2017年3月19日日曜日

一タラントンを地に埋めたしもべはなぜ主人に叱られたのか(習志野教会)

マタイによる福音書25章24~30節

関口 康(日本基督教団教務教師)

「ところで、一タラントン預かった者も進み出て言った。『御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。』主人は答えた。『怠け者の悪い僕だ。わたしが蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集めることを知っていたのか。それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに。さあ、そのタラントンをこの男から取り上げて、十タラントン持っている者に与えよ。だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』」

おはようございます。習志野教会で2回目の説教をさせていただきます。よろしくお願いします。

先ほど朗読していただきました聖書の箇所を皆さんは繰り返しお読みになっておられると思います。大変有名な箇所です。礼拝の説教でよく取り上げられる箇所です。キリスト教学校の聖書の授業でもよく取り上げられます。私も授業で取り上げました。

主イエスがお語りになった「タラントンのたとえ」です。たとえられているのは、神と人間の関係です。登場するのは4人です。主人と3人の僕です。主人が「神」で、3人の僕が「人間」です。

主人は旅に出かけます。出かけている間、自分の財産を3人の僕に預けます。「預ける」は「与える」でも「貸す」でもありません。この違いは所有権や主導権の問題がかかわります。

「与える」や「貸す」の場合は、所有権や主導権は「与えられた」側や「借りた」側の者へと移ります。借りたものは必ず返さなければなりませんが、使いみちは、貸した側の指図を受けることなく借りた側ですべて決めることができます。その意味で財産は、その所有権も主導権も、返すまでの間だけの一時的な話であるにしても、借りた側へと移っています。

しかし「預ける」は違います。少なくとも所有権は移っていません。100パーセント預けた側に所有権が残っています。使いみちについても預かった側が何をしてもよいと言えるほど自由であるわけではありません。預けた側の人にはそれを預けたこと自体に何らかの目的があって他人にそれを預けているのですから、その目的を預かった側が理解し、その目的に沿って使わなくてはなりません。

とはいえ、「与える」や「貸す」と「預ける」の違いとしてもうひとつ言えるのは、「預ける」側は「預かる」側の人を基本的に信頼しているという前提がなければ成立しないが、「与える」や「貸す」は必ずしもそうではないということです。

「与える」の場合は「その先はどうぞご自由に」となりますし、「貸す」の場合は借用証書と担保をとります。全く信頼できない相手と借用証書を取り交わすこと自体がありえないとは思いますが、担保をとるということは貸したものが返ってこない可能性があることを前提にしているわけです。

しかし「預ける」相手から担保をとるでしょうか。あまり聞いたことがないです。担保をとらない理由は、相手を信頼しているからです。これが最も大きな違いです。

主人は3人の僕にそれぞれ5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けました。タラントンはお金の単位です。1タラントンは六千日分の労働賃金に相当します。決して小さな額ではありません。ただ、主人は3人の僕にそれぞれ預ける金額に差をつけました。差をつけた理由として考えられるのは、はっきりいえば3人の僕の能力に明らかな差があると主人の目には見えていたということです。

一致はしないのですが、ごく大雑把な計算をして、5タラントン、2タラントン、1タラントンを5億円、2億円、1億円と呼び替えてみれば、少しくらいは話が分かりやすくなるかもしれません。資本金5億円の会社と、2億円の会社と、1億円の会社とでは、管理者の能力差がやはり問われるでしょう。

このことから分かるのは、この主人は3人の僕に自分の財産を「与えた」のでも「貸した」のでもなく「預けた」以上、この3人の僕を基本的に信頼していました。しかしまた同時にこの主人は3人の僕には明らかな能力の差があることを見抜いていたということです。

しかしまた、ここで大事なことは、この主人は3人の僕に能力差があること自体を悪いとは思っていないということです。なぜそう言えるのかといえば、まさに能力差に応じて各人の負担分を変えているからです。できないことを無理にやれとは言っていません。

ひどい主人ならばむしろ、できないことを無理やりやらせようとします。個人差を無視してどんな人にも同じだけの量や質の仕事を押し付けて、それでおかしくなる人がいようとつぶれる人がいようと関係ないと言い放つ。まるで人間を道具か機械のように扱い、壊れたら捨てるだけ。ひどいです。

しかし、この主人は違います。各人の能力差を見抜き、各人にふさわしい分担の仕事を与えました。自分の財産を自分の信頼する僕たちに「預け」ました。

ここまでのところで、この主人の側に落ち度や責められるべきところがあるでしょうか。私はないと思っています。なぜ3人に差をつけたのか、差別ではないか、という話になるでしょうか。私はならないと思っていますが、いかがでしょうか。

そして、主人が旅から帰ってきました。3人の僕がそれぞれ結果を出してきました。5タラントンを預かった僕は、がんばって仕事して、見事10タラントンに増やして主人に返しました。2タラントンを預かった僕も、がんばって仕事して、見事4タラントンに増やして主人に返しました。

1タラントンを預かった僕は、がんばって仕事して、見事2タラントンに増やして主人に返しました、と言いたいところですが、そうではありませんでした。

3人目の僕は、預かった1タラントンを地に埋めて隠しただけで、それ以外何もせず、1タラントンのまま主人に返しました。減らしはしませんでしたので主人の財産は毀損されませんでしたが、増やしもしませんでした。それで主人は激怒しました。

