2017年3月26日日曜日

神の言葉を蒔く(新松戸幸谷教会)

エレミヤ書20章7~9節
マルコによる福音書4章13~20節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「また、イエスは言われた。『このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。種を播く人は、神の言葉を蒔くのである。道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。』」

新松戸幸谷教会のみなさま、おはようございます。日本基督教団教務教師の関口康です。このたびは説教の機会を与えていただき、ありがとうございます。どうかよろしくお願いいたします。

お世辞でもなんでもなく、私は吉田好里先生の説教が大好きです。すぐ近くに住んでいますので、昨年の半ばから礼拝に出席させていただくようになりました。吉田先生の説教に毎回魅了されています。大先輩の先生に対して偉そうな言い方かもしれませんが、「これだ!」と思いました。私が過去51年の教会生活で聴かせていただいた説教の中でいちばんいいと本気で思っています。

本当のことを言えば、毎週欠かさずこの教会の礼拝に出席させていただきたいです。しかし最近はいろんな教会から説教を依頼されるようになりましたので、なかなかお訪ねできません。吉田先生の説教のどこに魅了されているかについては、説教の最後に申し上げます。

先ほど旧約聖書と新約聖書の朗読がありましたが、今日共に学ばせていただきたいのはマルコによる福音書4章13節から20節までの箇所です。主イエス・キリストがお語りになった「種を蒔く人のたとえ」を主イエス御自身が説明しておられる箇所です。と読める箇所です。

しかし、この箇所についてはかなり前から多くの有力な聖書学者たちが、主イエス御自身がお話しになったものとは考えられないと判断しています。それでは誰が書いたのかと言えば、主イエスが亡くなった後の原始キリスト教会です。原始キリスト教会による主イエスのたとえ話の解釈をマルコが採用した、ということです。これは私が言っていることではなく、有力な聖書学者が言っていることです。

私が東京神学大学大学院を修了したのは27年前の1990年です。当時よく読まれていた本は、C. H. ドッド『神の国の譬』(室野玄一、木下順治訳、日本基督教団出版局、1964年)、A. M. ハンター『イエスの譬・その解釈』(高柳伊三郎、川島貞雄訳、日本基督教団出版局、第一版1962年、第二版1964年)、J. エレミアス『イエスの譬え』(善野碩之助訳、新教出版社、1969年)の3冊です。

どの本も私が申し上げた方向で解説されています。エレミアスはこの箇所が原始キリスト教会の解釈であると判断すべき根拠を4点にまとめています(エレミアス同上書82頁以下参照)。

21世紀の聖書学者の方々にとっては古い本ばかりかもしれませんが、私は狭い意味での聖書学者ではありませんので、最新の研究成果を調べる力はありません。しかし、私は聖書学者の意見は尊重すべきであると考えています。

そしてそれは決して無理な説明ではありません。直前の箇所にやはり主イエス御自身がお語りになった言葉として「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」(4章11節)と記されています。

その趣旨は、「たとえ話」というのはそもそも初めから「分かる人には分かるが、分からない人には分からない」ように語られるものであるということです(加藤隆『「新約聖書」の「たとえ」を解く』ちくま新書、2006年、206頁以下参照)。

「分からない人には分からない」たとえ話だからこそ、主イエスは、せめて常に行動を共にしている弟子たちにはたとえ話の意味を説明なさったのだと考えることもできます。しかし逆に、常に行動を共にしている弟子たちなのであれば、主イエス御自身の説明など全く不要なほど、このたとえ話を聞けばすぐにその意味を理解できたはずだと考えることもできます。

むしろ、たとえ話の説明が必要になったのは、主イエスのことも弟子たちのことも知らない後の世代の人たちです。その人々のために原始キリスト教会がこの説明文を付け加えた、と考えることもできるわけです。

ややこしい説明が長くなってしまいましたが、疑問が生じやすい箇所ですので、ある程度のことを申し上げておこうと思いました。そして私もまた、この箇所は主イエス御自身による説明ではなく、原始キリスト教会による解釈であるという立場でお話しすることにします。

ここから中身に入っていきます。たとえ話そのものはよく知られていますので、いきなり説明の部分から始めます。

「種を播く人は、神の言葉を蒔くのである」(14節)と記されています。「神の言葉」(ホ・ロゴス)とは「福音」を意味する原始キリスト教会が生み出したテクニカルタームであると、先ほどから言及しているエレミアスが書いています(エレミアス同上書83頁)。さらに「種を蒔く」とは「宣べ伝える」ことを意味する比喩的な表現であるとも言っています(同上頁)。

これで分かるのは、「神の言葉」を蒔く「種を蒔く人」とは福音を宣べ伝える説教者のことであるということです。

しかしそれは、狭い意味での牧師、伝道者、説教者だけを指していると考えるべきではないと私は思います。少なくとも、狭い意味での牧師、伝道者、説教者と共に歩む教会の信徒の方々ひとりひとりを含めなければなりません。伝道は、説教は、牧師個人の趣味ではなく教会全体のわざだからです。

