2017年3月13日月曜日

それゆけ伝道 どこまでも

ガラケーで日本対オランダを観ているの図(記事とは関係ありません)
また書くが、6年前の3月11日、妻と息子と私の3人で牧師館で妻が作ってくれた美味しいパスタを食べていた。娘は学校の教室にいた。松戸市も激しく長く揺れた。余震が続く中、娘が走って帰ってきた。どうにかなるなら家族一緒がいいとか言いながら。今なおつらさの中におられる方々の慰めを求める。

まあ宗教というのは、補助輪とか松葉杖とか車椅子のようなものかもしれないわけで。宗教ウゼえとかよく言われるので、言われ慣れているところがある。なくてもスタスタ歩ける人にとっては邪魔もの以外の何ものでもない。だけど「ぼく歩けないの」状態になったときに、あるとちょっと助かることもある。

毎回「この日この時のために私は生きてきた」と思えるほどの歓喜の瞬間があるが、その後まもなく冷め、次また「この日この時のために私は」とか言っているわけだから、前回の「この日この時」は何だったのかということになると思うので、「この日この時のために私は」という考えを持たないことにした。

単線のステップアップのような道を来ている方には「この日この時のために私は」の連続としてとらえることでいいかもしれない。だが私は複線が入り乱れている迷路さながらの中でもがき続けてきたので、ぱっと視界がひらけたかと思った次の瞬間また袋小路。他の方々はともかく連続性の感覚は私にはない。

上も下もないし、出世も栄転も左遷もないのが牧師だと、なったときから思っていたし、その考えは微動だにしていないので、牧師とか神学部卒業の輩のくせに栄転だ左遷だと、口に出さないとしても内心で思っていそうな向きに接すると、腹は立たないが、ほぼ呆れる。そういうの、ほんとにどうでもいいし。

自虐かもしれないが、哲学や神学など思想系の研究や仕事をしている人自身が「将来性ないよ~」とか言わないほうがいい気がする。将来性がないのはそういうことをたとえ自虐であれ口にする人自身かもしれないが、それを哲学や神学のせいにしないほうがいいのではと思う。哲学や神学はあなたより偉いよ。

我田引水と思われるのかどうか分からないが、「エルサレムでもゲリジム山でもないところで」とイエスが言うとか、復活先がガリラヤとかいう話は出世とか栄転とか左遷とかいう感覚を真っ向から否定していると思うし、パウロの伝道旅行の行き先は左遷先なのかとかね。単純におかしいだろと言いたくなる。

使う方が少なくないので否定するつもりはないし、尊重してきたつもりだが、連れ合いという言い方がいつまで経っても私になじまないのは、送り仮名をとると「連合」になるとか、「連行」とか「連座」とかいう語をなんとなく連想してしまうとかかなあと今気づく。単身赴任もありだよねえと、なぜか思う。

アブラハムは「行き先も知らずに出発した」んだぜいと、なんで私が胸を張っているのかは謎。そういうのこそが「信仰」だと、聖書に書いてあるではないか。アテネのアカデメイアをめざすとか、天竺をめざすとか、そういうのとはまるで違う話なわけよ。なに意味不明なことをやたら力説しているのかも謎。