次元が必ず問題になります。

生理的に受け付けないとなると、それ以上はどうすることもできず、からだがすくみ、足が止まり、身動きがとれなくなってしまう性質がわたしたちにあることを無視することができません。「ああいう連中」(こういう言い方自体が大問題ですが)と同じ空気を吸いたくない、同じ場所にいるだけで我慢できない、逃げ出したくなるというような感覚とそれは紙一重です。それを「悪い」と責められても困ってしまう面があります。

しかし、だからといってわたしたちは手をこまねいているわけには行きません。長年聖書を学び、神をよく知っていて、なおかつ共通理解を持ちうる仲間内で小さく固まっているだけでは「伝道」は不可能です。それだけははっきりしています。窓を開けなければ新しい空気は入って来ません。外に出ていかなければ新しい出会いはありません。他流試合が必要です。

わたしたちには難しいことであり、不可能なことであるかもしれませんが、そのわたしたちと共にイエスさまがいてくださいます。

イエスさまと共に大胆に、外に飛び出していきましょう。新しい出会いを求めていきましょう。

(2018年9月23日)

2018年9月16日日曜日

門をたたく者には開かれる


マタイによる福音書7章7~12節

関口 康

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」

今日の箇所に記されているのもイエス・キリストの言葉です。イエスさまは二千年前に本当にこのようにお話しになりました。そのようにわたしたちは信じてよいのです。しかし、わたしたちの信仰はそれだけで終わるものではありません。

教会の信仰によれば、イエスさまは十字架にかけられて死に、三日目によみがえり、その四十日後に天に昇り、父なる神のみもとで今も生きておられます。そのイエスさまは今もわたしたちに御言葉を語り続けておられます。そのようにも信じてよいのです。

今は昔と状況が全く違うので、今の状況にマッチする言い方に変えて語るということはありうるかもしれません。しかし、視点と方向においてイエスさまのお考えが根本的に変わることはないと思います。たぶん大丈夫です。

「たぶん」とか「と思います」などと余計なことを言う必要はないかもしれません。しかし私がこういう言い方をするのは、勢いで口走っているのではなく、理由があります。意図的な言い方です。その理由をふたつ挙げます。

一つは、私はイエスさまではないということです。当たり前のことです。もう一つは、わたしたちはいまだ完全な仕方で神の御心の実現を見ていない、その意味で不完全な世界の中で生きているということです。もしそうであれば、地上に「こうです」と断言できることは何もありません。実際にどうであるか、どうなるかは「信仰と祈りの事柄」に属することです。

鈴木正三先生が生涯の研究テーマにしておられるディートリッヒ・ボンヘッファーという神学者の言葉として伝えられているのは「究極以前の事柄」という概念です。その意味は、私がいま申し上げたようなことです。

わたしたちは、天上の御心が完全に実現しているわけではない、不完全な世界の中で生きているということです。神の御心が究極的に実現しているのが「天国」だとすれば、わたしたちが「いまここで」生きている地上の世界のすべては「究極以前の事柄」であるということです。

ボンヘッファーについては、私は斜め読みした程度ですので、詳しいことはぜひ鈴木先生に教えていただきたいです。この神学者が地上の事柄を「究極以前」と呼んだのは、それは究極的な事柄としての天国よりも次元が低いものだから軽んじてよいという意味ではないと私は理解しています。

もっとも私は、ボンヘッファーの言葉を自分の都合のいいように、説教の言葉を断言口調にせずに事柄を曖昧にし続けるための理由にするくらいのことしかしていないのですが、この概念にはもっと深い意味があると思います。私の心に浮かぶのは、地上の世界を「究極以前」としてとらえることは、単なる世界観の問題ではなく、わたしたちの信仰に基づく生き方や行動の問題になっていくだろうということです。

それはどういう意味かという問いの答えを考えるところで、今日の聖書の箇所を見ていただきたいのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7節)。

イエス・キリストの御言葉です。この御言葉については口語訳聖書よりもさらに以前の文語訳聖書の言葉で暗唱しておられる方もいらっしゃるでしょう。「求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門をたたけ、さらば開かれん」。

これは多くの人に誤解されている言葉であるということが、よく指摘されます。欲しいものは何でも手に入る。そのようにイエスさまが教えてくださったと。しかし、実際にはそのようなことは起こらないわけです。わたしたちは欲しいものだらけ、不満だらけです。あれもない、これもないと、毎日のように愚痴をこぼしています。

求めても与えられないのは、わたしたちのお祈りが足りないからでしょうか。そうかもしれません。よし、これからみんなでお祈りしましょう。そうすれば、明日の朝にはどっさりと、わたしたちの家の玄関に大きな荷物が届くでしょう。そうであればいいのですが、全くそうでない現実をわたしたちは生きています。

そうであれば、イエスさまがおっしゃったことのほうが間違っているのでしょうか。求めても与えられたことがない。探しても見つかったことがない。そちらのほうの記憶と感覚のほうが、願ったものはちゃんと与えられたし、探したものはちゃんと見つかったということよりも、わたしたちの心と体の中にはるかに強く残っているとしたら、イエスさまの教えは虚しく感じられるばかりです。

しかし、もしそうである場合、二つの解決策があると思います。これは私の提案です。ひとつの解決策は、イエスさまの御言葉についてのわたしたちの解釈が間違っていると考え、これはどういう意味なのかを考え直すことです。「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」とはどういう意味なのかを歴史的・文献学的・神学的に研究することです。

そして、その場合の研究の目的は、イエスさまがおっしゃっているのは「欲しいものは何でも手に入る」というような次元の低いことではないのだ、ないのだ、もっと次元の違う高尚な意味があるのだ、あるのだと、自分自身に言い聞かせ、納得を得るためです。それで納得できれば、それはそれで、わたしたちの心に平安が与えられるかもしれません。

しかし、もうひとつの解決策があります。それは、求めても与えられない、探しても見つからない、門をたたいても開けてもらえないと、ほとんどいつも不満を感じているわたしたち自身の姿を鏡に映してよく見ることです。鏡に映る自分の姿を見ながら、本当にそれほどそうなのか、本当にわたしたちは求めたものを与えられていないのか、もう十分すぎるほど与えられているのではないかと、考えてみることです。そちらのほうがすぐにできることです。

しかし、自分で提案しておいて何ですが、この第二の解決策で問題が解決する人はあまりいないかもしれません。自分は足りない、自分は足りない、自分は足りないと、ほとんど常に思い込んでいる状態ですから。これはどなたかの話ではなく、私自身の話です。わたしたちの認知がそのようなひとつの視点で固定されてしまっていれば、自分の姿を何度鏡に映しても、足りない自分としか見えない可能性は十分あります。

ただし、やめたほうがいいと思うことがあります。やめましょう。それは他人と比較することです。あの人と比べて足りない、あの人よりは足りている。それは相手にも自分にも失礼なことですし、全く余計なお世話です。しかし、それがもしかしたら最も根本的な問題かもしれません。なぜ自分は不満を感じるのか。それは他人と比較するからではないかということに気づく必要があるかもしれません。

しかし、もしそうだとしても、そのことに気づくだけにしましょう。比較そのものをやめることは、わたしたちには不可能です。やめましょうといくら言ってもやめられません。なぜなら、わたしたちはひとりで生きていないからです。必ず多くの人と共に生きている社会的な存在です。他人との比較を全く考えず、自分のことだけを見つめて生きることのほうが、かえって問題ある行動かもしれません。

しかし、ここでひとつよく考えるほうがよさそうなのは、いったい自分は本当のところ何が欲しいのだろうかということではあります。他人との比較の中で考えれば、欲しいものはすぐ見つかります。あの人のような身長とか見た目とか、家や暮らしが欲しい。そう願うことは全く自由ですが、おそらく実現しません。一時的に実現しても消えていきます。

敬老感謝のお祝いの日に、嫌がらせのようなことを言いたいわけではありませんが、厳しいことも言わなくてはなりません。「究極以前の事柄」は時間の経過と共に変化し、朽ちていきます。かつて若かりし頃に欲しいものがたくさんあった。それをがんばってすべて手に入れた。しかし、見よ、すべてが古くなった。古くなったものをどうやって捨てようかと悩んでいる。捨てるにもお金がかかるではないか、というようなことで悩むのが、わたしたちのあからさまな現実です。

今日の箇所でイエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、先週お話ししたことと、実は全く同じです。神に頼りなさいということです。それ以上のことはおっしゃっていません。空の鳥や野の花さえ見捨てず養ってくださる天の父が、わたしたち人間のことを見捨てるはずがないでしょう、ということです。わたしたちの神さまは、わたしたちの求めに対して最も良きものを与えてくださるでしょう、ということです。

イエスさまは「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」(9~10節)とおっしゃっています。現実の人間の親の中にこういうことをする人がいるという指摘はしておくべきでしょう。います。いてはいけないのですが、います。明確な殺意をもって自分の子どもを殺す親がいます。

イエスさまも人間が「悪い者」であることをご存じです。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも」(11節)とおっしゃっています。人間に対して甘い見方をしておられません。厳しく見ておられます。

しかし、そのうえで、イエスさまは「自分の子供には良い物を与える」(同上節)人間の姿をご存じです。そのことをイエスさまは責めておられません。これは大事な点です。イエスさまは「自分の子どもに良きものを与える」のは人間のエゴイズムだ、マイホーム主義だなどとおっしゃいません。

「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるに違いない」(同上節)というのがイエスさまの結論です。何が「良い物」なのかの内容は記されていません。もしかしたらそれはわたしたちが求めたものとは違うかもしれません。しかし、神はわたしたちに必要な、わたしたちにとって最も良いものを与えてくださいます。

わたしたちは神を、自分の欲望をかなえさせる召し使いにすべきではありません。

ここでちょっと話を落としますが、昔の漫画映画(テレビアニメ)の「ハクション大魔王」を覚えておられる方がいらっしゃるでしょう。呼ばれて飛び出てなんとやら。今の「ドラえもん」のことはきっとご存じでしょう。不思議なポッケでなんでも夢をかなえてくれる。

わたしたちの神はハクション大魔王でもドラえもんでもありません。そのことを最後に申し上げておきます。

(2018年9月16日)

2018年9月9日日曜日

思い悩むな


マタイによる福音書6章25~34節

関口 康

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。」

先週立て続けに起こった台風21号と北海道地震で大きな被害を受けた方々のために心からお祈りいたします。

今日の聖書の箇所を私が選んだのは、先週9月2日に発行した週報を作るときでした。それは8月27日です。なぜこのようなことを言うかといえば、先週の大きな災害のことを予想する由もなかったときに選んだ聖書箇所であることをご理解いただきたいからです。今の状況を知ったうえで関連づけてお話しする意図が、あらかじめあったわけではありません。

今年6月末から7月初めにかけて起こった西日本豪雨災害のことは意識にありました。他人事だと思う気持ちはありません。しかし、国内や世界中で起こる災害や事故・事件と被害に対して、具体的にどのように考え、何をなすべきかについての行動原則のようなことは私の頭と心では思いつきません。心苦しく思っております。申し訳ありません。

わたしたちにできるかもしれないのは聖書の御言葉に基づく信仰の言葉で苦しみの中にある方々を慰め、励まし、力づけることだろうという思いは、私の中にもちろん常にあります。その思いがないようなら、何のために教会が現代社会に存在するのか、その意味すら分からなくなります。

しかし、言い逃れか開き直りのように響いてしまうかもしれませんが、実際問題として言わざるをえないのは、教会にできることはあまりに小さい、ということです。

テレビがあり、インターネットもある時代の中で、世界の隅々に起こる災害や事件の情報が瞬時に飛び込んで来るようになりました。理想的には、苦しみ悩むすべての方々のためにまんべんなく公平にお祈りしたいところです。しかし、現実には不可能です。

ごく大雑把な言葉で「すべての人が救われますように」と祈ることはできますが、地上に起こるすべての災害や事件について詳細な状況を把握したうえで祈ることはできません。こういうことを言葉にしてはっきり言うと冷たいことを言っているように思われるかもしれませんが、冷たいことを言っているつもりはありません。

今日の箇所に記されているのはイエス・キリストの言葉です。新共同訳聖書のこの段落の小見出しに「思い悩むな」と書かれています。そのとおりの内容です。前後の文脈が分かるように引用すれば、次のとおりです。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」(25節)。

「思い悩むな」を昔の口語訳聖書などでそう訳されていた「思いわずらうな」という訳のほうで暗唱しておられる方もいらっしゃるでしょう。「思い悩む」も「思いわずらう」も意味は同じです。

もっと単純に「心配するな」とか「くよくよするな」などと訳しても全く問題ありません。意味は同じです。「思い悩む」とか「思いわずらう」と言うほうが高尚なことを言っていて、「心配するな」というのは次元の低いことを言っている気がするというような感覚が、もしかしたらわたしたちのうちにあるかもしれませんが、それは考えすぎです。

これで分かるのは、イエス・キリストの御言葉の趣旨は、わたしたちの日常生活に関すること、特に衣食住に関することについて、くよくよ悩むな、心配するな、と言っておられるということです。もう少し踏み込んで言えば、イエスさまが問題にしておられるのは、わたしたちの衣食住の具体的な内容に関することであるということです。

「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」と言われているわけです。食べるか食べないか、飲むか飲まないか、着るか着ないかということは、全く問題になっていません。遠慮なく食べてください、ぜひ飲んでください、ぜひ着てください。何の躊躇も要りません。むしろ、裸で表を歩かないでください。

ですから、イエスさまがおっしゃっていることを別の言葉で言い換えるとしたら、衣食住の具体的な内容に関して、「どれにしようか」という選択(チョイス)の問題であると言えるかもしれません。「食べるか食べないか」ではなく「何を食べるか」ですので。

しかし、ここでぜひ、ご安心いただきたいことがあります。

わたしたちが家でごはんを食べる場合、自分ひとりで自分のために料理して食べることもあれば、家族や知人・友人と食べることもあります。もちろん外食することもあります。食事の場所や状況はなんであれ、来る日も来る日も同じメニューですと、自分も飽きるし、飽きられてしまいます。