さて問題です。今日のお題は説教題に書いたとおりです。「一タラントンを地に埋めた僕はなぜ主人に叱られたのか」です。

はい、それではこれから皆さんに付箋を配りますので、自分なりの答えを書いてください。付箋に書ける程度の長さでいいです。30字から40字程度です。書いていただいたら、私が集めに行きます。そして、皆さんの答えをまとめて紹介させていただきます。付箋に名前は書かなくて結構です。匿名でお願いします。
付箋とコピー用紙
本当はみなさんが書いてくださった付箋をまとめた紙を写真にしてプロジェクターで映写したいところですが、これはだれが書いた字なのかがお互いに分かってしまうと思いますので、やめておきます。私がワープロで活字して教会にお送りしますので、それまでお待ちください。それならだれが書いたかが分かりませんのでご安心ください。

このようなことを私はこの1年間、学校の授業の中でしてきました。今の学校は文部科学省の方針に基づき「アクティヴラーニング」というのをしなければならないことになっています。

教員が教壇から生徒相手に一方的に話すだけの授業をするだけだと必ず批判されます。情報電子機器を積極的に活用しながら「ブレーンストーミング」や「プレゼンテーション」や「グループディスカッション」などを行うことが求められています。教員と生徒、あるいは生徒同士の双方向の(インタラクティヴ)やりとりを促進することが要求されます。

教会も同じだと思います。牧師が説教壇からただ一方的に話すだけではなく、もっといろいろと工夫しなければなりません。

はい、みなさん、答えはもう書けたでしょうか。そろそろ付箋を集めます。まだの方はゆっくりで構いません。これから私が皆さんのところまで行きます。私が持っているこの紙に、皆さんの付箋を貼り付けてください。よろしくお願いします。

このように学校では教員が授業中、教室の中を歩き回っています。「机間巡視(きかんじゅんし)」をしています。

はい、ご協力ありがとうございました。本当は皆さんの答えをすべてご紹介したいところですが、時間の関係でいくつかの答えを紹介させていただきます。そして、いちおうこちらで模範解答を用意しました。

模範解答は「(※非公開)」です。皆さんの考えと合致していたでしょうか。ご自分でお書きになったことを思い出していただけると幸いです。

学校ではこういうことを試験問題にして、採点しています。「(※非公開)」という意味の言葉が全く出てこず、全く別のことや正反対のことが書かれているようなら、減点対象になります。学校は教会と違って、必ず採点をしなければなりません。

しかし、今日ここは教会です。どのような答えをお書きになっても、皆さんの成績にも評価にも全く無関係ですので、どうかご安心ください。

しかし、問題はそれで終わらないと思います。なぜこの僕は「(※非公開)」のでしょうか。この問題のほうが、主人から叱られた理由よりはるかに深刻です。

その理由をこの人がはっきり言っています。「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。御覧ください。これがあなたのお金です。」

これだけではっきり分かる理由は、主人を恐れたことと、失敗を恐れたことの2つです。しかし、さらにもう1つの理由が考えられます。

5タラントン預けられた僕と、2タラントン預けられた僕と、1タラントンしか預けられなかった自分とを比較して、主人にそのような差をつけられたことで傷つき、「お前は能力がない、だめなやつだ」と主人から見下げられていると思い込み、他の2人に嫉妬し、投げやりな気持ちになったからです。

そのような直接の言及があるわけではありませんが、状況証拠を固めていくとこういう結論が出てくると思います。

しかし、先ほども申し上げたとおり、1タラントンは決して小さな金額ではありません。ほかの僕と比較すれば確かに少ないかもしれませんが、なぜ比較するのでしょうか。なぜ相対評価しか考えないのでしょうか。他人と自分は違います。別の人格を持つ、別の存在です。能力の違いは個性の違いでもあります。

どうしてみんなが同じでなければならないでしょうか。語学や読書は得意だが、数学や物理はからきし苦手という人はいます。スポーツはめっぽう強いが、お勉強は全くできないという人はいます。勉強もスポーツもからきしだが、性格が素直で、笑顔が素敵という人はいます。

それの何がいけないのでしょう。だめ人間の烙印を押す権限がだれにあるのでしょうか。そういうことをだれかに言った途端、ブーメランのように自分自身に必ず返ってきます。

なぜ「自分はだめだ、だめだ」と思いこんでいるのでしょうか。人と比較するからです。すべてを相対評価でしか考えていないからです。その狭い枠組み、固い殻の中から外へと飛び出す必要があります。そして、相対評価ではない、全く別の次元に立つ全く新しい評価がなされる場へと身を移す勇気が必要です。

主人が3人目の僕を強く叱ったのはそのことを言いたかったからです。そのことをなんとか分かってもらいたかったのです。

主人はこの僕を「外の暗闇」に追い出しただけです。「結果を出せない僕は殺してしまえ」と言っていません。結果そのものは、どうでもいいのです。しばらくの反省を促しているだけです。

(2017年3月19日、日本基督教団習志野教会 主日礼拝)