いや、そうではない、「種を播く人」を牧師とか伝道者とか教会であると解釈するのは間違っているという反論が実際になされてきました。そうではなく、「種を蒔く人」はあくまでもわたしたちの救い主イエス・キリスト御自身でなければならない、と。

福音を宣べ伝える主体はあくまでも主イエス・キリスト御自身のみであり、同時に父なる神御自身のみであって、我々人間ではない。我々人間は、せいぜい「神の宣教」(ミッシオ・デイ)のお邪魔をしないように手控えながら、しもべとしてただ仕えるのみである、と。

しかし、もうひとり先ほどから言及しているC. H. ドッドは、今私が申し上げているような「種を蒔く人」をイエス・キリストに限定する読み方に対して明確に反対しています。ドッドは次のように記しています。

「キリスト御自身が種蒔く者であるとは意味していない。誰にもせよ信仰深いキリスト教の説教者であれば、その人が種蒔く者である。彼は自分の働きの多くが無駄であったことを見いだすであろう。ある聴衆は、まったく真理をしっかりと把握しないであろう。他の者は困難によって失望したり、繁栄によって惑わされたりするであろう。しかし説教者は最後には、彼の働きから果が結ばれることを確信してよいのである」(ドッド同上書239頁)。

ドッド教授の原著は1935年に出版されたものですので、今から82年前です。しかし、これ以上付け加えることがないほど簡潔で的確な解説がなされていると思います。このような意味でこの箇所は読まれ、解釈されるべきだと私も思います。

ここまでのところで私に言いうるのは、今日の箇所に記されている主イエスのたとえ話の説明は、現実の教会の伝道の様子をありのままに描いているものと理解してもよいということです。それはわたしたちの姿そのものです。教会の伝道には挫折があります。つまずきがあります。落ち込むことがあります。しかし、手応えがあることもあります。

その場合、先ほど申し上げたとおり「御言葉」(ホ・ロゴス)は「福音」を意味します。いや、それは「聖書」ではないかと思われるかもしれませんが、それも限定しすぎです。「聖書を蒔く」という話であれば、国際ギデオン協会の方々が無料で聖書を配布する活動が思い浮かびます。しかしここで「御言葉」を「聖書」という意味だけに限定して理解するのは行き過ぎです。

ここで言われている「種を蒔く」とは「聖書を無料で配布すること」よりもっと広い意味です。「福音を宣べ伝えること」です。「聖書」だけでなく、少なくとも必ず「説教」が含まれます。「説教」が行われる「礼拝」が含まれます。「教会のすべての活動」が含まれます。「日常生活における信徒としての証し」が含まれます。それらすべてが「福音」です。それらすべてが「神の言葉」です。

しかしまた、ここで少し立ち止まって考えてみたいことがあります。ここから先は過去の聖書学者の意見ではなく、私の感覚だけで申し上げます。それは、「種を蒔くこと」が「福音を宣べ伝えること」を意味する比喩であるというエレミアスの説明と関係しています。

「種を蒔くこと」が「福音を宣べ伝えること」です。これを逆の方向から言い直しますと、「福音を宣べ伝える」とは「神の言葉を蒔くこと」を意味するとも言えます。これで分かるのは、説教というのは、ある意味で「蒔く」だけであるということです。

「蒔く」とは「植える」にも「育てる」にも「収穫する」にもまだ至っていない、いわばそれ以前の段階です。しかしだからといって、無作為に、無差別に、めちゃくちゃに「撒き散らす」こととは全く違います。

「種を蒔く人」は、必ず芽が出ますように、葉が茂りますように、実が結びますように、と願いながら、祈りながら、丁寧に「蒔く」のです。

すべての種が必ず実を結ぶわけではありません。しかし、だからといって、すべての種が必ず実を結ばないわけでもありません。たとえそれが多くの中のたったひとつの種であっても、その種が三十倍、六十倍、百倍の実を結んできました。だからこそ教会は二千年の歴史を刻んできましたし、これからも絶望しません。

最初にお約束しましたとおり、私が吉田先生の説教が大好きな理由を最後に申し上げます。私が吉田先生の説教を論評する立場にあると思っているのではありません。「吉田先生のファン」のひとりとして申し上げるだけです。

それが最後に申し上げた点にかかわります。まさに「種を蒔く人」の説教であると感じます。植えてやろう、育ててやろう、実を結ばせてやろう、収穫してやろうというような、一方的に押し付けてくるところが全くありません。「こうである、ああである」と断定し、決めつけてくるところが全くありません。少なくとも説教でそういうことをなさいません。

しかしそうであるからこそ、温かい見守りと深い祈りと丁寧な配慮をいつも感じます。デリケートな問題をデリケートに扱ってくださいます。

私の最も理想とする模範的な説教者と共に長年歩んでこられた新松戸幸谷教会の皆さまのことが、本当に羨ましく思います。これからも仲良くしていただけますと幸いです。

(2017年3月26日、日本基督教団新松戸幸谷教会 主日礼拝)