それでいろいろ違ったメニューを考えるわけですが、「そんな無駄で愚かなことをする必要はない」とイエスさまがおっしゃっているかといえば、そういうことでは全くないと申し上げておきます。

イエスさまが当時どのようなものを食べておられたかは分かりませんが、毎日同じものを食べておられたでしょうか。そうではないだろうと想像します。

しかし、だからといって今申し上げたことがイエスさまの御言葉の趣旨から完全にかけ離れていることかどうかは、考えどころです。

お肉にしようか魚にしようか野菜にしようかと思い悩むことを禁じられてしまうと、わたしたちは困ってしまいます。「どの」お肉にしようか、「どの」魚にしようか、「どの」野菜にしようかで悩むことも、ある程度は許していただきたいです。

しかし、そこから先、だんだんエスカレートして、「いくらくらいの」値段のものにしようかと悩み始めるところまで行くと、そろそろイエスさまの御言葉の趣旨に抵触するかもしれません。

なぜそうかといえば、それは生活そのものの問題というよりも生活レベルの問題になるからです。何が贅沢で何が贅沢でないかは一概には言えませんが、「いくらくらいの」値段のものにするかという悩みを持つことができるのは裕福な人たちだけである、ということは考慮する必要がありそうです。

今申し上げていることはこのあたりでストップします。確認したいと願ったのは、イエス・キリストが「思い悩むな」とおっしゃっているのは、わたしたちの日常生活の、特に衣食住に関する事柄についてである、ということです。

それ以外のすべてのことに当てはめるのは行き過ぎです。自分の人生の進路の問題、あるいは個人や社会や世界の悩みや苦しみの問題について考えるのをやめろ、思考停止せよと言われているわけではありません。そのような冷酷非道なことをイエスさまがおっしゃるわけがありません。

しかし、ここでまたひっくり返して考えてみると、それでは、そういうことは「思い悩むな」というイエスさまの御言葉の趣旨と全く無関係であるかというと、それも言い過ぎです。

災害や事件で被害を受け、苦しい立場を余儀なくされている方々が、これからどう生きていこうかと悩み、ただ漠然と「人生とは何か」と哲学的に問うだけでなく(哲学を軽んじる意図は私にはありません)、より具体的に毎日の生活の細部(ディティール)を微分し、それらをどのように整え、営むかという問題を避けて通ることは絶対にできません。

実際的な飲み食いの問題など次元が低いことなので、そんなことはどうでもよいことで、そんなことよりも高尚な哲学や宗教を重んじなさい、というような話にすべきではありません。

哲学や宗教も大切ですが、飲み食いも大切です。どちらが重く、どちらは軽いということはありません。両方が等しく重要です。私は自分で料理をしたり家事をしたりするところがありますので、文句があるなら自分で料理してみろよと言いたくなります。

そして、今大事なことは、この問題に対するイエスさまのお答えが「思い悩むな」であるということです。くよくよするな、心配するな。それはどういう意味であるかをわたしたちはよく考える必要がありますが、あまり難しいことは私は言いません。この御言葉においてイエスさまが「おっしゃっていない」ことを指摘するだけにとどめます。

イエスさまが「おっしゃっていない」のは、すでにあるもので我慢しろとか、出されたものを文句を言わずに黙って食べろとか、衣食住ごときの次元の低いことで悩むのをただちにやめて、もっと高尚なことで悩み苦しめ、ということです。イエスさまは、そのようなことを全くおっしゃっていません。そのような意味であると言いうる根拠はどこにも見当たりません。

日本のキリスト教、とりわけプロテスタント教会は「武士道」の影響を受けているということが、かなり前から指摘されています。武士道には人斬りの面がありますので、人が死のうが殺そうが、心を動かさず、感情的にならず、冷静でいることを教えるところが必ずあります。その武士道と通じ合うところがあるストイック(ストア哲学的)な思想と教会の教えとが混同される可能性があります。

「武士は食わねど高楊枝、なければないで我慢しろ、衣食住ごときでがたがた文句を言うな、イエスさまもおっしゃっている」などと教会が言い出すことが実際にあります。しかしイエスさまがおっしゃっているのはそういう意味ではありません。全く違います。

イエスさまがおっしゃっているのは、ただ神のみに頼れということだけです。直接的にそのような言葉が今日の聖書箇所の範囲に出てくるわけではありません。しかしそのことがはっきり分かるのが25節の言葉です。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に収めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」(25節)。

この御言葉に腹が立つ方がおられるかもしれません。実は私もちょっと腹が立ちます。我々人間は鳥よりも価値があるとか言われても、うれしくも楽しくもありません。動物と比較されること自体が失礼な話だと感じます。かえって、なんとなくばかにされた気持ちになります。

しかし、イエスさまがおっしゃっていることの趣旨は、あなたがたは鳥よりもましだから我慢しろという話ではありません。イエスさまがおっしゃっているのは、あの鳥でさえ神さまがすべて養っておられるということです。野の花も。

あの鳥よりも価値がある人間を神が見捨てるはずがない、ということです。わたしたち人間は、神を見限ることがあるかもしれません。どれほど祈っても、どれほど熱心に奉仕をしても、自分の願いどおりにしてもらえない。そんな役に立たない神など要らないと、わたしたちが神を見限り、見捨てることはあるかもしれません。しかし、神は絶対に人間を見限らないし、見捨てない方です。

だから思い悩むな、心配するなと、イエスさまがおっしゃっています。イエスさまのお勧めの言葉を信頼してみませんか。

(2018年9月9日)

2018年8月26日日曜日

主の祈り


マタイによる福音書6・9~13

関口 康

「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。』」

私も夏休みをとらせていただきました。木曜日の「聖書に学び祈る会」を2週続けて休会しました。「説教要旨」を作るのを2週分サボりました。旅行に出かけることはできませんでしたが、映画を2本観ました。ドクターヘリの活躍を描いた「コード・ブルー」と、昔のテレビドラマ「スパイ大作戦」の現代版「ミッション:インポッシブル」です。のんびりしすぎたことをお詫びします。来月から気合いを入れます。

今日取り上げるのは「主の祈り」です。このテーマについてこの教会でお話しするのは初めてですが、過去に牧師をしていた教会で繰り返しお話ししてきました。過去の説教原稿はすべて保管しています。それを引っ張り出して読み直しました。同じことを申し上げる部分もあるのをお許しください。

この祈りは新約聖書の2箇所に出てきます。マタイによる福音書6章9~13節と、ルカによる福音書11章2~4節です。両者を比較すると分かることが2つあります。

第1に、文脈が異なります。マタイでイエスさまがこの祈りを教えられた相手は複数の「弟子たち」(5章1節)です。ルカでは「弟子の一人」(11章1節)に教えておられます。その弟子が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」とイエスさまにお願いし、それにお応えになる形で、この祈りを教えられました。

第2は、ルカの主の祈りはマタイのそれよりも短いです。どこに違いがあるかを具体的に言うのは長くなるのでやめます。好ましいと思うのは両者を無理やり一致させようとしていないところです。しかし、強調点に違いがあると考えるのは可能です。私にとって興味深いのは、ルカの主の祈りには「天」も「地」も出てこないし、「悪い者」も出てこないことです。

この違いが何を意味するのかについて思い当たることがあります。「天」と「地」、また「悪い者」がいるとすれば反対側に「善い者」もいることになりますが、そういう世界観の基本構造は「上下関係」に近いということです。

そのような「天」と「地」との差や、「善い者」と「悪い者」を対比させるような垂直的な世界観がマタイの主の祈りに見え隠れしています。しかし、ルカの主の祈りには上下関係を示唆する垂直的な世界観を表わす言葉が出てきません。水平的な世界観に立っているように見えます。

しかし私は、どちらのほうがよいかという話をしたいわけではありません。代々の教会が重んじてきたのは、マタイの主の祈りです。私が教えたミッションスクールでは、1年生の最初の聖書の授業でマタイの主の祈りを学ぶことになっていました。学校礼拝の中でそれを唱えるからです。

私がこれまでいろんなところで主の祈りについてお話ししてきた中で強調してきたのは、主の祈りの「目標」は何かという問題です。主の祈りを唱えて生きるわたしたちがめざすべき先はどこかという問題です。そしてその結論は、主の祈りの目標は「地上」であるということです。

その「目標」が最もはっきり示されているのが、第3の願いです。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。

「天で御心が行われる」のは当然のことです。「天」は神のおられるところを指すからです。神のおられるところで神の御心が行われるのは当たり前です。極端に言えば、天国で御心が行われることについて、わたしたちがあえて祈る必要はありません。人が祈ろうと祈らなかろうと、神は天で御自身の力を遺憾なく発揮なさるでしょう。

しかし、「地上」は別です。地上では神の御心は人の目と心から隠されています。よく分かりません。よく分かるのは、我々が生きている現実世界には神がどこにもおられないかのようだということです。神の恵みであると言われる信仰も希望も愛も喜びも、まるで現実世界とは全く無関係であるかのようだということです。

だからこそ、わたしたちは「地の上にも御心が行われますように」と祈る必要があります。主の祈りの「目標」が「地上」であると申し上げたのはその意味です。

主の祈りには全部で6つの祈りがあります。第3の願いの趣旨は「我々が生きている地上の世界が天国さながらになりますように」という祈りです。それは地上の世界は全くそうではないということの表明でもあります。地上には悲しみと嘆きが満ちています。だからこそ、わたしたちは「神の御心が地上で実現しますように」と祈るのです。それは「この地上の現実が変革されますように」という意味になります。

しかし、逆の言い方をすれば、すでに天国にいるかのように完全に変革された新しい世界となったそれは今の我々の悲惨な現実とは全くかけ離れたものかと言うと、そうではありません。今の現実から「罪が取り除かれる」だけです。それ以外の変化はありません。地上の世界から罪が取り除かれたら、そこは天国です。面白くもおかしくもないかもしれませんが、そうとしか言いようがありません。

たとえば、多くの人が違和感を覚えるヨハネの黙示録という書物があります。あの書物が描き出す天国を異様だと感じる人は多いかもしれません。天国があまりにも色彩鮮やかにカラフルに描かれているからです。天国は無色透明ではありません。金、銀、財宝でギラギラ輝いています。まるで世俗的な天国です。聖書の世界は意外なほどそういうところがあります。わたしたちの「常識」を再点検する必要がありそうです。

「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」の「地にも」の「も」は、ついでに、という意味ではありません。全く違います。御心が天で実現するのは当たり前のことなのですから、主の祈りの趣旨としては「地」のほうが「天」よりもはるかに大事です。主の祈りの「目標」は「地上」にあります。

第2の祈りの主旨も同じです。「御国が来ますように」。「御国」と「天国」は同じです。多くの人は「天国」はどうしても「行くところ」であると考えてしまいます。ゴー・トゥー・ヘブンと。しかし、イエスさまが弟子たちに教えた祈りは「天国」が「来ますように」(キングダム・カム)です。イエスさまが教えてくださった天国は「行く」(ゴー)ところではなく「来る」(カム)ところです。

これは「天国が地上へと近づいてくる」という思想です。空中に浮かぶ巨大な大陸のようなものが落ちてきて地上の世界をめちゃくちゃに破壊してしまうような情景を思い浮かべることができるかもしれません。

つまりそれは、地上の現実が天国さながらになることを求める祈りです。地上の現実の変革を求める祈りです。地上の現実には罪と悪に満ちている。この罪を取り除いてください。この地上を天国にしてくださいという祈りです。

第1の願いの趣旨も同じです。「御名が崇められますように」と祈ります。「主の御名を崇める」のは人です。第一の願いの主語は人です。「崇める」の原意は「大きくする」であると言われます。転じて、重んじること、尊重すること、礼拝することを意味します。

ですからそれは、地上の世界に神を礼拝する民がもっと多く引き起こされますようにという祈り、あるいは「教会」が多く生み出されますようにという祈りと矛盾しません。

第1から第3までの願いは、いわば理念です。主の祈りの思想の枠組みです。そのすべての視線は「地上」へと向いています。そしてその第1から第3までの願いにおける理念が、第4から第6までの願いにおいて具体的に展開されます。

第4の祈りは、毎日の食事の確保の問題です。子どもたちは毎日の食事が当たり前に出てくると思っているかもしれませんが、大人と親にとってそれは当たり前のことではありません。どうすればそれが可能になるかを大人たちは知っています。第四の祈りの趣旨は、ただ食事だけの問題ではなく、生活全体が整いますようにという祈りです。

第5の祈りは、対人関係における罪のとがの赦しの問題です。第6の祈りは、罪を犯すことへの誘惑からの救出の問題です。これらはすべて「地上の事柄」です。地上で解決されるべき問題です。

しかし、私がこの話をしますと必ず返ってくる反応があります。「がっかりしました」と言われます。「この嫌で嫌でたまらない世界を我慢して生きてきて、やっと天国に行けると思っていたら、天国も地上も大差ないと言われる。そんな天国なら私は行きたくありません」と実際に言われました。

高校生たちの反応は違いました。かなり面白がって聞いてくれました。「宗教じみていない」とか言ってくれました。「天国に逃げ込む」考えが私にないからです。すべての解決は死後の世界にある、という思想が私にはありません。

なぜ私が「天国と地上が大差ないこと」を強調して申し上げるかには理由があります。私は牧師として、教会の方々から個人的に伺ったお話を外部に漏らしたりはしません。しかし、もう20年以上前のことで、しかも私はこれまでいくつかの教会で牧師をしましたので、どこの教会の話であるかを特定できないと思いますので、実例をご紹介します。

熱心なキリスト者のご夫婦でいらした方のご主人が病気で亡くなられた直後に、ご夫人が重い精神の病にかかられ、希死念慮にとらわれました。その方が「早く天国に行きたい。早く死にたい。死ねば主人に会えるんでしょ。私も早く天国に行きたい」と私に何度も訴えられました。

そのときです、「天国と地上は大差ない」ということを全力で語る世俗的な牧師になってやろうと心に誓うものがあったのは。「この地上から罪が取り除かれたら、そこはもう天国なのだから、わたしたちは一刻も早く死にたいなどと言わないで、一刻も早く地上から罪が取り除かれるために神さまに全力で働いてもらえるように祈りましょう」ということを一生懸命に語り始めたのは。

