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同時通訳者が学生たちの質問を日本語に訳してくださったので、日本語しか分からない私も含め、その式典に出席していた多くの人にも彼らの質問内容が理解できたはずだ。学生たちの果敢さは絶賛に値すると思った。しかし、質問の内容は「え?は?」と私ごときが驚くくらいレベルが低いことばかりだった。
「内容がないよう」と、つぶやいてしまった。彼らが使う外国語の流暢さがスーパーハイレベルだっただけに、中身の無さはがっかりだった。その某国首相は自国の歴史や自分が尊敬する人物と、日本の歴史やその大学の創始者との「類似性」を話していたのに、そのことに触れる質問をする学生がいなかった。
恥ずかしいとまでは思わないし、そんなふうに言えるだけの実力が私にないので黙るしかなさそうだが、それでもそのとき私が考えたのは、日本語しかできなくても、それはそれで同時通訳者が助けてくれるので、それよりもっと自分で本を読み、自分の頭で考えられるようになってほしい、ということだった。
いま書いていることに特に何かの脈絡があるわけではない。ただ、グローバル教育とは何なのかということを、わりと毎日疑問に感じているひとりであることを付け加えておこう。雑な言い方をお許しいただけば、どうでもいいことを流暢にしゃべる技術を磨くことがそれなのかと、わりと毎日考えこんでいる。