早く天国に行きたいという願いを持つ方と、変身願望を持っておられる方は必ず私につまずきます。ごめんなさいと謝るしかありません。

しかし、よいではありませんか。「そこにはもはや罪がない」という以外の何も変わらない、そんなつまらない天国には行きたくないと思われるなら、生きていこうではありませんか。しつこく、粘り強く、しがみついてでも。「御心が地上で実現しますように」と祈り続けていこうではありませんか。

(2018年8月26日)

2018年8月19日日曜日

敵を愛しなさい


マタイによる福音書5章43~48節

関口 康

「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」

4月から続けて学んで来ました使徒パウロのローマの信徒への手紙の学びを先週から中断して、マタイによる福音書に基づくイエス・キリストご自身の御言葉に目を向けています。今日の箇所に記されているのは、イエスさまがおっしゃった言葉の中で最も有名な言葉です。

どの御言葉が最も有名で、他はそうでないという言い方は一概にできないことは分かっているつもりです。多くの人の心にとどまり、忘れることができない、まさに衝撃的な言葉として有名であると申し上げておきます。

それは、先ほど朗読していただきました箇所の中にある「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)という言葉です。この中でも特に有名なのは、前半の「敵を愛しなさい」という言葉です。

これがなぜ多くの人の心にとどまり、忘れることができない言葉であるかといえば、このようなことは、わたしたちには絶対にできないことだからです。

東京都三鷹市にある東京神学大学に私が入学したのは、今から34年前の1984年です。当時はご存命だった北森嘉造先生から学部1年の最初に受けた講義の中で、この「敵を愛しなさい」というイエスさまの御言葉について北森先生がおっしゃったことを、私は忘れることができません。

北森先生はこうおっしゃいました。「敵とは、絶対に愛することができない相手のことである。絶対に愛することができない相手のことを『愛しなさい』と言われているのは、だれにも絶対にできないことを『しなさい』と言われているのだ」と北森先生は説明されました。34年前の記憶ですので、完全に正確ではないかもしれませんが、間違ってはいないと思います。

北森先生のおっしゃるとおりであると私は受け容れてきました。北森先生がおっしゃったから正しいと受け容れてきたのではありません。イエスさまがおっしゃったのはわたしたちにできる範囲のことではないということを、北森先生の説明で気づかされ、納得したという意味です。

だれにも絶対にできないことを「しなさい」と言われるのは、たしかに無茶苦茶なことです。支離滅裂だと感じる方がおられるかもしれません。しかし、もしこれが、努力すればできる範囲内のことを「しなさい」と言われているのだとすれば、努力してできるようになった人と、努力しないからいつまでもできない人に分かれるでしょう。

そして、努力してできるようになった人は、努力しないからいつまでもできない人に優越感を抱き、見くだすようになるかもしれません。いつまでもできない人は、できるようになった人に劣等感を抱き、卑屈になるかもしれません。

しかし、もしこれが、だれにも絶対にできないことであるとすれば、だれひとり優越感を抱くことはできないし、だれひとり劣等感を抱く必要はありません。「あなたは、まだできないのか。早くできるようになりなさい」などと、だれひとり指導的な立場に立つことができません。それでいいのだと思います。

しかし、ここで絶対に(という言葉をあえて使います)間違えてはならないことがあります。それは、イエスさまがおっしゃった「敵を愛しなさい」という教えがだれにも絶対にできないことであるとしても、だからといって「しなくてもよい」ということにはならないということです。できないことはしないというのは、失敗して恥をかき、屈辱を感じるのが嫌だからです。初めからしない、手を出さない。それで守れるのは自分のプライドだけです。自分の優越感だけです。

牧師も教師です。学校の教員と全く同じではないかもしれませんが、教える立場にあるという点では同じです。自分にできないこと、自分ができていないことを人に教えるとどうなるかを、よく知っています。「まずあなた自身が手本を見せてください。あなた自身ができるようになってから言ってください」と必ず言われます。

そう言われたときに教師がとってはならない最も悪い態度は、自分はできているふりをすることです。できていないのに。うそをつくことです。それは詐欺です。二番目に悪い態度は、自分ができないことについては「これはしなくてもよいことだ」と教えはじめることです。もしかしたら、こちらのほうがもっと悪いかもしれません。

このあたりでそろそろ、イエスさまはなぜこのようなことをおっしゃったのかという点に話を移していきます。今日の箇所に目を落としていただきますと、イエスさまは「敵を愛しなさい」とおっしゃる前に「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」(43節)とおっしゃっていることが分かります。

しかし、いわゆる「引証付き」の聖書をお持ちの方はすぐにお分かりになるのは、イエスさまが引用しておられるのは旧約聖書のレビ記19章18節ですが、そこには「敵を憎め」という言葉は見当たらないということです。それどころか、レビ記19章18節に記されているのは「復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」という御言葉です。

「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」というのは、ご承知の通り、イエスさまが強調してお語りになった教えです。日本最古のプロテスタントのミッションスクールである明治学院(の高等学校)の校訓がこの教えです。英語でLove your neighbor as yourselfです。これは、旧約聖書の教えでもあり、イエス・キリストを通して新約聖書に受け継がれ、キリスト教会がとても大事にしてきた教えです。

しかし、ここでわたしたちが考えなければならないのは、「隣人とはだれのことか」という問題です。「隣人とはだれのことか」という問いかけを聴くだけで教会生活が長い方々は、ルカによる福音書10章25節以下に記されているイエスさまがおっしゃった「善きサマリア人のたとえ」をすぐに思い起こされるに違いありませんが、今日はそこまで話を広げないでおきます。しかし、内容は共通しています。そのことだけ申し上げておきます。

「隣人」とはだれのことでしょうか。旧約聖書のレビ記19章18節に、その定義はありません。しかし、「復讐してはならない」とは記されています。この復讐の問題が、理解の鍵になります。

復讐といえば、個人的な仇討ちから国と国との戦争までの範囲のことを考えなければならない問題ですが、旧約聖書の教えは両方を含んでいます。そして、古代社会の状況を考えれば、「隣人」の意味として、自分と同じ民族、自分と同じ国の人々すなわち同胞の範囲を超えた人々のことを指すことはまずありえないと考えられます。

つまり、少なくとも旧約聖書においては「隣人を愛しなさい」という教えは、守るべき家族、愛するべき同胞を愛することを指していたと思われます。

そしてその場合、だからといって、対立する敵国と戦争することによって復讐を果たしなさいというようなことを旧約聖書が教えたわけではないということも、先ほど指摘したレビ記19章18節を見ると分かります。

しかし、ここから先は難しい問題に立ち入ることになります。実際に復讐を果たすことをしてはならないと禁じられることと、それを果たすことをしなくとも心の中で感情的に相手に対して激しい怒りを覚え、憎しみを抱くことまで禁じられることとは別問題であるということです。

旧約時代に実際にどうであったかは私には分かりません。しかし、今日の箇所でイエスさまがおっしゃっていることの中に「隣人を愛し、敵を憎め」と言われていることから考えると、旧約時代において自分自身の同胞を愛することは、たとえ復讐を果たすことを実際にはしなくても、心の中で感情的に同胞以外の人々や敵国の人々を嫌い、憎しむこととがセットになっていたかもしれません。

急に話を飛躍させますが、野球でもサッカーでも、自分が心から愛するチームを持っている人の中に、そのチーム以外のチームを憎むことがセットになってしまう人がいます。人間の心理の中にそのような要素や現象があるように私には思えます。心理学を勉強なさった方は、その現象を学術的に何と呼ぶかをご存じかもしれません。

イエスさまが禁じておられるのは、それです。自分の愛すべき同胞、守るべき家族を愛することの裏側に姿を現わす、まさに自分の愛すべき同胞、守るべき家族の命を脅かす「敵」に対する「怒り」や「憎しみ」が禁じられています。

全くの素人考えですが、愛の感情と憎しみの感情は似ているところがあるような気がします。両方とも、強ければ強いほど心臓がドキドキします。血圧が上がります。興奮します。心臓にも脳にも負担がかかります。冗談のような言い方をしていますが、実際にはふらふらの状態です。重くなればまっすぐ立っていられません。身体も心も病んでしまいます。

「敵を愛すること」は北森先生が教えてくださったとおり、絶対に不可能なことかもしれません。「自分を迫害する者のために祈ること」も非常に難しいことであるのは間違いありません。

しかし、とにかく「祈ること」だけならば、かろうじてできるはずです。怒りと憎しみの感情が抑えられないほど湧いてきて、興奮して相手につかみかかり、大声で怒鳴りつけ、刃物を取り出して相手を切りつけたくなったとき、その衝動を抑えるために、自室に引きこもり、目を閉じ、腕を組み、神に祈る。そこまでならば、かろうじて、なんとかして、できるはずです。

そういうのは事なかれ主義の臆病者のすることかもしれません。「自分の家族や同胞の命を脅かす存在に対して激しい怒りと憎しみを抱き、勇敢に立ち向かうことこそ正義ではないか」という考えもあるでしょう。

しかし、とにかく落ち着く。冷静になる。「興奮しているこの私を、とにかく何とかしてください」と神に祈る。自分のために祈る。自分の助けを求める。「自分を迫害する者」のために祈るよりも前に。

乱暴なまとめ方かもしれませんが、今日の説教の結論は、とにかく落ち着け、ということです。興奮するな、ということです。冷静になれ、ということです。自分を落ち着かせるために自分のために祈れ。

そのことまでならば、なんとかなるでしょう。そこまでできたなら、これから私はどうすればよいかということが、興奮しているときよりも、はっきり分かるようになるでしょう。

(2018年8月19日)

2018年7月29日日曜日

感謝の生活

ローマの信徒への手紙6章15~23節

関口 康

「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。」

今日は7月最後の日曜日です。「私事で恐縮ですが」という言い方は当てはまらないかもしれませんが、私を担任教師にしていただいて4か月になります。1年の3分の1が経過しました。残り3分の2です。

4月の最初に私がお約束したのは「主日礼拝で1年間かけてローマの信徒への手紙を取り上げます」ということでした。しかしそれは、私がまだ皆さんのことを何も存じ上げない段階でのお約束でした。つまり、私から皆さんへの一方的なお約束でした。

しかし、「お約束」と申し上げていますが、「約束」というのは一方的なものであってはいけません。お互いに納得することが大切です。一方的に言うだけなら脅迫です。

なぜこのようなことを申し上げているか。お名前は伏せますし、今日ここにおられる方かどうかも伏せますが、ある方からご意見をいただきました。それは「たまにはイエスさまのお話を伺いたい」というご意見です。

それもそうだと思い直すところがありました。ここは猛然とアピールしますが、私は教会の皆さんからそういうご意見をいただくと、すぐ動きます。何のこだわりもありません。自分が立てた計画とか目標だとかいくら言っても、もしそれが一方的なものなら何の意味もないと思っています。ご意見をいただけたことに感謝しています。

来月から計画を変更いたします。具体的にどうするかは考えさせてください。1年間の説教予定表を自分で作りましたが、それを皆さんにお配りしているわけではありませんので、「どうぞご自由に」と思われるかもしれませんが。

こういうところも私の自己紹介の一面であると受けとめていただけますと助かります。私には何のこだわりもありません。そういう人間だと思っていただきたいです。

私がかつて働きを得た教会で、自分の立場や自分の考えで教会を変えてやろうなどと考えたことは一度もありません。それで叱られることが何度もあったほどです。あなたは優柔不断であるとか、自分のポリシーがないのかとか、さんざんです。

しかし、お叱りを受けるたびに私が思うのは、私よりもはるかに前から教会はあるということです。大げさではなく事実として2千年前から教会はあります。自分のやり方や考えで教会をどうにかしてやろうと考えること自体が傲慢の極みです。

強いて言えばそれが私のポリシーです。「自分のポリシーで教会をどうにかしてやろうという考えを一切持たない」というポリシーです。

だんだん何を言っているか分からない感じになってきましたので、このあたりでストップします。しかし、今日までは先週の週報で予告したとおりにさせていただきます。ローマの信徒への手紙の6章15節から23節までの箇所を、司会者の方に朗読していただきました。

この箇所にパウロが書いていることは何か。彼自身が書いているとおり「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明している」(19節)ところであると言えそうです。しかしそれはあくまでも当時の人々にとっての「分かりやすさ」ですので、今のわたしたちにとって分かりやすいかどうかは別問題であると言う他はありません。

この段落でパウロが言おうとしていることを私なりに要約してみます。パウロが最も言いたがっているのは、いわゆる信仰義認の教理についての疑問に答えることです。

わたしたちが義とされる(すなわち「救われる」)のは、自分の行いや業績、功績、功徳を積むことによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰によるというのが、いわゆる信仰義認の教理です。

そして、その場合の「信仰」が「働きなし」(4章5節)であるということをパウロが強調しています。要するにわたしたちは「何もしなくても救われる」のです。

その意味は、何か良いことをし、良い仕事をした人だけに報酬もしくは給料として「救い」が与えられるわけではないということです。「救い」とはそういうものではなく神の恵みなのだということです。乱暴な言い方をしてしまえば、神の恵みとしての「救い」は、何もしていない人にもばらまかれるものです。

しかしこのようなことを言いますと、おそらく多くの人が疑問を抱き始めます。もしパウロの言うとおりだとすれば、何もしないどころか、「積極的に悪いことをしようではないか」とか「どんどん罪を犯そうではないか」などと言い出す人が出てくるに違いないし、実際に出てくるではないかという疑問です。

もしそうだとすれば、真面目に生きること、正直に生きることがまるで愚かなことであるかのようになってしまいます。真面目な生き方は窮屈でつまらないものかもしれません。悪事を働き、罪を犯すほうが、よほど面白い生き方かもしれません。

しかし、各個人がそのような考えで行動しはじめると社会はどうなるでしょうか。神を信じることが犯罪の抑止力になるどころか、推進力になってしまうでしょう。宗教が道徳の土台になるどころか、破壊力になってしまうでしょう。まるで教会こそが犯罪の温床であるかのように。それで社会的信頼を得られるでしょうか。

そんなことになるわけがない、というのがパウロの結論です。その結論をめざしていろんなことを言っていますが、そのためにパウロが用いているたとえそのものが、わたしたちにとって納得できるものかどうかは別問題です。これで納得できるなら、それはそれで問題はありませんが、何を言いたいのかさっぱり分からないと思う方がおられるかもしれません。その気持ちも私には少し分かります。

パウロが用いているのは、奴隷のたとえです。わたしたちは罪の奴隷になるか、神の奴隷になるか、そのどちらかであると言っています。わたしたちが救われるとは、わたしたちを奴隷にしてきた罪のもとから解放されて、神の奴隷になることだというのです。

「救い」とは「罪から救い出される」ことです。わざわざ「罪から」と記されていなくても、「救い」という字を見るたびに「罪からの」という字をいちいち補って読むことが大切です。

しかし、わたしたちは「世の中から救い出される」のではありません。それは誤解です。てこの原理(支点、力点、作用点)で「世の中から」取り外されてしまうことが救いだというなら、救われた者はどこに行くのでしょうか。まるで救いとは世の外で生きることであるかのようになってしまいます。それは死ぬことを意味するでしょう。救いは「世の中で罪から救われること」でなければ意味がないでしょう。

そして「神の奴隷になる」とは、神の義の奴隷になることを意味しています。それは、わたしたちは正しい神に服従することによって正しい生活ができるようになる、ということです。そうである以上、信仰義認の教理が教会を犯罪の温床にすることになるなどありえないのだと、かなり噛み砕いていえば、要するにパウロはそういうことを言っています。

しかし、どうでしょうか。この説明でわたしたちが納得できるでしょうか。昔のことは分かりませんが、現代社会においては「どちらも嫌だ」と思う人のほうが多いのではないかと私には感じられます。「罪の奴隷」であるのも嫌なことだが、「神の奴隷」になるのはもっと嫌だ。そういう抑圧的なことを言い出すから宗教は苦手なのだと反発する人が圧倒的に多いのではないでしょうか。

よりによって、なぜ「奴隷」なのか。神の奴隷になることが救いであるなどと言われれば言われるほど絶望的な気持ちになる。神は我々を自由にしてくれるのではないのか。なぜ絶対服従を求めるのか。窮屈で仕方がない。

いま申し上げているのは、私がそうだと思っているという意味ではないです。宗教が嫌いだ、教会が嫌いだとおっしゃる方々の心の中にあるかもしれないことを想像しているだけです。外れているかもしれません。

しかし、私の考えを言わせていただけば、パウロの言い分を弁護したい気持ちです。パウロはなぜ「罪の奴隷」のほうだけでなく「神の奴隷」のほうまで言っているのでしょうか、真意が何であるかはパウロ本人に聞いてみるしかありません。ですからここから先は私の想像です。しかし、パウロが用いている奴隷のたとえは私には納得できるものです。

それは、わたしたちは「神の奴隷」にしてもらわなければならないほどまでに「罪」がわたしたちを支配し、拘束する力は強いということです。両方に二股をかけて、神にも罪にも自由に行き来しようとするのは甘いということです。「罪」という会社でどれだけこき使われても、もらえるボーナスは「死」しかないよと。

やや本筋から外れることを申しますが、この箇所にパウロが「悪の奴隷」ないし「悪魔(サタン)の奴隷」と書いていないのは、私にとっては興味深いことです。そのほうが話としては分かりやすいかもしれません。しかし、パウロはそのように書いていません。書いていないことが重要だと思います。

なぜそう思うかといえば、そもそも「悪魔(サタン)」とは何者かという根本的な謎があるからです。聖書に登場します。神でも人間でもない超自然的な存在であると長いあいだ、教会で信じられてきた存在です。そうではなく「悪魔」は人間であると理解するようになった人々もいると思います。あるいは、ただの比喩で、実際には存在しないと考える人もいると思います。

私はそのあたりはどちらでもいいと思っています。ここでも私の優柔不断ぶりをいかんなく発揮します。しかし、悪魔はわたしたちにとって信仰の対象ではありませんので「悪魔(サタン)の存在を信じる」必要はありません。

それよりも罪の問題のほうが重大です。罪の存在を信じるか信じないかなどと愚かな議論をする人はいないと思います。これほどまでに罪があふれている世界に生きているわたしたちの中に。

聖書が語る「罪」と一般的な「罪」の意味内容が異なることは私も分かっていますが、両者は無関係ではないし、完全に別のことを言っているのでもありません。わたしたちは、神にしっかりつかまえてもらわないかぎり罪の奴隷のままです。神だけがわたしたちを罪の強い拘束力から解放してくれます。

これがパウロなりの「分かりやすい説明」です。神への感謝の生活が、神のもとで始まります。

(2018年7月29日)

2018年7月22日日曜日

ツルになりたかった牧師

日本基督教団王子北教会(東京都北区豊島)

コリントの信徒への手紙一1章18~25節

関口 康

「そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。」

みなさま、おはようございます。関口康と申します。今日は王子北教会の「特別礼拝」の説教者としてお招きいただき、ありがとうございます。

ごめんなさい。今申し上げたのは、うそです。私は王子北教会から招かれていません。私のほうから沼田和也先生に頼み込んで「王子北教会で説教させてください」とお願いしました。「謝礼は要りません」ともお伝えしています。うそをついたことをお詫びします。うそつき牧師と呼んでください。申し訳ありません。

説教を申し出た理由は、沼田先生が悩んでおられることが分かったからです。インターネットを神と教会のために役立てたいという沼田先生の願いが、必ずしもその願いどおりになっていないことが分かったからです。行く手が阻まれているようだと感じたからです。

私も沼田先生と同じように、インターネットを神と教会のためになんとか役立てたいと願っています。しかし、私もうまくいきません。特別礼拝のために配布してくださいましたチラシに私の肩書として「インターネット歴20年」と書いていただきました。そう書いてくださいと、これも私がお願いしました。



長さ自慢をしたいのではありません。「なんとか歴何年」と名乗るとすぐさま競争が始まるのが世の常です。「私のほうがもっと長い」とか言い出されます。しかし、競うつもりはありません。そんなのはどうでもいいことです。私はただ事実を述べているだけです。

とはいえ、全く意味もなく書いたのでもありません。私は1965年11月生まれの現在52歳。高校からストレートで東京神学大学に入学し、大学院まで6年間を過ごし、日本キリスト教団の教師になったのが1990年です。それ以来、牧師の仕事しかしたことがありません。牧師歴28年目です。

しかしその間、まるで他のことは何もしていなかったかのようにインターネットとのかかわりの部分だけが突出していると、はたから見ると見えたかもしれないほど、力を注いできたことを否定しないでおきます。

その私もインターネットの活用に関しては全くうまく行っていません。行く手を阻まれていると感じています。しかし、だからと言って私はインターネットから退却するつもりはありません。その理由については後でも申し上げますが、最初に短く言えば、私が過去20年インターネットでしてきたのは、字を書くことだけだったということです。それ以上でもそれ以下でもありません。

それが悪いと、私にはどうしても思えないのです。やめたほうがいいだの言われなければならないようなことだとは。それで沼田先生とスクラムを組むことにしました。同盟を組んで難局を突破することにしました。

私は昔から万年筆が身についたためしのない人間です。手書きで何かを書くときはシャーペンかボールペンで書きます。しかし、私が東京神学大学の学部4年を卒業したのは1988年ですが、卒業論文はかなり無理して万年筆で書きました。学校指定の400字詰め原稿用紙に。その2年後の1990年に提出した修士論文はワープロで書きました。その切り替えが始まった頃でした。

修士論文の主査に大木英夫先生がなってくださいました。評価は「C」。ギリギリ及第。それでも大木先生は私の修士論文をほめてくださいました。「ワープロがきれいだ」と、そこだけほめてくださいました。冗談ではなく事実です。

その翌年の1990年、私は日本キリスト教団の補教師試験を受け、高知県南国市の日本キリスト教団南国教会とその伝道所である南国教会大津伝道所の両方で伝道師として働きを始めました。そして翌年1991年に結婚しました。

結婚前の1年間は、妻は大学4年生として東京にいました。私は高知。高知に行く前に婚約式をしましたが、高知と東京の距離はあまりに遠く、会うことができないどころか、電話すらままならない状態でした。

当時の教会の雰囲気を覚えている方がおられるはずです。携帯電話が普及していなかったころ、教会の公用電話とは別に私用の電話回線を持っている牧師はほとんどいませんでした。牧師が教会の電話を使うのは当たり前でした。

しかし高知から東京に電話すると、月に5万円を超える請求書が届く。自分で使った分は自分で払えば済むことですが、なぜこんなに使ったかと言われたりするので、最愛の婚約者に電話することもできない状態でした。

いまお話ししているのはインターネット普及前夜の物語です。そして、私がなぜインターネットを使いはじめたのか、その理由の時代的背景を申し上げています。第一の理由は、最愛の婚約者に電話することに支障をきたす経験をしたからです。東京と地方の連絡にかかる経費負担をどうすれば軽くできるのか。

しかし、それだけではありません。似ていることの別の側面の問題がありました。高知にいたころに痛感したことが、東京と地方のあまりにも大きすぎる情報格差でした。当時流行していたテレビドラマに「東京ラブストーリー」などありましたが、高知の民放は2局(当時)、NHK2局でしたので、曜日も時間もかなり遅れているのを観たりして、話題についていけなかったりして。その情報格差の問題をなんとかして解決したかった。それが私がインターネットを利用することにした第二の理由です。

そのような経緯を経て、私はまず「パソコン通信」を1996年に始めました。福岡県北九州市の教会にいたころです。そして、正確な意味の「インターネット」を始めたのが1998年です。その年、山梨県の教会の牧師になりました。そこで新たな動機が加わりました。

その山梨県の教会は、日本キリスト教団の教会ではありませんでした。私は日本キリスト教団立の東京神学大学を卒業し、日本キリスト教団の教師になり、日本キリスト教団の教会の牧師になりましたが、1997年から2015年までの19年間は、日本キリスト改革派教会の教師でした。しかし、その私が日本キリスト教団に戻ってきてしまいました。なぜ出て行ったのか、なぜ戻ってきたのかについては、話すと長くなりますので、今は割愛します。

そのことよりも、今はっきり申し上げたいのは、1997年に日本キリスト教団を離脱したとき、日本キリスト教団に対する敵意はなかったということです。恨みも憎しみも敵意もありませんでした。しかし、そのことを伝える手段がありませんでした、インターネット以外には。

私の思いをどうすれば日本キリスト教団のせめて元同僚に伝えることができるかで悶々としていたころ、暑中見舞いだったか年賀状だったかを忘れましたが、東京神学大学の同級生(年齢は5つほど私よりも上です)の清弘剛生牧師が送ってくださり、その中に一言「お元気ですか?」と手書きで書いてくれていました。それを見て「そうだ、清弘先生にメールを書こう。私は日本キリスト教団を離脱したが、教団への敵意がないことをメールで伝えよう」と思いました。

清弘先生は天才級の理系の方で、当時からインターネットを駆使しておられました。1990年代に「ウェブチャペルウィークリー」なるウェブサイトを立ち上げ、毎週の説教を公開し、メールマガジンで数百人の読者に配信しておられました。清弘先生がインターネットの私の師匠です。

その後、清弘先生と私とで1999年2月にオランダのプロテスタント神学者ファン・ルーラーの翻訳と研究をする「ファン・ルーラー研究会」なるメーリングリストを立ち上げました。1年後には100人を超え、その後もメンバーが増え続けました。そのせいで、関口康といえばインターネットで悪さをしている人間だと批判的な目を向ける人が増えました。

しかし、私はインターネットで何をしてきたかといえば、ただ字を書いてきただけです。それ以外の何もしていません。そして、強いて言えば、それ以前よりも広い範囲の人々と情報共有ができるようになったので、それを実行に移しただけです。それ以上でもそれ以下でもありません。

しかし、いまだにインターネット害悪論が教会の中に聞こえるのは、どういうわけでしょうか。インターネットには明るく健全な情報だけでなく、暗くて不健全な情報もあるからでしょうか。そういうのと教会の「聖なる」情報が一緒くたにされるのは困るというような理由でしょうか。

その感覚は私も全く理解できないと思っているわけではありません。インターネットの情報が「玉石混交」であるのは当たり前です。しかし、それを言うなら大げさなハードカバーのついた本だって同じです。そこにあるのは、ただの字です。たとえ仮にインターネットが「悪い字」で満ち満ちているとしても、そうだと思う人が「良い字」をインターネットに増やしていけば済むことです。事は意外に単純です。

今日開いていただいた聖書の箇所に「宣教」は「愚かな手段」であるとパウロが書いています。この場合の「宣教」の意味は、言葉で伝えること、広めること、事実を事実として告知すること、情報共有の範囲を広げることです。なぜそれが「愚か」なのか。思い当たる理由は、事実を事実として告知すること自体には取り立てて意味も価値もないことです。

私はよく、ツイッターやフェイスブックで「今日の自作料理」の写真を撮って公開しています。「だから何?」と言われるようなことを。第三者にとってはどうでもいいことを。

同じ次元で言うと叱られそうですが、福音書が描くイエス・キリストの十字架刑も、「イエスは十字架につけられた」と、事実を事実として淡々と告知するだけのところがあります。今の小説家ならきっと細かい心理描写や情景描写をしそうなところで、うるさい解釈抜きで事実だけを記述しています。

読者の側に「だから何?」という反応が起こるのは当然です。しかし、だからこそ、解釈は読者に任されます。そのほうがかえって想像力が刺激されます。「何の意味があるのだろう」と考え続ける人を生みます。

もう一度言います。高級な万年筆で書こうと、達筆の人が毛筆で書こうと、安いシャーペンやボールペンで書こうと、美しいワープロの字で書こうと、字は字です。本質的には何の違いもありません。大げさな装丁の本として出版しようと、ブログに書こうとツイッターに書こうと、字であることに変わりありません。

「字をバカにするな」とも言わせていただきます。それは言葉です。言葉は現実に人を救う力を持つことができます。言葉で激しく傷つけられることもあるし、あったでしょう。しかしまた、言葉でこそわたしたちは慰められ、癒されます。

「字に書いた言葉を広めること」が、究極的な意味での教会の使命であるなら、教会とその牧師がインターネットを利用することに躊躇する理由は、全くありません。

(2018年7月22日、日本キリスト教団王子北教会特別礼拝)

2018年7月15日日曜日

生命がみなぎる

ローマの信徒への手紙6章1~14節

関口 康

「もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」

今日の聖書の箇所の内容に入る前にお話ししておきたいことが二つあります。どちらも先週の役員会で話し合われたことです。私は役員会の議長でも書記でもありませんので、その立場からの報告ではありません。私との個人的なかかわりがあることだけを私個人の立場からお伝えしたいだけです。

第一は、教会の応接室のテレビを、牧師館でお借りすることになりました。これは感謝でもあり、お詫びでもあります。先週の説教の冒頭で「うちにテレビがない」とお話ししたのがきっかけです。「私にテレビをください」という意味で申し上げたつもりは全くありません。国内を揺るがす大きな事件や災害を知らない牧師の状態を懸念していただきました。ちゃんとテレビを観てくださいという話になりました。ありがとうございます。

第二は、今日の週報の表紙をご覧いただくとお分かりになりますが、「協力牧師」としてS先生のお名前を記載しないことになりました。事の詳細を申し上げる立場に私は全くありません。それはS先生ご自身がお話しになることです。

「くれぐれも誤解がないように」とS先生がおっしゃったのは、この教会への協力をやめるという意味ではないということです。週報に「協力牧師」として名前を載せるのをやめるだけです。この点はぜひご理解いただきたく、と言う立場に私はありませんので「ご安心いただきたく」と言うべきですが、よろしくお願いいたします。

この機会にS先生に対して私の個人的な感謝を述べさせていただきます。ご承知のとおり私をこの教会にご紹介くださったのはS先生です。しかし、S先生と私が最初にお会いしたのは昨年の11月14日です。わずか7か月前です。それまで全く面識がありませんでした。文字通り見ず知らずの私に関心をお寄せいただき、この教会の皆さまにご紹介くださったS先生に、私は感謝しかありません。ありがとうございました。

S先生に私を紹介してくださった方がおられます。それはM先生です。M先生は私の東京神学大学の先輩です。寮生活を共にしました。と言いましても、M先生が東京神学大学大学院を卒業なさって以来、一度もお会いしていませんでしたので、M先生と私も31年ぶりの再会でした。そのつながりの中で私がこの教会にたどり着きました。ありがとうございます。

そろそろ今日の聖書の箇所に向き合いたいと思います。しつこいほど申し上げてきたことを最初に再び繰り返します。今させていただいているのは「ローマの信徒への手紙を読みながらわたしたちが共有すべきキリスト教信仰の内容を確認すること」です。

この点を強調する私の意図は、わたしたちはパウロの考え方に悪い意味で縛られる必要はないということです。それは特に考え方の順序や角度の問題であると申し上げておきます。わたしたちはいろんな考え方ができます。古代人であるパウロと現代人であるわたしたちの考え方に差があることは明白です。わたしたちはパウロが考えた順序や角度どおりに必ずしも考えなくて構いません。

ローマの信徒への手紙でパウロが最初に強調していたのは、すべての人間は生まれながらに罪人であるということでした。それが出発点でした。しかし、その出発点だけでなく、人間が本質的に善であることを出発点にして考えることもできることをお話ししたつもりです。

そして、罪人であるわたしたち人間が真の救い主イエス・キリストを信じる信仰によって救われるという話が次に来ました。そのように言う場合の「信仰」が「働きなしの信仰」であることに触れました。「私が信じる」というわたしたちの行為がわたしたちを救うという意味ではないということが明らかにされました。

もしそうだとすれば、熱心に信じる人は救われるが、熱心でない信仰の持ち主は救われないというような話になってしまうでしょう。あるいは、もしそうだとすれば、自分が救われるかどうかの鍵は自分自身の手の中にしっかり握られていることになるでしょう。

「救い」に関してすべての主導権を自分自身が握っていると思い込むのは危険です。天国に行くのも地獄に行くのもすべては自分次第であるというなら、果たしてわたしたちが本当に救われていると言えるかどうかが分かりません。究極的なエゴイズムを意味するからです。

そういうことをパウロはよく分かっています。だからこそパウロは「働きなしの信仰」という点を強調しています。信仰という自分の行為によって自分が救われるというのであれば、自己救済です。それは間違った考えです。その間違いを退けるためにこそ、信仰が神の恵みであり、神からの贈り物であることをパウロが述べています。

しかしここで申し上げておきたいのは、わたしたちは、パウロが言っているからそれは真実であると問答無用で受け容れなければならないわけではないということです。

いや違う、ローマの信徒への手紙であれ、他の手紙であれ、パウロが書いた手紙という次元はもはや超えている。聖書の御言葉になっている。聖書は「神の霊感によって書かれた」言葉である。そうである以上、問答無用で絶対的に受け容れなければならないとする考え方の人がいないわけではありません。しかし、わたしたちは必ずしもそういうふうに考える必要はないと私は申し上げたいのです。

聖書は「神の霊感によって書かれた」と言いますが、日本のイタコ、世界のシャーマニズムとして知られる意味での「憑依」がパウロを含む聖書の著者たちに起こったかのように信じる必要はありません。自分の意志も感情も人格も主体性も失って神に「書かされた」のが聖書であるという考え方をわたしたちが採る必要はないし、非常に危険です。「書かされた」とか言い出すのは、人間の無責任に通じます。

今申し上げているのは聖書のことですが、同じことがそのまま信仰にも当てはまります。どの点が最も当てはまるかといえば、信仰もまた自分の意志や感情や人格や主体性を失う意味の「憑依」ではないということです。

神の恵みは人間の中身を排除しません。信仰は神から与えられるものです。その意味で神の恵みとしての信仰によってわたしたちは救われます。しかし、それは「働きなしの信仰」として、それ自体には功績的な意味など全くありえないものです。そうであることと、信仰が与えられた人間の中から意志や感情や人格や主体性が失われることはないということは矛盾しません。

もっと単純で分かりやすい言葉で今申し上げていることを説明したいと願っていますが、思うように行きません。この点は非常に重要なので正確に理解する必要があります。

ある程度理解しやすいかもしれないのはオウム真理教のことです。教祖に帰依することは自分の主体性や人格さえ放棄することを意味していました。外部からコントロールを受けやすい無防備な状態になりました。わたしたちはそうであってはいけないと言いたいのです。

今日開いていただいている箇所にパウロが書いているのは、新共同訳聖書が付けている小見出しに従えば「罪に死に、キリストに生きること」です。この小見出しは正しいし、安心できるものです。

書かれている内容は、わたしたちが洗礼を受ける意義は何かです。印象的な言葉は「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを」(5節)です。またその言い換えとしての「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます」(8節)です。

「洗礼を受ける」とは、客観的な宗教学的な見方から言えば、教会の入会式です。教会の交わりに参加し、仲間になることを指します。それ以上でもそれ以下でもありません。そのことと現実の教会活動に直接的に参加できるかどうかという問題は別の次元のことになります。しかし、教会との関係を前提しない洗礼はありえません。教会の存在を度外視し、無関係であるような洗礼は無意味です。

その洗礼についてパウロが語る中で彼が強調していることは一つではなく二つです。一つではないと申し上げる意味は、洗礼の意味は「死ぬこと」だけではないということです。もう一方の「生きること」も、洗礼の重要な意味です。キリストと共に十字架につけられ、キリストと共に葬られることが重要でないわけではありませんが、もう一つの側面として、キリストと共に生き、キリストと共に復活することも重要です。

乱暴な言い方かもしれませんが、死ぬことばかり考えないほうがよいということです。生きることを考えてよいということです。キリストと共に生き、キリストと共に復活することこそが洗礼の意味であり、目標です。

死ぬ死ぬと、そればかりが強調されますと、洗礼のイメージはひたすら暗いものになります。まるで自分の意志を押し殺すことが信仰であるかのようです。まるで人間であるのをやめることが救いであるかのようです。

そのようなことをパウロは言っていません。わたしたちが洗礼によって死ぬとは「罪に死ぬこと」です。罪は、それを犯された被害者の生命だけでなく、犯した加害者の生命を脅かします。罪悪感、隠ぺい、逃亡生活、実際の刑罰など、罪は加害者にもダメージを与えます。その罪の中から救われ、罪との関係において死ぬことによって生命がマイナスからゼロへ、ゼロからプラスへと転じます。

そのことと、洗礼を受けて教会の仲間に加わることがどういう関係にあるのか、教会生活によってわたしたちの生命がみなぎり、元気になるというのはどういう仕組みなのかということを説明しなければならないと考えましたが、やめます。そのことをお話しする時間が残っていないのでやめるのではなく、私の態度決定としてやめます。

それより「この私を見てください」と言えるようでありたいと思いました。「私を見てください。いつも元気でしょ。生命がみなぎっているでしょ。それは洗礼を受けて教会の仲間になっているからですよ」と。

「この私」は、私だけでなく、すべてのキリスト者のことでもあります。そのことをいくら巧みな言葉で説明できたとしても、実際の教会生活が重苦しいもので、暗い顔でよろよろしているようでは説得力がありませんし、何の意味もありません。

(2018年7月15日)

2018年7月8日日曜日

恵みが溢れる

ローマの信徒への手紙5章12~21節

関口 康

「こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

今日の私は、いろんな意味で気後れしています。皆さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいです。原因は「うちにテレビがないこと」だと、テレビのせいにしておきます。

なぜでしょうか、先週集中的に日本国内で起こった、いくつかの大きな出来事をほとんど知らずにいます。サッカーのことも、西日本豪雨被害のことも、オウム真理教のことも、いろいろあったようだと、なんとなく知っていますが、詳しいことは全く知りません。

先週木曜日、教会の方から「教会にちゃんと映るテレビがありますよ」と初めて教えていただいたのですが、結局観ることができませんでした。テレビを観る習慣がないわけではありません。むしろ好きなほうですが、まだ状況が整いません。

「そんなことも知らないのか」と言われても仕方がない状態です。情報の最先端を走っておられる皆さんから大きく遅れをとった状態で、著しい情報格差を感じつつ、今ここに立たせていただいていることをお許しいただきたく願っております。

聖書についてはどうなのかということも申し上げておく必要がありそうです。聖書は毎日読んでいます。今日の箇所も、穴が開くほど読みました。しかし、今日の箇所はとても難しいです。何が難しいのかというと、ここに書かれていることをわたしたちの現実に結びつけて理解できる言葉にするのが難しいです。

これも「うちにテレビがない」という話に戻っていくところがあります。今のわたしたちが置かれている現実をよく知ることなしに、今のわたしたちに理解できる言葉で語ることは難しい。そのことを痛感する一週間でした。

しかし、開き直るつもりはありませんが、言いたいこともあります。テレビで報道されていることはあくまでもひとつの見方にすぎないということは、ご承知の通りです。テレビこそ嘘をつくということもありえます。テレビが全く言わないことも当然あります。

ひとつだけご紹介します。オウム真理教で教団ナンバーツーと言われた人は、私の中学と高校の先輩です。彼のほうが3学年上なので面識はありませんが、彼がどのような学校教育を受けてあのような宗教に走ったかの背景が私なりに分かります。中学でも高校でも成績優秀で、医者になりました。

一方、死刑を執行した法務大臣のもとで現在働いている法務省ナンバースリーの法務大臣政務官は、これまた私の中学の同級生です。高校は違いますが、私の高校のライバル校の卒業生です。私は彼を覚えているし、彼も私を覚えてくれています。東大卒業、米国留学、検察庁検事になり、東京地検特捜部や在米日本大使館で働いた後、政治家になり衆議院議員になりました。

私は彼が次の法務大臣ではないかと思っているほどですが、学校教育という観点だけからいえば、オウム真理教ナンバーツーも法務省ナンバースリーも出発点は同じだということです。そして私も同じです。私は中学でも高校でも成績不良者のナンバーワンでしたが。

オウム真理教の問題は、これまでさまざまな角度から論じられてきましたし、今なお謎の要素が多いですが、今の学校教育のあり方が関係しているのではないかという話を聞くと、腹が立つことはありませんが、何とも言えない気持ちになります。

余談が過ぎました。今日開いていただきました、私にとっては「難しい」と感じる聖書の箇所と向き合いたいと思います。

この箇所に何が書かれているかを一言でいえば、聖書に最初の人間として登場するアダムと、イエス・キリストが比較されているということです。そのこと自体、今のわたしたちにとって訳が分からないことだと言っても過言でないと思います。「最初の人間がアダムであると聖書に書いてあるかもしれないが、学校の教科書にそんなことは書いていない。科学的根拠がない」と言われれば、そのとおりです。

あるいは、全く異なる観点から、「教会の信仰において、イエス・キリストは神である。神であるイエス・キリストと人間であるアダムとを比較すること自体が間違っている」という見方もできるかもしれません。どんどん謎の深みにはまっていく箇所のひとつだと、私には思えてなりません。

しかし、パウロが言おうとしていることは、私が今申し上げたような、アダムが歴史的に実在したかどうかとか、イエス・キリストが神であるかどうかというような次元の話から完全に切り離すことはできないとしても、いくらか区別することが可能かもしれません。どう言えばいいのか、それが難しくて分からないのですが。

今日の箇所に記されていることの中でパウロが言おうとしていることが最も分かるのは、18節です。「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」。

お分かりでしょうか。こういう話だと思います。「一人の罪によって」の「一人」はアダムです。「一人の正しい行為によって」の「一人」はイエス・キリストです。そのアダムとそのキリストをパウロが比較しています。なぜ比較するのかというと、両者に共通点があることを浮き彫りにしたいからです。

具体的な話をしはじめると、いろいろ語弊が生じる気がしますので、なるべく避けたいですが、だれかと自分を比較するとか、自分以外のだれかとだれかを比較することは、わたしたちが日常的に行っていることだと思います。この人とあの人の共通点は、とりあえず人間であることだというあたりから始まって、あといろいろ。

やはりすぐ語弊が出てきそうなので具体的な話はやめておきます。「あの人は背が高い」と言うだけで問題になることがありえますので。ある人と他の人を比較するというのは、実際にそれをしない人はいないと思うくらいですが、たいてい嫌な話になります。楽しい話になることは、まずありません。最初に私の中学の先輩と同級生の比較のような話をしましたが、楽しい話ではなく嫌な話です。

私がこの教会で最初に説教をさせていただいたときに申し上げたことですが、「学校の教員ほど嫌な仕事はない。なぜなら、生徒の答案に点数をつけなければならないからだ」と申しました。「生徒に点数をつけること」は不可能ですが、「生徒の答案に点数をつけること」は可能ですし、それをするのが学校教員の仕事です。

評価することと比較することは切り離すことができません。学校だけでなく、どこに行っても比較と評価は必ずつきまといます。その点でパウロがしているアダムとキリストの比較も同じです。楽しい比較ではなく嫌な比較です。

アダムは最初の人間だったのに、彼が罪を犯したので、アダムから生まれた全人類がアダムの罪を受け継いでいるとパウロは考えています。アダムの罪を全人類が受け継ぐとはどういう意味なのか。いわゆるDNAだのという生物学的な遺伝子レベルの話なのか、というようなことを問題にしはじめると、ただ混乱するだけです。わたしたちは現代人ですので、どうしてもそういう次元のことを考えざるをえないわけですが、パウロはそういう話をしているわけではないと思っていただくほうがいいです。

それならばどういう話なのかといいますと、パウロが注目しているのは数字の問題です。アダムは最初の人間だったということは、アダムはひとりだったということです。つまりアダムの数字は1(いち)です。その1(いち)であるアダムからすべての人に罪が及んだ。「すべて」の数字は何でしょうか。満点を100点にするとすれば、100(ひゃく)を「すべて」と仮に決めることができるかもしれません。

そのアダムとキリストは同じだとパウロは言おうとしています。どこが同じなのかというと、キリストもひとりだったという点です。ひとりのアダムの罪によって始まった全人類の罪からの救いという神の恵みのみわざが、ひとりのキリストから始まったということです。

アダムの罪がアダムひとりから人類全体に広がったように、神の恵みもひとりのキリストから人類全体に広がっていくのです。1から出発して100に到達するという点で、アダムとキリストは数字的に一致しているというわけです。図式的で、ある意味で抽象的でもある話です。

しかし、それだけではありません。「恵みの賜物は罪とは比較になりません」(15節)とパウロが記しています。比較しながら「比較になりません」と面白いことを言っています。どこが比較にならないかというと、「罪が溢れる」ことがあるかどうかは分かりませんが、神の恵みはあまりにも豊かすぎて溢れるものだ、こぼれおちるほどだというわけです。机の上からばしゃばしゃと。そこに両者の違いがあるとパウロは考えています。

数字でいえば、アダムの罪は1からスタートして100に到達したが、キリストの恵みは100以上であるということです。学校の先生が時々上機嫌で、よく書けている生徒の答案に「はなまる」を付けたりするのと似ているかもしれません。

こんなふうに考えていくと、パウロが書いているのはずいぶん楽しい話のように思えてきます。不謹慎な言い方は慎むべきですが、「神の恵みはすごいんだぞ」と言いたいだけかもしれません。

教会のことを考えさせられます。教会も最初はひとりから始まります。イエス・キリストが最初。最初の弟子はペトロ。現在は世界70億人の3分の1がキリストの弟子です。

開拓伝道の教会も、最初はひとりです。次第に人が増え、長い時間をかけて成長していきます。あるいは、家庭や職場や社会の中で、最初のキリスト者はひとりです。

ひとりであることは孤独であることを意味します。寂しさが伴います。しかし、そのときこそ今日の御言葉を思い起こしましょう。

「孤独に負けてはいけない。キリストもひとり。ひとりのキリストから、救いの恵みが全人類に及び、その恵みは豊かに溢れているのだから」とパウロが励ましてくれています。

(2018年7月8日)

2018年6月24日日曜日

希望が与えられる

ローマの信徒への手紙5章1~11節

関口 康

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

今日はできるだけ聖書に張り付いたお話をします。今朝開いていただきましたのは、ローマの信徒への手紙の5章の冒頭です。他にも例がありますが「このように」という接続詞と共にパウロがこれまで書いてきたことをひとまとめにしたうえで、結論的なことを述べている箇所です。

「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りとします。」

「本当にそうだろうか」と疑問符を付けて、これを書いているパウロに対しても、これを読んでいる自分自身に対しても厳しく問いかけながら読むことが許されているし、そういう読み方でないかぎり意味がないとさえ私は思います。

「わたしたちは信仰によって義とされた」と書かれています。「義とされた」は救われたという意味で理解してもよいと繰り返し申し上げてきました。「わたしたちは信仰によって救われた」。過去形で書かれていますが、救いは過去に一度限り起こった出来事ではなく、それが始まった過去から現在まで継続し、未来へと続く出来事です。その意図をくめば「わたしたちは信仰によって救われている」。

本当にそうだろうか。信仰など持たなければよかったと強く後悔し、今すぐにでもこれを捨てたいと願ったことがかつてなかっただろうか、実は今まさにそういう思いにとらわれていないだろうか。信仰こそ我が身を導く杖だなんて冗談でない。信仰こそ私を躓かせてきたのではないだろうか。人生を破壊し、人間関係を失う原因だったのではないだろうか。この私が「信仰によって救われている」と本当に言えるだろうか。このようにわたしたちは自らに厳しく問いかけてみるべきです。

「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」。これこそ冗談ではない。いいかげんにしてくれと、大きな声でわめきたくなる。何が「神との平和」だ。なぜこのようなことをパウロはさらさら書けるのだろうか。私がこれだけ神と教会のために尽くしても、まるで神は無視だ。いっそ無視してくれるほうがましだ。まるで神が私を標的にして攻撃しているのではないかと感じる。平和どころか戦争だ。神に憎まれ、呪われているとしか感じない。その証拠に私の人生は破滅の一途。

「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています」。いや逆でしょうと言いたくなる。「キリストのお陰で人生めちゃくちゃだ。夢も希望も誇りもずたずただ」と言うほうが、よほど現実味がある。

いま申し上げていることが私自身の心の叫びであるかどうかは、ご想像にお任せします。そうだと思っていただくのも自由、違うと思っていただくのも自由です。そのことよりはるかに大切なことは、現実問題としてわたしたちが知らずにいるわけには行かないし、実際に知っている事柄である、多くの人々がいったん教会の門を叩き、決して短くない教会生活をしたうえで教会と信仰に背を向けて離れているという現実です。

教会に踏みとどまった人々だけが信仰の強い人で、そうでない人はそうでないと、単純に片づけることはできません。教会自身が人をつまずかせる原因になることが十分ありうるし、実際にあることは無視できないし、それはわたしたち自身の心の痛みとして覚え続けるべきことでもあります。

そのひとりひとりの心の奥底まで分け入って踏み込み、躓きの理由は何かを尋ねることは限りなく不可能に近いし、それこそ神とその方ご本人の一対一の関係の中でのみ知られうる事柄です。だれも触れるべきではない。しかし、そこで実際に起こっているのは激しい葛藤であり、神との格闘であるということは、ここにいるわたしたちは大なり小なり体験的に知っていることです。

その意味でならば、私ももちろん知っています。牧師をしながら毎日神さまと大喧嘩です。「全く冗談じゃありませんよ、もう勘弁してくださいよ」と。

私の話になっていくのは、これ以上は自主規制します。それよりも大事な問いがあります。それは、パウロが書いているのは、きれいごとなのかという問いです。彼は悩みもなく生きていたでしょうか。信仰によってあらゆる問題がすっきり見事に解決したと言えるような人生を送っていたでしょうか。だからこういうことを臆面もなく書けたのでしょうか。いろいろ調べてみると、全くそうでない事実が見えてきます。パウロの生涯の詳細について今ここで、いちいち述べることはしませんが。

しかし、もしそうであるなら、ますます疑問がわいてくる。パウロはいったい何者なのか。「わたしたちは信仰によって救われている」とか「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」とか、まるで何事もなかったかのように、しゃあしゃあと書くことができる。

なるほどそうか、この人は宗教をなりわいにしている宗教商売人なので、自分の商売道具について悪く書くことができないと思っているのではないか。自分がどれほど苦労しようとおくびにも出さず、厚かましいきれいごとを平気で書けるのではないか。こういう人の口馬に乗せられるととんでもないことになる、くわばら、くわばら。

私はいま余計なことを言っているようでもありますが、この程度のことは高校生くらいにもなれば躊躇なく書いてくる、だれでも考えることですので、あえて口に出しています。そして、これらひとつひとつの問いは、冷笑されたり無視されたりしてはならないと私は考えます。紙一重の面がないとは言い切れません。パウロもひとりの人間である以上、彼だけを特別扱いすることもできません。

しかし、ここから少しずつですが、彼をかばうような言い方になっていくことをお許しください。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします」(3節)とパウロが書いていることに、私は彼の本音を見出します。それこそきれいごとだなどと私は思いません。

「そればかりでなく」と書かれると、本筋から少し外れたことが付け加えられているような言い方に見えますが、実際にはパウロはこのことこそ言いたかったのではないかと私には思えます。「苦難をも誇りとする」。私はこの箇所を読むたびに「苦しいですけどね、それも神の恵みですから堪えますよ」と、笑っているのか泣いているのか分からないようなパウロの顔が思い浮かぶような気がします。

そしてこの続きに、この手紙の中でも最も有名な言葉のひとつが登場します。「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。

この言葉の意味を考える前に申し上げておきたいことがあります。これは信仰の問題を言っているのであり、神との関係について言っているのであって、それ以外のいろんなことに当てはめて一般論にしてしまわないほうがよい、ということです。

これを一般論にしてしまいますと、だれでもよく分かる話になる面と、一般的には全く理解できない話になる面とが出てくると思います。

だれでもよく分かる話になるのは、スポーツのたとえです。厳しいトレーニングをがんばって受けて体と心を鍛えれば、強くなり、いつの日かトップレベルのアスリートになることができる、かもしれないという希望が与えられる、かもしれない。そもそも最初の厳しいトレーニングを受けなければ、目標としてのトップアスリートの実現もありえない。だからがんばれがんばれ。

たとえばこういう話と、パウロが書いていることは、よく似ているといえばよく似ているかもしれません。あるいは受験勉強のたとえでも同じようなことが言えます。分かりやすいといえば、これほど分かりやすい話は他にないと思えるほどです。

しかし、よく考えるとこれはおかしいです。わたしたちが救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰によるのであって、行いによるのではない。それは分かった。しかし、信仰もまたひとつの行為である。そうだとすれば、「わたしたちは自分自身の信仰という行為によって救われる」と考えなければならないのかというと、決してそうではなく、パウロははっきり「働きによらない信仰による救い」を述べています。そのことはすでに学びました。

もしそうだとすれば、わたしたちが信仰生活のために何かトレーニングをしなければならないことがあるのでしょうか。その訓練を受けて「強くなる」必要があるのは、わたしたちのどの部分でしょうか。そして、それによってわたしたちは本当に「強くなる」のでしょうか。かえって傲慢さや頑なさが強くなるだけではないでしょうか。「私は強い信仰の持ち主になった。私と比べてあの人たちの信仰はけしからん」と。それは強くなったと言えることでしょうか。

パウロは繰り返し「イエス・キリストによって」と書いています。「神との平和を得ること」(1節)も「神の怒りから救われること」(9節)も、パウロにとっては、イエス・キリストによることです。それは具体的にどういう意味かを考えるときに重要なのは、イエス・キリストの十字架上の死による贖いによることが6節以降に記されています。

わたしたちにとって大事なことは、イエス・キリストの十字架上の死による贖いと、わたしたちが苦難を忍耐して得られる練達によって生まれる希望との関係は何か、ということです。それは要するにスポーツにおけるトレーニングと同じような意味で強くなることが目的なのか、ということです。

そうではないと、私は言いたいのです。イエス・キリストは十字架上で、世にも稀なる強い人の姿を現されたでしょうか。十字架の釘の痛みの極みの中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と祈ることができた強い信仰の持ち主としての姿を。

たしかにそのようにもおっしゃいましたが、それだけではありません。最期の最期に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びをあげる完全に無力な人としてのお姿も描かれています。

わたしたちの「希望」は、トレーニングによってつかみとるものではありません。それは「神の恵み」として与えられるものです。しかもそれは十字架上のイエス・キリストの無力な姿に似た者にされるという希望です。

私はなるべく使いたくない言葉ですが、キリスト教の救いが「逆説」の性格を持っていることは明らかです。それを「負け惜しみ」と言わないでください。勝ってもいませんが、負けてもいません。まだ終わっていませんので。

(2018年6月24日)

2018年6月20日水曜日

どうすれば親孝行できるか(桜美林大学)

桜美林大学(東京都町田市)
桜美林大学(東京都町田市)

ルカによる福音書16章27~31節

関口 康

「金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

桜美林大学の皆さま、こんにちは。関口康と申します。よろしくお願いいたします。

今日の礼拝が「地域連携特別週間」のそれであるということを、たったいま知りました。今の教会には4月に転任したばかりですので、教会についてお話しする資格はありません。そういう準備は全くしていませんので、別の話をさせていただきます。

最初に私の自己紹介をさせていただきます。しかし、詳しいことを申し上げる時間はありませんので、ちょっとだけ。

私は一昨日月曜日に、東京都杉並区の東京女子大学のチャペルで説教させていただきました。一日置いて今日水曜日は桜美林大学のチャペルにお邪魔しています。一週間で二つの大学をお訪ねすることになりました。

ツイッターでバズった人に「お前、有名人じゃん(草)」というリプを飛ばす人がいます。私も今週ですっかり有名人です。私もツイッターをしますので、ぜひフォローしてください。しかし、今は礼拝中ですので、私の話を聴いてください。礼拝中のスマホいじりは禁止です。

しかし、という接続詞でつなぐ話ではないかもしれませんが、昨日火曜日は八王子に新しくできたばかりのインターネット通販サイト「アマゾン」の倉庫でアルバイトをしていました。

朝8時から夜7時まで10時間(休憩1時間)、時給1000円、週3日。アルバイトしながらでもないと成り立ちにくいのが牧師の仕事でもあります。すべての牧師がアルバイトしているわけではありませんが。

本当は今日もアマゾンのアルバイトに行く予定だったのですが、せっかく桜美林大学のチャペルで説教をさせていただけることになりましたので欠勤しました。事前に欠勤届を出しましたので、無断欠勤ではありません。

昨日の仕事はストーでした。ストーというのは倉庫に大量に届く商材を倉庫の棚の中に入れていく仕事です。私の作業内容は日によって違いますが、私に回してもらえる仕事は、ストー以外はピックかパックです。

ピックというのはお客さんが注文した商品の情報が倉庫に届くので、その情報に基づいて商品を探して集める作業です。パックというのは商品を梱包する作業です。

その倉庫はJR八高線「北八王子駅」徒歩15分のところにあります。アルバイトを探している方がおられるようでしたら、ぜひ応募してください。大募集中ですので、きっと採用してもらえると思います。

このままアルバイトの話を続けるほうがぜったい面白いと思いますが、私は今日、そういう話をしに来たわけではありません。今日の説教に「どうすれば親孝行できるか」という題を付けました。「どうすれば大学生の皆さんが、いちばんむかつく題になるか」を考えました。

私にも2人、子どもがいます。上が23歳、下が20歳。皆さんと同世代です。ということは、皆さんの親御さんが私と同世代の方々だということです。

その私が皆さんに「どうすれば親孝行できるか」という話をするということは、私が自分の子どもたちに「どうすれば私に親孝行してくれるのか」と説教するのと同じです。嫌でしょう、そんな親。殺意を抱くレベルかもしれません。そういうことはよく分かっているつもりです。

そして、今日の説教の結論を先に言えば、皆さんが親孝行のために特別に何かをする必要など全くない、ということです。「ナニそれ?」と思われるかもしれませんが、そうとしか言いようがありません。「そんなことはどうでもいい」というのが今日の結論です。

先ほど朗読していただきました聖書の箇所は、イエス・キリストのたとえ話です。お金持ちの人がいました。その人の家の前にいつも寝ているラザロという人がいました。体中に吹き出ものがありました。それを犬が近寄ってきてなめたりしました。

その後、ラザロは死にました。お金持ちの人も死にました。人生は平等です。貧しい人も死にますが、お金持ちの人も死にます。いずれにせよ人は必ず死ぬという点で、人生は平等です。

死んだラザロは天国に行きました。アブラハムという旧約聖書の登場人物が天国にいて、ラザロを迎え入れてくれました。お金持ちの人は苦しい地獄に行きました。その人が見上げると天国のラザロとアブラハムの姿が見えました。

お金持ちだった人が大声でアブラハムに、そこにいるラザロを私のところによこせと言いました。「お金持ちだった人」と過去形で言いました。だってこの人はもう死んでいるのですから。天国にも地獄にもお金を持っていくことはできませんから。

その人がアブラハムに言ったのは、ラザロの指に水をつけて私の渇いた舌を冷やさせろということでした。するとアブラハムは、それは無理だときっぱり断ってくれました。それはそうでしょう。この人は生きている間、苦しんでいるラザロに施しひとつせず、見殺しにしていたのですから。

すると、金持ちだったその人がまだ言う。私の父親の家に兄弟が5人いるので、その者たちのもとにラザロを遣わして、こんな苦しい地獄に来ないで済むようにラザロを使って言い聞かせてくださいと。そのこともアブラハムはきっぱり断ってくれました。

なんでこの人、こんなに偉そうなのでしょうか。この人のおかしさは、自分はもう死んでいるのに、ラザロがまだ自分の言うことを聞く手下になると思い込んでいることです。

さっきから言いたくて我慢している言葉を言っていいですか。こいつ、ばかです。

私は皆さんにはぜひお金持ちになっていただきたいです。皮肉でなく心からそう願っています。しかし、人を見くだす人間にならないでください。もし私が皆さんの親なら、自分の子どもにそのことをこそ願います。私もつい「ばか」と言いました。反省します。ごめんなさい。

皆さんにはぜひ会社に入ったら、リーダーになってほしいし、スーパーバイザーになってほしいです。マネージャーになってほしいし、オーナーになってほしいです。しかしそうなったとしても、アルバイトの作業員を自分の手下だとかコマだとか、そういうふうに思い込まないでほしいです。

もし私が皆さんの親なら、皆さんがどんなに偉くなっても、人を見くださない、ばかにしない人になってほしいです。すべての親が私と同じ考えかどうかは分かりませんが。

そういう人に皆さんがなることこそ「親孝行」です。親孝行のために特別にしなければならないことは、何もありません。

(2018年6月20日、桜美林大学チャペルアワー)

2018年6月18日月曜日

どうすれば天国に行けるか(東京女子大学)

東京女子大学(東京都杉並区)
東京女子大学(東京都杉並区)

ルカによる福音書14章21~24節

関口 康

「僕は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った、『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」

東京女子大学の礼拝でお話しさせていただくのは2回目です。最初は1年前の2017年6月(27日)でした。そのとき「私も就活中です」と言いました。あからさまに言えば、1年前の私は無職でした。どうしてそうなったのかは話が長くなりますので割愛させていただきます。昨年の説教は私のブログで公開していますので、探してみてください。

昨年私が申し上げたのは「同情してもらいたいのではありません。『おじさんも必死で生きています』と言いたいだけです。私は絶対にあきらめません。皆さんも絶対にあきらめないでください」ということでした。勝手な話ですが、そのとき私は皆さんの前で再就職の誓いを立てた気持ちでした。そして、これまた勝手な話ですが、今日は再就職完了の報告をさせていただきに参りました。

失業中、ハローワークに通いました。いろんなアルバイトを探しました。私が持っている免許は、自動車の普通免許と宗教科の教員免許と牧師の免許だけです。「使えないやつだ」と思われたようです。多くの会社から不採用通知を受け取りました。応募したのは、警備会社、湯灌師(おくりびと)、浮気調査の探偵会社、などなど。学校関係は競争率が高すぎて不採用。塾講師も応募しましたが不採用。

やっと採用してもらえたのが物流関係の倉庫でした。ピッキングのアルバイト。しかし、現場が自宅から遠く、交通費がかかりすぎて収入が目減りする一方なので、1か月でやめました。自宅から歩いて行ける距離に印刷関係の会社を見つけて応募したら、なんとか採用してもらえました。

今年4月から教会の牧師の仕事に復帰しました。それ以前の25年間続けてきた私の本業です。本業に戻ることができました。競争率が高いわけではありません。そもそも就職先が少なく、成り手も少ない職種です。

今は牧師の仕事をしながら、昨年の経験を活かしてアルバイトをしています。自転車で通える距離の八王子のアマゾンの倉庫で週3日、1日10時間働いています。内容はピック(注文品探し)とパック(梱包)とストー(棚入れ)です。

なぜこんな話をしているか。皆さんの参考になるかもしれないと思うからです。「おじさんとわたしたちを一緒にしないでほしい」と叱られるかもしれません。ごめんなさい。

この私の話と、今日の聖書に記されていることと、「どうすれば天国に行けるか」という今日のお話のタイトルとの三者がどういう関係にあるかを、そろそろ申し上げなくてはなりません。

これはイエス・キリストのたとえ話です。ある人が宴会を開きました。たくさんの人を招待したいと願いました。ところが、招待した人たちが、いろんな理由をつけて宴会に来ませんでした。腹を立てた主催者が、要するにだれでもいいから無理にでも人々を連れてきて、この家をいっぱいにしてくれと、しもべに言いました。天国とはそういうところだと、イエスさまがおっしゃいました。

たとえ話はその意味を考えなくてはなりません。私なりの言葉で言えば「天国は競争率が低い」ということです。タダでごちそうをいただけるのにだれも来ないし、理由をつけて逃げられる。―チャペルの礼拝のようでしょうか。今日はたくさんの方が出席してくださり、ありがとうございます。空席だらけで、行けばだれでも大歓迎してもらえる。―教会の礼拝のようでしょうか。そうかもしれません。

主人に招かれた人々が、なぜ誰も来なかったのでしょうか。タダでもらえるものには価値がないと思ったからでしょうか。自分が一生懸命頑張って手を伸ばして自分の力で勝ち取り、つかみ取るようなものでなければ。

要するにだれでもいいの例として、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の自由な人」をイエスさまが挙げておられることに差別の意図はありません。それだけは誤解のないように言っておきます。しかし、競争社会の中で遅れがちになりやすい人々であるのは否定しにくいことではあるでしょう。

「世の中は違う。そんなに甘くない」と思われるでしょうか。そうかもしれませんが、そうでないかもしれません。競争そのものが目的ならば話は別ですが、人生は競争だけで成り立つものではありません。

就活に悩んでいる方にぜひ考えていただきたいです。一度でいいから競争心を捨ててみませんか。「自分はあの人より上である、あの人より下かもしれないが」というその競争心を。生きていくために、仕事を得るために、世のため人のために役立つために。忍耐して生きのびたごほうびとしての「天国」に迎え入れていただくために。

(2018年6月18日、東京女子大学 日々の礼拝)

2018年6月17日日曜日

約束が与えられる

ローマの信徒への手紙4章13~25節

関口 康

「恵みによって、アブラハムのすべての子孫、つまり、単に律法に頼るだけでなく、彼の信仰に従う者も、確実に約束にあずかれるのです。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

すでに何度かお話ししましたが、私の両親がキリスト者で、二人とも教会学校の教師をしていたこともあり、私は生まれたときから教会に通っていました。

その影響で、と言いますか、その環境の中で、と言うほうがぴったり当てはまりますが、子どもの頃から実は今日に至るまで拭いきれずにいる「教会」というものに対する私の中でのイメージは「連れて行かれる」ところだったりします。否でも応でも。

それは間違ったイメージであるということは、一方では分かっているつもりです。「連れて行かれる」を漢字の熟語にすると「連行」です。国語辞典で調べてみると、連行とは「本人の意思にかかわらず、連れて行くこと。特に警察官が犯人・容疑者などを警察署へ連れて行くこと」だと書かれていました。お前の主体性はどこに行ったのかと叱られるかもしれません。

しかし他方で、私は牧師の仕事を始めて28年目ですが、今に至ってもそのイメージを拭いきれずにいます。かえってますますその感覚が強まっているとも感じています。私が牧師だからこそそのように感じるのだと言える要素があるかもしれません。

ここで申し上げたいのは、私が教会に抱くイメージのそれは、キリスト者として果たすべき「義務」だからとか、「責任」だからとか、「神の命令」だから、というような言葉で表現できることではないということです。

そうではなく、まさに「恵み」です。「神の恵み」です。それ以外に表現しようがありません、少なくとも私には。ただし、その中に強制の要素がある。「強いられた恵み」というのは矛盾に満ちた言い方かもしれませんが、まさにそれが当てはまる。そのように思うのです。

教会は日曜日だけ存在する存在ではありません。教会は建物や組織の意味だけでなく、キリスト者の存在そのものが教会です。ふだんひとりひとりが別々にいるときは教会の姿は見えにくく、日曜日に集まると、よりはっきりと姿を現します。

しかし、それはそうとしても、日曜日に集まることが教会のほとんどすべてを集中的に現していると言えないわけではありません。その中で牧師に与えられている責任は説教の準備をすることです。日曜日は7日ごとに巡ってくる。ある意味で「襲い掛かってくる」。否応なしに。体調や状況如何にかかわらず。

感謝の気持ちはもちろんあります。感謝の気持ちしかありません。しかし、これは私の考えですが、教会は牧師にとって居心地の良い場所だけであってはならないと思っています。それは悪い意味での自己満足です。教会の私物化に通じます。教会は牧師の職場でもあるからです。

15年前に出版された『バカの壁』(2003年)が一世を風靡した養老孟司氏が何冊かの本に繰り返し書いていたのは、正確な引用ではありませんが、こういうことでした。「仕事して給料をもらえるのは仕事が苦しいものだからだ。仕事が楽しいというのはおかしい。職場は遊園地ではない。仕事が楽しいなら、職場に入園料を払わなくてはならないだろう」。すべてが教会に当てはまるとは思いませんが、痛いところは突いていると思います。

何の話をしているかといいますと、牧師はつらいよという話ではないし、教会はつらいよという話でもありません。わたしたちは「神の恵み」について語ります。「恵み」と言うかぎり、神から一方的に「与えられるもの」であることを意味します。それは、わたしたち人間の意志や願いにかかわらず、まさに「与えられるもの」であるという性格を持っています。

場合によってはそれは、わたしたち人間の意志や願いに反して与えられることもあります。自分が欲しいものだけ自分で選ぶことができるわけではない。欲しくないものまで押し付けられる。そのため、わたしたち人間の側からすると、強制的な要素があると感じるところが出てくるのではないかと思うのです。

今申し上げていることの文脈で、わたしたちには信教の自由があるので、いかなる意味でも強制があってはならないという話を持ち出すのは全く間違っています。信教の自由の理念は正しいものです。しかし、それとこれとは全く違う話です。今申し上げているのは、わたしたちが生まれたことも、人間として生きていることも、自分の願いや祈りの実現であるとは言えないという意味で強いられたものであると言っているのに近いことです。

わたしたちのうちのだれが「生まれたい」という明確な意志をもって生まれたでしょうか。DNAとかそのあたりの謎のレベルで「私は生まれたがっていた」と主張する人がいるかどうかは知りませんが、そういう話とは区別して考えていただきたいです。そういう話ではありません。

少なからぬ少年少女が、あるいは大人になってからも、私はなぜ生まれたのか、私はなぜ生きているのかという悩みを解決できずにいます。私は生まれたかったわけではない、生きていたいと思わないと。

実際そのとおりだとしか言いようがない面があります。身も蓋もない言い方をしてしまえば、親にとって子どもは、子どもの意志とは全く無関係であるという意味で「勝手に」産んだものです。だからこそ親の責任は重大であると言わなければならないことは事実です。

いま、うちにテレビがありませんし、仮牧師館から牧師館に引っ越してから私用のインターネットがまだつながっていませんので、最近のニュースが全く分かりません。親が子どもを殺したとか、親子関係が悪かった人が人を殺したとか、そういう痛ましい話がいろいろあるようですが、どれも噂話のようなこととして間接的に聞いているだけで、具体的な中身がさっぱり分かりません。

ですから、いま申し上げているのは時事の出来事についてのコメントではありません。聖書的・キリスト教的な意味での一般論をお話ししているにすぎません。

先週は「信仰が与えられる」という題でお話ししました。今日は「約束が与えられる」という題です。来週は「希望が与えられる」という題であることを週報で予告しました。「信仰」も「約束」も「希望」も未来に属する事柄です。6月の関口牧師の説教は「与えられる未来シリーズ三部作」であると覚えていただくとよさそうです。

この「与えられる」に私がこめた意味が、ある意味で「強いられる」でもあると申し上げたいのです。私は二人の子どもの父親です。私は子どもたちに「ごめんなさい」と謝らなくてはならないかもしれません。「こんな目に合わせて、ごめんなさい。こんな時代に、こんな苦しい世界に立たせてしまって。もっと良い時代に生まれたかったよねえ」と。そう言うと、人のせいですが。

そこで私が「でもね、それはぼくも同じだよ」とか言い出すのは無責任な言い逃れかもしれませんが、そういう連鎖のようなところが人生にあります。人は面倒な時代の中に生まれ、その人自身が面倒の原因を作り出す。それぞれの時代に、それぞれ異なる悩みがある。大げさに言えば、人類の歴史は、そのような連鎖によって作り出されてきたものでもあります。

今日の箇所にパウロがアブラハムの生涯について、とくにイサク誕生の経緯に触れて書いています。イサクの側の視点は全く考慮されません。すべてあくまでも親であるアブラハムの側からの視点だけです。「あなたに星の数ほど多くの子孫を与える」と神が約束してくださったにもかかわらず100歳になるまで一人の子どもも与えられなかったアブラハムに、やっとイサクが与えられました。

子どもが与えられるかどうかということ自体の問題ではありません。神の約束が実現するかどうかの問題でした。アブラハムは、その約束がいつになっても実現しないので、約束そのものを疑ったことも全くなかったわけではありません。神の約束の内容とは違う方法で子どもをもうけたことまで聖書に記されています。しかし、最終的にアブラハムは神の約束に立ち戻り、それを信じ続け、ついにその約束の実現を見ることができました。

アブラハムがしたことは「あきらめなかった」ということだけです。子どもを産むことができる身体的な能力という意味での限界を超えてもなお、「神の約束は必ず実現する」と、神とその約束を信頼し続けました。

私は、100歳のアブラハムと90歳のサラに初めての子どもとしてイサクが与えられたという創世記の物語を「奇跡物語」としては受けとめていません。超自然という意味での奇跡の要素は全くありません。夫婦に子どもが与えられることに超自然の要素はありません。強いて「奇跡」だと言いうるところがあるとしたら、100歳のアブラハムが自分に子どもが与えられると信じることができた、そのことです。その信仰が奇跡です。

当時の年齢の数え方と今の年齢の数え方が違っていたのだ、というような合理的な解釈の可能性があるかもしれませんが、そういうのは私にとってはどうでもいいことです。重要なことはアブラハムもサラも「高齢者」であったということです。

そして彼らがイサクに託したのは信仰の継承でした。その信仰はアブラハムに与えられた「あなたに星のような多くの子孫を与える」という神の約束を信頼することであり、同時に未来において信仰の民が多く与えられることへの希望を持つことを意味していました。このあたりで、アブラハムの話とわたしたちの教会の話が結びついてくるものがあると私には思えます。

もうずいぶん前からですが、「日本の教会の未来がない」と嘆く声を教会の中で繰り返し聞いてきました。やれ少子高齢化だ、やれ教会に高齢者しかいない、やれ子どもや若者がいない、だから我々には未来がないと、絶望の三段論法を教会自身が言い続けるのです。

あと10年で多くの教会が消滅するそうです。すでにそれは始まっています。毎年いくつもの教会が閉鎖や合併を余儀なくされています。それはすべて事実です。

しかし、その話を聞くたびに何とも言えない気持ちになります。少子高齢化が「問題」であると言われると拒絶反応すら抱きます。だからどうしたのかと言いたくなります。教会は、恵みによって信仰によって受け継がれるものです。年齢は関係ありません。

パウロが取り組んだ「異邦人伝道」とは具体的に言うと何でしょうか。人生の多くの時間ないしほとんどの時間を異教徒ないし無神論者として過ごしてきた人を神の子どもにすることです。その仕事をわたしたちはパウロから受け継いでいます。

(2018年6月17日)

2018年6月10日日曜日

信仰が与えられる

ローマの信徒への手紙4章1~12節

関口 康

「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。」

おはようございます。今日もよろしくお願いいたします。

個人的なことでもありますが、教会の事柄でもありますので最初に申し上げます。私は昨日、JR東中神駅前の仮牧師館から牧師館に引っ越してきました。ダンボール箱80箱の本と7つの本棚は引越業者に運んでいただきました。布団とパソコンはNさんの車で、冷蔵庫と洗濯機と電子レンジはTさんの車で運んでいただきました。Nさん、Tさんありがとうございました。

残ったものはすべて、私が自転車で運びました。梱包しにくいものを自転車の前のかごにそのまま乗せて、20往復しました。距離は片道700メートルですので、それほど時間はかかりませんでしたが、疲れました。

それで昨晩から牧師館で休ませていただいています。今朝は鶏の鳴き声で目を覚ましました。コケコッコーと、ちゃんと言いました。幼稚園の鶏です。悪い意味ではありませんが、不慣れな点がまだ多く、これのスイッチはどこにあるのか、これの置き場所はどこかと探し回る感じですが、すぐに慣れるだろうと思っています。まだ若いので。

ローマの信徒への手紙は4章まで来ました。この手紙は全部で16章まであります。来年3月にすべて読み終わるように計画しています。なるべく分かりやすい話をしたいと願っております。最後までお付き合いいただけますと幸いです。

今日の箇所に書かれていることは難しいという印象をお持ちになる方が多いかもしれません。アブラハムが出てきたりダビデが出てきたりします。語られている内容もなんとなく理屈っぽい。分かるようで分からない。しかし、パウロが言おうとしている事柄の内容そのものは比較的単純なことであると申し上げておきます。

もうばれていると思いますが、私は理系の知識がほとんど全くないという意味の典型的な文系人間です。理系の知識に関しては相当でたらめなことを言いますので、そのあたりは理系の方々にお助けいただきたいと願っております。

パウロが言おうとしているのは、昔から多くの人たちが頭を悩ませてきた「卵が先か鶏が先か」という話に近いことです。鶏卵論争(けいらんろんそう)という言い方もします。鶏が卵を産み、その卵から鶏が生まれる。最初はどちらが先だったのかという話です。突き詰めていけばどちらが先かが分からなくなる。だから論争になるわけです。

今申し上げたのは、あくまでたとえです。パウロが「鶏が先か卵が先か」と問うているわけではありません。わたしたちが教えられてきたのは、わたしたちはイエス・キリストを信じる信仰によって救われるのであって、わたしたちの行いや努力、業績や功徳を積み重ねることによって救われるのではないということです。しかし、この話も突き詰めて考えていくと分からなくなる点が必ず出てきます。

「信仰によって救われる」ということは、単純にひっくり返せば「信仰のない人は救われない」ということになります。それはそのとおりのことなので、やむを得ないことだと言って済ましてしまうのは非常に危険です。そういう言葉で切って捨てられて、ものすごく深い心の傷を負う人々が必ず出てきます。

そして、そこでわいてくる疑問は、その場合の「信仰」とは何を意味するのかということです。信じることも人間の行為ではないかと言われれば、そのとおりです。もしそうだとしたら、結局わたしたちは「信仰という行為によって救われる」のだろうかと問わざるをえません。

そもそもわたしたちが頭を悩ませること、すなわち「考えること」も人間の重要な行為です。また少し余談になりますが、今回の引っ越しに私は一週間かかりきりでした。他の約束をすべてキャンセルして引っ越しだけに集中しました。一週間と言っても日曜日は礼拝があり、木曜日は聖書に学び祈る会がありますので、実質5日です。それで最初の3日間は何をしていたかというと、ただ考えていただけでした。

物を箱に詰める作業も、運ぶ作業も、始まってしまえばすぐに終わることです。しかし、それよりもはるかに大事なことは、教会の働きを止めないでそれを行うにはどうすればいいかということですので、それを考える必要がありました。それを考えることをしないで、ただ物を動かすことだけをしてしまいますと、すべてがめちゃくちゃになってしまいます。

しかし、人が考えている姿というのは、はたから見ると何もしないでサボっているだけのように見えるものです。考えるのをやめて働け、と言われてしまいます。しかし、考えることは人間の重要な行為です。「人間は考える葦(thinking reed)である」とブレーズ・パスカルが言ったということは最新の高校倫理の教科書にも載っています。私は一昨年、高校生たちにこういう話を一生懸命していました。

「考えること」が人間の重要な行為であるなら、「信じること」はもっとそうではないかと言えなくもないわけです。「信じること」はどこまでも私の行為です。信仰は動詞です。主語は私です。「私が信じる」のです。もしそうだとしたら、わたしたちが救われるのは信仰によるのであって行いによるのではないという教えはおかしいのではないかと疑問が生じるのは当然です。信仰も行為であり、しかも、人間の重要な行為であるならば。

実際に教会の中でそういうことが問題になることがありうるわけです。あの人は熱心な信者であると言われる人は必ずいます。「熱心な人がいる」ということは、これも単純にひっくり返せば「熱心でない人もいる」ということになります。

そうしますと、その違いは何なのかが必ず問題になります。信仰が人間の重要な行為であるならば、わたしたちが救われるのは「熱心な信仰」によるのであって「熱心でない信仰」では救われないということになるのかということが現実の問題になります。そして、そういう言葉で傷つき、嫌な思いをする人々が必ず出てきます。

これはとても深刻な問題です。わたしたちが元気なときはこういうことは問題にならないかもしれません。体も心も自由に動き、なんでもできるときは。しかし、信仰は一生ものですので、途中に紆余曲折が必ずあります。年齢だけの問題ではありません。いろいろなきっかけや事情で、教会の礼拝や奉仕に参加できなくなるときが必ずあります。あれほど熱心だった人が。

わたしたちが救われるのは熱心な信仰によるのであって、熱心でない信仰では救われないのでしょうか。そういうことをパウロが言っているでしょうか。そうではないと、今日私ははっきりと申し上げたいのです。

今日の箇所に書かれていることの中でいわゆる鶏卵論争に最も似ていると私に思えるのは5節の言葉です。「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義とされます」。

これがどういう意味かお分かりでしょうか。「不信心な者」というのは訳者が遠慮し、躊躇した形跡がにじみ出ている訳であるように思えます。もっとはっきり「不信仰な者」と訳しても全く問題ありません。そういう意味のことをパウロが書いています。「信仰など全くない者」と。そして「義とされる(義とする)」は「救われる(救う)」という意味です。つまり、パウロがこの箇所に書いているのは「信仰など全くない者を救う神」のことです。

しかし、「を信じる人は」とも書いてありますので一筋縄では行きません。「信仰など全くない者を救う神を信じる人は救われる」のであれば、結局は信仰が求められているではないかという疑問がまた浮かんでくるでしょう。しかし、「働きがなくても」とはっきり書かれています。「働き」とは行為です。信仰も働きの一種、行為の一種であるならば、その行為としての信仰がなくても救われると、パウロがはっきり書いています。

それはいったい何なのか、何を意味するのかということを、わたしたちは何度も考える必要があります。考えれば考えるほど堂々巡りに陥る面がありますが、それでも考えることが重要です。

いずれにせよはっきりしているのは、神がわたしたちを救ってくださるときに、行為としての信仰は求められないということを、パウロがはっきり書いているということです。「お前はおれを信じるのか。もし信じるなら救ってやる」と神は言わない。「信仰など全くない者を神は救う」と。しかし、パウロはそのことを述べたうえで「その神を信じる者は救われる」と言っています。

その場合の「信仰」とは、具体的に言うとどのようなものでしょうか。それを考える必要があります。

人生のほとんどすべての時間を信仰など全くなしに生きてきた人が、最期の最期の局面で、遠のく意識の中で問われた問いに対してうなずく。否、うなずいたかどうかも分からないほどの、かすかな意思表示をする。否、意思表示があったかどうかすらはっきりとは分からない「信仰」。たとえそうであっても「そんなのは信仰とは言えない」などと熱心な人たちから見下げられる筋合いにはない「信仰」。

もうひとつ。今日は花の日子どもの日の礼拝として、わたしたちの前に美しいお花がたくさん飾られています。この花を見て「美しい」と言う。あるいは、口に出さなくても、心の中で思う。美しいと思うかどうかは主観的な問題でもあります。

「信仰など全くない者を救う神を信じる信仰によってわたしたちは救われる」と言われる場合の「信仰」とは、そのようなものではないかと私には思えます。熱心な活動もできないし、具体的な行為もできないけれども、「へえ、神さまってそういう方なのか」と、ただ思い、ただ感じ、ただ受け容れるだけの「信仰」。

「救いが先か信仰が先か」の鶏卵論争は、パウロの中では決着がついています。救いが先です。信仰は後です。信仰というわたしたちの行為がわたしたちを救うのではありません。神の一方的な恩恵によって与えられた信仰によって、わたしたちは救われるのです。

(2018年6月10日)